「堕ちた者達編」 第四章 堕ちた者達(Ⅴ)
「まさか、旅の途中で露天風呂に巡り合えるなんて思いませんでした。ヒイロさんは、露天風呂って初め――――」
脱衣所で服を脱ぎ、早速この宿自慢の露天風呂に入ろうと、嬉しそうに振り返ったミーシャ。振り返った先には、自分と同じように服を脱いでいるはずの、ヒイロの姿があるはずだった。
「‼」
振り返った彼女の目に映ったのは、ヒイロの姿ではなく、自分に向かって飛びかかってくる、八本足の醜い生き物だった。見た目が蟹に似たその生物は、細い八本の足を広げ、ミーシャの顔面に勢いよく張り付いた。思わぬ衝撃を受け、バランスを崩した彼女の体が、脱衣所の床に叩き付けられる。後頭部を床に強く打ったため、一瞬視界が揺れ、意識を失いかけた。
「ふふふっ⋯⋯⋯。その子に気に入られましたね、ミーシャさん」
「⋯⋯⋯!?」
顔に飛び付いてきた生物は、物凄い力で顔に張り付いているため、ミーシャの力だけでは引き剥がせない。彼女が謎の生物に襲われている光景を、ヒイロはただ一人、笑みを浮かべて楽しそうに見物しているだけだった。
脱衣所にはミーシャとヒイロの二人だけ。正体不明の何かに襲われているミーシャを、ヒイロは全く助けるつもりがない。顔に張り付かれているせいで、思うように言葉を発する事ができないが、ミーシャは必死に助けを求めている。
「上手くいったね、ヒロインちゃん⋯⋯⋯」
「キラ。仕込みが終わったら、ここでの記憶を消しておいて」
「了解⋯⋯⋯」
気が付けば、ヒイロの隣にフードを被った人物が現れていた。左眼を眼帯で隠し、左腕の無いその人物は、彼女同様に襲われているミーシャの姿を、心の底から楽しそうに眺めていた。
(まさか!これはヒイロさんの仕業!?もしかして、彼女は私達の敵⋯⋯⋯!)
張り付いている生物は、ミーシャの口に無理やり触手のようなものを捻じ込み、彼女の口を塞ぎにかかる。ヒイロが敵だと悟った時には、既に手遅れだった。この事実を早く皆に伝えなければと、生物を必死に剥がそうと悶えるが、やはり剥がす事は出来ない。さらに、口の中に入ってきた触手のせいで、非常に呼吸が苦しいせいか、意識が朦朧とし始めている。
「操作できるまで、どれくらいかかりそう?」
「多分⋯⋯⋯、今夜からできると思う⋯⋯⋯⋯」
「それなら、今夜早速試しておいて。私は別の仕込みがあるから、テストの方は任せる」
「うん、わかった⋯⋯⋯」
「誰にも見つからないように上手くやっておいて。見つかったら面倒なことになる」
「りょ、了解⋯⋯⋯⋯」
薄れゆく意識の中で、ミーシャは二人の会話を聞いていた。やはりこの二人は敵であり、何かを企んでいると確信したが、今の彼女にはどうする事も出来ない。
触手は口内を進み、喉の方まで伸びていく。苦しい嘔吐感と、後頭部から奔る痛みに加え、呼吸困難な状況が、彼女の意識を奪い去っていく。
意識が途切れる最後の瞬間、生物の足から覗く隙間から、ミーシャは見た。どんな化け物すらも恐怖させるだろう、冷たい微笑みを浮かべる、「ヒロインちゃん」と呼ばれた者の姿を⋯⋯⋯⋯。
「思い⋯⋯⋯出した⋯⋯⋯⋯⋯⋯!どうして私⋯⋯⋯⋯⋯⋯こんな大事なことを忘れて⋯⋯⋯⋯!?」
忘れていた⋯⋯⋯。いや、忘れてはいけなかった、重大な記憶を思い出し、ミーシャは一人絶望した。この出来事を忘れてさえいなければ、悲劇が起きる前に、阻止する方法はいくらでもあったと、考えずにはいられなかったのだ。
「全部思い出せたみたいですね。お風呂場でのぼせたって言うのは嘘で、本当はミーシャさんを襲っていたんです」
「何のために、あんな事を⋯⋯⋯!」
「ミーシャさんを襲ったあの生物は、キラが生み出した化け物の幼体です。成長すれば、クレアさんを殺したあれと同じ姿になります」
クレアを殺した化け物と言えば、自然界のどの生物とも似つかない、悍ましい姿をした生き物である。強酸性の血液を使い、あっという間に彼女の体を溶かし尽くした、あの憎き化け物の姿が、シルヴァとミーシャの脳裏に蘇る。
「ミーシャさんはあの幼体に寄生されているんです。もうそろそろ、成長を終えた幼体が出てくる頃ですよ」
「まさかあれは、寄生型の魔物⋯⋯⋯⋯!」
「宿主に気付かれないよう、人間の体内でエネルギーを吸収し、成体に成長する寄生生物。それが今、ミーシャさんの体の中で生まれようとしているんです」
「そっ、そんな⋯⋯⋯⋯!嫌⋯⋯⋯⋯、嫌ああああああああああああああっ‼
最後の種明かしを終えた瞬間、ミーシャの体に異変が起こる。腹部から激痛が奔り、あまりの痛みにミーシャが絶叫する。この痛みの正体が、自分の体の中で蠢く、邪悪で醜い生き物である事は、宿主となってしまった彼女にはすぐに分かった。
「痛い!痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛いいいいいいいいいっ‼」
「ミーシャ!ミーシャあああああああああああああああっ‼」
「お願い助けて‼助けてお兄様‼化け物なんて生みたくないのおおおおおおおおおっ‼」
激痛と恐怖に泣き叫ぶミーシャ。彼女を助けようとする今のシルヴァ、あまりにも無力だった。彼にできるのは、精々大切な妹の名を叫ぶくらいであり、助けられる力はない。彼女の体から生まれようと暴れる、邪悪な化け物が出てくるのを、指を咥えて見ている事しかできないのだ。
激痛に悲鳴を上げ、痛みと恐怖から涙を溢れさせ、吐血まで始めてしまった。吐き出された彼女の血は、化け物が体内を喰い荒らしている証拠である。そして次の瞬間、彼女の体は激しい痙攣を起こし始めた。
「嫌だああああああああっ‼こんなの嫌ああああああああああああああああっ‼
「頑張ってミーシャさん!ほら妊婦さんみたいに、ヒッ、ヒッ、フーって♪」
「もう少しで生まれるよ⋯⋯⋯⋯」
「ぎゃはははははは!こいつは傑作だぜ!」
「お前ら全員殺してやる‼化け物に負けるんじゃない、ミーシャ‼」
苦しむ兄弟達の姿を楽しむ、悪魔達の狂乱の宴。その宴が今、クライマックスを迎えようとしていた。
ミーシャの腹部を内側から食い破り、その化け物は姿を現わした。クレアを殺したあの化け物と、同じ姿をした生物。まだ小さいが、それでも見た目の悍ましさと、人を殺す凶暴さは全く変わらない。彼女の腹部に大穴を開け、シルヴァの目の前で化け物は生まれてしまった。
「お⋯⋯兄⋯⋯⋯⋯⋯⋯さ⋯⋯⋯ま⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯、私⋯⋯⋯⋯⋯死ぬ⋯⋯⋯⋯のは⋯⋯⋯⋯⋯い⋯⋯⋯⋯⋯や⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯」
「くっふふふふ⋯⋯⋯⋯。良い魔力を吸ったお陰で、強いメスが生まれたみたい⋯⋯⋯⋯⋯⋯」
「よくやったわキラ。おめでとうミーシャさん、元気な女の子ですよ♪」
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯」
「あら、もう死んじゃいました?せめて我が子を抱いて可愛がるくらいはやって貰わないと、生まれたこの子が可哀想ですよ」
体内を喰い荒らされ、最後は自分の腹を食い破られ、ミーシャの命はそこで尽きた。後に残ったのは、車椅子に拘束された宿主の残骸である。現れた化け物は、部屋中に響き渡る程の、甲高い鳴き声を上げた。その鳴き声すらも、あの化け物と同じであった。
残酷過ぎる殺され方をした、大切な妹。その亡骸を見たシルヴァは、涙を流し、激しく嘔吐し、胃液を撒き散らした。憎しみや悲しみと共に、ミーシャとの思い出が心の中を駆け巡る。
「ミーシャ⋯⋯⋯。俺⋯⋯⋯⋯何もできなかった⋯⋯⋯⋯⋯⋯!」
「そうですね。シルヴァさんは全くの無力でした」
「助けてって言ってたのに、助けられなかった⋯⋯⋯⋯⋯⋯!」
「それはそれは、お悔やみ申し上げます」
「全部⋯⋯⋯俺が悪いんだ⋯⋯⋯⋯⋯。俺がこんな女なんかに騙されなければ⋯⋯⋯⋯⋯」
「ああ確かに、シルヴァさん簡単に騙されちゃいましたからね」
「黙ってろイカレ女ああああああああああああああああっ‼全部お前のせいだろうが‼」
「きゃっははははははははははははは‼いいですよその顔、最高です!」
憎しみが爆発し、怒りの感情がシルヴァを支配する。どんな事をしてでも、彼女達をこの手で殺すと誓い、拘束を解こうと暴れ出す。
「お前だけは絶対に許さない!ぶっ殺してやる‼」
「だーかーらー、シルヴァさんもここで死んじゃうんですって。そんなに私を殺したいなら、来世で頑張ってみてくださいね♪」
最後に残ったのは、シルヴァだけとなる。彼が最後まで生かされているのも、全て計画の内なのだ。
宿の脱衣所でミーシャを襲い、化け物を寄生させ、寄生させた化け物の力を使って彼女を操り、最終的にはその化け物に、シルヴァの目の前で彼女を殺させた。これだけ手の込んだ仕込みを行なったのは、最上級の絶望を彼に味合わせ、極上の快楽を彼女達が味わうためだ。
「ミーシャさんから生まれたこの子には、仲間を増やすための生殖機能が既に備わっています」
「‼」
「これでもうお分かりですよね?今から私達が、シルヴァさんに何をするつもりなのか」
ミーシャの無残な亡骸を乗せた車椅子を、邪悪な笑みを浮かべたキラが押す。化け物とシルヴァの距離が詰められ、化け物の頭が、彼のいる方向を真っ直ぐ向いた。彼女達の狙い通り、化け物は彼に狙いを定めたのだ。
「くっ、来るな!近寄るんじゃない!」
「冷たいですよシルヴァさん。ミーシャさんがお腹を痛めて生んだ子なんですから、もっと優しくしてあげないと」
「ふざけんな畜生!こんな、こんな奴がミーシャの子供なわけないだろ‼」
「今からこの子は、シルヴァさんの体内に幼体を産み付け、シルヴァさんを生きたまま苗床にします。幼体が成長し切ったら、さっきみたいにお腹を食い破って出て来るわけです」
「糞っ!なんで俺がこんな目に遭うんだ!?俺がお前達に何をしたって言うんだよ!?」
「貴方が主人公だからいけないんです。さあ諦めて、生まれ変わったミーシャさんと一つになりましょう」
「嫌だ!頼む止めてくれ‼助けてくれ、誰か助けてくれよおおおおおおおおっ‼」
この部屋に今のシルヴァを憐み、助けようとする者など存在しない。何故なら彼女達は、今日この日を迎えるためだけに、全ての準備を整えて、実行に移したのだから⋯⋯⋯⋯。
「ぎゃはははははははっ‼命乞いとは情けねえ奴だぜ!」
「ねえ、ヒロインちゃん。僕もう我慢できないよ⋯⋯⋯⋯。殺されるところ早く見たい⋯⋯⋯⋯」
「そうね。私もヘスも待ちくたびれたし、そろそろ始めちゃいましょうか」
「やった⋯⋯⋯!ミーシャちゃん、愛しのお兄様とやっと一つになれるね⋯⋯⋯⋯!」
この化け物を生み出したのはキラである。故に彼女は、ミーシャと名付けた、自分の子供と言えるこの化け物を、唯一操る事ができるのだ。
殺しの許可を得たキラは、意気揚々な様子でメインディッシュに取り掛かる。見物しているヘスに至っては、楽しみのあまり涎を垂らしていた。
「ミーシャちゃん、お楽しみの時間だよ⋯⋯⋯⋯!」
「ぎゃは!最高のショーの始まりだぜ!」
命令を受けた化け物が、キラに答えて鳴き声を上げる。
待ちに待ったショーの幕開けに、ヘスは下衆な笑い声を部屋中に響かせる。
車椅子に座らされている、先程までミーシャであったものは、二度と動く事はない。
憎しみも怒りも忘れ、目の前の恐怖にシルヴァは、無様に悲鳴を上げた。
そして彼女は、これから死に逝く彼に、邪悪な微笑みを浮かべ、別れの言葉を告げる。
「さようならシルヴァさん。貴方の格好付けた態度と技名、初めて会った時から反吐が出るほど嫌いでした」
「やめてくれえええええええええええええええええええええええええええっ‼」
悲鳴を上げたシルヴァがこの世で最後に見たものは、一瞬で自分に目掛けて飛び掛かってきた、醜く悍ましい化け物の姿だった⋯⋯⋯⋯⋯。