第二章&第三章
第二章 空腹では隣人は愛せない ウィッドロウ・ウィルソン
ワガツマ ダイスケの詩人としての功績に関する記事を抜粋
「言葉は神である。」
ワガツマ ダイスケが、作り上げた詩と並び、この言葉はかなり有名であるというのは言うに及ばないだろう。
有名な逸話がある。
あるファンがワガツマ ダイスケの言葉を少しばかり言い間違え。
「言葉は神であり続ける。」
そう、ワガツマ ダイスケの前で言ったことがあった。
ワガツマ ダイスケはそれを聞くと頷くこともせず静かに口を開いたそうである。
それは言葉というものが情報伝達の手段としておよそ、完璧なものではないという点や、言葉によって文化圏が遮断され余計な誤解や問題を産んでいる点、そして、言葉がありとあらゆる人間に適用される手段ではなく、先天的もしくは後天的な病によって言葉をつかえなくなる人間がいる点などに言及したものであり、凡そ言葉を神と崇めるワガツマ ダイスケの口から放たれるべき内容とは程遠かったそうである。つまり、言葉が持つ根本的で解決不可能な矛問題点をすべて上げ連ねたわけである。
その上で、今後、言葉が持つこれらの問題点は長い時間をかけて解決に向かうだろう、と説いたが、同時に、それはおそらく言葉に代わる新しい情報伝達の手段が生まれるためであり、言葉が過去の遺物として存在することはあっても、その時代で使われ続けるほど意義のある情報伝達手段として第一線で使われ続けることは考えにくく、衰退することは確実であると語ったそうである。
ファンも、またこの本を読んでいる読者もまた、言葉が使われない世界が未来に必ずやってくるというのは理解に苦しむだろう。しかし、ワガツマ ダイスケは次のように語る。
「言葉というのは神の中でも最も人に近い神であり、それ故に人と同じように年を取り、耄碌し、動かなくなっていくのだから、これは決して悲しいものではなく、むしろどの神よりも身近な神ということである。人にはそれぞれの喋り方があり、人にはそれぞれの言葉があり、そしてそれ故に人にはそれぞれの言葉の神がいるのである。その神は、貴方が生きているとき共に生き、貴方が悲しむときに共に悲しみ、貴方が喜ぶときに共に喜び、貴方が死ぬときに共に死ぬのである。永遠に生き続ける神よりも、貴方と共に死んでくれる神の方がどれほど貴重で、どれほど温かく、どれほど愛しいものだろうか。」
そして、こう続く。
「だが、新しい情報伝達の手段が生まれ、言葉が廃れ使われなくなる時には、言葉と共に死ぬ人間はいないだろう。それは最早、それぞれの人に言葉という神が宿らなくなったということであり、新しい情報伝達の手段がそれほど優秀で意味のあるものだという証明になりえるのだ。」
最後にこのように締めくくられた。
「案ずるな、神は死ぬのだ。」
公庄会 本邸 特別室
「言葉は神である。」
湿った都会。
養子。
暗く輝く鳴く四角。
昨晩読んだワガツマ ダイスケの記事が頭の中に浮かんでくる。
「案ずるな、神は死ぬのだ。」
そのせいなのか不意に、言葉が口から漏れる。
ワガツマ ダイスケが議員と笑顔で握手をする姿や、多くのファンに囲まれ真剣に詩について語る姿など、目に映ったいくつもの画像が思い出された。
記事を読んでいた時、公庄會の幹部の一人が横を通りワガツマ ダイスケについて説明をしてきた。筋金入りのファンであったようだ。ワガツマ ダイスケが右手の指を切断されても詩を書くのをやめなかったことや、闘病を続けるファンのために病室で詩を一遍書き上げたことなどを語ってくれた。最後には同じく公庄會に所属している者でワガツマ ダイスケのファンがいるので連れて来てあげよう、と言い始めたのでなんとか逃げてきた。過剰な優しさが毒となることをワガツマ ダイスケはファンに伝えなかったようである。
そのせいもあるだろう。
頭の中で、言葉、という単語が回っている。
朝から嫌になる。
本当に嫌になる。
ユズキ探偵事務所で見た、カイドウが自分なりに考えて覚えやすくするために、年齢順に書いた四つの名前
アン。テル、メイ。ヨスミちゃん。
そんな名前を見たせいなのか。
それとも、オダの音声を聞いてより緻密に想像して、そんな名前を思い出したせいなのか。
昨日、マンションのあたりで双子の幻覚に襲われた。現実よりもはるかに現実的であり、首にまとわりついた双子の腕の感覚をありありと思い出してしまう。現実ではなく、自分が作り上げた幻覚であったことも問題だった。自分の中のものが自分を追い込み、怒りと悔しさと恐怖をない交ぜにした感情を生んでいた。そんな最悪の時を過ごしたことがまだ頭から離れてくれてはくれないのだ。昨日でも、今日の午前中でもいい。行きつけのおばあちゃんの駄菓子屋でラムネを一つ買って、そのままおばあちゃんと話してくるべきだったと後悔した。
その日、私は朝から公庄會の事務所にいた。
「カイドウさんは。」イデが私に尋ねて来る。
最初は私に尋ねていることに気づかなかったため、口を開くまで時間がかかる。
「昨日の夕方から会っていない。」
「そう。」座りなおす。「喧嘩でも。」
「それはオダにも言われたな。」私も座りなおした。
「その、オダさんは。」
「来るわけがない。」私は鼻で笑った。「ここに来ることがあったら、公庄會もそろそろ終わりということだろうな。」
賭けてもいい、いや、賭ける必要もないだろう。
そのことはイデもよく分かっている。
「オダはココノエと親戚の関係だ。大抵のことは目を瞑ってもらえる。そうだろう。」
「否定は。」イデが唇を少しばかり突き出す。「しません。」
「オダはどんな集まりにも姿を現さない。正確な場所までは知らないが、この町に住んでいるというのにな。」私はイデの方を向いた。「約束を破ることができる者は、何もかも持っているか、何もかも持っていないかのどちらかだ。」
自分で言っていて考えてしまう。
では、この場に来ていないカイドウはどうなるのだろう。
「カイドウさんは。」イデがメモを閉じる。「こちらで便宜を図っておきます。」
あのイデがフォローに回ってくれたことに少し驚いた。
「ありがとう。」
イデは相変わらずの無表情だ。それが妙に安心できた。感情があるかもしれないが、所詮は仕事の延長線である。ひどく乾いていて心地いいものだ。
部屋の中には他にも詫状業務に携わっている数人の男女がいる。だが公庄會の者は私一人だけで、それ以外は他の組の人間だ。私とイデを含めれば総勢十五人弱となる。緊張している者、禁煙場所にもかかわらず煙草を吸っている者、胸の谷間を見せてくる者など数多くいる。
中には静かに詩集を読んでいる見慣れない男もいた。
詩集の題名と作者は。
暗く輝く鳴く四角、ワガツマ ダイスケ。
興味を示すことができたのはやはり詫状業務で関わることになったからだろう。おそらく、ワガツマ ダイスケの詩集を読む人間というのは多くいるはずだ。
詩集の端は茶色く変色し捲れていたが、男はそれをとても丁寧に扱っていた。
その詩集には最早アルバムとしての趣すらある。
「あの方はワガツマ ダイスケの詩集をよくお読みになっていますね。」
イデが見透かしているように説明をしてくる。ありがたいことにはかわりなかった。
この場にいる人間を表現する言葉を選ぼうとすると、十人百色と文字が並んだ。一人一人の中に潜む人格がそれだけの数を内包している。もしくは同居している。
個性、ではないのだ。
新たな種族、というほうが納得できる。
ベージュ色の壁に窓はたった一つだけ。モダンな印象を与える華奢な造りのシャンデリアがある。安い光が部屋全体を染み込んでいる。壁自体が発光しているかのようで、自然光は少ないまでも部屋の中は明るかった。
「今月の定期会合は随分と長いな。」私はあくびを一つした。「どこが来ている。」
「今現在、定期会合に参加している組織は。」イデがメモの端を触り、私に目を合わせずにゆっくりと口を開く。「公庄會、伊勢組、貴友会、五代目貴友会、壱場組、黒部、本家黒部、八幡城壁、菱沼組、銀、です。」
「おぉ。」自然と笑みが零れる。「本会合でもないのに、定期会合に黒部と本家黒部が同じ席に来ているのか。随分と珍しいな。」
火薬と火種がセックスしているようなもの、といえばことの重大さと危険性が分かるだろう。
「確か議題は、組同士の境界にある店がどの所属にするべきか。だろう。」
「はい。」イデが手帳を開く。「今回は特に。」
その続きの言葉を遮るようにイデの携帯電話がけたたましく鳴り響いた。
部屋が。
静まる。
イデと私以外の視線が私を貫く。痛みは感じない。
痛みを感じなくなるほどの致命傷の可能性は否定できないが。
イデの声だけが響く。
呼吸音すらなかった。
不意に、昨日、テルとメイに後ろに立たれたことがよみがえる。
息を吐いた。
「アカネコさん。」イデが電話を渡す。「今日の議題は。ほぼ。」
「公庄會とどこの組とのシマ争いだ。」私は目を瞑って尋ねる。
「貴友会。です。」
貴友会。
あの組は少しやりすぎなくらいの手段を軽々にとる。目的を成すために手段を選ぶような真似を一切しない。非常に賢いと言える。
組同士の会議は往々にして、こういうことになる。
「もしもし。」
「アカネコ探偵くんかな、すまないね。」
ココノエの伸びた声が耳に届いている。分かってはいたものの、苛立ってくる。嫌になる。
お前の声を聴く、こっちの身にもなれ。
クソが。
死ね。
「どうかされましたか。」
「どうしたもこうしたもないさ、今、イデに聞いただろう。貴友会の方が、公園の近くにある。」
おそらく。
「バーでしょうか。」
多分、あのバーだろう。
「そうそう、あそこのバーだよ。」ココノエの笑い声が聞こえてくる。「あのバーは本来、貴友会側にあったものだと言っていてね。公庄會が徴収している金額の二割から三割は、貴友会も貰う権利があって当然だと言ってくるんだ。困ったものだろう。」
なるほど。
確かに、あのバーがあった場所は、過去、貴友会のシマだった。頑なだったバーの店長を脅し落として金づるにしたのも貴友会。今現在は我が公庄會のシマになってはいるが、それだけだ。そう考えれば二割から三割は多いまでも一割に少し色を付けたくらいは渡すべきだ。
と、でも言うと思ったか。
馬鹿が。
バーを一つ渡せば次も渡せと来るに決まっている。謙遜と譲歩が利益を生むのは相手による。今は謙遜も譲歩も手段として選ぶべきではない。それに、選んだところで私に未来はないのだ。
「それでなんだけども。アカネコくん。」
「はい。」
「貴友会の方が、おたくの詫状業務が大したことがない。と言ってきてねぇ。実はまともに仕事をしていないんじゃないか。とね。」
来た。
「どの点、でしょうか。」わざと妙な切り方をしておく。
「まず、二年前にあったストーカー殺人の時の詫状業務は。」
「四件中、三件が本家黒部で起きた事件だったので、詫状業務の担当は本家黒部が行うことで落ち着きました。」
本家黒部もこの議論を聞いているのではないのか。
協力する気もないのか。
「次に、四年前の外国人窃盗団の。」
「確かに詫状業務自体は公庄會が行いました。ですが、途中でシマの譲渡が行われ、事件の起きた場所は今や伊勢組のシマです。それ以降は公庄會の責任ではありません。」
「そうかい、なるほど。」ココノエの満足そうな口調が聞こえる。「じゃあ、七年前の。」
「連続放火でしょうか。」
「あっ。察しが良い。」
「あの時は、ある組の部下が警察へ情報を流したことが露呈し、私たち公庄會がその組の不祥事の処理に協力しました。その見返りとして、連続放火の詫状業務はその組が公庄會の代わりに責任をもって執り行うということで手打ちになりました。」
「その僕たちがフォローしてあげた組の名前は。」
恩を仇で返すことの意味を思い知れ。
「貴友会です。」
貴友会よ、さようなら。
ココノエがより一層大きな声で笑う。
周りに他の人間もいるというのに、随分と思い切った行動だ。それほど面白かったということか、確かに愉快だ。
「それはそれは。」ココノエの声が離れていくのが分かる。「聞きましたか、貴友会の方。」
そこで、電話は切れた。
問題はないだろう。
おそらく。
ただし、あくまで定期会合だからここで終わったのだ。本会合ならもう少し深く尋ねられる場合も考える必要がある。
このワガツマ四姉妹の関係する詫状業務も本会合までに解決できなければ、他の組から格好の的にされるだろう。
時間が足りる瞬間など、一度として体験したこともなかった。
「ご苦労様です。」イデが電話を奪うようにとる。
「これが仕事だ。」私は鼻で笑う。「シマの奪い合いや報酬の横取り、そして組同士の確執が起きた時に自分の意見を通したければ、相手の落ち度をつくしかない。」
「その時、もっともらしい落ち度としてあげることができるのが。」イデが少しばかり口角を上げる。「詫状業務ですので。」
周りに意識を戻すと、視線はいつの間にか返っていた。興味など失ったようだ。情報の価値は知った瞬間から直ぐに腐り始める。私が電話をしたという情報は何にもならなかったようだ。
「詫状業務が生まれた理由がそのためだからな。」私は鼻で笑った。「許容範囲を超えた業務を強制することで落ち度を作り出し、その上でお互いがお互いを指摘しやすくすることで議論を活発化させる。」
実際は。
組同士が威嚇しあっただけで会議が終わることをなくすために、お互いを縛り合う制度を作っただけにすぎないわけだが。
決して悪い制度ではないし、むしろ良いとは思う。
無理矢理落ち度を作りだすための仕組みというのは往々にして有用だ。どの社会も大抵はこれで回っていることが多いはずだ。
全員が平等に得をするよりも、平等に損をすることのほうが現実的である。
「さあ、分かりかねます。」イデは目を瞑った。
これをお互いの組同士で了承する賢さ、そして仕組み自体の賢さ。
詫状業務自体は五十年以上前にできたもののようである。詫状業務の始まりに携わっていた組の人間たちは、とても、冷静、穏やか、残忍、な性格であったのだろう。金と面子と組織をよく理解していたようだ。
「それよりも。」イデが声を大きくする。「今朝、公庄會の本邸に電話がありました。」
「誰からだ。」
「ワガツマ メイとテル、です。」
何が怖いの。
ワガツマ邸前
「言葉は神である。」
私の手の中には、そんな神とも称される言葉がある。
正確には何か言葉の書かれた紙が一枚ある。
まだ何が書かれているのかはよく分からない。
紙の上に書かれているものが言葉であることは確認できた。だが、癖が強く読むことはかなわない。
言葉が神であるならば、人の発した言葉にも宿るが、当然書いた場合は紙にも宿ることとなる。言葉の神はどのような場所にでも簡単に現れて、人の思うままに動いてくれる。身近な神ということは間違いないだろう。
だが、それで神としての威厳が保たれているのだろうか。
言われるがままに、呼ばれるがままに、書かれるがままにそこに生まれる限りは、人にいいように扱われているということは否定できないだろう。これでは最早人の道具でしかない。私たちの業界では古くからは舎弟とも言われている。ほとんど今は使われていない表現ではあるが。
けれど、日本には付喪神という考え方がある。つまりは物や道具には魂が宿り、神にちかいもの、もしくは神になるという信仰である。日本の芸術作品の中にはこの表現が数多く見受けられ、しっかりと現代の日本人にも根付いていると言える。
言葉は神である。
言葉は、道具という人に使われるものではありながら、神として崇められてもいたわけである。ワガツマ ダイスケの考え方はそういう意味では非常に日本的な考え方と言えるようだ。もしかしたら、言葉は神である、という哲学は決して少数派であるとか特殊なものなどではなく、至極当たり前に受け継がれてきた日本言語の根幹なのかもしれない。
そして加えて言うのであれば、ワガツマ ダイスケはこうも語る。
案ずるな、神は死ぬのだ。
これは文字通り、今の私には言葉としてしか入っては来ないものだ。おそらくこれから、私のその時の意思にかかわらず時間と共に染み込んでくるのだろう。
私は思考の速度を徐々に落とすと、目の前の事象へとピントを合わせはじめる。
そう、今、前の前には何かが書かれている紙があるのだ。
紙はアスファルトの上にあった。
紙は小さく丸められていた。
それ以外の情報は一切なかった。気にはなるが視線は紙から別の場所へと移動し始める。本能的にまだこの紙が役に立たないと踏んだのだ。賢明な判断だったと思う。自分が賢明であるかどうかを判断するにも、当然賢明さが必要となるのだろう。
そんなことを考えていたため、私の体はワガツマ邸の塀の前で止まっていた。
中に入るよりも先に今現在の状況について思考を巡らせて時間が過ぎている。ただ、するべき仕事をなぞるよりも自分にとっては有意義なはずだ。
ワガツマ邸の塀に刻まれている、暗く輝く鳴く四角、そして、その詩の内容を何となく視界に入れる。単語自体は品が良いものが並べられている。どちらかというと和風ではなく西洋的な感じだろうか。
教皇や女帝、孤老、そして聖戦というのは日常的に使う言葉からはかなりかけ離れている。これが詩的であることを端的に示しているのだろう。
無理、なのではなく、無理、と思わせるのが上手い詩だと言える。やろうと思えば書けないことではないが、これがワガツマ ダイスケの専売特許であると言われれば、私にできても真似だと言われてしまう。早い者勝ち、ということではないのだ。早くとも遅くとも認められるか、というところに本質がある。
その時、不意に顔を上げると、視界の中を小さな影が柔らかく通過した。
鳥でもなければ雲でもなく、葉、飛行機、ビニール袋、そして雨などそのどれでもないものだ。
そんなことは最初から分かっていた。気が付くと背中で何かが跳ねた音がした。直ぐに足元で乾いた音に代わる。
丸められた紙だ。中にあるのはきっと文字だろう。
視界の中で気になった部分にピントを合わせてみる。
「あ。」
窓が開いていた。
一つ目はヨスミちゃんがいる部屋の窓だ。
その窓の隙間から見える景色は一つの眼球だった。隙間の右下に収まるように顔の輪郭の一部と眼球が見えていた。正直なところ、瞳の大きさもその輪郭の部分からの顔の全体の大きさなども分からないのが本音だ。距離がどうしても邪魔をしてくる。
視線は私のことを明らかにとらえていた。観察していて、何か警戒していると推測できる。ワガツマ一族の中で、ちゃん付けで呼ばれる存在にでさえこのような距離を取られている。アンのように様付けで呼ばれる存在にならなおのこと距離を取られていると考えるべきだろう。
もう一つの窓では、アン様らしき女性の肌が見えた。
あれは、腕だろうか。
窓の隙間は横に長いもので、そこをすべて埋めるような肌色だった。隙間自体が小さく短いので、長さも太さも分かったものではないが、姿勢は何となく分かる。窓のところに腕を置いてこちらを見ているようだ。視線は感じる。だがその目はこちらから確認することはできない。
人が深淵を覗くとき、深淵もまた人を覗いている。ただし、深淵が人に興味を示しているときにのみ限る。私は興味が湧くほどの対象として見てもらえているのか、考えてしまう。
私は後ろを振り返ると、丸められた紙を拾った。一枚目はまだしも二枚目の方はどちらの窓から飛んできたものかは確認していた。
紙は、アン様、の窓から飛んできていた。
静かに開き、既に落ちていた一枚目と見比べる。そして、なんとなく気が付いた。
癖のある字であるし、揺れもかすれも酷いものではある。だがどちらも、単語だった。
一枚目は、おか、だ。
二枚目は、あい、だ。
それだけだった。
「愛と丘、か。」私はつぶやく。
落ちてきた場所は、塀に刻まれた暗く輝く鳴く四角の詩の前だ。意味はあるのだろう。
詩の中で愛という単語が出てくるのは四行目と二十三行目と二十四行目と二十五行目だ。
ちなみに、丘は零だ。
繋がりがあるかどうかは分からないままだ。だが、少なくともアン様と呼ばれている詩の天才は、この、おか、と、あい、を外へと流したのだ。
窓の隙間は明らかに狭いのである。
それでもここに紙が二枚もあるのは、間違いなく誰かに読んでもらうため。
「私、か。」
おこがましいにも程があるだろうか。
しかし何故か、このヤクザに向かって手がかりを投げつけてくる。
ヤクザは学のないものが多いので言葉を教えてくれているのだろうか。それならありがたい、直ぐにでも火をつけて投げ返してあげるのが礼儀だろう。
それは冗談として。
招いているのだろうか。
詩人アン様は、私をこのワガツマ邸に招き入れようとしているのだろうか。
私はようやく中へと進んだ。進まざるを得なかった。
ワガツマ邸 三階
「言葉は神である。」
私はそこでアンとヨスミちゃんの部屋の扉から視線を外して後ろを振り向く。
ワガツマ ダイスケの言葉を使うことで私に精神的な圧力をかけようとしたのだろう。私がワガツマ ダイスケについて、しっかりと勉強しているというところまで見透かしているようだ。
「言葉を掛けてもいいかしら、アカネコ探偵さん。」メイが微笑む。
「構わない。」
「捜査の進展はいかがかしら。」
素直に話すのは得策ではない、と考える私の考えをある程度見越してその質問をしている。厄介な言葉を吐くものだ。いずれにせよ誘い水であることには間違いなかった。
だが、もしも同じくして誘い水を仕掛けようとしていた場合はどちらが有利なのだろう。
先攻か後攻か。
先ほどの紙に書かれた文字の話かそれ以外か。
選択肢は意外にも多かった。
「サイレンを知っているか。」
アンとテルが首をかしげて見せる。この状態ではまだ判断できず、どこまで開示するべきか考えながら、悟られないよう淀みなく言葉を続ける。
「首を吊るされて死んだ男がいただろう。その男の家で日記帳を見つけた。そこにその日に聞いたサイレンの数が書いてあった。」
「変わったご趣味の方ですわ。」
「変わった解釈をする双子だな。」
「何か。」
「当然、変わっていたからサイレンの数を記録したのではなく。」私は鼻で笑う。「変わったサイレンだったから記録したんだろう。」
殺されたフラノという男だが、彼の家からある種の狂気性というものは感じられなかった。当然例外はあるが何かしら行動に意味があったと捉えるべきだろう。部屋を見る限りはかなりの横着ものであり、そんな男がわざわざ回数まで記録したサイレンだ。ようやく役に立つようなことをしていたと分かったのだから、わざわざ使ってやるくらいのサービスはしてやるべきだ。
「あの男の住んでいた場所の近くに昔よくいった駄菓子屋があってな、そこの店主のおばあさんと今も仲良くしている。」私は双子の顔色をうかがう。「昔の思い出もあって偶に行くことがある。おそらくそのサイレンの音も聞いているだろう。その時に尋ねてみようと思ってはいる。」
「へぇ、サイレンですか。」テルがメイの方を見つめる。「メイさんはサイレンのことご存知かしら」
「ごめんなさい、サイレンと言われても心当たりはありませんわ。」
テルとメイの瞳がこちらへと向く。少しばかり圧倒されたが慣れてきた自分がいることも分かった。テルとメイが圧倒しようとしてきていることも分析できるため、妙に浅はかさも垣間見えた。
サイレンについてそこまでは期待していなかったが、こちらがサイレンの話題を出したことで落胆されたような空気もなかった。サイレンという単語があながち外れていないということを祈りつつ、適当な時に駄菓子屋に行けるよう時間を作る必要がある。
「それよりも私共のアリバイの方はいかがかしら。」メイとテルが甲高く笑う。「そちらの方が重要な捜査というものでしょう。」
「細かい部分から詰めている。」
「できていないと正直におっしゃってはいかがかしら。」
「嘘をつかない限り誰もが正直者だ。」私は扉の前から移動しソファーへと座る。「話したいことがあるそうだが。」
「私共のアリバイについて。」
身構えてしまう。むしろ自然な反応ではないだろうか。
自分で自分の無実を証明しようとする行為は当然だが、この二人、もしくは四姉妹に限っては素直に受け取ることは無理がある。
「どの事件のどの時間に対してだ。」
「首を吊った事件、ありますでしょう。」テルとメイが手を繋いで私を見つめる。「あの事件が起きた時、私共はある画廊で作品を見ておりましたの。」
「どこの画廊だ。」
「ここですわ。」
名刺を一枚渡される。
白地に金色の枠が細く印刷され、画廊の名前と簡単な地図、住所、メールアドレスなどが並ぶ。
これがアリバイとして機能する。
訳がない。
そもそもこの画廊とテルとメイたちの関係性を調べる必要が出てくる。かなり高価な絵を一度買ってもらっていて口裏合わせをしてもらっている場合もある。おそらく監視カメラなどもないだろうし物理的な意味でのアリバイは成立しないはずだ。
つまり意味などないと分かってアリバイの話を持ってきている。会話をすること自体が会話の話題になるため、合わせ鏡のような感覚になっていく。間違いなくテルとメイは意識しているのだろう
透明だ。
怖いくらいに無色なのだ。
「首を噛みちぎられた事件があった。その時のアリバイを教えてもらいたい。」
「ありませんわ。」
「妙に、正直だな。」
「ないものはないですもの。」
「何もかも持っていないお前の口から出るにふさわしい言葉だな。」
「ですけれど。」テルらしき方が微笑む。「よく覚えていなくて。」
「だが、首を吊った事件の方は覚えていると。」
「その日のことが妙に印象に残っていて。」
「妙に。」
「ただひたすらに。」メイらしき方が首をかしげる。「妙に。」
ただ宣言を聞かされている気分になる。情報を与えられているのではなく、これ以降の事件に対するスタンス、そのことについての説明なのだろう。大学の講義であれば睡眠講義として不眠症で悩む学生たちで混みあうに違いない。
ただ、話していることには変わりなかった。
それならば、利用しよう。
利用しようとしている人間ほど利用されやすい。そのことを教えるいい頃合いだ。
「アンを監禁している、と。」
「アン様の安全のために、ですわ。」
「その日も鍵が閉まっていたとどう証明する。」
「でしたらこれを。」
二枚目の名刺を渡される。
有名な警備会社の名前が記載されている。これもワガツマ ダイスケの繋がりによるものなのだろうか。死んでも脛を齧られる親の身にもなるべきだろう。
「この部屋の鍵が閉まっている場合と開いている場合では、この警備会社に今現在、扉に鍵がかけられているかどうかがデータとして飛ぶようになっているんですの。」
「ずいぶんと遠回しだ。自分で稼いでいる訳ではないと、金の使い方まで下手になるようだな。」私は鼻で笑った。「それなら単純に警備を頼むか、監視カメラを設置すればいい。」
「いいえ、そうなれば間違いなくその警備会社の方にアン様の仕事風景等が見られてしまうでしょう。それはナイーブなアン様の心を乱す要因になりかねませんわ。でしょう、メイさん。」
「その通りですわ、テルさん。それに仮に映像データが残っていたらそれが外に漏れ出てしまった場合も同じことですわ。ですからあくまで、扉の鍵のデータのみで管理しているんですの。」
「だが、係りつけの医者は中に通している、と。」
「逆ですわ。」双子のうちのどちらかの方から声が聞こえてくる。「ただでさえ、どこの馬の骨をとも分からないお医者様に、アン様は体を晒しているのです。これ以上は体に毒というもの。」
「アカネコ探偵さん。これ以上はお察し頂けると有難いのですけれど。」
「察するという行為の意味が分かっているなら、暴力団の構成員にはなっていない。」
奇妙な話ではある。だが、芸術家が芸術家として仕事を行うにはそれ以外の存在には理解しえない要素が介在する必要がある、と思うしかないようだ。
一応、裏はとるつもりだが、何となくこれは正しいように思える。
「もしも私がそちら側であるならば。」私はアンの部屋の扉を横目で見る。「まずアンを部屋の外へと出し、鍵を閉める。そしてアンが事件を起こし戻ってきてある程度時間が経ったところで鍵を開けてアンを部屋の中へと入れる。」
「そうすれば、少なくとも事件が起きていた時間は部屋の中に監禁されていたことになるので、アン様のアリバイが確保される、そう言いたいのでしょう。」
おそらく、しっかりとした回答が用意されているのだろう。
無意味な質問になることを願っている自分がいる。
「アン様のいらっしゃる部屋はどのような意味で作られた部屋かお分かりになりますか。」
「分かるわけがないだろう。」私は特に意見を考えることもなく首を振る。
「そもそもこの部屋はワガツマ ダイスケ、つまりは私共の父が詩を思いつかなかったときに利用していたものですの。」
「いわゆる、詩が思いつくまで部屋から出れないようにする缶詰部屋なのですわ。」
確かにその雰囲気はこの部屋から感じていた。この空間を作り出そうと考えた人間が単純な監禁だけを目的とした部屋を作るとは到底思えなかった。
「父が中に入り、信頼のおける編集者に鍵を渡す。後は期日までに書き上げて編集の人に鍵を開けてもらうのですけれど。」メイと思われる方が視線を落とす。「その部屋は私共、四姉妹が生まれてから作った部屋でしたから自由に使えると危険でしょう、ですから。」
「登録された人間が中に入らないと鍵が閉まらないのですわ。」
そうきたか、少し笑いそうになる。
どうなっているんだ、この家は。
「体温、網膜、顔の輪郭などあるが、どれで人を判別しているんだ。」
「詳しいことは分かりませんが、おそらく顔の輪郭かと、登録自体はこのお屋敷を設計してくださった建築士さんにお願いしていますわ。」
「そして、今あの部屋はアンのものになった訳か。」言い終えてからため息が漏れる。「父親が死んで自分の部屋が手に入り、いいこと尽くしだな。」
「自分の部屋が手に入るだけで良いことだと言えるなんて、自分の部屋も持てない程の貧しい人生だったことには大いに同情いたしますわ。」
それこそ年齢の大きく違う年下のヨスミちゃんでもいいから一人入れておけば鍵を閉めることができる、という穴があればいいとは思っていた。だが、それすら見つからなそうだ。
当然、テルやメイでもしかり。
アン。テル、メイ。ヨスミちゃん。
カイドウが年齢順で並べたメモ帳の文字がまた浮かび上がる。
ここにカイドウがいれば。
アン、不可能。テル、メイ。ヨスミちゃん。
そうメモ帳の文字は書き変わるのだろうか。
ワガツマ ダイスケの死去が起き。
そして。
ワガツマ アンのデビューが起き。
今回の情報とこれまでの情報とで、容疑者は四人だ。
犯人の候補として、ヨスミちゃんは少女であり、除外となる。
犯人の候補として、アンは監禁されており、除外となる。
犯人の候補として、残ったのは、テルとメイの双子となる。
四女、ヨスミが消え、長女、アンが消え、残ったのは次女と三女だ。
これもテルとメイの考えの内なのか、それとも考えの外だとしても対処可能なのか。
この思い込みには揮発する寸前の悪意が含まれているのか。
「この犯行は誰が考えたものだ。」
「さぁ。」
「長女のアンか。」
「何故そう思うのでしょう。」
「長女であり詩人としても成功しているのなら、指示を聞く側のお前ら妹たちは反発しないだろう。」
「誰が言ったところで反発は致しませんし。」テルがメイの髪を指でなぞる。「誰かが反発したくなるようなことを言う者もおりませんの。」
会話は一区切りついたように思えた。
これで、完璧なのだろうか。ワガツマ ダイスケに誓わせるという行為の強要はかなり重要であったと思うが、上手く使えたかは甚だ疑問が残る。理解しにくい存在を相手取って殴り合いをする場合、いつも加減が分からなくなる。今回はその心配はないだろう。拳が引きちぎれるまで殴り続けられる相手なのだから
「最後に一つすまないが、ここの建築士の名刺をもらえるだろうか。」
「構いませんわ。アカネコ探偵さんでは覚えられませんものね。」
一々余計な言葉を付けるところに自分たちの中にあるいら立ちを示してくる。
三枚目の名刺をもらう。無意味と分かっていながら物理的な量が増えていくのは痛々しさすら感じる。悩む暇もなく考える暇もなく状況は変化している。スムーズに物事が進んでいるからといって、都合の良い結果が出るとは限らない。あくまで停滞していない、ということでしかなかった。
「次はこちらから質問をさせて頂きたいわ。」
ワガツマ邸 二階 客間
「言葉は神である。」
「お前らは好きだな、そういう言葉が。」
「言葉がお嫌いな方が、この世の中にいらっしゃるとは到底思えないのですけれど。」
「その質問には答えかねる。」
「いえ、答えてほしいのではなくて、聞いてほしいだけですわ。」
もうこの時点で主導権を握られている。そう確信する。
質問をする、答える、という関係性ではなかった。
質問をする、答えさせられる、という関係性。
こういうのも悪くはないとは思う。主導権をどれだけ握ることができるか、という仕事、そこからは程遠いものだ。主導権を自ら手放すという感覚。得られるものは少ないかもしれないが、その分荷物は軽くなる。
答えは正確に最小限、洗練させた状態で相手へ提供する。
言葉が純化する。
「何故、カイドウさんがこの場にいらっしゃらないのかしら。」
「少し別の用事だ。」
「何の用事なのかしら。」
「分からない。」
「不安でしょう。」
「不安ではない。」
「不安に思うべきですわ。」
「何故だ。」
「カイドウさん、今頃は。」
「なんだ。」
「殺されているかも。」
分かっている、ただの揺さぶりだ。だから過剰な反応はむしろ相手に塩を送ることになる。落ち着いている心を尚も落ち着けて、整っている呼吸を深呼吸でより整える。喉元に丁寧に選んだ言葉を充填し。
「ねぇ、アカネコ探偵さん。何か言ってくださらないと会話になら。」
「死ね。」
相手の罠に肩まで浸かる。
いつもカイドウが私の代わりに怒りを爆発させているから、私の言葉が乱れることはないのだ。そのことも分からず、私のことを舐めているのだろう。馬鹿にしたところで目に見えた被害は生まれないと思っているのだろう。ココノエのことを不意に思い出してしまう。
あのクソによく似ている。
「いつから別個に行動をなさっているの。」
「フラノのアパートを捜査しに行った、そのあたりからだ。」
「怖がっていらしたわね。アカネコ探偵さん。」
いたのか、あの場所に。
まさか、あのアパートで見たのは幻覚、だったのではないのか。
幻覚だ、幻覚のはずだ。
だが、それなのに、実は現実だったというその低い可能性にどうしてもピントが合ってしまう。
「どうだろうな。」私は無意味に微笑んだ。
双子が表情を止めて目を細める。そのまま目を閉じて死んでくれればいいと思ったが、そうはいかなかった。実際、死なれると事件の解決に影を落とす可能性があるのでありがたい面もある訳だが。
「何が怖いの。」
さて、ここからか。
「何が怖いように思えるのか教えてほしいものだ。」
「ワガツマ四姉妹。」
「さぁ。」
「詩。」
「さぁ。」
「公庄會。」
「さぁ。」
「警察」
「さぁ。」
「暴力団。」
「さぁ。」
「詫状業務。」
「さぁ。」
「噛みつき。」
「さぁ。」
「首。」
「さぁ。」
「カイドウ。」
「さぁ。」
「仲間。」
「さぁ。」
「過去。」
「さぁ。」
三人の視線が空中でふわりと巻き付き、静かに落下する。不意に怪しげな笑顔が口元から目元、最後には顔全体に広がる。
「言葉は常に前向きというのはご存知かしら。」
「聞いたこともない。」
「言葉を発する体の部分は例外もあるけれど、大抵は口ですわ。口は前についているから必ず発する限りは前にしか飛んでいかないものでしょう。」
「お前たちは面白いな。」
「いえ、私共が面白いのではなく、本当に面白いのは。」
「言葉、ということか。」
「その通りですわ。」
もしもワガツマ ダイスケのファンがこの場にいたとしたら、ワガツマ ダイスケの面影を感じたのだろうか、そんなことを思う。とても貴重な場に居合わせていて、そう感じなければいけない瞬間なのだろう。
目の前の双子の瞳を順に見ると、どちらも、こちらを見ている。
「言霊の存在についてどうお考えなのかしら。」
「言葉に籠る。」
「霊的な力、ということです。」
「霊的であるかどうかはともかく、言霊は存在するだろう。」
「それは意外でしたわ。」
「少なくともその言霊という言葉によって、私は言霊について考えている、ということは言葉に力は存在するだろう。」
「そして私共もそのことと同意見ですわ。」
「それは、意外だな。」
「言霊というものの存在は、決して物体を動かすであるとか、その場に物体を生み出すであるとか、そのようなものを可能にすることはないでしょう。ただ、その言霊が生み出された結果として、物体が動き、物体が生み出される、ということはあるのですわ。」
「それは人間がその言霊に影響を受けた、という解釈で良い訳か。」
「ですが言葉が通じているかどうかということとは違いますわ。言葉の意味は言葉の理解が前提にあることで、言霊の存在はそれそのものであり、それが発せられている時点で意味を成しています。」
「意味は通じなくとも。」
「思いは通じるのですわ。」
言葉に思いが乗るのではなく、思いに言葉が乗っている。だからこそだろうか、言葉が届かなくとも思いは届き、それは言霊になる。
言いたいことはこういうこと、だろうか。
「たとえ、言っている意味が分からなくともバカにされていると感じることがありますでしょう。」
「それは表情、語気、状況などを加味してのものだろう。」
「ですから言霊とは、言葉に関係する全てに宿るもの、なのですわ。」
「範囲がいやに広いな。」
「ですから言霊は伝えようとする限り、そこに生まれ続けるもの。」
ワガツマ メイとワガツマ テルの二人と会話をし、言葉を受けている。その中にも言霊があるはずだ。そして、その言霊を私は浴びている。
「前に考えたが分からないことがあった。質問をしてもいいか。」
「どうぞ。」
「何故、日本では言葉を縦に連ねる縦書きの文化が流行ったと思う。」
「中国文化、というパワーワードを使うのは当たり前すぎますので、それを避けた上で私共の解釈を。」
「構わない。」
「絶対的なものであったからでしょう。」
「絶対的、だと。」
「横書きが左から右に移動するものだとした場合、それを逆から見た人間からすればそれは右から左に移動していますでしょう。悲しいけれど、人の立つ場所によってどちらが左右かは入れ替わるものではありませんこと。」
「確かに。」
「ですが、縦書き、つまりは上下という感覚は誰がどこに立っていようと上は誰にとっても上であり下は誰にとっても下であり続けるものですわ。その理由として明確なのは、上には必ず空があり、下には必ず大地があったということです。」
「対して、左に必ずあるものや、右に必ずあるものが存在しえなかったから、左右という感覚は絶対的なものにはなりえなかった。」
「お察しのいいことで。」
「それでも横書きという文化が根付いた言葉もある。」
「つまりは、横書きは絶対的なものに頼らず書くものの主観として言葉を定義したということですわ。対して縦書きは主観ではなくより絶対的な客観によって言葉を定義したということなのです。」
悪くはないと思う。ある程度の理由付けもある。単純な言葉狂いではなく、より好き、という感覚に近いようだ。
より自然的な縦書き、と、より人工的な横書き、ということだろう。
「縦書きと横書きにどう優劣をつける。」
自分でも少しばかり意地の悪い質問であったと思う。
「ただ情報を得たいのであれば縦書き、その情報の解釈まで得たいのであれば横書き、だと思いますわ。手がかりなら縦書き、真相まで辿り着きたいのなら横書きというのは如何でしょう。」
「なるほど。」
今、自分のいる場所を少し考えてしまう。所詮は人と人との会話が濃厚にこの場を支配している。いつ、どこで、あるかなど意味があるかどうか疑問符が並んでしまう。
無理に意味を求めていては会話には集中できないだろう。意味を求めてする行動に意味は生まれないだろう。
「次は私共からの質問です。」
「構わない。」
「何故、縦書きがお嫌いなのかしら。」
「いや、別に嫌いではないが。」
「本当かしら、微妙にアカネコ探偵さんの纏っている空気に変化がありましたわ。上から下に動くものがお嫌いなのでしょう。」
「そんなことはない。」
「それなら、上から下へと感じるものがお嫌い、とか。」
「とか、とか、とかか。」私は鼻で笑ってしまう。「なんだ、とかって。」
「アカネコ探偵さんが首がお嫌いなのは分かるのですけれど。」
「首が嫌いなのか、私は。」
どういう意味で言っているのだろう。
首、と、上から下へ、と感じる二つのものの掛け合わせを私は怖がっているのか。
全く、聞いてみたくなる。
例えば何があるというのか。
「例えば、そう。」
そう、何だ。
何があるというのか。
「首吊り。」
は。
急に、何を言い出したんだ。
この女は。
「どこ。」
喉が鳴らない。
「どこ、とは何ですか。」
どこで気づかれた。どこで知られた。どこで見抜かれた。
首吊りに対して、私が持つ苦手意識が増幅する。
どこでばれた。
あの単語だけを並べて質問してきた。あのところか。
首、という単語に不快感を示してしまい、縦書き、という単語に不快感示してしまった。
その二つの不快感を表情から空気から読み取ったのか。
いや、言葉から読み取ったのか。
どちらが上でどちらが下なのか、ということではない。
もう一度体に力を入れる。ここからまた議論をしなければならないのだろう。
潰し合わなければ残念なことにこの場に決着をつけることはできないのだ。決してお互いの力量を認め合うため、というような聞こえの良い言葉によるものではなく、ただ、目の前の邪魔者を一刻も早く消し去りたいということに過ぎないのだ。
上品さの欠片など最初からあったことすら怪しい。
酷く湿った敗北が微笑みながら赤子の真似をしていた。
「アカネコ探偵さんは、首吊りという言葉を恐れているのではないかしら。」
「恐れてなどいない。」
「いいえ恐れています。」
「恐れるのではなく避けようとしているだけだ。」
「避けようと思うことが恐れているということでしょう。」
「恐れているのではなく危険だから避けるのだ。」
「誰がそう考えるのですか。」
「人は普通そう考える。」
「人が考えるだけです。」
「人がそう考えるのが全てだ。」
「あなたは人ではありません。」
「そういうお前は人だ。」
「私こそ人とは呼ばれません。」
「その割には人の姿をしている。」
「いいえ人の姿をした言葉です。」
「お前は言葉ではなく、ただの人だ。」
「今の私共は恐怖を擬人化した存在です。」
「誰にとっての恐怖だ。」
「貴方にとってです。」
「私は恐れていない。」
「首吊りを恐れているでしょう。」
「お前らが首を吊っている訳でもないのだから私は恐れない。」
「私共があなたの恐怖を掘り返したからです。」
「掘り返すだけなら誰にでもできる。」
「しかし恐れているのは他の誰でもなく貴方だけです。」
「お前らは自分が言葉だと言ったな。」
「はいその通りです。」
「言葉は神だろう。」
「言葉は神すら超えています。」
「自惚れるな。」
「私共は言葉であり言葉は神であり、そのため、私共は神です。」
「バカを言うな。」
「私共は貴方という人間を越えた神になりました。」
「ふざけるな。」
「貴方に恐怖を与える神です。」
「神は人を救うものだ。」
「恐怖を与えることで救うのです。」
「恐怖で人は救われない。」
「ですから貴方は人ではないのです。」テルとメイが微笑む。「最早、恐怖でしか貴方は救われない。」
鳥かごの中に閉じ込められたまま、静かに濃硫酸に漬けられていくカナリアを見たような気がした。
鳴きもせずあばれもせず、羽と肉と骨を溶かしていく哀れな様がまじまじと見えた気がした。
「お前らは私に恐怖を与える神か。」
「その通り、私共は貴方の神です。」
「こんな言葉を知っているか。」
ワガツマ ダイスケの記事を思い出した。
私は無理に微笑む。
「案ずるな、神は死ぬのだ。」
テルとメイが私が言った、ワガツマ ダイスケの言葉に僅かに反応する。
沈黙がしばらく続いた。
一矢報いたと思った。だが、その代わりとして何百、何千、何万本の矢が飛んでくることは目に見えている。ある意味、バカなことをしたと思ったがクソの付く双子にはこれでちょうどよかっただろう。
「確かに神はいずれ死ぬでしょう。しかし、その前に貴方はここで死ぬのです。」
なるほどそう切り返すわけか。
死ね、クソが。
「貴方の恐怖の根源は何かしら。」
「根源などない。」
「根源は常に記憶と共にあります。」
「記憶を語る気などない。」
「語らなくとも語らせます。」
「語るかどうかは私が決める。」
「しかし貴方のこれまでの人生を決めたのは貴方だけではありません。」
「私は私の人生を決めてきた。」
「家族が首を吊るのも貴方が決めたのですか。」
「そんなわけがない。」
「貴方の中の感情を貴方だけが決めたのですか。」
「そんなわけがない。」
「貴方の生き方を貴方だけが決めたのですか。」
「そんなわけがない。」
「家族が死んだとき悲しかったのでしょう。」
「嬉しがる人間がいると思うのか。」
「そもそも貴方は人間ではないでしょう。」
「人間であり、ある家族の一員だった。」
「最初に家族の死体を発見したのはあなたですか。」
「そうだ。」
「その時どう思いましたか。」
「何も思ってなどいない。」
「何も思わないことなどできません。」
「私にはできる。」
「人間にはできません。」
私は人間だと発言したことが、ここに活きてくるのか。
最早、呼吸すらしづらくなっていた。
「死んだのはどなたですか。」
「父親だ。」
「お父様は糞尿を漏らしていましたか。」
「首を吊ったことで目も飛び出してしまっていた。」
「お父様だと気が付けましたか。」
「気が付くに決まっている。」
「気が付いただけでしょう。」
「気が付くことが全てだ。」
「ですが自分の心が壊れたことまでは気づけなかった。」
「その時はそうだっただけだ。」
「お父様が垂れ流す糞尿の臭いを思い出せますか。」
「思い出したくない。」
「赤黒く鬱血したお父様の顔を思い出せますか。」
「思い出したくない。」
「僅かに痙攣しているお父様のお体を思い出せますか。」
「思い出したくない。」
「お父様の首を吊った縄の軋む音を思い出せますか。」
「思い出したくない。」
「空気が揺れるあの振動音を思い出せますか。」
「思い出したくない。」
「自分の父親が死ぬかもしれないと分からなかったのですか。」
「分かるわけがない。」
「しかし何にでも前兆はあるものです。」
「前兆などなかった。」
「前兆のない行動などありません。」
「分からない程の些細な前兆だった。」
「それに気づくのが家族では。」
「家族にも限界はある。」
「限界なのは家族ではなく貴方でしょう。」
テルとメイが私の首を掴む。
「ねぇ。」
両方の耳にそれぞれの口が近づく。
「何が怖いの。」
廃工場
「言葉。」
そう、言葉がこだましている。
ワガツマ邸をテルとメイから逃げるように出てから数時間が経過していた。
だからこそ今は、廃工場の中で発生し続ける言葉の中心にいる二人にピントを合わせていた。
「やるかてめぇこの野郎。」
「ぶち殺すぞ、このクソ野郎が。」
「死ななきゃ分からねぇてめぇに、猶予与えてやってる意味が分からねぇのか、おい。」
「猶予が欲しいなんて誰が言ったんだよ。てめぇこの野郎。かかってこねぇとこっちからぶぶっ潰しちまうぞっ。」
「みみっちいお喋り繰り返してんのはてめぇの方じゃねぇか、ハンデやってんだからてめぇから殴りに来いや。おら、来いよ。来てみろよ。」
「舐めてんのかてめぇっ。」
「舐めてなかったら言うわけねぇだろバカ野郎っ。」
「おい。」
「なんだよ。」
「後悔すんなよ。」
瞬間。
骨が、砕ける音がする。
飛び散る血が短くビニール袋を叩く雨音のように聞こえる。
鼻をむず痒くさせる砂の臭いが上がってくる。
叩きつけられて響く、コンクリートと骨と肉の振動が響く。
血が見る見る広がる。
血。
吐血や血しぶき、鮮血などではない。鼻水、涎、体液、砂利、泥、全てが入り混じった濁った赤い色をした液体が視界に飛び入る。
「なんだ、おい。後悔してんのか、おい。」
拳が止まる。
相手は泣いていた。
泣いたからどうなるのかと問いたくなるほど不思議な光景だった。
当然。
「今更遅いんだよ、バーカ。」
柔い肉と硬い骨が磨り潰される鈍い音が響く。
また、繰り返す。
約二分経った頃だろうか。
状況をもう一度確認する。
相手はもうやられたくない一心で作る、無意味な笑顔を顔に張り付けている。飛び散った血の中で無意味に引きつりながら、涙を無理やり抑えて笑う。
その瞬間だ。
相手の心が折れたのが見えた。
「さすが。」私は小さくつぶやく。
心の折れる音が聞こえたような気がした。
殺さず、かつ、後々残らない程度の損傷、を念頭に置きながら気絶させる。
このことにおいてここまで上手くできる人間はそういないだろう。顔を見なくとも分かる。
「カイドウ。」私は声をかける。
カイドウが相手の襟首を掴んだまま驚いたような表情でこちらを見る。直ぐに血まみれの拳を、倒れている相手の服を使って急いで拭き取ろうとする。しかし、その服も若干血で汚れていたため拳の血が広がってしまう。
その繰り返しに焦るカイドウを少しの間、見守る。
「アカネコくん、これは別にイライラしてたからとかじゃなくて。」
私は頷く。
「アカネコくん。」
「なんだ。」
「わたし、久しぶりにおばあちゃんのとこのラムネが飲みたいからさぁ。一緒に買いに行こうよ。」カイドウが振り向いて笑う。「駄目かな。」
血も、煙も、私の目に見えなくなっていく。
「いや、それはできない。すまない。」
「ううん別にいいよ、急にごめんね。」
「いや。」私はつい笑ってしまった。「もうあのラムネは買ってあるんだ、二人分。」
ユズキ探偵事務所 客間
「言葉。」
ユズキがため息をつく。
「なんだ、ユズキ。」
「アカネコくん、言葉足らずですよ。」
「何がだ。」
「カイドウさんが血まみれだから客間を使わせてくれって聞かされて、怪我でもしたかと思うじゃないですか。」ユズキがわざとらしく大きくため息をつく。「そうしたら何ですか、むしろカイドウさんが怪我をさせて返り血を浴びただけじゃないですか。」
「嘘は言ってない。」
「百歩譲って風呂は貸してあげますが、僕の分のラムネくらいは買うべきだったと思いますよ。」
「それは申し訳ない。」私は頭を軽く下げた。「忘れていたし、思い出しても買わなかったな。」
「記憶力のなさは探偵としては致命的ですし、ラムネを買えない程貧乏ならただ同情するだけですね。」
今日のユズキの頭の回転はそれなりに速いようだ。おそらく今日だけだ。
ユズキ探偵事務所に相変わらず客はいなかった。いつものことだが時たま心配になってしまう。自分の家も正にその典型例であったわけで他人ごととは思えないのだ。いつも利用しているのだから、その分、何か仕事を回すであるとか何気なく宣伝活動くらいはした方がいいだろうか。
「言葉は神である。」
「なんですか、急に。」ユズキが私を見つめる。「思いついたように呟いて。」
「案ずるな、神は死ぬのだ。」
「だからなんですか急に。」
「時として私たちは言葉に翻弄されている。故に言葉は神だ。」私はあくびを一つした。「だが、ワガツマ ダイスケ曰くその言葉というものはいつか廃れるものなんだそうだ。」
「言葉が、ですか。」
「そうだ。神は死ぬのだそうだ。」
何故、ユズキにこのようなことを語ったのかは分からない。それこそ、テルとメイに言葉と神について幾度となく尋ねられてきたことに対する、何かしらのアンチテーゼのようなものであったかもしれない。
ユズキであればどのように考えるのかと思うと、不意に言葉が出てしまった。このあたりが適切かもしれない。
言葉が神なのだとユズキは感じているのか。
「言葉が廃れるのは余り嬉しいことではないですね。」
「言葉に対して何か思い入れがあるのか。」
「いいえ特にはないですよ。ただ。」ユズキが少しばかり微笑む。「何であっても、何かが廃れるというのは悲しいですよ。」
悲しいのか。
ユズキらしい言葉だと思えた。
「言葉によって傷ついた人間もいるだろう。言葉が廃れればそういう人間はいなくなる。」
「でも傷ついて学ぶこともありますよ。人間は言葉によって成長しましたし、それは人間と共に言葉も成長しているということだと思います。」
「言葉も学ぶということか。」
「言葉がもしも神で、そこに感情や意識があるのなら学び続けますよ。」
そう考えると、言葉が廃れることを悲しいと感じる気持ちが自分の中に生まれていることを実感できた。
私も言葉と共に成長してきたのだろう。
私と神は共に生きてきたのだ。
「言葉は神であり、無限であり、有限だな。」
「随分と哲学的な言い回しですね。」
「理解しにくいか。」
「そんなことはありませんよ。言葉ですから理解できます。」
「言葉にできるものはどれだけ時間がかかっても、理解ができるものになる。」
「言葉は身近な神なんですね。」
「同感だな。」
「そう考えるとワガツマ ダイスケは凄い人ですね。」ユズキが深くうなずく。「こんな当たり前なことも、言葉にしたんですね。」
同じワガツマ姓を持つものとして、ワガツマ ダイスケの言葉には上空に向かって行くような無限の広がりがあり、ワガツマ テルとワガツマ メイには洞穴で反響し続けるこだまのような狭く徐々に下っていくような限界がある。
どちらも同じ言葉のはずである。
ワガツマ ダイスケは、人には人のそれぞれの言葉の神があると言っていた。
人によってその言葉に宿る神の気高さにも差があるのか。
ユズキ探偵事務所の冷蔵庫にしまわせてもらった二人分のラムネを想像する。ほんのわずかに波立っていた心が落ち着ていくのが分かる。むしろ泡立たせて波立たせる役目のラムネにこのような効果があろうとは、ラムネ自身も思っていないだろう。癒されるとはこういうことか。
ラムネを、早く飲みたい。
「カイドウと会う前に、会ったんだ。」なんとなく言葉が漏れた。
「誰にですか。」
「ワガツマ テルとメイだ。」
頭の中にワガツマ邸でのテルとメイの顔が浮かぶ。
「だから、言葉は神である、とか言ったんですね。」
「それもあるだろうな。」何となく言葉でごまかした。
「あの双子に。」ユズキが頷く。「言葉で何か言われたのですか。」
「色々と過去をほじくり返されてな。」
「それは、大変でしたね。」
「逃げてきた。」
ユズキの呼吸音が一瞬遠くなる。
「アカネコくんが、逃げた。」ユズキが自分の発言を確かめるように黙る。「逃げたんですか、本当ですか、あなたがですか。」
「言葉で負けた。」
「あなたが、負かされたんですか。」
「怖かったんだ。」
「そうですか、なるほど。」ユズキが髪をかき上げる。
敗北は人を成長させる、と言おうと思ったがやめた。敗北から学ぶ人間はそもそもこのような言葉は吐かない。
一呼吸だけ置く。
「その場から逃げて、死にもの狂いでカイドウを探した。」
見つけた時は安堵した。別に心の支えとして定義したわけでもないのだが、胸のつかえが降りたような気がした。カイドウの眉間に皺の寄った顔も、血まみれの拳も、人を殴るときの呼吸音も、全てが懐かしく感じられたものだ。
首吊り、という記憶を当てられ、カイドウの元に走る。
起きたできごとはそれだけだ。
「事件の捜査は進んでますか。」ユズキがひときわ優しく言葉を吐いた。
一応は進んでいるが、新たにアンには殺人が不可能だったということが証明されたに過ぎなかった。
犯人の候補はテルとメイに絞られたが、どう考えても、調べればアリバイは出てくるはずだ。そうでなかったらこんなにも分かりやすく情報は開示されないだろう。
私はユズキに対して簡単に事件の概略をもう一度説明し、新たに分かった情報を伝えた。ほんの少しの冗談も交えようかと思ったがやめておいた。自分が少しばかりこの事件に真剣に取り組んでいることが、実感できる。
「アン様は閉じ込められているせいで、事件を起こすことができない。ですが、明らかに犯人である場合は都合の良い年齢、というわけですね。」
アン様という存在がこの事件において完全なネックとなっている。天才詩人というだけでも引きがあるが、この場合は殺人の容疑者という点でも引きがある。
唯一閉じ込められて身動きが取れない存在に、一番の可能性があるのはおそらくテルとメイも意識していたことだろう。事件自体の解決を阻害するもののために作り出した要素としか思えない。
「重要なのは順番だ。」
「なんの順番ですか。」
「年齢だ。」私はため息をついた。「四姉妹の年齢順が問題なんだ。」
テルとメイの微笑む顔が想像できた。少しばかり吐き気がする。
このように私が悩んでいることも織り込み済みなのだろう。
「年齢順は、アン様、テルさん、メイさん、ヨスミちゃんですよね。」
「だが、アン様とヨスミちゃんの年齢が逆であればこの事件は直ぐに解決できる。」
つまり、子どもの方が監禁され、事件を起こせる大人の方が自由であれば、これは最早事件と呼べる代物でもなくなる。
「でも、音声データでは、テルとメイさんはヨスミちゃんをめちゃくちゃ可愛がっていたんですよね。」ユズキが腕を組む。「さすがに無理がありませんか。」
前にも考えたが、盗聴されているということに気づかれていないのは間違いない。つまり
あの音声に嘘はないのだ。だからあの音声はそのまま信じることは可能である。
ただ可能だからこそ、問題なのである。
「低い可能性ではあるが、あの音声を無視することはできる。だが、それでも、年齢順が問題だ。」
「そういえば、テルさんとメイさんでは、アカネコ君はどちらがお姉さんなのかは分かるんですか。」
「テルとメイから教えてもらっていないから、分からないな。」
「教えて貰えばいいのではないですか。」
「そんな協力的な双子だと思うのか。」
「余り言いたくはないですが、アカネコくんにとっては脅迫するというのも、手段としてあり得ますよ。」
「そんなことを言い出したら、最初から脅迫で犯人を割り出している。」
それに、テルとメイが脅迫によって口を割るような人間とも思えなかった。その上で脅迫を使うこともできるが、それはなんとも無粋というものだろう。できる限りは同じ土俵で殺し合うのが礼儀だと思ってはいる。
私らしくないかもしれないが。
「実際、アン様にもヨスミちゃんにも直接会っている訳ではないから、誰が長女なのかは今までの情報でもっともらしい、アン様を据えているだけに過ぎない。」
「でも、別の問題もありませんか。」
「例えばなんだ。」
「そもそも、テルとメイが四姉妹の年齢順においてどの位置なのかということですよ。」ユズキが指を立てて見せる。「テルとメイ、アン様、ヨスミちゃん。テルとメイ、ヨスミちゃん、アン様。ヨスミちゃん、アン様、テルとメイ。アン様、ヨスミちゃん、テルとメイ。」
「四つの推測が成り立つわけか。」私は鼻で笑う。「だが、それはあり得ない。」
「何故ですか、四姉妹の年齢順が予想とは違うものである可能性はこれだけはあるんですよ。」
「お前が教えてくれたじゃないか、ワガツマ四姉妹は嘘をつかない。」ユズキの目を見つめる。「テルとメイは、四姉妹は、三十代、二十代が二人、そして約三歳の四人だと言っている。明らかにテルとメイは二十代だから次女と三女で確実だ。」
「確かに、そうですね。」
「だが、テルかメイの片方が、実は整形によって二十代の顔とそっくりに似せた見た目を手に入れた三十代の可能性もある。」
「そうなると、対応してくれたのは、テルとアンか、メイとテルになり、監禁されているのがメイかテルかヨスミちゃんの可能性が出てくるわけですね。でもそうなると、アカネコくんとカイドウさんを案内したときの発言に矛盾が生まれませんか。」
「嘘をついていることになってしまうな。」私は鼻で笑った。「それにあの双子に整形の跡はなかったから、これはあり得ない。」
少しばかり沈黙が流れる。
「なるほど。」ユズキが睨む。「僕をからかいましたね。」
推理力があればからかわれることなどなかったのだ、と言おうと思ったがやめることにした。余りなんでも口に出すと良いことがない、というのも私の推理力の賜物と言える。
「ワガツマ四姉妹の年齢順を疑いたくとも、取っ掛かりが見つからないですねぇ。」
「全くだ。」私は背伸びをした。「だが、テルとメイは明らかに四姉妹の年齢順を明言しようとしない。」
気づかない方がおかしいだろう。
「年齢順について直接尋ねればいいんじゃないですか、嘘をつかないわけですし。」
「嘘をつかないだけだ。おそらく、無言で通されるだろう。」
「本当は年齢順なんて関係ないんじゃないですか、例えば言い忘れてる可能性もありますし。」
「三十代、二十代、約三歳。そして、テル、メイ、アン様、ヨスミちゃんだそうだ。」私は首を捻る。「その二つの年齢と名前を分断して言ったことはあるが、二つを組み合わせて誰が何歳であるかを語ったことはない。明らかにわざとだ。」
「仮に、仮にですよ、アン様のほうが本当は子供だったとして証明できるものなんてみつかるんですか。」
「証明する必要はない、私は探偵ではなく暴力団の構成員なのだ。」私は鼻で笑う。「だが、その通りでもある。おそらくワガツマ四姉妹の年齢順を完全に証明できるようなものは一切出てこないだろう。それらが出ないような根回しは確実にしているはずだ。」
ワガツマ四姉妹はどんな形であれ、手を抜くことはない。ワガツマ四姉妹と、私とカイドウの勝負はそんな生半可なもので決着とはならないだろう。
「だからこそ、証明できなくともいいのだ。」
「へ。」ユズキが首をかしげる。
「重要なのはワガツマ四姉妹が私たちに敗北を認めることにある。逆に言えば年齢順についての完璧な証拠が出てくることよりも、ワガツマ四姉妹が自供してくれるのであればそちらの方がありがたい。」
「確かに、その通りですが。」
「正しい年齢順が示されていて、なおかつ、ワガツマ四姉妹が敗北を認めるものがあればいい。」
探せば何かはあるのだろう。
何か、というだけに過ぎないが。
「四姉妹の正確な年齢順を教えてくれるようなものがあれば、事件は解決する。」
残念なことに推理はここまでであった。ユズキが幾つか意見を出してくれたものの、妄想でさえうまく構成できないのが実情だ。
「捜査は前には進んでいますが、あと一歩というところですね。」
「全くだな。それに街の噂も変わったものばかりだ。例えば、この町にはいい歯医者がいる、とかな。」
「その噂なら僕も知ってますよ。」声が小さくなる。
「どこで聞いた。」
「どこと言われても、もう覚えていませんし。」
良い歯医者がいる、という噂の価値が高まる。
「今休憩中のカイドウさんの働きはどうですか。」
「かなりありがたい。」私は自然と微笑む。
「実際、カイドウさんはかなり有能ですからね。」ユズキも微笑む。「でも、血まみれでここに来たということはかなり、荒っぽい解決方法を辿ったということですね。」
「カイドウらしい解決方法だ。」
「それ以外の解決方法をカイドウさんが辿る方が不安になりますよ。」
「確かに、な。」私は座りなおす。「捜査の途中で、町にいる警察官のやる気がないという情報を仕入れてな。」
「ずいぶんと変わった情報ですね。」ユズキが笑う。「情報というか、ただの愚痴というか。」
「その情報だが。」私は微笑む。「さきほどカイドウが真相を解明した。」
ユズキが心底驚いたような表情をする。瞬きを数回繰り返し風呂場の方へと視線を移した。当然壁やら家具やら障害物があって見える訳もないのだが賛辞を送っているようである。
噂としては不十分、そんな評価であったものを愚直に追った訳だ。努力をしたところで器用にはなれても不器用にはなれないものだ。
「カイドウは最初に警察官に尋ねたそうだ。何故やる気がないんですか、とな。」
「ずいぶんと正直ですね。」
「そうしたら、警察官は軽くあしらう意味で、最近増えてきている車上荒らしの犯人を捕まえたら教えてあげるよ、とでも言ったらしい。」
「だから。」
「そう捕まえたわけだ。」私は自分のことのように誇らしく感じ、声が大きくなったのを実感した。「血まみれでな。」
「で、警察の方は。」
「一応、教えてもらった。理由はたいして面白くもない単純なものだが。」私はそこから徐々に声を小さくする。「少し前まで頻発していた空き巣の被害が止まってしまったからだそうだ。」
「つまり空き巣の犯人を捕まえてやろうと思っていたのに、やる気が空回りして。」
「そうだ面倒くさくなり。」
「腐っちゃった、と。」
ユズキが呆れ顔でため息をつく。
空き巣が頻発する。
自分の出番なのではないか。
警察官としての正義を胸に秘める。
自分が求められている。
いざ行かん。
というところで、強制終了となった訳だ。
正確には、犯人が捕まってはいないのだから解決ではないのだ。だが、リアルタイムでの勝負をしたかったのだろう。後は犯人の残したものの後片付けをするようなテンションでは楽しみにくい、ということのようだ。よく今まで仕事をしていたものである、逆に表彰した方がいい。
現実はゲームではないが、そろそろ現実もゲームから何かを学び取ってもいいだろう。
「そういえば、ちょっとワガツマ四姉妹のことで情報を仕入れまして。」ユズキが思い出す様に顔を顔を掻きながら斜め上を睨む。「前に一人、カメラを持った状態で部屋の中に入れてもらえた方がいたらしいんです。」
入れてもらえた理由の方がかなり気になるが、今は後回しとしよう。
「そのカメラマンとコンタクトは。」
「すみませんが不可能です。素性を明かさないということで中に入れてもらえたようです。」
「取材対象の匿名性を高めるだけではなく、取材側にも匿名性の高さを要求したわけか。」
「賢いですよね。」
「かなり、な。」
「で、ですね。その取材の方はネット上に情報発信の媒体を持っていまして、そこに記事があがってたんです。」ユズキがこめかみをさする。「確か、そう、カメラを下に向けて入ったんですけど、下じゃなくて真逆の方向に向けてほしい、そう言われたようですね。」
真逆、つまり、今その取材している人間が入ってきた扉を映せ、ということになる。
そこまで映したくないということか。
「それならカメラを持ってこさせて中を撮る意味が分からないんですけど、それは良いとして。」
「部屋の中を撮れたこと自体がそもそも貴重だな。」
「そういうことです。貴重な映像なんだそうですが、これはさすがに見つからないと思いますね。」
「大丈夫だ、分かった。」
映像云々よりも映像がある、ということの方が重要だ。存在自体に価値がある。場合によってはこの事実は餌になる。ちらつかせながら、私たちが入室するだけの権利があると主張してみても面白いだろう。
「忘れてました。ちなみに入った部屋はアンの部屋で、取材対象ももちろんアンだそうです。」
アン、か。
厳重に監禁された部屋がある。
その中にいるのは四姉妹の長女だ。
ワガツマ ダイスケに認められた詩人である。
だが、それだけの情報しかない。
難しいだけで、真実があるのだから十分とも言える。解答のない問題に取り組み続けなければいけない仕事も存在する。それこそ報酬すら発生しない仕事に駆り出される者もいる。仕事をしているだけで幸せを感じる者もいるらしいので、そのあたりは無視しておこう。笑顔で過労死できるならそれに越したことはない。
「この会話を聞いたらワガツマ ダイスケが聞いたらどう思うでしょうね。」ユズキがため息をつく。「どんな権力にも屈せず、どこかの国のトップが国を私物化していると知ったらその国の言葉で詩を書いて、送りつけるような人でもあったようですし。そんな自分の娘たちが。」
「ヤクザに屈してしまうかもしれない。」
遠くに聞こえるシャワーの音は何か砂嵐のようでもあり、癒される。自分ではない誰かの心地いい瞬間というのが継続されることを心から願う。これが優しさか。
自分にもあるんだな、と思う。
四姉妹もお互いにこう願っているのではないか。
あのワガツマ邸で続いてくはずだった四姉妹の優しい時間、それを守ろうとしているのではないか。心のどこかでそれは無理だと分かっている。けれど公庄會や警察と対峙することを止められないのではないか。
「それとオダからデータが来たんだが。少し聞きたいことがあって。」
その瞬間だ。
携帯電話が鳴りだす。
バイブレーションが皮膚を揺らし、ムカデのように細かく存在を知らせてくる。
ユズキに向かって手を前に出す。ユズキも頷く。
電話の相手はイデだった。
内容は。
「そうか、また、か。」
鳥肌が立つ。
「死体、か。」
公庄會 本邸 廊下
「言葉。」
ココノエが私に微笑みかけてくる。
外からの光を浴びるココノエの顔はとても健康そうに見えた。流れる時間さえ途端に石や草木にぶつかり緩やかになったように感じる。穏やか、そう思う人間の方が多いだろう。時間は決して人に媚びたりしないものである。
「詫状業務の対象者であるワガツマ姉妹に言葉で負けたんだろう。」ココノエが笑うのをこらえるように口を覆って見せる。「言葉以外でも負けてばかりだというのにな。」
あなたがどこでその話を聞いたのかは知りませんが。
偉そうに口を開くな、ぶち殺すぞクソが。
隣のカイドウは一切表情を変化させることなく、ココノエの顔を見つめていた。瞬き一つしないことを考えると睨んでいるという方が近いだろう。だが、ココノエはそのことなど一切意に介すことなく話を続ける。
「でも気にすることはないだろう。なにせ、先ほどアカネコ探偵くんにもイデから電話があった通り。」
数時間前のイデからの電話を思い出す。
「また、次の殺人を起こしてくれたわけだからね。」
そう、殺人が続いている。
殺されたのは女性で、名前はフジサキ、無職、年齢は四十代で綺麗な方、顔に見合った派手な服装で発見された。
死体は、胸をナイフで一突き。
少し安堵する。
今回は首吊りではなかった。
おばあちゃんとラムネの助けはまだ借りなくてもよさそうだ。
これらの情報は基本的にイデから送られてくる。だが、今回は紙資料で先ほど本邸に着いたところでココノエから渡された。
意味はおそらく。
ココノエが私とカイドウと三人で話す機会を設けたかったからだろう。まさか詫状業務をしっかりと処理で来ているのかどうかを聞くためにここに呼んだとは到底思えないが。
「公庄會とは何だと思う。」ココノエが私の横へと立つ。「アカネコ探偵くん。」
「暴力団、もしくはヤクザ、でしょうか。」
「そうだ、つまりだよアカネコ探偵くん。」ココノエの口が耳元へと近づく。
「はい。」
「構成員が素人に言い負かされて帰ってきてんじゃねぇぞ。」
正論、だ。
「ココノエ組長申し訳ありません。」カイドウが頭を下げる。「私がコンビでありながら身勝手な行動をしてしまい、お互いが単独で動くことになってしまいました。二人で対処すれば何の問題もなかったはずです。」
助けてくれているのは分かる。だが、これは私が引き起こした。そして、私が解決すべき問題だ。おそらく、カイドウもそのことは分かっている。
これはカイドウの持つ優しさだ。
ありがとう。
「茶番はいらないんだよ、ゴミ共が。」ココノエが言葉を吐き捨てる。「それよりも、なんで俺がこのことを知ってるか分かるか。」
そのことを知っているのは、当然、私、そして。
「ワガツマ姉妹から直接言われたんだよ。」
あのクソ双子、わざわざ丁寧に口添えまでしてくれたわけか、こちらに対して徹底的な敵意を示してくれている。やはり私とカイドウがどこか真相にたどり着く可能性を感じているということのようだ
距離を詰めるべきタイミング、だろう。
「だから、ここに呼んでいる。」
私とカイドウは目を合わせて図らずとも口を同じタイミングで開いた。非常に間抜け面であったと思う。
「誰を。」
ココノエの殺気立っていた空気が消え去る。いつもの内に秘めた殺気を静かに漏れ出させるココノエに戻っていく。顔には若干の微笑みすらある。口を開かなくとも嫌味を吐き出しそうな毒気が漂う。
「誰が来ているか。そりゃあアカネコ探偵くん、決まっているだろう。」私の肩を持って顔を近づける。「ワガツマ テルとメイさんだよ。」
公庄會 本邸 大客間
「言葉。」
ワガツマ テルとメイが甲高く笑う。
「そんな言葉で負かされたことを根に持ってこんな場所にまで呼びつけるなんて。恥知らずもいいところですわ。ねぇ、メイさん。」
「全くですわテルさん。しかも公庄會のトップにわざわざ言わせるなんてどれだけ他人の力を借りれば気が済むのかしら。」
「いい加減にしやがれよてめぇこの野郎、いくら客としてここに上がってこようが関係ねぇ。ぶち殺してやるよ。」
私はカイドウのその言葉につい笑ってしまった。
「その通りだ。ぶち殺そう。」
公庄會、本邸、大客間、この場所にワガツマ テルとアンを呼び出したのはココノエの勝手な行動だ。だが、それを私がココノエの力を借りて呼び出したと誤解されてしまっている。自分でここに呼びだす度胸がないから泣きついたと思われているのだ。
私は自然と微笑んでいた。
そんなことは最早どうでもよかった。
重要なのはもう一度、この状況下で会うことができたことだ。
汚名返上をするなどそんなことのための時間ではない。詫状業務という表面上の理由を使った腹の探り合いをするためだけの時間だ。仮にそんなものがなかったとしても、もっと早くから衝突していたのだろう。
今は事件も起きたばかりで餌も火薬も風もある。幾らでも食いつき爆発し前に進んでいける。
寿命を消費せずにできる行動などないのだ。
あたりを見回す。
大客間に入れたのはおよそ二年ぶりくらいだろう。内装など忘れていたので非常に新鮮な気持ちになる。むしろ。このような部屋などあっただろうか、という気持ちすらある。大切にしたいと思う反面少し自分の記憶力を心配してしまう。
部屋の作りはとても簡易的で、畳の上に漆塗りの椅子と机、掛け軸と絵、出入り口、それくらいしかなかった。ただ、前にイデに聞いたときにこの部屋にあるものが最も高価であると言っていた。
価値が分からなくとも敬意を払うことはできる。だからこそ逆説的に、敬意を払うだけなら心構えは必要ない、とも言える。
おばあちゃんの駄菓子屋と、そこで飲むよく冷えたラムネを不意に思い出す。今、この場所はそこから最も遠い殺伐とした空間だ。それ故にラムネもおばあちゃんも恋しく感じられる貴重な時間にもなっている。
この場所をより自分の中へと印象付けたいと思える。
私は漆の滑らかな肌触りを指の腹で感じ取った。悪くはなかった。
この場所は、好きだ。
「事件は今のところ三つ起きている。」私は指を三本目の前に出した。「一つ目は首を噛みちぎられた男、二つ目は首を吊るされた男、三つ目は刺された男だ。」
「そうですわね。」
「公庄會としては、一つ目の首を噛みちぎられた男の犯人を探し出すことが最重要課題となる。だが当然この二つ目と三つ目の事件が関係しあっている限りは、こちらの捜査もする必要がある。」
「それはアカネコ探偵さんのしたいようになさればいいのでは。」双子が挑発するように笑う。
「何故、アリバイを私に示してきた。」
「アリバイを示すことがそんなにおかしなことかしら。」
「アリバイを示すこと自体は全く問題はない。だが、アリバイがないことまで示す必要性は全くない。」
「アカネコくん、それってどういうこと。」
「テルとメイは、一つ目の事件に限っては自分たちにはアリバイがないと言い、二つ目の事件に限ってはアリバイがあると言ってきた。」私は足を組んだ。「カイドウなら、テルとメイの性格も含めてどのように考える。」
「このクソ双子共が。」カイドウが首を傾げる。「アリバイがないことを一々馬鹿正直にほざくとは到底思えない、かな。」
「そう、正解だ。」私は微笑む。「つまり、アリバイについて語ってきた時点で何か疑うべき、ということだ。」
「私共の言葉を素直に聞くことができないなんて、ねぇメイさん。」
「テルさん、仮にそれが嘘であったとしても素直に聞くことこそが最も幸せだというのに。」
「最も幸せなのは、相手の嘘に騙され続けることではなく、そもそも相手が嘘をつかないことだ。」私は両手を広げた。「私たちに向かって嘘をついたな。」
「嘘をつくのは人間の性ですわ。」
「それなら人間に性など必要ない。」
「人間の本質まで捨ててしまうなんて、なんと哀れな人。」
「私は人間である前に、私だ。」
「てめぇらクソ双子は所詮、人間でいて、次に双子で、それでテルとメイなんだろ。」
「いいえ、私共は。」
「テルとメイでもなく。」
四人の姿勢が自然と正される。
「ワガツマ ダイスケの娘です。」
見事だ。
そう口にしても良かったと思う。
空気を読むために生まれたのではない、空気を読ませるために生まれたのだ。だからこそ、この場にいる四人はそれぞれが誰かに迎合するような素振さえみせない。他人の顔色を伺うよりも自分の顔色を伺って生きるべきだと知っている。
「で、そこから何が分かるのかしら。」
「おそらくだが、このアリバイのあるなしは全く無意味な情報提供だ。」
「随分と失礼なことを仰るのね。」双子が同時に微笑む。
「そもそも何か情報提供が行われたとしてそれをこちらがそのまま信用するとはお前らも思っていないだろう。だが、これが何かしらの邪魔として機能するとしても致命的なものにはならない。」
「単純にこっちもそのアリバイが正しいか調査すればいいんだもんね。」
「その通りだ。結局のところ、捜査はするのだから余計な仕事が増えただけで、事件を解決するにあたっての実害が生まれたわけではない。」
「つまり私共に何が言いたいのかしら。」
「アカネコ探偵さん、何が言いたいのかしら。」
口を開くたびに時間と意味と希望が逃げている。そのことにこの双子は気づいていないだろう。
二度の敗北がたった一度の完全な勝利のための足掛かりになる。
思い知れ、ボケどもが。
「お前らは、この事件が近いうちに解決されてしまうと分かっているな。」
カイドウが私の目を見つめる。
対して、テルとメイは顔も体も全てを動かすことなく、ただ前を向いたままだった。
だが、よく見えた。
一瞬のことだ。
テルとメイ、お前らの目が。
「どうした双子。」
泳いでいたな。
「何かしらアカネコ探偵さん、ねぇメイさん。」
「テルさん。どうもありませんわ。」
それなら、そのしぐさ一つ一つ、もっと上手く隠してみろ。
バカが。
「このアリバイに関する情報は所詮、業務を増やすだけに過ぎない。つまり、ただの時間稼ぎだ。そこで時間を稼ぐことで何かしらの意味があるかとも考えてみた。それこそ、犯人の逃亡のための準備が整うことや、犯人が病に犯されていて警察に捕まる前に死ぬ可能性など、ただ、そのどれもが結局事実が露呈することに繋がる訳で意味はない。」
「そうかしら、仮にそれらの理由であった場合は、その犯人が日の光の下で、衆人の目に晒されるという未来は回避できますわ。」
「仮に回避できたとしてもその犯人以上に大切なものが傷つく。」私は一呼吸置く。「ワガツマ ダイスケが築いた、詩人としての功績だ。確かにワガツマ ダイスケが娘を大切にしていたことは事実だが、その娘たちにとっても最も重要なものが自分たちであるとは限らない。そう考えれば、このアリバイ報告は最早、少しでもワガツマ ダイスケという詩人の功績に傷を付けずに、一秒でも長く娘として存在しようとする行為でしかない。」
どんな形であれ犯人が捕まえることができなかったとしても、間違いなく真相は世間に公開される。
とどめを刺されることは確定事項だ。
「つまり、どう言いたいのかしら。」
「所詮は、できそこないの娘どもが行った三流の延命治療。」
テルとメイが大きく舌打ちをした。
感情が垣間見える。
カイドウがそれを見たかったのだ、と言わんばかりに声を上げて笑った。嘲笑であり、冷笑であり、微笑にもよく似ていた。そのどれもが目の前の相手を見下すという行為に集約されていた。
「実際、真犯人を逃がされることがあったとしても、公庄會の人員と人脈を使えばすぐに捕まえられる。」
「お前らクソ双子は終わりだな。」カイドウが手を叩く。「親父の七光りにおんぶにだっこのクソ人生だったんだろ、本当にお前らマジでざまぁねぇな。」
カイドウの笑い声が部屋の中を飛びまわる。反響し、音量を増して跳ね返る。耳の中へと納まることなどなく、すぐさま外に出ていき別の笑い声と合流、その繰り返しが延々続く。
笑い声は、全く止まらない。
「口を慎んではいかがかしら。」
止まらない。
「慎みなさい。」
止まらない。
「慎め。」
一度止まる。
カイドウが双子を見つめ。
歯を見せつける。
「うっせぇバーカ。」
一気に笑い声が放射される。
「アカネコさん、この笑い声を止めていただけないかしら。」
「黙れ。」
「は。」
「黙れ。」
「アカネコさん。」
「たいして自分たちは何もせずに親の権利にすがって生きている四姉妹に、黙れと言っている。」
「何様かしら。」
「口の利き方に気を付けろ、親の教育がなっていないからまともな言葉の一つも聞けないのか。」
「ワガツマ ダイスケを侮辱しないで頂き。」
「どうした、血も繋がっていない寄生虫が娘ぶって怒ることもないだろう。何故、他人のことで怒っているのか分からないなぁ、急にどうしたんだ。」
「訂正しなさい。」
「血も繋がっていない寄せ集めの人間たちの生温い家族ごっこだろう。」
「訂正なさい。」
「その大層な家族ごっこを我慢するだけで、遺産も名誉も相続できるわけか。」
「早く訂正なさいっ。」
「本当の親にも見放される出来損ないが必死に汗水たらして金持ちの懐に潜り込むとは大したものじゃないか。自分の能力をあげるんじゃなく、能力の高い人間にすがって生きていく無様な生き方を選べるなんて中々できるものではない。」
「黙れクズがっ。」
「良かったな寄生虫。」
カイドウの笑い声が響く室内で明らかに双子の顔色は赤黒く変色していた。弾け飛び濃硫酸のような血液が飛び散るところまで想像できる。
その後、お互い言葉が出ることはなかった。出てこないことがこれ以上ない会話として成立していた。
時間にして十分ほどだ。
笑い声の中、心理的な沈黙は長く長く続いた。
「終わったかな。」
扉が静かに開き、ココノエが中へと入ってくる。
その場にいた四人が微笑みながらココノエを見つめる。それからお互いを順に見つめた。
泥仕合を始めるにはうってつけの日であったと思う。
第三章 よく知っていることしか話さないよう心がけるべきだ フランソワ・ミッテラン
ワガツマ ダイスケ 詩集
未来予報
さびれてしまう前に誰かに会いに来ました。
とんとんとん
どなたですか。
いいえ わたしです。
はいはい 分かっています。
今 開けますから待っていてください。
いえいえ待てません。
なんででしょう 直ぐ開けます。
いえいえ 待てない待てない。
せっかちはいけません。
ごめんなさい でも開けます。
聞き分けのない子はいけません、
早く行かないと全部なくなっちゃいます。
そんなことはありません たんとここに残してありますよ。
本当ですか。
あなたのお名前も 誰かのお名前もここにはまだいっぱい残っていますから
大丈夫 だいじょうぶ
うれしい うれしい。
お名前はどこでも買えます。
あなたのおうちの近くの商店街でも売ってます。
売り切れてお店まで買われてしまう前に はやくはやく。
あなたのお名前が売れてしまう前に はやくはやく。
商店街が消えてしまう前に はやくはやく。
はやくはやくはやくはやくはやくはやくはやく。
ワガツマ ダイスケが世に広く知られるようになったのは、東京の春清水公園の案内板の裏に書きなぐられていた詩が公園の管理人によってインターネットに公開されたことに起因する。当時、ワガツマ ダイスケは自作の詩の発表の場所により多くの人の目に触れる媒体を選ぶことなく、ストリートカルチャーに近い形での発表をすき好んでいた。公園の管理人は、もともとは落書きに対する警告として張り紙とインターネッの公開を考えていたが、内容を読むにあたり少しずつそのものの価値に気が付いていったと語っている。また、その詩は定期的に消されては新しい詩に書き直されることがあったため、インターネットへの公開も定期的な業務となり、結果公園に訪れる人の数を増やす一助になったようである。
ネット上で大きく騒がれるようになったのには、この春清水公園の立地も関係している。春清水公園が位置するこの綾野区相東市には過去に多数の重軽傷者を出した安曇荘事件の核を担った宗教法人ハンジョウの本部があり、その宗教法人ハンジョウが起こした安曇荘事件によって二次被害を被り規模を縮小せざるを得なかった赤雫石の会の本部もまた位置していた。この宗教法人の対立はことあるごとに発生しており、大きく報道はされないまでも、放火によって死人が出たことや地域住民が巻き込まれるなどといったことは幾度となくあったそうである。
ワガツマ ダイスケが春清水公園の案内板に書いていた詩はその宗教法人の対立に対する遠回しな批判だったのである。
この詩、未来予報はその春清水公園の案内板に書かれた百十一作目の詩であり、詩自体の評価は公開にあたって現代詩研究の第一人者である三島 雄一や、厳島千年賞を二度受賞した現代詩の大家とされる谷地田 繁縷の目に留まり、大きくその業界内での地位を広げていくこととなる。
古びた商店街
私は場所を確認すると足を止める。同じくカイドウもつられて足を止める。
「ここだ。」
薄暗い商店街の中の錆びついたシャッター、錆の散乱した地面、よどんだ空気、無音無臭の環境、暗いイメージが付きまとうようなその要素に少しばかり安心する。
社会において自分もそのようなものであると認識しているためだろう、とそんな風に自分を分析してみる。
分析はできる。だが、できるだけだ。機構の中から部品は取り出せても、部品から機構を作り出せる人間は限られるものだ。クリエイターという職業名が定着しても、ブレイカーという職業名が定着しなかった理由がそこにある。
「前々から考えていたことがあった。」
「何。」
「オダとユズキが連絡を取れていたことだ。」
探偵事務所の所長を務めるユズキ、と公庄會の構成員オダについて既に登場している。
この場合の問題点はオダの存在にあった。
「ユズキに頼んだものがオダの方から私に渡された。」
「あの音声データのことでしょ。」
「普通、私たちでさえオダと連絡を取るのは困難だ。それなのに、なぜか今回に限ってはユズキはオダと連絡を取れている。」
シャッターの横にある店と店の隙間にある小さな通路を体を横にして進む。
服が汚れていくのが分かる。服が汚れただけで仕事をしている気になれる人間がいるらしいが、全く理解ができない。
「連絡が取れない相手と遭遇する方法はただ一つ。」私は足を進める。「運良く偶然出会うことだ。」
それは当然、故に次に考えるべきは。
「覚えているか。」
「何を。」
「オダは最近、タトゥーを彫ったと。」
「うん、確かそう言ってたよね。」
自慢げに話したその口調、声の高さ、息を吸う音、全てがよみがえる。
覚えておくべき事象だとその時は思っていなかった。今思えば、やはり覚えていなくとも問題などなかった。重要だと分かれば、頭は自然と思い出す。
「この町には歯医者があるそうだ。」
「そりゃあ、あるよ。歯医者くらい。」カイドウがそう口にしてから思い出す。「拉致した人たちも言ってたね。腕のいい歯医者がいるっていう噂。」
「この町に歯医者は幾つかある。だがな。」私は鼻で笑う。「どれもたいして上手くない。」
この噂には最初から矛盾があったのだ。
「歯医者の仕事は何だと思う。」
「口の中を見る。」
「見てどうする。」
「カルテをつける。」
「カルテをつけてどうする。」
「治療をする。」
「治療をするときどうする。」
「歯を。」
「歯をどうする。」
「歯を。」カイドウが目を大きく広げる。「掘る。」
歯を掘る。
つまり。
彫る。
「歯医者は隠語だ。本当の意味は。」私は鼻で笑う。「彫師、のことだろう。」
憶測の域は出ないが、出なくても問題はなかった。重要なのは憶測が生まれたことにあるのだ。
「でも、それって本当なの。」
「本当である必要はない。外れれば外れたという情報を手に入れればいい。」
私とカイドウは道を抜けて小さな民家の扉の前に立っていた。古めかしいものではあったがその上にはシールが乱雑に張り付けられている。
「一応、情報によると。ここが彫師がいる店だそうだ。」
「行くの。」
「こういう場所には詫状業務で必要な情報も集まる。」
情報はある一定以上集めるとそこから勝手に増殖していくものだ。問題なのはその増殖の渦中に身を落とすことだろう。
帰ってはこれないだろう。だがそもそも帰る場所などなく、今いる場所でさえ帰ってこれないと思いながら進んできた場所そのものだ。
「ここが終わったらおばあちゃんのところに行こう。」私はカイドウに微笑みかけた。「扉、突き破れるか。」
「そう言われるとはりきっちゃうな。」カイドウが微笑む。「うん、任せて。」
中にいる人間にどちらが格上なのかをスムーズに理解させる必要がある。どうしても、どうしても反旗を翻すようなら、格ではなく次元の違いまで見せつける必要がある。
カイドウの足がゆっくりと上がり、一度軽く扉を蹴る。
扉から反対の方向へと揺れた体が、体の軸に本能的に近づこうと戻ろうとする。
腕がふわりと上がり、二つの瞳は蹴るべき場所を確認して視線を切る。
地面にて体重を支える片足がまるで生き物のように回る。
捩じられているのではなく、這いまわり、そして這い続けた反動が、片足、体、肩、顔、肩、体、片足、へと戻って力なく浮いていた足の存在感が一気に膨れ上がった。
扉を蹴り飛ばす瞬間だ。
「そこにいる全員動くんじゃねぇ、ぶち殺すぞっ。」
カイドウの暴発した言葉が衝撃を加えられた扉の前で、中に飛び込もうと待ち構える。
扉がその瞬間、吹き飛ぶ。
タトゥー店 内部
「公庄會さんに話を付けずに、その、勝手に仕事やっちまって申し訳ねぇっていうか、その。」
「いや、それは構わない。前の町ではここまでのことはなかったのか。」
「あったらしいんだけども、気づかないうちにそこのシマの暴力団の幹部の人が客に来てて、俺、彫ったらしいんだ。それで、それがえらく気にいって貰えてたみたいで。」
「気づかないうちに場所代に関しては払わなくても良いことになっていたと。」
「はい、そうみたいで、でも、分からなかったとはいえ、その。」
「実際、予約表を見る限りは随分と気に入られているみたいだな。」
「なんとか、ひいきにさせてもらってて。」
腕のいい歯医者、もとい、腕のいい彫師。その噂は本当のようだ。
ここ最近の顧客表を眺めるとコンスタントに客入りがあるようだ。しかも紹介による割引サービスも行っているようで、どの客がより多く紹介しているのかをデータ化している。商売人としても悪くはないセンスを持っているようだ。
「あの、一応、個人情報なので、あんまりじろじろ。」
「見られると、なんだ。」
「あの、顧客からの信用問題になるといいますか。」
「不躾なことをして申し訳なかった。」私は微笑んだ。「データはすべてコピーして渡せ。」
個人情報が嫌いな人間などいないだろう。人間以上に社会は大好物だ。一度かみつくとそれこそ骨までしゃぶられるどころか、かみ砕かれる。
「場所代に関しては、払っていない分の超過と基本の上澄み分を含めて。」私はあくびをする。「四割から五割だな。」
「そんな、そんなに持っていかれたら。」
「たら、なんだよ。」カイドウが彫師の指を曲げる。「おい、言ってみろ。もっていかれたら何なんだよ、おい。」
彫師が顔をゆがめて息を吐く。うめき声に血が混じっているように感じる。
「すいません、すいません。」何度も頭を下げる。「指だけは、指だけは本当に、仕事道具なんで、これ、これ、やられちまったら。」
指が尚も捩じれる。
彫師が歯を食いしばる音。
「あっ。あっ。」
骨に亀裂が入る時に漏れ出る音が響いてくる。
鼻をならしうつむいて細かく震える。
「おっ。おっ。おっ。おおおっ。」
男の顔が紅潮する。だが、カイドウは決して手を緩めない。
私は部屋に入ってからつなげたままの携帯電話を耳に近づけた。
「イデ、聞こえているだろう。うちに場所代を払っていなかった彫師を見つけた。」
「聞こえています。詫状業務中にも関わらずありがとうございます。」
私は一方的にこの店の住所を告げた。向こうからはイデのキーボードを叩く音が聞こえてくる。
「この店の存在を確認はしていたんだろう。」
「はい、ですがもう少し泳がせて売り上げを重ねてから場所代の請求に向かうべきと考えていました。」
「少しでも超過請求する分を増やす気だった、と。」
「否定はしません。」電話の向こうから今度は何かを書く音が聞こえる。「否定をしないからといって肯定している訳ではありません。」
「オダがこのタトゥー店に通っていた。」私は顧客情報の中からオダを探し当てて指でなぞる。「場所代を払っていない店だとは気づいていただろう。それでも公庄會に報告するようなことはしなかった、と。」つい、笑ってしまう。
「面倒、だからでしょう。」
「面倒、だからでしょう。だろうな。」
「面倒、を嫌います。オダは。」
「面倒、を嫌います。オダは、特にな。」
「失礼します。」
それで終わり。
電話は終わり。
遥か遠くで霧散する音声に称賛を与えたい。
オダの思考はやはりよく分からないものだ。だからこそ、やはりオダらしいとも言えるのである。
「電話はどうだった。」カイドウが彫師の指を捩じったまま尋ねてくる。
「報告は終わった。特に何もない。」私は顧客名簿を眺めていて予想していた名前を見つける。「やはりユズキが来ていたな。」
「へぇ、ユズキくん、タトゥー彫るんだね。」
「いや悪ぶって来ていただけだろう。仮にやったとして。」
「ヘナ、シャグアかな。」
「ヘナだな。聞きなれない言葉に怯える確率が高い。」私は彫師に顔を近づけた。「秘密にしていたのは、家政婦のウラタにタトゥーを彫ろうとしたことをきづかれたくなかったんだろう。私たちがこのことに気づいたらウラタに喋って、無用な心配をかけることになるかもしれないからな。」
「でも良い歯医者がいるっていう噂は話してくれたって、前にアカネコ君が教えてくれたじゃん。」
「いずれ私たちの耳にも入る噂だ。あの場所で言わない方が逆に怪しまれる。」
「なるほどねぇ。」カイドウが頷く。「ユズキくんのためにもウラタさんには秘密にしてあげようよ、ばれたら可哀そうだし。」
「だが、当然のように秘密にするとユズキも気を遣うだろうから。」私は神妙に頷いておいた。「これをネタにユズキを脅迫してあげよう。」
「そうだね、顎で使ってあげるくらいしてあげないと逆に失礼だもんね。」カイドウが微笑む。
「仲間に弱みを掴まれるとどうなるのか、身をもって伝えなければな。」私も微笑む。「自分でも嫌になるくらいのお人よしだな、私たちは。」
改めて店内を眺めると民家をほぼそのまま使っているような感じではある。注射器や消毒液、ガーゼが整然と置かれている。固くしまった風合いの鼠色をしたラックの高い場所には雑誌、置物、本、置かれているものの中にはワガツマ ダイスケの詩集が五冊以上はあった、店主はワガツマ ダイスケの詩でも気に入っているのだろうか。逆に手を伸ばしにくい低い場所にはタトゥーに必要なインクが並び、数はゆうに五百を超えている。
インテリアの雰囲気からも良い店、というのが分かるし、わざとここが良い店である、と分かるような内装にしている。
「指。あの。指っ。おっ。おお。」彫師が鼻息荒く充血した目でこちらを見つめた。
睨んでいるようにさえ見える。余り良い見た目ではない。
ヤクザも暴力団も怖がりであるため誰かに睨まれることが嫌いだ。嫌いだから。
「そういう睨んでくるような目玉は引きちぎるようにしている。」
彫り師が急に眼をそらした。指が仕事道具なのではなかったのか、目玉も仕事道具と最初から言えばいいというのに。
公庄會への報告や余剰的な情報の精査は終わった。次は当初の目的へと話は移行する。物語は移り変わるし、当然次の段階へ進むための道を模索する必要がある。
結局のところはこの一つだ。
この顧客の名簿の中に事件関係者がいる可能性、である。
正直、情報が手に入ることについて、期待はしていなかった。
今日までに、このようなアンダーグラウンドな商売をしている店をそれはそれは品よく襲撃してきた。だが、顧客情報を洗っても目ぼしい名前はいなかった。
先ほどから捲る紙媒体の顧客情報とデータ媒体の顧客情報、片方にしか載っていない名前も両方に乗っている名前もある。片方にしか名前がないのは紙ベースのものをデータへと打ち直している最中だったためだろう。
データの方は最近の情報が多いので、そんなあたりをつけてみる。
当然、この店に訪れていなければ両方に載っていない名前もある。
と、当たり前、かつ、分かりにくい、冗談を頭の中に生み出してみる。
「あの、あれですか。」彫師が目を合わさないようにして話しかけてくる。「あの、首を噛みちぎられたり、刺されたり、首絞められたりしている事件がありますよね。あれ、なんか調査してるとか、そういうことですか。」
「そうだ。」私は少しだけ見やる。「察しが良いな、もっと察しよくすればその指の痛みも和らげてやってもいい。」
「あっ。じゃあ、じゃあ。」彫師が目を輝かせる。「あのっ、最近刺されたフジサキとかいう女、あれは昔のうちの顧客でそれで。」
「何を彫った。」
「蝶々を。」
「どこに。」
「足の甲です。」
「大きさ。」
「親指くらいです。」
「デザインは。」
「小さいけど結構緻密に彫りましたけど。」
「フジサキはここに載っているのか。」
「いや、それよりも前の情報なんで。」
「いつだ。」
「確か、二年か三年だと。」
「二年以上前か。」
「はいっ、それです。それで間違いないです。」
二年以上前のことだ。
フジサキは蝶々のタトゥーを足の甲に彫ったそうだ。
「それに。」
「なんだ。」
「いや。フジサキだけじゃなくて。同じタトゥーを彫った客がもう一人。」
「性別は。」
「いや。」
「年齢は。」
「その。」
「フジサキとの関係は。」
「あ。それで。その。」
「てめぇよぉ。」カイドウが口を開く。
カイドウが大きく舌打ちをし、彫り師の顔に唾を吐きかける。眉間に酔ったしわが痙攣し、瞳の中の黒がより深く染まっていく。
「違うんですって、だから。」
彫り師がカイドウと折れる寸前の自分の指を見つめる。わざとらしいほどの呼吸音が部屋を響いて、少し音が揺れている。
「その客も、その、フジサキなんです。」
「おい。」カイドウが彫師を殺す様に静かに眺める。
私は耳をそばだてた。
重要な情報であると聞く前から理解することができた。
「フジサキは自分の娘を連れてきて、そのガキにも自分と同じタトゥーをって。」
フジサキには娘がいたのか。そして、その娘にはタトゥーという形での物理的なつながりがあったのか。
親が子に求める限り、それは虐待と呼ばれる。子が親に求める限り、それは甘えと呼ばれる。
「てめぇ彫ったのか。」カイドウの体に力が入るのが分かる。
彫り師が目を背ける。
私はため息をついた。現実から目を背けても、現実の方は目を背けてはくれないものだ。人生における意味のない行為のかなり最上位の行動だろう。
不憫、だとは思う。しかし、それ以上の感情は生まれない。
生まれる余地、それすらない。
「その娘の名前は。」
「いや、さすがに娘の名前までは憶えていなくて。その、申し訳ないんですけど、それ以上のことは。」
知る訳ないな。
「それと、もう一つ聞かせてもらいたいんだが。」
「な。何でしょう。」
「言葉は、いや。」私は男の目を見つめた。「神は死ぬのだろうか。」
自分でも驚いた。
この質問は何故私の口から出たのだろう。
「あの、神がなんですか。今、なんて。」
「いや、なんでもない。」私は首を振った。
「アカネコくん大丈夫、疲れてるんじゃない。」
「いや大丈夫だ。後は頼む。」
「でも。」
「大丈夫だ。」
カイドウが私のことを静かに見つめる。
「そう。」
店内に小さく音楽が流れていたことに気づく、ひと昔前の曲のカヴァーだった。
「そう。」
骨にひびが入る。
ワガツマ ダイスケ 詩集
見えていない
ウーウーウーウーウーウーウーウーウーウーウー
ウーウーウー
ウーウーウーウーウーウーウー
あのビルの向こう側にはビルがある
そのことを知ったまま
キーボードを叩く
音だけが不感症
反響した音はまるでビルとビルの間を縫う子猫
夜明け前だから大丈夫と言わないで
見えていないから分からない
明日は見えない
だから明日が分からない
見えないものにあふれ出る。見えないからこそ湧き出る
無限が見えない
見えないから無限
あなたとあなたを見ていないのに
あなたとあなたのことなんて分かる訳もないのに
紅いハンカチ ポッケにしまう
すこし叩いて ほら 元通り
おや、大丈夫ですか そこにいると風邪をひいてしまいますよ。
風邪は見えないから 風邪じゃないかもしれませんよ
聞こえないから無限
遠くで鳴るのは何の音ですか たぶん サイレンですか
紅く発行 金色の最小値 鋼鉄の砂上
どれでもいい
サイレンの音しか見えないから サイレンに似た何かだと思われたから
食傷気味の教授費用を鋼鉄製洗浄機に演繹法で接近計画準備中
未だ
撃て ない
この詩、見えていないはワガツマ ダイスケが春清水公園の案内板の裏に書いた丁度五百作目の作品である。その頃には詩人としての地位も確立していたもののライフワークとなっていた案内板の裏に詩を書くことをやめる気配は一切なかった。それはワガツマ ダイスケという人間が世に知られた場所であり、社会的に産声上げた場所であるということ以上にその場所で日々起きる宗教法人同士の対立に少なからず触れたことがある者としての責任感であったと推測できる。
ある時期のワガツマ ダイスケのでは宗教法人ハンジョウの起こした安曇荘事件への痛烈な批判が明確に展開されていた。対する宗教法人赤雫石の会はその詩をホームページに載せ、本部の前にその詩を書いた横断幕を張るなどしてネガティブキャンペーンを展開していった。だがそれを知ったワガツマ ダイスケは自分の著作物を許可なく使ったとして赤雫石の会を提訴し、しかもその後は宗教法人ハンジョウを批判した作品数と全く同じ数で赤雫石の会も痛烈に批判していくこととなる。
実際、そのころではワイドショーなどでもワガツマ ダイスケが書いた詩が二つの宗教法人の関係に影響を与えるようなものであるとこぞって時間をとって報道しており、ハンジョウ、赤雫石の会、ワガツマ ダイスケの三つのうねりが春清水公園という小さな憩いの場ででどう動くのかを日本中の人間が注視していたことは言うまでもない。
このことに快く思っていなかったのは当然、互いに犬猿の仲であった宗教法人ハンジョウと赤雫石の会であった。ワガツマ ダイスケを敵とすることで関係を深く結び合うわけでもなく、それぞれの組織はワガツマ ダイスケに詩を依頼した出版社や好意的に報道した放送局などへ批判的な内容の投書を大量に送っていたそうである。
駄菓子屋
「あれはねぇ、サイレンなんかじゃないねぇ。」
私とカイドウはよく訪れる駄菓子屋の前のベンチに座っていた。
木造建築でひびの入ったガラスをテープで止めている。そういうお店だ。古めかしく、誰かの思い出の中にある駄菓子屋をそのまま目の前に作ったかのような不自然ささえ感じる。まるで、どれだけ時代を遡っても誰かの思い出の中にしか存在していない物体、もしくは、個体、それか異形だ。
自分が汚れていることに気づかせてくれる場所はありがたい。それだけで存在価値がある。
「あの、町で聞こえてくるとか言われてるサイレンのことだよね、おばあちゃん。」
「そうだよ。」
「そう、か。」私はラムネを開けて口を付ける。「教えてくれてありがとう。」
この店に最近来たのはカイドウの元にラムネを持って行った時だ。
ラムネの調達のためにこの駄菓子屋に入り二本買った。
その時は急いで来たので、この駄菓子屋の店主である、おばあちゃんにも合わなかった。ただラムネを二本手に入れ、見えるところにその代金を置いていって店を後にしただけだ。
「そういえば、ラムネの代金を置いて行ったけれど。」
「うんうん、ちゃあんと分かってるよ。」おばあちゃんが頷く。「むかしっから二人はお店に遊びに来てくれてるからねぇ。いいんだよ。ラムネの二本や三本なんて、ひょいっともってっちゃっても。」優しく笑っている。
「ありがとう、おばあちゃん。」私は軽く頭を下げた。
「でも懐かしいねぇ、アカネコくんのお父さんがお亡くなりになって。」おばあちゃんは少しばかり目を細める。「それからだろう。二人であたしんとこの駄菓子屋に来るようになったのはねぇ。」
確かに懐かしい限りだ。
そうやってこの駄菓子屋で、被害者の息子と加害者の娘は、子供と子供になることができたのだ。
おばあちゃんとラムネと駄菓子屋か。
あの時も今もこれからも、私とカイドウの間を結んで、離れないようにしてくれる。離れてしまうかもしれないという心配を抱えたとしても、その心配を肯定してくれる。
「ちゃあんと、カイドウちゃんはアカネコくんの面倒見てあげるんだよ。」おばあちゃんはカイドウの背中を優しく撫でた。「アカネコくんも男の子なんだから、分かってるね。」冗談半分のように頭を軽く叩いてきた。
「はい。」
私は嬉しかったので、尚も嬉しくなりたいと思った。
当然、私とおばあちゃんの間にもカイドウとおばあちゃんの間にも、血は繋がっていない。けれど、仄かに甘く細かい泡が立ち上る澄んだ雫で繋がっている。そして、繋がっていたいと思える。
私はこんなにも純粋で爽やかな人間だったかと錯覚してしまう。勘違いを振りほどくように首を左右に振った。ここが、暴力団が長居すべき場所なわけがない。
「あのサイレンを直接聞いたんだよね。」カイドウがラムネを片手にベンチの上を横へ移動する。「じゃあ、サイレンじゃなかったとして、あれってなんだったの。」おばあちゃんに横に座るように視線を送る。
「そうだねぇ。」おばあちゃんは腰を触りながら静かに座った。「叫び声だねぇ、女の人の悲しいうなり声みたいに聞こえたけどねぇ。」
「人の声だと思うんだ。」
「そりゃあそうだよ、あれは人の声だったよ。あの音を夜中に聞いた人はみんなそう思ったんじゃないかねぇ。」少し悲しそうな表情をしていた。「サイレンみたいに聞こえたのか、その女の人がサイレンの真似をしたのか分からないけれども、おばあちゃんには少なくともそう聞こえたよ。」
「それでもサイレンが鳴ってたっていう噂が広がってて、誰かの女の人の声だっていう噂は広がってないんだよ。」
「もちろんおばあちゃんだって絶対に女の人の声だって言えるわけではないけどね。」微笑みながら頷く。「でも、あれは女の人の声だよ、遠くに向かって呼びかけてる声だったねぇ。誰かを呼ぼうとしているのか、それとも自分が危険だと周りに知らせているのか、そんな感じかねぇ。」
サイレンは人の声であり、その声の主は女だそうだ。
わざわざ言葉にし、思いにする必要はないが、おそらくワガツマ家の誰かではあるのだろう。
呼びかけた相手は、今は亡きワガツマ ダイスケで、知らせようとした人間はこの町全員なのか。
自分で自分を制御できていなかったと自覚があったのか、いわゆる半狂乱というやつだった可能性はある。確かに誰かの首を噛みちぎるなど、冷静な目的か異常な精神のどちらかか、その両方を持っていなければできないだろう。狂っていることを自覚している人間は多く、それ故に狂い続けることを冷静に選択している。それは俗に社会人と呼ばれ、大人とも名付けられる。
無意味な前置きとして、常識、という範疇にのっとればということでしかないが。
「首吊り、は今でも怖いかい。」
おばあちゃんの言葉が私の胸に染み入る。カイドウもそうだろう。横目で見えたカイドウの瞳でそう確信する。
ワガツマ テルとワガツマ メイに、首吊り、という単語を吐かれた時とは違う感覚になる。暴力的であるとか攻撃的であるとかそういうものではなく、むしろ口に出してほしくなる。そして、より優しく鮮明に形を明らかにしてほしいとさえ思う。
私は塩を塗り込まなければ怪我にも気づけない患者に成り下がっていた。体は軽く腐っていた。妙に笑えた。
いいのだ、これで。
この方向は正しいはずだ。
言葉が人に優しいことなどないのだ。言葉は常にどのようにでも解釈されてしまう。例え、ありがとうと口に出しても、嬉しいと思う人もいるだろうが、皮肉に思う人もいるだろうし、その発言の真意を理解できずに困惑する人もいるだろう。
言葉を発信する人は一人でも、それを受信する人間は数多くいるのである。それぞれがそれぞれにとっての解釈で言葉を認識するのだからそのような事態は起きるだろう。だが、その可能性を減らし、発信者の思ったままの優しい言葉で理解させる方法がある。
それは、優しい言葉を、優しい声と顔で、優しく伝えることである。
言葉を口に出した人が優しい限り、言葉は必ず優しくなるのだ。優しい人が言葉を使うなら、その言葉に宿る神も優しいのである。
おばあちゃんは、そんな単純なことを目の前でいとも簡単にやってのけた。
さすがおばあちゃんだ。
「どうだい、首吊は今でも怖いかい。」
私はゆっくりと静かにうなずいた。
「今でも怖いな。」
「うん、怖いよ。」カイドウもうなずいた。
おばあちゃんは私とカイドウの言葉を聞き、少し安堵したような表情をした。正直に口に出してくれたことが嬉しかったのだろう。
「おばあちゃん、思うんだけどねぇ。」声が丸く、日向のように温かくなっていく。「首吊り、のことを本当は二人とも怖いと感じてないんじゃないかって。」
私とカイドウの目が合い、ゆっくりとおばあちゃんの顔へと移動する。
おばあちゃんは軽く目をつぶっている。
「それでね、本当は二人とも、もう怖くないってことに気づいてるんじゃないかねぇ。」
怖くない。
何も恐れていない。
ただ、畏怖はしているが。
「本当に恐れているのは、言葉、なんじゃないかねぇ。」おばあちゃんは息をゆっくりと吐いた。「首吊り、は確かに怖い過去だろう。でも、それを忘れることは悪いことじゃあないんだよ。過去を抱えて生きていかなきゃいけないと思わなくても、人間、過去は抱えなければ生きていけないからねぇ。忘れてはいけないと思いながら過去と向き合う必要はないんだよ。」
ありがとう。
でも、それは私とカイドウも何度も思ってきたことのうちの一つ。
できるかぎり、そうでありたいと願ってきた。
「おばあちゃんの独り言に付きあってくれてありがとうねぇ。」
「いや勉強になった。本当にありがとう。」
「うん、あなたが不幸にならなくても誰も責めたりしないよ。」
私が私を責めてしまうのだ。でも、その言葉は身に染みた。
ラムネはいつの間にか空になっていた。
「そうかな。」
「大丈夫、おばあちゃんがなんでも全部許してあげるからね。」
中のビー玉が音もなく転がってガラスにぶつかる。触覚だけが手に残ってするりと落下する。
落花、する。
「アカネコくん。」カイドウが少しうつむきながら口を開いた。「そろそろ、他のことの捜査にも動かないと。」
そろそろここから出なくてはならないと思うと、急に長居したくなるものである。何の気なしに少しでも時間を延ばそうと、返事を保留にして携帯電話を取り出した。意味もない、ただの指遊びだ。ここまでの捜査の憂さを晴らす様に知っている単語を次々と打ち込んでいった。本当に意味も生まれない行為である。
暗く輝く鳴く四角、ワガツマ ダイスケ、神秘的、貴友会と単語が並んでいく。
一度自分で打ち込んだはずの文字を改めて眺めると不思議と自分の手から離れた子供のように見えた。そして、私の意思から離れたその子供は今になって何もかも知っているのだと平気で告げた。
そう、そうなのか。
そういうことなのか。
ということは。
ということは、つまり。
「これ、なのか。」
畢竟。
「そうだな。」私は立ち上がる。「おばあちゃんありがとう。」
しわがれた手が左右に揺れ、私とカイドウも歩きながら笑顔で手を振った。
この日から二十三日後のことだ。
おばあちゃんが亡くなった。
癌だったそうだ。
ワガツマ ダイスケ 詩集
くの字
くくくくくくく
くくく
みんな優しく教えてくれる
くく
笑い声
おすまし
お楽しみ
くくくくくく
く
くくくくくくくくくくく
色々教えてもらって
すこしびっくりすることもあって
でもでもいっぱいお手伝いしてもらえるから
すっごく嬉しくて
くく
く
くくくくくくくくくくくく
くく
くくくくくくくくくくくくくくくくくくくくく
ワガツマ ダイスケの五指が切断されたのは、くの字という詩が発表された後であったとされている。正確には右手の人差し指、中指、薬指が第二関節まで、親指が第一関節まで、小指に至ってはすべて切断されていた。
ワガツマ ダイスケが厳島千年賞を受賞し、その帰り道に拉致されたことは彼の口からも
語られている。だが、以降のことについて彼は固く口を閉ざしている。報道の通りであれば授賞式典のあったヴェテノアモールホテルから二十五キロ離れた四ノ宮市の病院に自分から入ってきたそうであり、その手にはコンビニのビニール袋の中に切断された指の先が無造作に入っていたという。
手術によって奇跡的に一命はとりとめたものの切断された断面の損傷が激しかったことと、時間の経過も相まって縫合は不可能という判断になり、ワガツマ ダイスケは五指すべて失うこととなった。
マスコミは宗教法人の凶行として取り上げ、ワガツマ ダイスケの詩人としての生命線を断ち切ろうとした愚行として批判的な報道を繰り返した。対して宗教法人ハンジョウと赤雫石の会は揃って自分たちは無関係であると主張、警察もその二つの組織に焦点を絞って捜査をしたが怪しげな車の目撃情報やそれらしい証言はあっても決定的な証拠が見つかることはなかったとされている。
それから一週間以内にまたも残った指で新たな詩を書き上げたワガツマ ダイスケは春清水公園に今度は紙という形で案内板に新作の詩を張り付けたが、その内容は批判的な姿勢を崩したわけでもなく、かといって過剰な激しさもなく、身に起きたことへのありのままの感情でもなければ、かえって陳腐な冷静さもないものであった。
五指をなくしたとてワガツマ ダイスケは何一つ変わらない姿勢で詩を書き続けたのである。
そのすぐ後にテレビの生放送に呼ばれたワガツマ ダイスケであったが彼の詩の内容が招いた事件でもあったこともあり、インタビューの大半は釈明と謝罪によって費やされるであろう、というのが大方の見方であった。女性キャスターからは一連の事件についての質問がとび、ワガツマダイスケはこのように語る。
指を五本切り取られて本当に運がよかった。
首を一本切り取られていたら、今頃あなたのようなきれいな方とお話もできていない。
続いてこう語る。
私には彼ら両宗教を否定する気も、ましてや宗教そのものを否定する気もありません。
私も含めて。
彼らもまた信仰の被害者なのです。
このインタビューによってワガツマ ダイスケという存在に人々が魅了されていくのは、最早必然であった。
公庄會 中庭
ここに、カイドウはいない。
また喧嘩別れであるとか何かがあったわけではないのだ。ただ、少し距離を取ってお互いこの事件について考えてみようということになった。
実際はその必要性などは全くないのだが、ただ一人で考えてみたい、と願った。そして、その願いを敏感にもカイドウは感じて自分から昼食を食べに行ってくると言った。いつもは誘うのに私のことは誘わなかった。
捜査のために幾つか周り、その途中で公庄會に戻ってきた。
時間にして、二時間ほどだ。
中庭は綺麗に整えられており、外でありながら清潔さを感じる。どの程度かと言えば、手で触れば指紋が残ってしまうことを危惧させるほど、というところだろう。
外の空気が鼻を通る。
腹へと溜まる。
瞳が乾き、風邪が眼球の形状を思い出させる。
長いベンチが目に映る。
そこへと丁寧に座ると背筋を正した。体を曲げて座るよりも遥かに疲れないような気がした。頭の中が純化していくような感じがする。感じがしただけで実際にそうであるかのように錯覚する自分の簡易な構造に驚いてしまう。
ベンチは四人ほどが座れる。
私は左端に座っていた。
右端には、気が付くとイデがいた。
「お疲れ様です。」イデが冷たく丁寧に言葉を吐いた。「タトゥーの店の件はありがとうございました。なんであれあのような形で処理してくださってありがたかったです。」
「私もカイドウも助かった。」
最近、イデと話す機会が格段に増えたと思う。詫状業務であるとかそのようなものとは別に繋がりが生まれている気がする。
イデはどうして公庄會に来たのだろう。
今まで疑問にも思っていなかったイデという存在の過去と現在と未来。
「イデ、少し聞きたいことが。」
「ワガツマ テルが逮捕されました。」
一秒。
息を吐いた。
三秒。
止める。
一秒。
息を吸った。
「そうか。」
悲しくはなかった。
「はい。」
事実だそうだ。
「どの事件だ。」
「二つ目の事件です。」
「テルとメイは画廊にいたと言っていたが。」
「その画廊の名刺は。」
私はテルとメイに渡された画廊の名刺をイデへと渡す。不思議と数年ぶりに手にしたような感覚があった。
「ワガツマ ダイスケが生前懇意にしていた画廊があったと聞きます。」イデが名刺を返してくる。「死去した際にはすべて美術館に寄贈したそうです。」
画廊を経営する者はワガツマ ダイスケに恩義を感じ、そしてその娘たちにその恩を返したのだろう。得てして芸術で繋がった者たちというのはそういうものだ。というよりも、そうにしかなれないのだ。
テルとメイのアリバイは崩れた。
「首吊りが起きた第二の事件の現場で証拠は出てこなかったのですが、あの周辺でワガツマ テルに関する証拠品が出たようです。」
「事件に関係するもので、証拠品以外のものが出てくる方が難しいだろう。」
イデが沈黙して表情を一切変えずに私を睨んだ。言葉をいじって少し遊んだことは謝るがそこまでだ。
「毒です。死に至らしめるようなものではなく、体を動かなくさせる程度の。」
「男一人の首を吊らせるための。」
「肉体的な差を埋めるために使用したものかと。」イデは顔を前に向けて元へと戻してしまう。「微量だったため時間はかかりましたが、被害者の体から。」
「検出された毒と一致でもしたか。」
二つ目の事件はこうして終わりを告げた。
犯人はワガツマ テルだそうだ。
私が考えたことは二つだ。
一つ目は驚きである。これは犯人がワガツマ テルの単独犯であったことを指している。私としてはワガツマ テルとワガツマ メイの二人による犯行であると考えていた。
「そう考えると。」イデが目だけをこちらに動かしてみせる。「第一、もしくは第三の事件の犯人は。」
「メイ。か。アン。か。ヨスミ。」私は鼻で笑う。「になるだろうな。あの仲の良い四姉妹が一人に犯人という大役を押し付ける訳がない、できるかぎり全員で持ち回りにしていると考えた方が自然だ。」
ワガツマ テルが犯人であるということが分かり、二つ目に私が考えたことがある。
正直、非常に運が悪いと思った。いや、運がよかった試しもないが。
これは事件の犯人が分かったもののあくまで二つ目の事件であったことを意味している。当然だが、詫状業務の対象としている事件は首を噛みちぎられた第一の事件のみだ。それ以外は関係がないものだ。
他の事件はあくまで第一の事件を解決するための手がかりと認識しているに過ぎないのである。
まだ第一の事件を警察よりも先に解決するという機会は残されている。ただし、ワガツマ テルが第二の事件の犯人であるということが確定したこの状況では、解決は早まるだろう、が。
「第一の事件ですが、あちらの方ではワガツマ テルとメイにはアリバイがありますので事件を起こすことは不可能です。」
「ありがとう。」私は小さく言葉を吐いた。「間違いないんだな。」
「最初の情報は警察からのリークですので信用度は高いでしょう。それに比べると今の情報はあくまで公庄會による組織捜査によって分かってきたことです。」
「そもそも、警察が信用できないんだがな。」
裏を返せば、公庄會に協力するほど信頼のおける警察組織、とも言える。
「私たちのために動いている人間が公庄會の中に何人かいるとはな。」
「あくまで他の業務にあたっている最中、偶然、その情報を得ることができたに過ぎません。」
いや、本当だろうか。
実はもっと前々から分かっていて情報を小出しにしているだけに過ぎないのかもしれない。イデに、ココノエに測られているような気さえする。
余り考えるべきではないが、頭のどこかにその破片が突き刺さる。抜ける気配はなかった。
「それと、これを。」イデが四つに丁寧に折られた皺だらけの紙を取り出し、私に向かって出す。
私は紙を受け取り、それをゆっくりと広げる。紙質はいたって普通のものだ。特別感はなかった。
広げられた紙の真ん中には癖の強い字で、大きく三文字書かれていた。
「ねのは。」
紙の真ん中には、ん、と一文字だけ書かれていた。
「偶然、ワガツマ邸の前を歩いていた時に窓から落ちてきたものを拾っておきました。」
「どちらの窓だ。」
「それは。」イデが少し間を置く。「どのような意味で。」
余り良い質問ではなかったか。
聞いても納得のいくような答えは返っては来ないだろう。それよりも、今手の中にある紙とそれを運んできたイデに感謝をするべきだ。
前に、あのワガツマ邸の前で手に入れたのは。
おか、と、あい、だ。
そして今回、イデがくれた紙には、ねのは、と書かれていた。
根の葉か、それとも、根の歯か、それ以外なのか。
またも、ここには言葉が生まれ、私たちは言葉に踊らされている。
誰かが言葉を使って私たちに何かを告げるのはおそらく伝えたいことがあるためだ。そして、そのために言葉は人の手によって生み出された。
けれど、この言葉を書いて私たちに手がかりのように渡してくる、アン様の気持ちを汲み取ることはできていない。意思疎通のための言葉であるはずなのに、むしろ意思の疎通ができず、そして意思の疎通ができていないということを前提に言葉を投げかけてきているとさえ思う。
自分を理解させるための言葉を、むしろ、理解できるわけがないという思いの元使ってきているようだ。
最早、拒絶だ。
これも、言葉なのだろうか。
誰かと分かり合うために生まれた言葉は、いつしか誰かと分かり合えないようにするためにも使われるようになった。それは人間が道具を上手く使うことのできる動物であったことで生まれた、言葉の裏技的な使い方なのだろう。
だが、言葉の本来の使い方からは、少なくとも遠のいたのだ。
言葉は人間の手によって進化したのだろう。それは退化と同義であった。
「言葉は神であり、神はいつか死ぬのだそうだ。」私は不意につぶやいた。
「ワガツマ ダイスケの言葉です。」イデが淡々とそう言った。
「知っているということは、これは有名な言葉のようだな。」私はイデの方を向いた。「どう思う。」
イデが息を吸い、胸が膨らんだのが分かった。
「言葉は神ではありません。」
風が吹く。
「言葉は言葉です。」
イデが少しだけ私に近寄ったような気がした。
気がしただけだったが、少し嬉しかった。
「この紙をありがとう。何か事件の解決のきっかけになるかもしれない。」私は紙を見つめながらそう言った。「ありがとう。」
「いえ、偶然です。」
「偶然、私たちにとって有益な情報を得てくれて感謝する。」
「いえ、偶然です。」
「ではその偶然を引き寄せたことに感謝する。」
「いえ、それもただの。」イデがこちらに冷たい視線を向ける。「偶然です。」
ワガツマ ダイスケ 詩集
過去予報
本当は最初から知っていて 最初から知られてしまうことなんて知っていて
一切合切すべて知っていて だけれど知られていることなんて知らないふりをして
強がっていることを知っていて 強がらされているということまで知っていて
それでも知らないふりをしていることまで知っていて
知ろうとしていた
知らないなんてことはもう知らない
ずっと知ってたし ずっと知ってたことだから
知らないなんて言わせない
気づいていないくせに知らないって言葉でごまかすあなたのずるさを知っていて
あなたはやっぱり知っていて
それでも気づかないなら
あなたはたぶん何も知らなくて
嫌というほど見てきたのに何も気づかされていなくて
どんな言葉だって知っていて
ひらがなも
きごうも
知っていて
そのくせ
それなのに
知らなくて
知っていてのふりをしているくせに知ってないくせして
なんにも知らなくて
ワガツマ ダイスケが世間に高く評価されたものの模索期に入り、表舞台から姿を消してもなお世間がワガツマ ダイスケを英雄視する一方で宗教法人ハンジョウと赤雫石の会は次第に勢力を失っていった。これは決してワガツマ ダイスケの行動が両宗教に致命的な一撃を与えたということではなく、それよりもはるか前から内部分裂の兆しはあったようである。警察も弱体化したこの機を逃すまいと強制捜査を行い、教団内部から違法薬物や犯罪教唆などを示す指示書などを大量に発見し幹部数人と教祖を逮捕、結果両宗教は解体となった。これはワガツマ ダイスケが模索期に入って四年が経過し、養女をもうけ模索期を抜けた時期とほぼ同じであった。
ワガツマ ダイスケの書いたこの詩、過去予報であるが、これは警察が両宗教に強制捜査をした日に合わせてワガツマ ダイスケが春清水公園に公開した詩である。両宗教の解体後に同じニュース番組の生放送に呼ばれたワガツマ ダイスケはこう語っている。
私には今、四人の養女がおり家族として生活しています。
宗教も同じでしょう。
宗教もまた心のよりどころを失った人々のための家族だったのだと思います。
ですので。
家族をテーマにし、私の愛する娘たちのために書いた詩、暗く輝く鳴く四角、を春清水公園で公開する最後の詩とさせていただきます。
そして。
宗教法人ハンジョウ、赤雫石の会。
この二つの偉大な家族のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
ワガツマ ダイスケがこのようにして宗教法人に対して恨みを持つことがなかったのには、彼が孤児院の劣悪な環境下から出るきっかけとなった身元引受人の夫婦がクリスチャンであったことに由来する。また、ワガツマ ダイスケ自身がクリスチャンではないことから夫婦は彼に宗教観を押し付けなかったことが分かる。このことが、度量の広さや、否定ではなく変化を重要視する姿勢こそが宗教の本質であるという彼の哲学を作り出したと考えられる。
今でもワガツマ ダイスケの行動や考え方に否定的な意見も多くみられるが、このインタビューの最中に見せた、左右非対称の指で合掌する姿には何とも言えぬ感動を覚えてしまう。彼のファンが数多くいることや尊敬し師と仰ぐ詩人や政治家などがいることも決して不思議ではなく、自らの五指を失っても詩人として生涯を終えた生き方は決して真似できるものではない。
ワガツマ邸 屋上
「警察が来ましたわ。」ワガツマ メイがつぶやく。「テルさんが連れていかれました。」
「そうか。」
屋上に来たことなどなかったが、正直想像通りだった。
青い空の下に小さな床が広がっており、少しひび割れている。背の低い手すりに囲われ、隅には草木を確認できる。見たこともない花が咲いていた。何の手入れもされていないのに美しく、何の手入れもされていないが故に拙かった。
「何かワガツマ邸に御用かしら。」
風が吹いて言葉は流れた。
当然、屋上に壁はないのだが、どこから吹いてきてもいいというのに一方向からしかやってこなかった。遠慮でもしているのだろう。自然が人間に譲歩するようになればそろそろ地球も終わりだ。滅亡する日が分かったらカレンダーにでも書いて人生初のパーティーでもするとしよう。
「テルが逮捕されたのはわざとか。」私は首をひねった。
沈黙がふわりと流れる。
「もちろんわざと。」メイが振り返る。「そう言いたいのですけれど、残念ながら。」
それはそうだろう。
「詰めが甘かったな。」
「そう思いますわ。」微笑みの裏に別の感情があるようには見えなかった。「殺人に関しては当然、誰しもが素人、というものでしょう。」
仮にこれが嘘であったとして何か意味があるのかと問われれば、意味などなかった。ただ、どこまでワガツマ四姉妹の計算の内なのか気にはなっていた。私なりに逮捕されることのメリットを考えてはみたが、難しいものだ。それならば、ある種のこの勝負における棄権、と解釈するべきと思ったがそれも腑に落ちなかった。
ただのミス、か。
何故だろうか。
私はこの四姉妹を人間以外の何かとでも思っていたのか。
人間は合同ではない、しかし相似である。
「何故、毒の処理をしそこなった。」
「テルさん。」メイがうつむいて微笑む。「緊張、なさっていたんじゃないかしら。」
お互いの口から何気なく声が漏れた。
少しばかり笑いが混じっていたようにも思える。
最初からこうして始まっていれば。
ただの二人組のヤクザと豪邸に住む四姉妹として会っていれば。
「話をしたい。」
「勝手になさって。」
お互いの記憶にすら残らず、格下のクズと無知なカスで終わっていただろう。
今まで、ワガツマ邸の中で話していたのに、今回は屋上へと案内された。
意味のある会話が行われると分かったのか、それとも意味のある会話をしようと思っていたのだろうか。何にせよ、雰囲気も目的も方向も違う話し合いになることは察していたようだ。
「そういえば、カイドウさんは。」
「下にいる。」私は頭を掻く。「会ったらお前のことを殴りそうだから、今はやめておくと。」
今は、という所に本質があると思う。
「カイドウさんが、誰かを血まみれになるまで殴ったとか。」ワガツマ テルが微笑む。
「そういうお前はフジサキという女の首にナイフを刺したがな。」
第三の事件は、フジサキという女性の刺殺事件だ。
冷静に考えて犯人は。
「私が殺しましたわ。」
そうなるだろう。
「何故、フジサキを刺した。」
「それを探るのがアカネコ探偵さんの仕事なのではありませんか?」
「正論だが役に立たない。」私はテルへと近づく。「アンの部屋のような特別製の鍵は別の部屋にも付いているのか。」
「いいえ。」
「長女であるアン様の部屋に鍵があり、四女のヨスミの部屋にあの特別製の鍵はない。」私は顎を上げた。「そう理解して欲しいのか。」
「さぁ。」
「ワガツマ四姉妹はアンという詩人としてのカリスマ性を持つ長女に支えられているとでも。」
「さぁ。」
強張り、探り合うような空気が流れる。返事は一切流れてこないまま、尋ねたことさえ流れてしまう。
私とメイの距離はおよそ六メートルほどあった。六メートルにしてはやけに近かった。
「何故、建築士に聞かなかったのかしら。」
「他にも幾つか報告がある。」私は目を静かにつぶる。「テルを保釈させた。」
メイが驚いた表情でこちらを見つめる。
時間にして七秒動きが止まる。
それから二秒、一滴分だけ涙を流して、四秒、頭を下げる。
「完全な容疑者だとされた人間を一時的にでも外に出すのは難しかったがな。金さえ積めば警察も譲歩はする。」
「ありがとうございます。」
「いや、感謝はいらない。金を出したのも警察に恩を一つ与えてしまったのも。」私は鼻で笑った。「すべては貴友会のおかげだ。」
体のいい犠牲を快く引き受けてくれる存在に盛大な拍手と嘲笑を。
まだ、搾れるかもしれない。カードとしてしまっておくに越したことはないだろう。
「今日一日はこのワガツマ邸の三階に居てほしい。」私は屋上の出入り口へと向かって歩き始める。「気が向いたら会いにいく。」
生意気で、不敬で、無粋な言葉だろうか、自分でもそう思う。
「はい、承知いたしましたわ。」
メイはそれでも了承してくれた。
「神は死ぬと思うか。」
私は背中を向けた状態で尋ねた。
「言葉が死ぬか、ということでしょうか。」
何故にこんなことを尋ねているのかと問われれば、最早私にも理解できるものではなかった。
今の私はワガツマ ダイスケの残した言葉に侵食されているのだと思える。
「ワガツマ ダイスケは神だろう。」
「私共にとって神ですわ。」
「だが、当然、お前らにとってであり、私にとっての神ではない。」
「それは当然ですわね。そう思います。」
「神は誰にとっても神としてそこに存在することはできない。それ故に、神もまた人と同じように死ぬのだろうな。」
「面白い解釈ですわ。」
「神は神のまま死ぬのではなく、人になってから死ぬのだろう。その時、そのものを神と認知する者はどこにもいない。」
「寂しいことですわ。」
「そうだろうか。」
「そうでしょう。」
「神は死んでも、人にはなるのだ。」
私はこれを希望だと思っていた。
「言葉も同じでしょうか。」
「神も言葉も人も全ては同じだ。」
「よく言葉や人のことをお考えになっているようですわね。明らかに私共の思考を越えているように感じます。素直に感服いたしますわ。」
「考えたのではない、考えさせられたのだ。」
「誰に。」
「神に、いや。」私は微笑んだ。「お前らの父親に。」
言葉はやはり神であり、そしていつか必ず死ぬのだろう。
これは、いつか死ぬはずの神が生きているまばたきのような瞬間だったのだ。
「父は死にました。」
「そして言葉になったのだろう。」
「言葉になり神になりました。」
「だが、神もいつかは死ぬのだと、ワガツマ ダイスケは言っている。」
「ワガツマ ダイスケは死ぬのですか。」
私は返事をできなかった。
終わりなのだ、と誰かが言ったような気がした。
私ではない、そしてメイでもない。
もしかしたら、ワガツマ ダイスケだったのかもしれない。
「私が来ることは、保釈された妹さんにも、姉のお前から伝えておいてくれ。」
足が一歩進む。
二歩進む。
三歩進む。
四歩目のかかとが地面を擦る音が聞こえた時だ。
「あのっ、一つよろしいかしら。」背後でメイが叫んだ。
私は振り向かない。
「私共、テルとメイは双子ですわ、ですが。」声は少し震えていた。「何故、私をお姉さん、と呼んだのですか。」
「何が言いたい。」
「何故。」声はもう既に消えかかっていた。「私たち双子のどちらが姉で、どちらが妹なのかを知っているのですか。」
答えは出ていた。
「気が向いたら教えてやる。」
ワガツマ ダイスケ 詩集
暗く輝く鳴く四角
生まれたばかりの朝日に大匙一杯分の教皇を
変わりゆく兵隊の後姿に涙を残す
続いてゆく女帝たちの合言葉
愛と恋の狭間に眠りたい
夢と希望の狭間に帰りたい
平等と自由の狭間に抱かれたい
投げ出してしまう前に捨ててしまった後に
あの日だけはあなたのために小さな奴隷をささげる
心の中の城壁が数字を映して崩れれば
後にも先にも夕暮れは奇数から
きっと口づけは偶数では足らない
それは孤老と農民の千年のご挨拶
相手を叱って
撫でて
交わして
静かに
食らって
見逃して
もっと忘れて
私を聖戦と融和させて
あなたとあなたとあなたとあなた
そしてわたしがそこにはいない
愛して
どうか愛して
どうぞ愛しつづけて
純潔を