プロローグ&第一章
メフィスト賞 2018年6月に投稿し、落とされました。
うわーん。”小説家になろう”に投稿してやる!!
アカネコ探偵 と 暗く輝く鳴く四角
エリー.ファー
プロローグ 始まりは、どんなものでも小さい マルクス・トゥッリウス・キケロ
「てめぇっ、そんなに耳ん中にアイスピック刺し込まれてぇかこの野郎っ。」
カイドウがパイプ椅子に縛られた男の後ろからそう叫ぶ。
男はその声に反応して瞬間的に肩を大きく上げて、静かに戻す。
もう何度このような言葉をかけているのだろう。
最初のうちは男の鼻から漏れ出ていた鼻水は啜る音と共に元へと戻る、を繰り返していた。今は上唇の上を通り顎から水滴となると男のボクサーパンツのちょうど股間のあたりへと落下し色濃くしみを作っている。
男は泣きながら痙攣してしまう足で床をたたき続けていた。
「泣いて漏らしてよぉっ、次はなんだてめぇ。」
カイドウが男の耳元に口を近づける。
男がカイドウの呼吸音が近づくのを聞き、息を止めた。
しかし、痙攣は続いている。
「大の男がそのがたがたうるせぇ足一つ黙らせられねぇのかよぉっ。あぁんっ。」
「すいません。すいません。助けてください。」
男が無理矢理、痙攣を繰り返す足を自分の拳で何度も叩いている。
だが、それでも痙攣は止まらなかった。
足が床をたたく度に、男が自分の足を聞き分けのない子供を圧し潰すように叩き続ける。
「まだ止まらねぇなぁっ。どうなってんだてめぇのゴミ足はよぉっ。」
「頼むよぉ。止まってくれよぉ、殺されちまう。殺されちまうよぉ。」
私は少し離れた場所で正面から男を見つめながら、時間を気にしていた。
この部屋の予約使用時間が二時間半である。そして、この男に掛けられる予定時間が二時間だ。今現在までかかった時間が一時間五十分なので残りの時間は十分弱となる。二時間以降は延滞として一分毎に報酬から三パーセント減となるため、十分以上掛かれば部屋の追加使用料がかかり、三十分毎に標準価格の三割増になってしまう。加えて、延滞は次の仕事を受ける際の信用に関わる。
「人は、時間に、厳しい。」私は一人、呟いてから訂正する。「時間が、人に、厳しい。」
たった詫状一枚のことだ。
それをこの男に書かせるためにどれだけの時間を犠牲にするのかと考える。相手の心を落とせばあとは詫状の書類上の手続きなど一分もあれば問題ない。つまり、その一分のために百倍から千倍ではきかない程の時間が費やされる。
「カイドウ。」私は立ち上がって男に近づく。「少し待ってくれ。」
カイドウが軽く頭を下げて横に移動した。
「アカネコくん。」カイドウが私の耳に口を近づけていつもの口調に戻る。「どうするこの人。」
「私たちにできるのは詫状を書かせることだ。」私は表情を固めたまま小さく答える。「モラルを持つことは業務に含まれていない。」
「でもさ、もう時間もないし、このままじゃ報酬があっても延滞減額と追加料金入ったら、赤こいちゃうよ。」カイドウが不安そうに息を吐く。「どうしよう。」
気が付けば残り十分だ。
余り重労働は好きではないし、軽労働でさえ遠慮したい。だが男はカイドウに少し慣れてきたようなので私の番となる。
「質問だ。」男の正面に立ち見下ろす形にする。「私たちは何者だと思う。」
「公庄會、か。」男が息を落ち着かせながら首を少し振る。
「その通りだ。いわゆる暴力団に分類される公庄會の構成員だ。」
カイドウが落ち着きなく私を見つめる。時間が不安なのだろう。
「ではもう一つの質問だ。」私はそこで少し目を細める。「君はなぜこうして公庄會の人間に目を付けられたのか。」
「レイプをしたから、だろう。」
「そう、君はある女性にレイプをした。婦女暴行及び強姦、そして、殺人だ。」
「俺が犯した女が公庄會の女だったのか。」男がつぶやいた。
バカかこいつ。
ため息が出てしまう。
分かっていない。
何も分かっていない。
「君がレイプをした場所は公庄會のシマだった。たったそれだけのことだ。」
男が口を開けてこちらを見つめた。
「それ以外の理由はない。」私は男の鼻先まで自分の顔を近づける。「ヤクザ、暴力団というのはメンツなしでは生きられないものだ。」
ただの強姦魔にどこまで理解できるのか不安だが一応説明はしなければならないだろう。現実は人間の理解力に興味を示してはくれない。だから本質を言ってしまえば、聞き流してもらっても私としては構わないのだ。
男を同じ人間だと思って話すと期待をしてしまうので、とりあえず、目の前には誰もいないと仮定することにした。頭の中が片づけられていくのを感じる。存在しないことが役に立つ人間というのは掃いて捨てるほどいるものだ。
「ある暴力団のシマがあり、そこで少しばかり大きな事件が起きた。しかもその事件はその暴力団の関係するものではなく、ただの一般人によって起きたものだった。すると、どうなると思う。」
「ど、どうなるって。」
「その通りだ。」私は無視して続ける。「その組が自分たちのシマだと名乗っている場所で起きた事件を認知できていなかったことになり、管理不足が露呈する。つまり。」わざとらしく眉を上げて見せる。
「メンツにかかわる、ということか。」男が恐る恐る答える。
「正解だ。ほかのシマを持つ組に示しがつかない。」私は微笑む。「そのため私たちは、その事件を起こした人間と直接会い、私たちが交渉して組に対して詫状を書かせせる訳だ。そうすることで、めでたくヤクザや暴力団のメンツは守られている。」
男は何かに気が付いたそぶりをして見せた。
何せこの男は一度、詫状に関することを公庄會の下層組員から聞かされているはずなのだ。
「詫状を拒否しただろう。」
「あれが、そんなことだとは分かる訳がないじゃないか。」
「チャンスを逃してしまう人間に見られるよくある特徴は、チャンスを逃したことにさえ気づかないことだ。」私は後ろを向き、暗闇に手を伸ばして詫状を一枚と朱肉、ボールペンを持って男の前へと置いた。「今の君にはこれがチャンスに見えるか。」
男がボールペン、朱肉、詫状、そして私の順に目を動かす。脳みそが痙攣しているかのように指先を僅かに震えさせるだけで動かない。
緊張しているのだろう。使えないにもほどがある。
どうしてこの程度の男が生きているのだろうか、世の中の不公平すら感じる。
「何故レイプをした。」
男が瞬きを繰り返して右斜め上を見つめた。
「お前の顔じゃあ女一人落としてセックスするのも無理だろう。だからレイプに逃げたのか。」
「何を。」
「レイプされた女も揃いも揃って雌豚どまりの容姿ではあったが、あれに発情できるお前の頭は蛆でも湧いてるのか、それとも蛆が湧くほどの頭もないのかどちらなんだ。」
「ちょっと待ってくれ。」
「今までの人生ずっと誰かに笑われ続けてきたみたいだが、そのことに気づいてるか。せめてその死ぬ瞬間まで謝り続けろ。」
「す、すみません。」
「謝れ。」
「すみません。すみません。」
「死ぬまで謝れ、+それ以外の言葉は口にするな。」
「すみません。すみません。すみません。すみません。すみません。」
「謝りながら早く一筆入れろ。終わったらさっさと死ぬのも忘れるな。」
男の目の色が変わりボールペンへと飛びつき、破れんばかりに詫状を押さえつけた。僅かに口からは、すみません、と言葉が漏れ続けている。
時間は残り二分だ。
仕事は何とか片が付いた。こういう時は何となくあの駄菓子屋のラムネが飲みたくなってくるものだ。
「ぎりぎりだったね。」カイドウが疲れた顔で笑う。
「どうにかチャンスをものにできたな。」私は鼻で笑った。
同時刻 拷問専用小部屋から二十二キロ離れたマンションの小部屋。
「チャンスをものにできませんでしたわね。」
俺は。
俺はここで死ぬのか。
見慣れた俺の部屋の、このテーブルの上で。
食事も、漫画も、テレビも、ゲームも、何もかもが。
俺の日常がうずたかく積まれたテーブルの上で、首を吊らされてこのまま死ぬのか。
「私共がどのような思いで日々を過ごしていたかあなたにはお分かりにはならないでしょう。」
分かってたまるか。
徐々に、徐々に首がしまる。
「どのような思いで私共が貴方を殺すのか理解すらできないのでしょう。」
分かる。
首がしまっていくのが分かる。
締まった気道から漏れ出る息に血の味がする。鼻から抜けた息が体の中へと戻ってこない。
何も帰ってこない。
「この言葉でさえあなたの耳には届いても、心には届かないのでしょう。」
縄で絞められている部分の感覚が薄れる。代わりに体重によってその周りに作り出された皮膚の皺が限界を超えて引きちぎれていくのが分かる。
「言葉も文字もあなたのような存在が使うには、そして、使われるには、少々高尚すぎましたね。」
目が。
目が熱い。
熱湯のような涙が壊れたように溢れてくる。止まらない、止まる気配がない。眼球が血飛沫をあげながら弾け飛ぶ、そう本気で思えてしまう。
唾液が体から絞り出される残りの空気で、泡立って高い叫び声をたてる。
これは。
だめだ。
「これでようやくなのですね。」
このクソ女が。
なんで、こんなゴミ女のせいで。
「これで死ぬ間際のあなたから断末魔という言葉さえも奪うことができるなんて。」
この女、馬鹿じゃないのか。
笑ってやがる。
「死ねば、言葉も、文字も、不要。なのですわ。」
マンションの小部屋から二十二キロ離れた拷問専用小部屋
「言葉も、文字も、必要。だ。」私は拷問小部屋から外に出るとカイドウにそう答えた。
「でも、仕事の内容は詫状を書かせることなんだから、文字だけで十分じゃないの。」カイドウがポケットからボイスレコーダーを取り出す。「一応、あの男が詫びを入れてる声は録音したけどさ。」
「念には念を入れておくということだ。」私は携帯電話の予定表を確認する。
「心配のし過ぎは余計な心配まで誘発すると思うんだけどなぁ。」カイドウが私の携帯電話の画面をのぞき込んでくる。
仕事が一つ終わったので予定表からその用事を一つ削除した。これが案外楽しく達成感があるのだ。
公庄會組頭の邸宅にある拷問部屋の外には長い廊下が続き、片側の壁はガラスでできている。邸宅の中庭を一望できるのはこの時くらいのものだ。
枯山水や松、桜、火成岩、橋などがそこには見える。それぞれの配置には、おそらく、和というものの調和の意味が込められているのだろう。水を使わず水が表現する美しさに極限まで近づこうとする枯山水や、余計な生命力だけを極限まで省き魂だけが残ることで立ち尽くす松と桜は見事というほかない。そして時間の経過の中に身を置きながらその中庭にいる間だけ生き生きと自己主張する火成岩と橋は強い存在感で私を圧倒してくる。
「素晴らしい。アカネコ探偵君にカイドウ君じゃないか。」
廊下の先から早歩きで近づいてくる男が見えた。
ココノエ、だ。
正体は、私たちが所属する公庄會の組頭だ。いわゆる最高権力者、である。
私とカイドウは姿勢を正すと形状記憶合金のように体を折り曲げた。
「頭をあげてくれ、困るじゃないか。」ココノエは低い声でのびやかに笑った。「そうだろう、イデ。」
ココノエの横に立つ女の名は、イデという。
ココノエの秘書をしている。
この近くに来るまで存在感すら薄く、まるで急に現れたかのような感覚に陥る。影が薄い人間は存在感がなくとも生きていけるほど生命力が強い。だからだろうか、私はこのイデの瞳の中にカイドウ以上の光と闇と霧を感じていた。
「ココノエ様。」イデが紙の資料を渡した。
「すまない、イデ。」ココノエが簡単に目を通すと深くうなずいた。「アカネコ探偵君たちは、あのレイプ犯の詫状業務に当たっていたのか、時間はどれくらいかかったのかな。」
「一時間五十八分です。」
「素晴らしい。二時間以内とは見事だ。いつも時間内に終えてくれているし、これなら報酬に色を付けても問題ないんじゃないのか。イデ。」
「十パーセント程報酬に上乗せいたします。」イデがメモを取った。
ココノエに会ったのは災難だったが、この苦労が金に変換できるなら悪くはないだろう。
「いつもいつも目をかけてくださりありがとうございます。」私はココノエに深く頭を下げる。「今後も精進させていただきます。」
同じくしてカイドウも頭を下げた。
「そんなつもりではないんだ。頭をあげてくれたまえよ。」
当たり前だ。
頼まれなくとも頭はすぐさま上げる。
それに、報酬に上乗せしてあげよう、だと。
舐めるなこのグズカスが。
そもそも詫状を書かせるために標的を閉じ込める拷問部屋は公庄會のものを使わなければならない。その上、無料使用ではなく貸出という形をとって使用料を取るシステムになっている。つまり、構成員に払った報酬を回収しようとしているのだ。
報酬を増額する条件は極力少なく、報酬を減額するための条件は数限りなくある。
どこの暴力団でも同じなのだろう。
利益を最大限まで上げる方法は、最大限の損失を相手に及ぼすことだけだ。
「それにしても、アカネコ探偵君は今回も殴ったり、蹴ったりなんかは。」
「しませんでした。」私は表情を固めて答える。
「詫状業務は時間内に詫状を書かせるのが全てだろう。」ココノエが首をかしげる。「指か耳を切り落とすか、爪を剝がすくらいのことは。」
「あまり、それらのことが得意ではないもので。」私は笑顔を顔に張り付けた。
拷問部屋の清掃は使った人間の業務となるのだ。清掃員でも雇うなら別だが、こんな無駄なことはわざわざするべきではないだろう。
「私たちは会話という形をとっていこうかと。」
「そういう意味では、ほかの詫状業務にあたっている者とはその点では一線を画しているだろう。」ココノエが微笑む。「過程も結果もなんて贅沢は言わない。結果だけ出せばいいんだよ。」そう言い終えて優しく肩を叩かれた。
「もったいないお言葉です。ありがとうございます。」
私とカイドウはまたも頭を下げた。
「二人はある意味、最高のパートナーなんだから、これからも仲良くな。」
何がある意味だ。
嫌味か。
余計なお世話だ、クソが。
それから会話は十分ほど続いた。
内容は、最近、町が荒れている、ということだった。どのような点で、と言われれば難しいというのが正直なところだそうだ。町の雰囲気が悪くなっていくことにヤクザや暴力団は敏感だ。だがその根源まで探るのはいくら町の裏を生きていても骨が折れる。
若干、調べてくれないか、という依頼にもとれた。一応、頭に入れておくことにした。目上の生き物は何故にこんなにも仕事を増やすのが上手いのだろう。
イデがココノエの耳元で何かを呟き、話はそこで終わることとなった。去り際にイデがカイドウに向かって小さな声で。
「あなたって女性なんですよね。」
と、訪ねた。
カイドウが。
「一応。」
と、答えた。
生物学的にカイドウは女性であり、私は男性である。それが逆であると何か問題でもあるのだろうか。性別に頼るのは生物学的に分類すること以外に必要な行為ではない。
私はもう一度携帯電話を取り出すと、次の仕事を確認する。
「次はどんな仕事なの。」
「今日から五日以内に解決しろ、だそうだ。」私は携帯の画面を見せた。
詫状業務の内容で解決までの期間が決まるわけではないのだ。むしろそれ以外の予定の方が重要視されるので、このあたりに詫状業務の難しさがある。
「今日から二日後に定期会合があり、六日後に本会合だ。」
「定期会合の方はいいとして。」カイドウが首をわざとらしく曲げて顔をしかめる。「本会合には間に合わせないとヤバいよね。」
「最悪、首が飛ぶな。」私は鼻で笑った。「町の外れに邸宅があるだろう。」
「最近、逝去した詩人のワガツマ ダイスケのお屋敷でしょ。一時期、かなり有名になったもんね、詩だけじゃなくて名言も多かったし。」カイドウがあくびを一つする。「例えば、言葉は神である、とか。」
言葉は神である。
言葉は神、だそうである。
考えたこともなかった。
神はどこにいて、どのような姿をされているのか、というのはかなり問題としてよくあるものだが、ワガツマ ダイスケは人の口の中にいて、姿形などはないと答えるのだろう。詩人らしいと言えば詩人らしいのかもしれない。
私も、言葉は神である、と口に出してこなかっただけで、実はなんとなくそう思っていたのかもしれない。何故か、すんなり理解することができた。
「詩人だから、そっちよりもそりゃ詩の方が超有名なんだけどね。」カイドウが斜め上を睨んで考え始める。「確か、代表作は。」
そう、確か。
代表作は。
「暗く輝く鳴く四角。」
それだ。
私は詩については余りよく知らないのだが、この、暗く輝く鳴く四角、についてもワガツマ ダイスケについても聞いたことはあった。興味のないことには極力距離をとる私でさえ、断片的に知っているのだ。世間的にはかなり有名だろう。
「そのワガツマ邸に住む。」私は携帯電話をしまいながら廊下を歩き始める。「ワガツマ ダイスケの娘の、ワガツマ メイに詫状を書かせる。」
同時刻 拷問専用小部屋から二十二キロ離れたマンションの小部屋。
「あなたからお詫びの一つもいただきたかったのですけれど。」
俺の意識は微かにある。
だが手遅れだ。今からこの首にかかった縄がほどけたとして俺の体には何の影響も出ないだろう。生きてはいるがもう肩まで死に浸かっているのだ。後はその状態が始まったばかりなのかどうかというところでしかない。
諦めた。
「そろそろ私も帰りますわ。あなたに掛けるような言葉も見つかりませんもの。」
頭の中に最後に浮かぶ言葉は、こんな時でさえ自分に関係するものではない。
俺を。
俺を死に至らしめたこのクソ女の名前は。
「それではよしなに。」
ワガツマ メイ。
第一章 人は実感したものを信用する 田中 角栄
住宅街
「そもそも、未だに詫状業務がある方がおかしいんだ。」私はワガツマ邸を探しながらあくびを一つする。「公庄會も昔の名残にいつまで引っ張られる気なのか。」
「オダっちも言ってたよね。そんなこと。」カイドウが唇を突き出しながら少しばかり考える。
今、カイドウが口にした名前。オダ。
彼は私たちアカネコ、カイドウグループの三人目の仲間だ。
機会があれば登場するかもしれないが、そのためにわざわざ覚える必要はないだろう。むしろしっかり覚えておくと損をする。オダの性格、生き方、チームにおける役回り、それらを鑑みてもそういう男だと断言できる。
「そもそも、いくら自分たちのシマだからって、町に住んでる人の中で、この人がなんか犯罪しちゃいそうっ。とか分かる訳ないじゃんね。」カイドウが笑う。「ただの殺人じゃなくて強姦殺人とか、放火殺人とか。」
「凶悪なものに限定はしているがな。」私は鼻で笑う。「無意味な理想論のために労働力を割けるんだ。公庄會は随分と優良企業のようだな。」
優良暴力団、というのは字面でも随分面白いものだ。目玉を抉る時に一度相手の了解をとるほどの法令順守の態度をとるに違いない。
「その組織にどれだけ無駄があるかが、潤ってるかの証拠だよね。」カイドウもあくびを一つした。「潤ってないのに無駄があるならとっくに潰れちゃうんだし。」
私とカイドウはこうしてワガツマ邸に向かっていた。
基本的に後ろめたい行為をする時というのは、できるかぎり人目につきそうな場所で行うのがよい。理由としてはそれだけ目があると、逆にそれと同じだけ周りでは何かしらの出来事が生まれているためだ。通行人は目移りして何か一つにピントを合わせるのは難しいのだ。
後ろめたい生き方をする私たちはこの場所に疎かった。私たちが知らない場所が多ければ多い程その町は良い町だということになる。皮肉にも。
途中、絵本を持った少女に会った。尋ねようとしたのだが警戒されたのか逃げられた。何というか切なかった。
目的地であるワガツマ邸に着いたのは予定時間の二分前だった。
白く大きな塀に囲まれた邸宅だった。それはまるで何かの巨大な彫刻か、無意味な過去の遺物に見えた。一階の角張った形の上に薄く広がった円柱のような二階か三階が乗っている。横縞の柄のように窓が並び、幾つかの窓からは花瓶と花が見えた。白を基調とした建物の中で花の色は小さくとも目につく、おそらく部屋の外のためのインテリアなのだろう。
塀に手を触れると凹凸があることに気が付く。そこにはあのワガツマ ダイスケの代表作が細く力強い字で彫られていた。
塀に彫られていた詩
暗く輝く鳴く四角
生まれたばかりの朝日に大匙一杯分の教皇を
変わりゆく兵隊の後姿に涙を残す
続いてゆく女帝たちの合言葉
愛と恋の狭間に眠りたい
夢と希望の狭間に帰りたい
平等と自由の狭間に抱かれたい
投げ出してしまう前に捨ててしまった後に
あの日だけはあなたのために小さな奴隷をささげる
心の中の城壁が数字を映して崩れれば
後にも先にも夕暮れは奇数から
きっと口づけは偶数では足らない
それは孤老と農民の千年のご挨拶
相手を叱って
撫でて
交わして
静かに
食らって
見逃して
もっと忘れて
私を聖戦と融和させて
あなたとあなたとあなたとあなた
そしてわたしがそこにはいない
愛して
どうか愛して
どうぞ愛しつづけて
純潔を
ワガツマ邸 塀前
「暗く輝く鳴く四角。」
自分の代表作を自宅の塀に彫る。
よほど自信があったのか、よほど気に入っていたのか、ただ自意識過剰か。どんな思いがあったにせよ、私のこの詩への感想は、若干長い、というものでしかなかった。
内容は。
四度ほど読み返してみる。
四度目で分かったことがあった。
この詩はよく分からない。
私も相手を脅迫をするわけであり、それにあたって言葉はよく使っている。ある意味では詩人と暴力団の構成員は同業者と言えなくもないだろう。だが、仕事で上品な言葉を使うワガツマ ダイスケと下品な言葉を使う私とでは真逆もいいところだ。
それ故に、私とは逆を向いた言葉の使い手である、詩人というものに興味はあった。
改めて、詩を読む。
言葉がそこに羅列していることは分かるし、言葉を読むこともできる。言葉の一つ一つを理解することはできるのだ。だが、その言葉が集合した詩になると途端に理解が難しくなる。
芸術とは本来、理解できないもの作ることに意味がある。そう考えれば、これは詩としては完成しているのだろう。
ワガツマ ダイスケが言葉をここまで上手く使うことができるのは、それだけ言葉というものを駆使する技術にたけていたということでもある。
言葉は本来、自分の意思を伝えたり形にするためのものである。自分の思考という見えないものを理解できるようにするために、存在しているのだ。誰かと誰かを分かりやすくつなぐ存在こそが言葉だったのだ。
人を他の生物たちと分かりやすく一線を画した存在にし、文化的に人を人たらしめたのである。
言葉が人を産んだのだ。
わたしたち人間は、そういう自分たちの生みの親を、なんと呼ぶのだろう。
母親、見えざる手、奇跡、宇宙、真理、偉大なる意思。
おそらく、神とも呼ぶだろう。
もしも本当に言葉が神なのならば、その言葉という名の神、を扱う詩人は何者なのだろう。そんな詩人たちの中でも名を残しているという、ワガツマ ダイスケという男は神にとっての何になれたのだろう。
言葉は、人に神さえも越えさせたのか。
「馬鹿馬鹿しい。」
さすがにそう感じて鼻で笑った。
しかし、これも言葉だった。
私は詩から眼を切ると西洋風でも和風でもない、近未来的なデザインの門扉を開けて中へと入る。
ワガツマ邸から見える二階以上の高さにある二つの窓に影が映った。窓は全部で四つほどあり、そのどれもがうっすらとスモークがかかっていた。色彩を感じることはできるがどうしても、濃淡に繊細さはない。正直、影があるとしか認識できなかった。
左の窓から見えた影が長い髪をしていたように思う。動きに合わせて何かが追従しているように見えたからだ。もしかしたらショートヘアでベールのようなものを被っていたのかもしれないが、追従する何かの波打つ動きで何となく髪の毛だと分かった。
おそらく、かなり丁寧に髪の世話をしているのではないか。スモーク越しに髪の動きだけでそう感じた。
何か考え事でもしているように影は右へ左へと忙しなく動いては、時たま僅かだが上下にも動いた。乗ったり下りたりを繰り返しているのだろう。何か高いところのものを取ろうとしているのか、それとも運動だろうか。
右の窓から見えた影はこれはま一層忙しなかった。右の窓の影よりも遥かに左右への移動が速く顔も僅かに下を向いているようだった。考え事をしている、という点で言えばこちらの方がはるかにそれらしかったと言える。
共通して言えたのはどちらも無邪気で、たぶん女性であることだ。何となくぼやけていたが、顔の輪郭や僅かに見えた首から下の骨格、そして体の使い方からそう推測した。
白い砂利が敷き詰められた道を抜け、今度は両側の青々とした芝に目を向ける。
「どうぞ、ようこそおいでくださいました。」
私の視線もカイドウの視線も静かに、細く、切れていくのを感じる。
ワガツマ邸から現れた気品ある女性の名は。
ワガツマ メイ。
そして。
「どうぞごゆるりとお過ごしくださいませ。」
同じく現れた気品ある女性。
ワガツマ テル。
「ありがとう。」私は頭を下げる。
「初めまして。」カイドウは威嚇するように低い声でそう答えた。
メイとテル。
詩人、ワガツマ ダイスケの双子の娘だ。
ワガツマ邸 二階 客間
「公庄會の方がわざわざ人と会うために時間を合わせるほど、丁寧な方だとは思いませんでしたわ。」
「私もそう思いましたのよ。暴力団の方がこちらの都合のいい時間を尋ねるだなんて、可笑しなこともあるものだって。」
メイとテルは目を合わせると小さく、しかし高い声で笑った。森の中で自由に飛び回る鳥の鳴き声よりも遥かに楽しげで澄み渡っている。鼓膜が初めての心地いい振動に驚いている。もう少し長く聞いていたいとすら思える。
「公庄會は確かに暴力団ですよ。」カイドウが少しばかり鋭く言葉を発する。「ただ、暴力以外の手段を知らない暴力団は生き残れませんから。」
建物の外見と同様中も白を基調としている。基本的に影以外の黒をこの部屋から確認することはできない。白いソファーに白いカーペット、そして外から見えた色鮮やかな花たちなど、家具と自分との距離感をつかむのが難しいほど部屋の中の白は、統率のとれた色合いだった。平面的、それでいて無機質だ。現代美術館の中、というのが正しい表現だろう。
私は白いテーブルの上のアイスティーを飲む。久しぶりに言葉を選ぶのではなく、言葉を選ばされているのだと分かった。目の前の双子の威圧感に少し目を伏せて考えてみる。
気にするべき事案は、ある。
例えば、この詫状業務が拷問部屋の外で始まっていること、だ。
先ほどのレイプ犯の時もそうだが、大抵は詫状業務の受領と同時に公庄會の下層構成員が動き出すこととなる。構成員は書かせる必要のある相手を拉致し拷問部屋へと閉じ込める。こうして私たちが仕事を始めるためのお膳立てが整い、私とカイドウが拷問部屋に入ることで詫状業務はスタートする。
だが、今回は私とカイドウが直接動き、こうして会話をしている。しかも、下層構成員が拉致をするような動きもなかった。かなり特殊だ。
早い話が。
「大きな仕事になる。」私は双子に向かって微笑む。「そんな予感がしていまして。」
双子は目を合わせると少しばかりの沈黙の後、また高い声で笑った。
不快ではないが、鳥肌が立つ。
「私共も公庄會の方がいらっしゃると聞いて、調べましたのよ。」
「アカネコさんとカイドウさんのお二人のこと。」
私は極力反応しないようにしたが、カイドウは少し前のめりになった。
お互いがお互いを敵であると認識している。このことが明確になると敬語を使う必要がなくなる。味方がまばらにいるよりも、あたり一面敵だらけの方が居心地がいい、気を付けながらナイフを振り回すより、一発の爆弾で片が付く。
「アカネコさんの一族はもともと、探偵をやってらっしゃったとかなんとか。」おそらくメイの方が口の右下あたりに人差し指を持ってくる。「ですけれど、腕が立つのに経営がうまく行かず、とうとう公庄會にお金の工面をしていただいたとか。それから一族は完全に公庄會の下僕に成り下がってしまったそうで。不憫ねぇ。テルさん、不憫だとは思わないかしら。」
「思いますわ、メイさん。」テルと思われる方が微笑んだ。「他人に自分の弱点を晒すことこそが、最大の弱点というものでしょう。」
またも双子が高い声で笑う。
「そのこともお分かりにならないんですもの。さすがお金の工面を暴力団に頼むだけのことはありますわ。」
その瞬間だ。
大きく、刺々しい。
鼓膜にこびり付くような音。
それが瞬間的に部屋の中を満ちては一気に消え去ると。
静かに、ゆっくりと、伸びやかな水の音が聞こえ始めた。
「ごちゃごちゃうるせぇんだよクソ双子。死ぬか。」
カイドウの腕が横に伸び、その先に割れたティーカップが欠片となって揺れていた。
双子は口の両端を上げたままだったが静かに目を細める。
私たちが仮に何かの小説の主人公であったとする。そして、目の前にいる双子が敵であったしよう。仮にそうであったとしても、私たちが正義という剣を振りかざすことは今後一切ないと断言できる。
手元にあるのはモラルの欠如という核爆弾だけだ。敵も味方も殺すだろう。
「先日、この町で二人の男が殺された。」私は本題へと入る。「二人目の方は自宅のテーブルの上で首を吊った状態で発見された。」
そうだ。首吊りだ。
嫌な言葉の響きだ。正直、資料を読んだ時も少しばかりめまいがした。
首を吊った男の足先から漏れ出た体液が一定の調子で床に垂れていくのが見える。脳裏に浮かびあがり目を背けても閉じても、映像を消すことができないのだ。
隣のカイドウが軽くうつむいているのが分かる。
「首吊りの方は自殺の可能性もあるため警察は多くの可能性を含めた上で目下捜査中だ。そして一人目の方だが、その男は道端で倒れているところを発見され。」
公庄會から届いた資料に初めて目を通した時の感想を思い出す。
「首の肉を嚙みちぎられていた。」
これは今現在、町の話題の中心に陣取っている事実そのものだ。
「私共がそのようなことを行ったと。」
「仮にお前らを犯人だとも思わずにここに来ていたら、私たちはただの柄の悪い観光客だ。」私は首を触った。「だが、ワガツマ メイ。ワガツマ テル。以外の可能性もあるからこそ、この場所に来ている。」
「と、仰いますと。」
わざとらしい。
「ワガツマ ヨスミとワガツマ アン。」私はティーカップを持ち上げる。「お前らは四姉妹だろう。」
ワガツマ ダイスケが死去する際、四人の娘がいることが報道された。ただし、その四姉妹の写真は決して世に出回ることはなかったのである。少しの間は、そのワガツマ ダイスケの四姉妹の画像をいかに手に入れるかでマスコミは躍起になっていた。
ほんの一年前のことだ。マスコミとイズムで作り上げたのだ、まだ熱はあるだろう。
「警察の捜査では殺人が起きた現場からの距離や、その周辺の住民のアリバイなど、それらを鑑みた上でこのワガツマ家の人間が怪しいと踏んでいるそうだ。」
「それは警察の方の意見でしょう。」
「知らないのか。この日本では、その警察の方の意見で犯罪者が決まる。」私はすぐさま答えた。「公庄會ではワガツマ メイに詫状を書かせることで意見が一致しているが、私個人としては、それでは問題になるだろうと考えている。何故か。」
「警察が、捜査を進め犯人を捕まえた時が大変ですものね。」メイが足を組む。「私、ワガツマ メイ以外の人間が犯人だった場合は、その詫状の意味がなくなってしまうから、でしょう。」
今現在、この事件は未解決である。
つまり、正確には誰に詫状を書かせるべきかが明確ではない。
一応、公庄會からの指示はワガツマ メイとはなってはいる。だが、なっているというだけにすぎないのだ。
今回は公庄會がその標的を拷問部屋まで拉致してきてくれたわけでもなかった。いつものことではあるが、たとえ指示に不備があったとしても、失敗の場合、責任はすべてこちらがとらされる。どの組織でも、末端の者の業務には責任転嫁の終着点が含まれている。
「メイさん、ということはつまり。」テルだと思われる方が含み笑いをする。
「このアカネコ探偵さんは。」私を指さす。「警察よりも先に犯人を捜そうとなさっているのですわ。」
馬鹿にされるのも無理はないだろう。
正確には警察よりも早く見つける必要は常にあるという訳ではないが、今日から六日後には公庄會の参加する本会合が開催されてしまう。それよりも早く警察が犯人を特定できなければ、警察よりも先に犯人を見つける必要は出てくる。
冷静に考えて、確定、とできるのは警察内部における儀礼的な処理や、他の事件への対応などその他諸々を鑑みて、六日以上の期間を要するのではないだろうか。
警察と暴力団の違いは、警察は判断が遅く暴力団は判断が早いことだ。共通している点はどちらも間違えた時には全力でもみ消すことだろう。
「ただし、私たちは警察ではない。」私は両手を組む。「警察のように確固たる理由を並べることで犯人を特定するようなことはない。九割九分九厘の可能性など必要ない。七割五分、それで十分だ。それで詫状を書かせるための拷問を行うに値する可能性を見いだせる。」
「ずいぶん品のないことで。」
双子が声や姿勢、目つきなどで露骨に私のことを見下す。
「品がない分、体が軽い。」
「ほんの少しのことで飛んで行ってしまうでしょうね。」
「気が付けば真実の上に着地してしまう。」
四人の間の空気は決して張りつめてはいなかった。この場に何十時間でもいられただろう。ただ人間としての何かを測られているという思いはあった。意識している、していないにかかわらず人は人を測っている。そしてそれは快、不快に関わらず止めることはできない。だからこそ、ここでも私は双子を測っていた。
双子も私の言葉を聞いて私のことを測ろうとしているのが分かる。言うまでもなく、私が口に出した言葉の裏の意味を読み取ろうとしているのである。もはや、私の話など聞いていないのだ。私が伝えたいと思っていることよりも、その裏の真意の方にピントを合わせてきている。
言葉はその裏に真意を隠すことができるほどの、余裕や含みを持っている。それ故に言葉だけを聞いていては、真意を読み取ることはできず、結果、言葉を理解することはできないのだ。
言葉は不十分である。何かによって補わなければ情報を伝達する道具として十分に機能を果たすこともできない。
およそ人類が長い年月をかけて使い続けるようなものではないだろう。それでも言葉を使うのは、言葉以上に情報伝達の道具として有用なものが見つからなかった、というだけではないはずだ。
人は言葉を信仰しているのだろう。
そうでなければ、こんなにも不十分な道具を使い続ける訳もない。
「ヨスミとアンはどこにいる。」
双子は呼吸すらも止めてこちらを見つめた。
「こちらです。」
許しを得たはずなのに、より重い咎を背負わされた気分のまま情報は開示されていく。
ワガツマ邸 三階
「私共、四姉妹は血が繋がっておりませんの。」
目的の部屋に向かう途中で双子はそう口を開いた。
「父のワガツマ ダイスケは生前、子どもという存在に対してひと際強い愛情をもっていましたわ。これは決して、猟奇的な、であるとか、異常な、というものではありませんの。単純で純粋でただひたすら真っすぐな愛でしたわ。その中で四十二になった際に四人の娘を養子に迎え入れたのです。」
「ワガツマ ダイスケは独身だったような。」カイドウが口に手を当てる。「アカネコ君。独身の人でも養子って迎え入れられるものだったっけ。」私の方を見つめる。
「そのために短期間ではありますけれど。その時メイドをしていた者と婚姻関係を結んだのです。」双子は進行方向を向いたまま語り続ける。「直ぐに離婚をしたため問題にはなりましたわ。でも、私たちに対する愛情が本物であることが伝わり、今に至りますの。」
「そこまでして養子を。」カイドウが片方の眉毛を上げる。
「女性を四人というのは意味が。」私が訪ねる。
「おそらく同性であれば何かと相談もしやすいと感じたのではないかと。父なりの配慮だったと思いますわ。」歩幅が徐々に狭くなる。「おかげで、ヨスミちゃんとアン様、そして私共メイとテルの四姉妹は今日まで仲良く暮らしていますもの。」
「年齢差はどれくらいある。」
「下が三歳未満です。そして私共テルとメイが二十代、二十代で、一番上が三十代ですわ。」
ということはつまり、一番下はほぼ記憶もないような状態で養子としてやってきたということか。無意味なことだが何かその子供の背景を感じてしまう。どのような両親や家、どのようなものを視界に映したのか、など。
だが、なんとなく聞かなかった。
詫状を書かせる相手ではあるがここまで譲歩はしてもらっている。欲する前に与えられれば熱は生まれない。不必要と思える場所にまで手を伸ばす意味を見いだせない。
少し馬鹿馬鹿しく感じた。
私は何か。
勝手な想像によって、その幼い少女に同情をしたのかもしれない。
「ヨスミちゃんもそれはそれは元気ですし。」双子が微笑む。「父のこれまでの功績のおかげで、アン様そして私共、テルとメイの三人は詩人として活動していますのよ。父は死んでもなお私たちの将来を支えてくださっているのです。」
四姉妹のうち、三人が活動している。
それは当然か。
「さすがに四人はね。」カイドウが笑いながらつぶやく。
おそらく同じことを考えたのだろう。心の中をのぞかれて会話が進んだのかと思い、少し怖かった。
「父は世界に詩という素晴らしい贈り物を残しましたわ。それは今でも、そしていつまでも燦然と輝き続ける宝物なのでしょう。でも、それ以上に私共四姉妹にとっては、父に、父の娘にしていただいたことこそが何よりの宝物なのです。そしてできれば父にとって私たちが。」口の両端が自然と嫌味なく上がる。「四つのかけがえのない宝物であったなら、嬉しいのですけれど。」
双子のテルとメイの瞳が潤んでいる。そしてそれ以上にカイドウの瞳が潤み、わずかだが鼻から透明な液体がのぞいていた。
私は決して泣いていた訳ではないが、涙腺が固く閉まっていくのを感じていた。
「この二つの部屋ですわ。」
扉が二つ並んでいる。
片方の扉にはクレヨンで、ヨスミ、と書かれたプレートが下がっていた。
もう片方の扉には筆で、アン、と書かれたプレートが下がっていた。
おそらく、外から見た窓に映った影はこの二人、アンとヨスミだったのだろう。左右反転するため、左の窓の影がヨスミになり、右の窓の影がアンになるようだ。身長的には同じに見えたが、窓のそばに置かれた何かの上にでも立っていたのだろう。窓から見える情報量は遥かに少ない、そんなことを学んだ気になった。
どちらの扉も壁から少し手前に浮き出るような形をしている白い扉だった。引き戸なのか押戸なのかは定かではない。鍵穴はあったがよくあるようなタイプではなく小さい穴が三つ程集まった不思議な形をしている。
これは、なんというか。
「妙な鍵穴だな。」
「この家は父のこだわりがつまった家ですから、鍵穴を一つとっても特殊な形をしていますの。おそらく、代わりのものはできませんわ。」
室内でありながら防犯面を考えている、と推測するべきではないだろう。やはりただのこだわりのようだ。
「じゃあ中に。」カイドウが扉の前に立った。
「申し訳ありません、ここまでですわ。」双子がすぐに答えた。
「どういう了見だ。てめぇ。」カイドウが舌打ちをする。「自分の家の部屋の鍵もなくしちまうほど、バカなのかてめぇらは。」
先ほどまでうるんでいた瞳が乾いている。仕事とプライベートは別ということか、仲間でありながら感心した。
「この扉の奥に二人がそれぞれいる訳か。」私は無視して双子に話しかける。
「アン様とヨスミちゃんがいらっしゃいますわ。」
「中に入ることは。」
「なりません。」テルと思われる方が手を前へと出す。「二人は最近の町の噂のせいで疲れていますの。どうかここでしゃべる際も、お静かにして頂きたいのですわ。」挑発するような口調だ。
「町の噂というのは首を噛みちぎられた死体のことか。」
「それだけではないでしょう。もしかしてご存じなくって。」小さく嘲笑する。
私はそれらをあしらうと静かに扉に触れてから、軽く叩いた。非常に厚い扉であることが分かる。
「これでは確認の意味がないとお思いでしょう。ですが、扉の前にまで連れてきたことをぜひ、慮っていただきたいものですわ。」テルと思われる方が同じように手を前に出す。
「中にいれもしねぇで調子いいことほざいてんじゃねぇぞ。アバズレクソ女が。」カイドウが舌打ちをする。「舐めた口ききやがってぶち殺すぞ。」
「ですから私共はただ、その分、お手伝いをさせていただこうかと。」メイとテルの声が揃う。
優しそうな口調であることがより、テルとメイの印象を歪に変えていくことになる。
「余計な調査はお二人にとっても決して利益にはならないと思いますわ。」メイと思われる方が微笑む。「四姉妹の内、アン様に犯罪は不可能ですわ。」
「何故だ。」
「アン様はこの部屋に監禁されているんですもの。」
ワガツマ四姉妹が、ワガツマ ダイスケが詩人であり、その功績や生き方を尊敬していることは事実だろう。それであれば何故、同じくして詩人であり、才能を認められた存在であるアン様を監禁するのだろう。
「男が首を噛み千切られた事件当日も、か。」
「この部屋の扉の鍵は私共、テルとメイしか持っておりませんの。ですから一度鍵を閉めますと、中からはもちろん、他の誰にも開けることはできませんわ。」テルと思われる方がアンの扉へと目を向けた。
「何故そうする。」
「理由は幾つもありますけれど。アン様が詩の仕事をなさらずに出ていかれてしまうのを防ぐことが一番の理由ですわ。熱狂的なファンが屋敷内に侵入しても、アン様の部屋に入れないようにすることで安全を確保するためですわ。」
私は直ぐに手を伸ばしアンの部屋の扉のノブを回した。
固かった。
動くことはなかった。
「ヨスミちゃんの部屋も鍵をかけているのか。」私は一つ咳ばらいをした。
「こちらは基本的には掛けませんの。今は掛けておりますけれど。」
「理由は。」
「まさか、お分かりにならないのかしら。」テルとメイが甲高い声で笑う。「ヤクザとかいうおよそ下等な人種が屋敷内を二匹も歩き回っているからですわ。」
カイドウが眉間に皺を寄せて一歩前に出て二人の襟首を掴もうと手を伸ばす。私の腕がそれを反射的に制する。
「カイドウ。こいつらは、お前が襟首を掴むほどの存在なのか。」
テルとメイが歯を僅かに見せてくる。皮肉だろうか。へし折りたくなるほど綺麗な歯並びだ。
「すまないがテルとメイ、詳しく尋ねさせてもらおう。」私が一歩前へと出る。「首を噛み千切られた男の事件が起きたとされる時間帯にアンはこの部屋に監禁されて身動きが取れない状態だった。そうなればお前らワガツマ テルとワガツマ メイが犯人としての可能性が高くなる。これで良いんだな。」
私共、二人が犯人。そう言っているのも同然。
「そう言っているのですわ。」
「では次に、男が首を吊った事件の方だが。」
首を吊る。妙に言葉が頭の裏にこびりつく。
「あの事件は無意味ですわ。」鋭く言葉が飛んだ。
探られたくないのだろう。そのことは返答の速度で分かる。だが事件を解決するにあたって必要な情報を隠しているかは分からなかった。
「その事件の時はどこに。」
「探ってみてはいかがかしら。」
テルとメイのアリバイ、そして、監禁されているというアンという存在を考える。
主軸となるのはこれらの謎だろう。
「お前らはアンに様を付けている訳だが、それはやはり年上だからか。」
「私共は年齢で敬称など、そんな。」首を横に振る。「紛れもない実力ですわ。父は初めて会った時からアン様の才能をかっていましたもの。」
「アン様は父に詩を勧められるまで気づいてもいなかったようですけれど。今は取りつかれたように作品を作っておいでですわ。ですから当然、私共は様をつけて呼ぶべきかと。」
そういえば左の窓に映った影である、ヨスミちゃんの方が若干無邪気に見えたのは、当然と言えば当然だが少し残念ではあった。アンは詩人なのだ。ヨスミちゃんよりも遥かに無邪気という方が詩人として拍が付くような感じがする。
勝手な意見ではあるが。
「中に誰もいない可能性もあるんじゃねえのか。」カイドウが少し苛立ちながら扉を睨んだ。
「担当医が何人かおりますからそちらと話してみてはいかがですか。ここを出てすぐ右の坂を上がれば個人経営の小さな病院が見えますし。他にも聞きたければ他のお医者様の病院の住所もお教えいたしますわ。」
一応、控えてはおくことにした。
ただ無意味だろう。これだけの自信だ。
間違いなくそれぞれの部屋にアンとヨスミはいるのだ。
自信ありげな言い方や立ち振る舞いが鼻についた。それでしか飯の種を見つけることができない能無しである可能性も高いだろうが。
「私はあまり詩に詳しくないが、アンは詩人としてどれほどのレベルなんだ。」
「愚問なほど。」
「詩の雰囲気は。」
「評論家は神秘的と。」
「神秘的、か。」
私の経験上、誰かが言った、何々的、という単語が的を射る表現であった試しがなかった。つまりは、その詩を読むしかないというところだろう。
「評論家の皆様も他の詩人の方もそうなのですけれど。」アンがわざとらしく困ったような表情を作って見せる。「言葉について思慮の浅い方が多くて困りますわ。そうでしょう、メイさん。」
「嫌になりますわね。アカネコ探偵さんもそう思いますでしょう。」
何故か。何故だろうか。
この質問には沼を感じた。その沼の中に発言者であるワガツマ アンとメイの骨さえも見ることができる。
骨であるはずなのに笑っている。
寒気はしないまでも、私の目が細くなる。
「私も言葉については思慮が浅い方だ。余り語ることはできない。」
「語らなくともよろしいのです。」テルが微笑む。「私共四姉妹は、父であるワガツマ ダイスケの言葉を胸に刻んで生きてまいりました。それ故に、ワガツマを名乗れない者たちが、私共の考える言葉との差異を知りたいのですわ。」
「何の差異を知りたいのだ。」
「言葉は神でしょうか。」
ワガツマ ダイスケという会ったこともない人間の影がワガツマ テルとワガツマ メイの背後にちらついた。いや、ちらついたのは影ではなく言葉だろう。
私は神すら知らず、神にすら興味もない。故に反対するような気も起きなかった。
言葉が神かもしれない、とは何度か考えてきた事柄ではある訳で、そう思う気持ちが分からないではない。
「神であると言い切ることは私にはできないが、神聖なものであるとは断言し。」
「いいえ、言葉は神です。」
最初から、譲る気もない、のか。
当然だろう。
「仮に言葉が神であったとして、その神に何を望む。」
「神に望むものなどありません、神は人にこうであるべきと望まれるものですわ。」
「それは本当に神に対する思いか、どこかワガツマ ダイスケに対する考え方ではないのか。」
「つまり、私共は、言葉を神として見るのではなく。」
「ワガツマ ダイスケを神と同一視し、崇めているように感じると、私は言っている。」
「ワガツマ ダイスケが神になったというのは正確ではありませんわ。」テルとメイが同時に微笑む。「ワガツマ ダイスケは死して概念となったのです。」
「姿形を持たなくなったと。」
「そうです。最早、ワガツマ ダイスケは今、私が口に出したように言葉だけの存在となりました。」
カイドウが唾を飲み込んだのが分かる。
私はまだ早いと感じた。
「言葉は神なのですから、ワガツマ ダイスケは死して言葉になり、神となったのですわ。」
宗教のようだと思った。
いや、そもそも芸術というものに身を落とす限り、姿かたちを変えてすべては宗教のようなものだろう。
崇め奉ることで、言葉という者がより神格化され遠くになっていくと感じた。信仰はいつも実態を置き去りにする。
「では、神である言葉は何を救う。」
「人間同士が意思の疎通が図れるようにいたしますわ。」
「だが言葉が使えても、意思が伝わらない場合がある。」
「それは言葉の責任ではなく、当事者である人が言葉を十分に使えていないことに問題があるのでしょう。」
「神が人を選ぶのか。」
「誰かれ構わず救うような、ありきたりで低俗な神と一緒にしないで頂きたいものですわ。」
私は長めに息を吐いた。
誰かれ構わず救うような神は、ありきたりで低俗な神と呼ばれるそうである。随分、言葉以外の神を見下していると言える。
「神はお前らも救うのか。」
「当然ですわ。」
「何故、救われているのだと分かる。」
「救われていると感じていますもの。」
「神はそうは思っていないかもしれない。」
「そう思っております。」
「神の御心を何故、人間ごときが理解できる。」
「言葉と共に生きてきたからですわ。」
「思い上がりだ。」
「貴方に言葉の何が分かるというのですか。」
「何もかも分かる。」
「何故でしょう。」
「言葉と共に生きてきたからだ。」
「貴方と私共では言葉に触れた数が違います。」
「言葉に触れた回数で、人は言葉を上手く使えるようになるのか。」
「もちろんです。」
「言葉に触れた回数で、人は言葉の御心を分かるようになるのか。」
「そうです。」
「言葉に触れた回数で、人は言葉に救ってもらえるのか。」
「そう言っていますわ。」
「何度も言葉に触れるだけで、誰かれ構わず救うような神をなんというか知っているか。」
「さあ。」
「ありきたりで低俗な神というそうだ。」
最初にテルとメイが口に出した言葉が、今になって静かに一周した。
「ただの屁理屈ですわ。」
「屁理屈は常に言葉によってできている。」
「それはそうでしょう。」
「それならこれは神の屁理屈だ。」
テルとメイの目が細くなる。
「言葉に文句でも。」私はわざとらしく首を傾げた。
「いえ。」テルとメイは口以外動かしもしなかった。
ある種の有利性を保った状態にすることはできていたが、残念なことにそれも長くはもたないだろう。五回殴られれば六回殴り返し、十回嬲られれば十一回嬲り返し、百回殺せば百一回殺しに来るような人間であることはよく分かる。なにせ、私も同族だからだ。
この状況と勢いに任せて進んでいく。
「何故、ワガツマ ダイスケの哲学である、言葉は神である、という言葉に執着する。」
「それは事実ですもの。」
「事実であるとは言い切れない。」
「ですが事実です。」
「それは事実ではなくただの言葉だ。」
「その言葉が神だということです。」
「そもそも神がいると思うか。」
「私たちの思いに関わらず神はいます。」
「どこにいる。」
「私たちの発している言葉が神です。」
「言葉はどこにもいない。」
「ですが言葉を貴方も使っています。」
「使っているだけで存在しているという訳ではない。」
「存在していないからこそ神なのです。」
「存在していなければすべては神か。」
「存在する神などおりませんわ。」
「神を語るのか。」
「言葉によって神に語らされているのです。」
「自分の意思ではないと。」
「意思はありますが、この言葉も言葉による一つの意見です。」
「一つの意見を越えた、最早ワガツマ ダイスケの真似事でしかない。」
「神の真似事です。」
「神を真似ることが全てか。」
「神を真似ることで人はより高尚になります。」
「だが、ワガツマ ダイスケは神ではなく人間だ。」
「人間は死ぬことで言葉になり、言葉は神なのです。」
「崇拝しているのは、ワガツマ ダイスケか、それとも言葉か。」
「ワガツマ ダイスケと言葉です。」
「ワガツマ ダイスケの言葉の間違いだろう。」
「間違いなどは犯しません。」
「ワガツマ ダイスケの言葉に執着するのは受け継ぎたいからか。」
「受け継ぐことは私共の至上命題です。」
「何を受け継ぐ。」
「言葉を。」
「受け継ぎたいか。」
「当然でしょう。」
「受け継ぎたかったか。」
「意味が分かりません。」
「ワガツマ ダイスケはお前らにとってのなんだ。」
「神であり、父親です。」
「血のつながらない父親の間違いだ。」
「正確に言う必要はありません。」
「ワガツマ ダイスケと顔は似ているのか。」
「関係がないでしょう。」
「血の繋がっていない親と子にも関係などある訳がない。」
「ですが、父の思考も哲学も言葉も受け継ぎました。」
「それでお前らの体にワガツマ ダイスケと同じ血が流れるのか。」
「血が全てではありません。」
「血が全てだ。」
「何故、そう言える。」
「お前らが一番そう思っているからだ。」
酷く、その場にいる四人の呼吸音だけが耳に響いた。
「思考も哲学も言葉も、血の濃さには負けるものばかりだな。」
「しかし。」
「ワガツマ ダイスケに血の繋がった娘はいない。」
私はテルとメイに一歩近づく。
「いるのは縁もゆかりもないただの四人の女だ。」
返事は来ない。
間違いなくどもった。
テルとメイの周りの空気が張りつめたのが分かった。
当たり前だ。偉そうに噛みついてくるほどの身分でもないのに、私に話しかけるなゴミ共が。
状況を整理し、事件の関係者と思える存在が四人も増えたことを確認する。
ワガツマ メイ。
ワガツマ テル。
ワガツマ ヨスミ。
ワガツマ アン。
皆、ワガツマ ダイスケの娘である。
ヨスミちゃんが四姉妹の中で最年少の少女であるということを考えても、テル、メイ、ヨスミ、アンあたりが妥当だろう。もちろんこの四姉妹全員が何かしらの事実を握っている可能性はある。
「部屋の中でヨスミちゃんが、今、寝ていたら、ここで騒ぐのは無粋だな。カイドウ、帰ろう。」
「今度、来るときまでにてめぇらその態度は直しとけよ。眼球抉りだしてぶち殺すからな。」カイドウが言葉を吐き捨てる。
双子は微笑んでいた。
ただし。
目は笑っていなかった。
ワガツマ ダイスケという男について 評論 第四集
言葉は神である。
目に見えぬがゆえに神なのではなく、目に映るとも見えぬから神なのである。
人は神を崇め奉る際、そこに彫像を、写真を、景色を、現実にある偶像を必ず目にする。神をそこに投影することで祈り、合唱し、唱えて信仰としている。つまり目には映しているのだ。だが、そこに本当に神がいる訳ではなく、あるのはただの物である。
言葉も同じである。例えば椅子が目の前にある時、椅子というものを視界に映すことはできる。だが、椅子という言葉を見ている訳ではない。
この乖離なのだ。
本来、視界に入りながら見えないというのは不可能である。
不可能を成しえるのは、元来神と決まっており、そして言葉と決まっている。
故に言葉は神である。
このことに、ただ言葉を弄しているように感じる者もいるだろう。
しかし、言葉を弄し、言葉に弄されなければ、詩人たりえないのである。
ワガツマ ダイスケが遺した言葉のうちの一つである。
ワガツマ ダイスケの鮮烈な人生は多くのものを魅了したことは言うに及ばないが、それ故にワガツマ ダイスケの評論には彼の人生を主軸に置いたものが多く、著者のワガツマ ダイスケへの個人的な感情が漏れ出ているものや、その人生を好意的にとらえている者が多いため、評論としての価値は決して高くはないだろう。また、逆にワガツマ ダイスケが新懐古主義や二行一韻詩などの新たな技法や新語を生み出したことについて始終書かれるような、詩人のための評論になってしまっているものも多い。やはり、いずれにせよワガツマ ダイスケの生き方と詩人としての功績の両面が非常に魅力的であるということの欠点として、評論自体が両端に寄りがちになるという問題が起きていると言わざるを得ない。そのため今回はできるかぎり、生前のワガツマ ダイスケが詩人として行った仕事や、それによってどのような波及効果があったのかを語っていきたい。
まず、猪田市にある日本最大級の競技会館、井月会館の東西南北の入り口にそれぞれかけられているワガツマ ダイスケの詩についてである。井月会館は、初代日本武術協会会長である井月 椋秀の働きによって作られたものであり、日本武術の権威の象徴であるとされたことや、井月 椋秀が柔道家として活動しながらも日本古来の武術の復興に尽力し競技人口の少ないスポーツにも低い使用料で利用できるようにしたことなどから、非常に意義のある建築物とされている。
ワガツマ ダイスケの詩は東西南北の四つの入り口に次のように書かれている。
東。
夢に憧れる者はここを去れ。
西。
希望にすがる者はここを去れ。
南。
奇跡を信じる者はここを去れ。
北。
努力を愛する者はここを去れ。
ワガツマ ダイスケ自身はこの詩に対しては、勝負ごとにおける現実を書いた、と語っており、この詩はこの井月会館を訪れた選手たちに、より一層奮い立つことを要求する、覚悟の詩と呼ばれている。
また、この詩は甲子園での開会式で高校生が読んだことでも大きく取り上げられ、読んだ生徒が、甲子園という夢の舞台で読むことを一時は躊躇ったものの、それほどの覚悟でこの場所に立っていることを知ってもらいたかったと、大人びた発言をしたことでも非常に有名になった。
特に、日本人女性宇宙飛行士の篠山 時子さんがシトワ宇宙船との生中継で質問に答えた際、宇宙に持っていくことのできる数少ないほんの僅かな私物の中に、ワガツマ ダイスケの詩集を入れていると語ったことは記憶に新しく、詩に携わる者としても非常に喜ばしいことであった。スタジオのアナウンサーがその中でもお気に入りの詩はありますか、と質問した際、篠山 時子さんは、暗く輝く鳴く四角が非常に有名でわたしも好きなのですが、と前置きしたうえで、先ほどの井月会館の東西南北に分かれた詩を朗読されたのである。宇宙飛行士として訓練を積んでいたころ、幾度となく心が折れそうなときがあったが、いつも心の中でこの詩を唱えて訓練に向かっていたそうである。
ワガツマ ダイスケはこの時の篠山 時子さんの発言を聞きこのように語っている。
自分の詩が宇宙飛行士の方の心をいやしたり、勇気を奮い立たせることの一助になれたのであれば、こんなにも嬉しいことはありません。ですが篠山飛行士が朗読して下さったことで、私の詩が宇宙にこだましていると考えると、嬉しい反面どこかこっぱずかしい限りです。
そういい終えてから、堪え切れずに笑ったという。
ユズキ探偵事務所 客間
「本当に頼みますから帰ってくださいよ。」
「居心地の良いこの探偵事務所が悪い。そうだろうカイドウ。」
「そうなんだよねぇ、ユズキ君ごめんね。あとさ、ラムネとかはないの。」
「ラムネはありません。」
「おばあちゃんのところのラムネだよ、ここ置いてないの。」
「ラムネもおばあちゃんもここにはいませんから、さっさと帰ってくださいよ。」
「いいのよぉ。アカネコ君もカイドウちゃんもゆっくりしていってね。」
「そうやってウラタさんが甘やかすから二人が入り浸るんですよ。」
「ごめんなさいねぇ。」
「ウラタさんを悪く言うな。そうだろうカイドウ。」
「ユズキ君、幾ら苛立っているからってウラタさんにあたるのはちょっと。」
「もう頼むから帰ってください。」
ワガツマ邸から少し時間は飛ぶ。
約三時間半後のことだ。
いつものように私とカイドウはユズキ探偵事務所を喫茶店代わりに使っていた。いや、使ってやっていた、という方が正しいだろう。
というのもこの時間帯にユズキ探偵事務所を訪れる者などいない。そうなると中に誰もいない閑散とした店に入ろうとする客などいないのだ。
これではいけない。
中で飲み食いしてあげなければいけない。
飲み食いしてやるのだから、ユズキはお茶と菓子くらいは出さねばならない。
当然、こうなる。
というのは、もちろん冗談で、本当はこのユズキと世間話をしに来ていた。
「もう一度言います。」ユズキが私の前に顔を突き出す。「帰って下さい。」
「元々は大学の先輩、後輩だろう。固いことは言うべきではないな。」私は今まで呼んでいたワガツマ ダイスケを評論している本を閉じた。
「そうだったの。」ウラタが口に手を当てる。「だから仲が良いのねえ。」
「確かにアカネコくんと仲が良いのは認めます。ですが。」ユズキが失礼にも私を指さした。「この男は、僕の、後輩なんです。」
「あらやだ。」
「アカネコくんの方が先輩に見えちゃうんだよね。」カイドウが興味などなさそうにそう口にする。
「本当に悔しいことですが、僕もそう思います。それに、自分も何となく圧倒されてしまって初対面の時に敬語で話しかけてしまって。」ユズキが眉間にしわを寄せる。「そこからため口に移行するタイミングを見失ったまま。」
「今に至る、と。」私は目をつぶり薄っすらと初めて会った時のことを思い出した。「敬意を払っても、関係は良好にはなるが親密にはならない。気にするな。」静かに頷く。
「もういいです。勝手にしてください。」ユズキが机に寄りかかる。「ウラタさんも別に家政婦だからって、この人たちのお世話なんかしなくていいんですからね。」
ウラタはエプロンで手を拭くと、招き入れるような、仰ぐようなそんなジェスチャーをして豪快に笑った。
不思議とワガツマ テルとメイの二人の気品ある笑い声を思い出す。
そうか、この三人は同じ人間か。
ウラタはお盆の上に空になったお菓子の箱や使って汚れた濡れ布巾を乗せる。机の上を少し確認すると軽く頭を下げて部屋から出て行った。手際のよさや身のこなしは家政婦としての能力の高さを感じさせた。
扉の閉まる音が聞こえた頃には、先ほどまでいたことすら拭い去り、本題に入りやすい空気すら漂わせてくれている。ユズキが手放さない理由もそこにあるのだろう。
「ワガツマに関する噂を聞きたい。」私はユズキの目を見つめた。
「ワガツマ一族の噂、ですか。」ユズキが顎の下に手を当てた。「なぜですか。」
「ワガツマ家の娘に詫状を書かせることになった。」
ユズキが目を大きく広げてから深く息を吐いた。こちらから説明する必要もなく状況を察してくれたようだ。言葉の発達は、言葉を使わない表現も豊かにした。そのことを身をもって体感する。
「普通の探偵はなるべく目的の要素に近い証拠や証言から捜査を始めるんですけど。」ユズキが私を睨む。
「またこの話か。」
「またその態度の繰り返しですか。」
「だから噂を探してる。」
「事件というのはそんな噂じゃなくて、証言や証拠から捜査するのが普通なんです。」
「普通ではないがいつも解決はしている。」
現にそうなっている。
「僕は君に、事件はこうやって解決するものだとやり方を教えたはずですよ。」ユズキが片方の眉毛を上げて見せる。
「すまない、忘れてしまったが。特に思い出す必要はないようだ。」
現にそうなっている。
「ユズキ、噂は不確かなものだ。」
「そうでしょうとも。」
「推理をするにはそぐわない。」
「そうです。」ユズキが少し戸惑った。「だから。」
「私は推理などしない。」
ユズキが片方の眉毛を上げてからため息を一つした。
「推理というのは、真実を紡ぐ作業だ。探偵であるお前のしていることは、厳選した情報を一つの形に整えていくことで依頼人に真実を見せるということだろう。猫を探し、ものを見つけ、浮気の証拠を押さえる。」私はゆっくりと瞬きをしてみせた。「私の仕事は推理をすることではない脅すことだ。犯人に白状させることではない詫状を書かせることだ。」
「仮にそれが事実だったとしても。」
「私の仕事は真実を見つけるのではなく、現実を見せつけることにある。」足を組んでユズキを大きく視界に入れた。「真実がいつも一つであろうがどうでもいい。確かに正当な捜査方法を取れば、いち早く事件の真実を掴むことができるだろう。だが、私に必要なのは事件の外形であり、詳細な答えなど求めてもいない。真実なんて掴まなくていい、見えれば結構であるし、事件の核心など触れられなくていい、あると分かればそれでいい。凶器や時間や動機などは犯人を追い詰めるには必要だが、事件の本質に関係がないなら知る気もない。それならば厳選した情報量をこねくり回すよりも、不確定要素が多いかわりに情報量の多い噂を肺の先まで詰め込んで溺れかける方が遥かに効率的だ。」
「それが仮に効率的だったとして。」ユズキがため息をつく。
「効率的である限り、多くの問題は無視される。」私は口元を緩めて見せた。「何が必要で何が不必要なのかを見分けられないなら証拠や証言から調べるべきだ。だが、必要と不必要を正確に分けられる人間なら重要な情報が薄まって混在している大量の噂を調べる方が無難だし王道だ。」
ユズキが諦めたように視線を左上に動かす。
心配してくれているのだとは思う。
そのたびに、何度も何度もこうして同じような会話が始まり、私は新しい理屈をこねて自分の方法の正当性を話している。この会話のおかげで毎回頭の回転率を無理なく急激に上げることができているという実感がある。ある意味、これも非常に効率的である。
そのため、言葉でユズキを惑わし、いいようにあしらっている、と言われれば否定することはできないだろう。
ワガツマ ダイスケの、先ほどの評論文を思い出す。
言葉は神、なのだそうだ。
詩人、ワガツマ ダイスケがそう言うのだからそうなのだろう。
だとすれば今の私は、神の威を借る狐ということになる。虎の威を借るよりも賢く強大な権力を持った狐と言えるかもしれない。だからいつか、神にばれてしまったその時は、虎に噛み殺されるような生半可な罰ではなく、神によるおよそ考える限りの罰を受けて死ぬのだろう。
そうやって考えるようになり、恐れ、悩み、畏怖するようになるため、普通の人は少しずつ自分の行動を改めていくことになるのだろう。
目に見えないはずの神が、いや、言葉が、少しずつ現実の私たちの思考に干渉し、結果として行動にまで干渉し始める。
言葉が現実にまで干渉するようになって、言葉はいつしか神になるのか。
それは、神の見えざる手なのか。
「ではまず、最近だと、自宅で首を吊った男と首を噛みちぎられた男の話は。」
「大丈夫だ、知っている。できればいつもの通り、探偵としての所見も加えた内容で頼む。」
「当然です。」ユズキが鼻から勢いよく息を噴き出して見せた。
この場所に来る理由は決してユズキが探偵だから、ということだけではないのだ。もちろんより良い情報を得られることもそうだが、ユズキが賢いことが一番の理由だ。人間は劣ったものと優れた者が近くにいる場合、二人の平均をとるようにできている。ユズキとの会話はその点、ほぼ同じかそれ以上で収まる。簡単な話だが、考え事をするのに最も適していて、ストレスの発散をするのに最もいい相手がいるのがユズキ探偵事務所ということになる。
「ワガツマ アンとワガツマ ヨスミを知っているか。あの二人が実際にあの屋敷にいるのかどうか調べているんだが。」
「それは、間違いなくいると思います。」ユズキが自信を持ってそう言った。「少なくとも、少し前に誰かが取材に行きましたから、音声のようなものはどこかに保存されているはずですよ。」
「アカネコくんと行った時は中にも通してもらえなかったけど。」カイドウが怪訝な顔をする。
「ここだけの秘密ですよ。絶対に。」立ち上がってこちらへと近づく。
「秘密なら守ろう。」私は頷く。
「内緒話大好き。」カイドウが微笑む。
「実はですね。本当は中には入れずにワガツマ アンとヨスミの部屋の扉の前までだけだったんですよ。でも、その時丁度扉が開いてたから中に滑りこませたみたいで。」
「盗聴器か。」
「その通りです。それで音声だけは確認できたみたいなんです。ただ、その盗聴器はすぐに見つかって壊されてしまったみたいだ、とその人は言っていましたね。」
「音声は可能か。」
「連絡だけなら。」
「一応、頼む。」
私たちがこのユズキ探偵事務所を訪れる前のことだ。
ワガツマ テルとメイが言っていたお世話になっているという主治医たちとは既に電話、もしくは直接という手段で話はしていた。結論は思った通りでワガツマ アンもヨスミも生きているということであり、かつ、あのワガツマ邸にいるということだった。
生きている、という定義の誤差も考えてはみたが、一応、三食食べて生きてます、というあたりで考えて問題はないだろう。
だが、それだけだった。
アンとヨスミに関するそれ以外の情報はない。つまりは病状や会話内容、趣味、身体的特徴、診察時間、部屋の内装、診察日時、診察料金、主治医歴、診察中のナースの有無、個人的感想、担当している他の患者など、ほぼほぼ全てが個人情報ということで教えてはもらえなかった。
おそらくこちらが公庄會の人間であるということを分かった上での対応である。こちらが脛に傷を持たない者を深追いできないことを重々承知しているのだ。
「舐められたな。」
人に舐められる、というのは単に見下されたということではない。どれだけ上手い汁を啜れるかと味見をされたということでもある。本質的にはそれ以降のことの方が問題になる。
「あのお医者さんたちどうしよっか。」カイドウが目に白い光を入れて黒く塗り潰す。
「顎を砕くのはどうだ。」私はすぐに答える。
「うん。」カイドウが笑顔で頷いた。「分かった。肋骨もいっておくね。」
ユズキはその会話を聞いて少し驚いたような表情をしたが直ぐにまた戻した。驚いたような表情自体がある種のパフォーマンスだったのだろう。
「僕はワガツマ ダイスケと直接話したことがあるんですが。」ユズキが左斜め上を睨んでうなる。「代表作の、暗く輝く鳴く四角もそうですが、彼の詩は非常に神秘的なんです。僕も詳しくはありませんが、ただ過去に固執するような姿勢ではなく革新的であることも評価の高い点ですね。暗く輝く鳴く四角も、少し形を変えて色々な歌手が歌詞に混ぜて使っていますし、ワガツマ ダイスケ自身もそれを咎めませんでしたから。」
「暗く輝く鳴く四角はそんなにも素晴らしいのか。」
「知らないんですか。」
「そういうわけではないが、特に知りたくもない。」
「もともとの背景が素晴らしいですからね、あの詩は。」ユズキが腕を組む。「ワガツマ ダイスケという人の生き方がそもそも詩なんですよ。惚れる人というのはその人生や哲学、行動に感動して彼のファンになっていくんです。私は決してファンではないですけど、直接会ったことでなおのこと憧れましたよ、ああいう生き方に。」
「すればいい。」
「とんでもない。できませんよ、あんな生き方真似できるものじゃない。」ユズキが首を左右に振って見せる。
「だからこそ、か。」私はかみしめる様に言った。
「死んでからワガツマ ダイスケの人生が絵本になったり二時間くらいのドラマになって放送されたこともありましたね。大抵の人が生前のワガツマ ダイスケの行動を知っていますし、物語として新鮮さはなかったみたいですがそれでも大きな話題になったものです。」
「私は知らないのだが。」
「アカネコくんは浮世離れしすぎです。」ユズキがため息をつく。「それに生み出した詩の作品としての価値も非常に高かったんですよ。暗く輝く鳴く四角なんて非の打ち所がないですし。」
「あたしは、暗く輝く鳴く四角って詩はよく分かんなかったなぁ。」カイドウが首を捻ると笑った。「でも、ワガツマ ダイスケってめちゃくちゃかっこいいよね。確か何かの事件に巻き込まれてから片方の指が全部ないんでしょ。」
少し驚いた。
「でもその事件を起こした相手を絶対に恨まなかったんだよ。死ななかったから十分だって、そう言ってた映像をネットで見たことあるからたぶん間違いないし。」かみしめるように頷く。「確かにいろんな人がワガツマ ダイスケに付いていきたくなった気持ちは凄い分かるんだよね。カリスマ性というよりも。」
「温かい人、でしたからね。」ユズキが微笑む。
「あたしは会ったことないけど、確かにすごくそんな感じするんだよね。」
ここまで語ってはもらったが詫状業務をするにあたっては詳細まで知る必要はないだろう。
「そういえば、アンのことをアン様、と言っていたな。」
「確かにアンさんのファンはみな、アン様と言いますね。背景にはワガツマ ダイスケが四姉妹の中でも詩の才能があると言っていたことから、なんて色々ありますけど。たぶん、十中八九、ワガツマ ダイスケのファンだった人間が。」
「ワガツマ ダイスケの死によって、ファンとしての思いをどこに向けるべきか方向を見失い、丁度でてきた後継者らしき存在の、ワガツマ アン、にその思いを向けた、と。」
思いは当然、ある対象によって生じることが多いものだ。しかし時間の経過と対象の喪失はいつしか思いを主軸にとらえ始める。思いを持続させるために対象を探すのである。外的要因によって発生したはずの摩擦熱が、その熱を失わないために自ら外的要因を探しに行くようなものだ。奇妙だが往々にして社会ではよく見受けられる。滑稽な話だ。
「そんなところでしょう。ワガツマ ダイスケは生きている間も神様と呼ばれたりしていましたし、それに。」
「死んでとうとう本物になった訳か。」私は鼻で笑った。
死ぬのに丁度いいタイミングで死んだのだろう。運が良い。
カイドウが何かをせっせと書いていたので、首をかしげてのぞき込んでみる。
メモに書いている。
「書いてないと四人もいるから名前忘れちゃってさ。」
白い紙に、黒いインクで。
アン。テル、メイ。ヨスミちゃん。と、ある。
「テルとメイはなぜ、丸ではなくて点なんだ。」
「だって双子でどっちが上か分からないし、アン様っていう詩人が上にいて、その後にあのクソ双子で、最後はヨスミちゃんでしょ。その上で、テルのほうがメイよりは上っぽいかなって思ってさ。」
クソ双子、か。
おそらく、このクソの部分はボケ、カス、クズ、バカ、ゴミにも入れ替わるだろう。
こうご期待というところだろう。
ユズキがそんな私とカイドウの会話を聞きながら、何かを思い出したように目を広げた。目を広げる前に口を広げればより早く情報を伝えられると教えようと思ったが、知っていそうなのでやめておいた。
「そういえば知っていますか。アンさんは墨汁を使って半紙に詩を書かれるんです。」
「書道家としての一面もあるんだ。それは、すごいね。」カイドウが素直に驚いた表情を見せる。
「凄い字を書くんですよ。」
「見てみたいかも。」
「凄い字すぎて。」ユズキがカイドウの目を見つめる。「もはや読めないんです。」
それは詩人としていかがなものか、という言葉は喉元まで出かかったが、飲み込むことにした。口に出さなくとも伝わる内容に感じたからだ。
「読めない詩を書かれる上に、なんと書いてあるのかを公式で発表することもないんです。もしかしたら墨汁を使った抽象画を描いていて、そちらの方面の才能があるのかもしれません。」
「それなら詩人じゃなくてそうやって売り出せばいいのに。」
「僕もそう思います。そこで、ここからは僕の憶測なんですが、きっとプロデューサーかなんかがいて、ワガツマ ダイスケの娘であるというネームバリューや販売戦略などを鑑みたんですよ。その上で、画家ではなく詩人として売り出した方が儲けが大きいと踏んだのではないかと。」
セルフプロデュースの可能性もあるが、今は目を瞑っておこう。
「ある詩人の子供が画家としてデビューする場合と詩人としてデビューする場合を考えたた訳だ。」私は下らないな、と口に出しそうになり軽く目をつぶった。「それなら詩人としてデビューした方が拍が付くことは往々にしてあるだろう。」
そもそも絵画と言葉の親和性は高く疑う点は一切ないと言える。これは言葉をより抽象化し、詩の根源的な部分へと着手する意欲的な手法である。
と。説明されれば妄信するファンはさらに過熱するだろう。個性、独特、唯一無二、都合の良い無個性な言葉が飛び交うはずだ。
しかし、よくも評論家も神秘的などと表現できたものである。最早、近代的、都会的、創造的、被虐的、でもなんでもいいのだろう。盛り上がっているから何となく褒めておけば問題ないはずだ、という腹に違いない。
「実際にアンさんとアカネコ探偵くんたちを会わせようとしなかったのは、その才能のなさを隠すためかもしれないですよ。」
「でも、わたしたち、直接、会って話すだけで詩人としての才能があるかどうかなんてわからないし。」
「違いますよ、アカネコ探偵くんとカイドウさんが分かるかどうかはもはや問題ではありません。重要なのは分かる人間がこの世の中に少なくとも何人かはいるということです。」
「なるほど、誰がそれを見抜けるかどうかは分からないわけだから、片っ端から面会させないようにするのが一番得策になるってことか。」
「実はアンに詩人としての才能がない可能性、というのはもしかしたらこれからの詫状業務に必要な考え方かもしれないな。」私は呟く。
「今後どうなるにせよ、分かったことがあったら連絡をしますよ。」ユズキが微笑んだ。
アンに詩人としての才能がないという可能性は考えるべきだろう。
アンの下であるテルとメイはその事実が分かることだろうが、よりその下にいるヨスミちゃんは難しいはずだ。
そんなことを考えると不意に思ってしまう。
ヨスミちゃんの目には自分よりも年上のアン、テル、メイの三人はどのように映るのだろう。
考えるだけ無駄だろうか。
長女をアンとして、次女と三女をテルとメイ、四女にヨスミが位置するこの状況も、私とカイドウに似たようなものも感じた。
ヨスミちゃんと呼ばれる少女の存在が、酸素を限りなく薄めていた。思考の息継ぎの場所を探し、視点をユズキへと無理に切り替える。上手くなった自分に少しばかりの吐き気を覚えた。
ユズキの探偵としての所見がほぼなかったのは、おそらくまだ考えがまとまっていないということか、もしくはコンタクトを取るという形で協力したため、それ以上のサービスを排除したということか。後者であればかなり現金な人間ということになる。だが、損得で動く人間が最も正直者だ。それ以外を信用する方が無理がある。
「アカネコくん。」ユズキがこちらを見ないまま口を開く。「あの双子に、言葉は神でしょうか、と聞かれませんでしたか。」
そこで、不意に思い出す。
そうだ、言葉について聞かれた。
最近、言葉について思慮の浅い人間が多い。
アカネコ探偵さんはどう思いますか。
そう、聞かれた。
「あの質問は。」
「沼ですね。」
心から同意できた。
「答えたら次から次へと言葉が飛んできた。」そこで言葉を切って息を吐く。「永遠に続いていくように感じられたな。」
ワガツマ メイとワガツマ テルの発言は、一種の言葉というものに対する偏愛、もしくは恋愛、そう感じられた。呪い、でもいいかもしれない。
言葉に執着するように、とワガツマ ダイスケに教育されたのだろう。
「ワガツマ ダイスケは四姉妹に嘘をつかないように、とよく言っていたようです。」ユズキの淡々とした口調が聞こえる。「そういう言葉を与えたようです。」
「その約束を。」私は首を振った。「その言葉を四姉妹は守るのか。」
「父の言葉ですから、守るでしょうね。」
家族という繋がりや恋人という繋がり、友人という繋がり、自然という繋がり、常識という繋がり、他人という繋がり、道徳という繋がり、他にも繋がりがある。
その中でも強固と言えるのが言葉という繋がりなのだろう。
言葉は全ての繋がりに少なからず絡みつき、そして繋がりそのものの場合もある。
しがらみと言い換えてもいいのだろう。神聖でありながら、尊くもあり、繋がりとも呼ばれ、最後には呪いにすらなったのだ。
「ワガツマ ダイスケは多くの人とつながっていましたからね。」ユズキが微笑む。「時の総理大臣や芸能人、歌手、伝統芸能に携わる方々や、海外の国賓級の方もいましたが、そのどれもが彼の生き方に感化された人ばかりでしたから。」
偉大なのだろう。
ワガツマ ダイスケという詩人は。
私にはまだ分からない。
「そろそろ出るとしよう。」
「次はどこに行くんですか。車でも出しましょうか。」
「大丈夫だ。目的地までの移動手段もあるし、移動手段自体が捜査そのものでもある。」
「移動手段かつ捜査ですか。」ユズキが繰り返す。「それは、どういう意味で。」
「移動手段かつ捜査だ。それ以上でもそれ以下でもない。」
「とにかく大丈夫だから、ユズキくんは心配しないで。」カイドウが何故かユズキにピースをしてみせた。「ここからは暴力団のお仕事だもん。」
ワガツマ ダイスケは詩人である。
死してなお、人と言葉をつなぐ詩人である。
車中
ある程度情報を集めるための効率的な方法を考えると。
当然、情報の集まっている場所に向かうことになる。
次にその候補の改善点を探ると。
当然、情報の集まっている場所にわざわざ向かわなければならないことが非効率的だと気が付くことになる。
その次に改善案を提示すると。
当然、情報の方から集まる方が効率的ということになる。
最後に実現可能にすると。
当然、暴力と権力を使うことになる。
「本当に役に立たねぇやつだな。」カイドウが色白の男の服を掴んで自分の方へと手繰り寄せる。「死ぬか、おい、死にてぇのか。」
色白の男はカイドウが少し前に右手の指の爪をすべて剥がしたので、その激痛で意識が朦朧としているようだった。おそらく本当に意識があったとしても朦朧としたふりくらいはするだろう。これ以上何か有益な情報も喋りそうもないので、その朦朧ついでに死んでくれても構わなかった。
「カイドウ、無理だな。この男も何も知らないとみて間違いないだろう。」
「でも、もう六人目だよ。」
「六人でも七人でも、情報が集まらない限りはそこに差はない。」
私は車の扉をスライドさせて開くと、運転手に万札を二枚渡した。
「すまなかった。連れて行ってくれ。」
カイドウも男を床に倒してから車を降りる。運転席に丁寧に頭を下げ、車が走り去るのを見送ると私の方に小走りで来る。
「結構、時間かかっちゃうね。」
「自分から情報を探しに行くよりは遥かにましだろう。」私はたった今携帯電話に届いていたメールの内容を確かめる。「運悪く、中々情報は集まらない。だが、運よく、次も車はこの辺りを走っているようだ。」
そうこうしているうちに車のエンジンの音が近づいてくるのが分かった。
今度は駐車場へと黒いバンが入ってくる。形は決して新しくはないが、フルスモーク故の異様な圧を感じることができる。人間以上の強度で人間以上の速度を出す禍々しい何かではあるのだから、これくらいは当然だろう。
「次も頑張らなくちゃ。」カイドウが微笑む。
「頑張らないようにするために、この手段で情報を集めているんだがな。」私は鼻で笑った。
音もなく私とカイドウの隣に停車したバンへ、私はそのまま、カイドウは反対側から乗り込んだ。
偶然にも扉を開けるタイミングは同じだった。車中に光が充満する。そして図ったように閉めるタイミングも同じだった。車中の光が沈殿する。
「てめぇも大変だな。」カイドウが歯を見せて車中の背の低い男に笑いかけた。
黒いバンの中は思ったよりも広い。カイドウと私が一人の男を挟んで話しかけるには十分な広さだった。その上、真ん中の男は体を小さくして、椅子に触れるか触れないか程度で浅く座っている。より広く感じて快適そのものだった。
「公庄會に連れていかれるって聞いてて。」男が私とカイドウを順にみる。「これって。」
「お前がこの公庄會のシマで何の犯罪を行ったかは興味もない。」私は男の方に目を向けることもなく足を組んだ。「だが、結果今お前は公庄會の人間に拉致され、公庄會本部の拷問部屋に行くことになっている。」
男が僅かに震える。
今朝、強姦魔を拷問して詫状を書かせたが、反応はほぼこの男と同じだった。反応の種類が少なく飽き飽きする。
「詫状業務を知っているか。」
無意味な確認だ。
「いえ知りません、けど。」
それはそうだろう。一応、公平にするために話はしておく。
「私たちも詫状業務を行っているが、私たちの目当ては、とある四姉妹であってお前ではない。公庄會では常に並行して何人かの構成員が詫状業務にあたっていてな。」私は男を無視して話し続ける。「私たちはキャリアが長いから、詫状業務を行っている人間の六割以上が後輩にあたるわけだ。そのためお前らを公庄會の拷問部屋へと運ぶ車に連絡を入れることで。」
拳を作り近くのスモークガラスに拳を叩きつける。
車が鈍く大きく音を立てる。
男が驚きの余りまたより小さく体を折りたたむ。
そこで沈黙してみせる。
「拷問部屋に連れていかれる途中のお前らゴミ共と会話をすることができている。」
実際のところ、情報を集めるのに手っ取り早い方法は自分の持てる手段を見境なく使うことにある。特に自分の積み上げてきたキャリアというのは、気にするような相手であれば面白いくらいの効果を発揮する。社会とは、自分の価値をいかに相手に高く見積もらせるかにある。
目の前にいる男はそれができなかったからここにいるのだろう。不憫には思えないので、この男の人生は無視することにした。人間ができる行動の中で無視が最も有益だと思う。
「拉致されている者に話を聞くのはお前で七人目になる。」
詫状業務だけではなく、他の組との小さな小競り合いで相手の組の人間を拉致したことも数には入れている。だが些末なことだ。そこに意味はない。
「さすがにこれ以上、無駄に時間を過ごしたくはない。」
「ちゃんとまともなこと喋れよ。」カイドウが拳を男の顎に軽く当てる。「あれ。でも、アカネコくん、この人の前の前の人は結構ちゃんと教えてくれたじゃん。」
「ワガツマ ダイスケのファンとかいう女だったな。」私は女の顔を思い出す気にもならなかった。「暗く輝く鳴く四角以外にも代表作があると言って喋り続けて耳障りだったが。」
何故、あんなにも喋り続けられるのか、理解できない。
これから拷問部屋に連れていかれると分かっているのに、心証を悪くすることにあそこまで腕が立つのは表彰ものだ。
「他にも、最近の町の警察官はやる気がないって言ってたじゃん。」カイドウは腕を組んで見せる。
「言ってはいたな。」私は苦笑した。
「何かありそうだね。やる気のない警察官が生まれた秘密が。」
「他の証言よりは警察という単語が絡んでいる分、気にした方がいいかもな。」
「アカネコ君は、それしか思わなかったの。」カイドウが驚いた表情をしてみせる。
「それ以外何を思えばいいというんだ。」
「なんで、そんなに気にならないのかなぁ。警察官はやる気があって当然だよ。それがなくなるなんて、何かは絶対にあるよ。」
「何故、そう思う。」
「乙女の勘、かな。」
ただの勘よりははるかにましであると思う。
「わっ、わたしは。」男の顔が急激に赤く変色し始めた。「わたしはこんなっ、お前らみたいなヤクザに拉致されるようなことをした覚えはないっ。」急に叫び、膝の上で拳を強く握っている。
身分の違いと今の状況が理解できていない、こういう輩はいるものだ。
この男の向けたものではないが、カイドウと私で会話をしていたのだから、その内容を薄っすらとでも聞いていたはずである。口答えをしてもいい相手だと思われたのだとすればかなり心外だ。そう思われてもいいような言葉など何一つ吐いているつもりはなかった。それとも、状況や私たちの発している言葉から読み取れる内容を嘘だとでも思ったのか。
言葉が言葉として機能するのは、使うことで意味が通じるという信用があるためだ。言葉を信用しないのは、もしも神と例えるなら信仰心の欠如だろう。
言霊という考え方が文化的に根付いたのも、そこにあるように思う。言葉は本来、目に見えず、触れられもせず、物理的な力も持たないものである。けれど、言葉が通じ合うためには、言葉を使うことで意志の疎通が図れるという、言葉に対する信用が必要となったのだ。言葉としての本来の機能を使うためには、信仰心は必要不可欠だったのである。
信仰の対象は往々にして神しかなりえない。つまり、言葉に力を持たせるために信仰を行ったことで、結果的に言葉は神になりえたのだ。
言葉は、成り上がりの神か。
目の前にいる男がそんなことすら考えず、言葉を吐き出したことは分かっていた。頭を戻して目の前の男の対処を考える。
いつもであれば、非常に扱いが困るので大抵は歯を二三本折って静かにさせる。だが、口がきけなくなっても困るのでこの方法は使えないようだ。残念である。
「おい、てめぇ何言ってやがんだこの野郎。」カイドウが口調を一気に変えて、軽く腰を浮かす。「あたしら公庄會に拉致されている時点でもうある程度容疑は固まってんだよ。ぐだぐだ言ってるとてめぇぶち殺しちまうぞこの野郎っ。」
「でっ、でもお前らは別に何か知っている訳でもないんだろう。」男は鼻を鳴らした。
論理的でも何でもない。何故、こんなクソ男の相手をしなければならないのだろう。
「お前は、スーツもシャツもネクタイも皺だらけだな。」私は男の方を見ずないまま話しかけた。
「べ、別に構わないだろ。」
「結婚指輪もつけているし、家族はいる。」
「だったらなんだ。」
「さきほど。」私は男の財布を手に取って見せた。「財布の中身を見せてもらった。」
「あ。」男が自分のポケットを探してから財布を素早く取り返す。「なっ、なんて奴だ。」
「住んでいる場所はこの近くだった。」私は鼻で笑う。「だが、何故か電車の定期券は都営線ではなく国営の線路の方だったな。」
「何がいけない。」
「家からなら国営よりも都営の方が近いだろう。」
「別に。」
「それに会社の場所を考えても都営の方が若干安い。」
「そんな細かいことを言われても。」
「仮にお前の会社が九時始業であった場合、お前は七時四十分には国営の駅から電車に乗ることになる。あの時間は高校生も多いから非常に混むそうだ。」
「だからなんだ。」
「だからたくさん出るそうだ。」
「何が出るんだ。」
「痴漢だよ。」
男の顔色が変わった。
「最近、女子高生が駅のホームから突き飛ばされて亡くなったそうだ。」
男の目が泳ぐ。
「お前の家族との仲は冷え切っている。」
「だとしたらなんだ。」
「そのせいで、自分の娘が髪の色を黒髪から金髪に変えたことも知らなかったんだろう。」
「何が言いたい。」
「殺された女子高生とお前の苗字は一緒だな。」
「それが何だっ。」
「お前は。」私は男の目を見つめた。「自分の娘を痴漢してしまったな。」
女子高生は驚いた表情をして電車から降りたらしい。
そのまま走ったが後ろから会社員らしき影が追いつき、捕まえようと手を伸ばした。つかみ切れず、むしろ転ぶような形で倒れて女子高生が突き飛ばされる。
反対側のホームへと落ちる。電車がその上を滑らかに通る。
誰も知らない速度には現実がつかまっていた。その結果だ。
運転席にいた構成員がバックミラーでこちらを僅かに見てから何度か軽くうなずいて見せる。直ぐにバックミラーを動かしてお互いの顔が見えないようにすると窓を開けて外の空気を僅かに中へと流し込んだ。
「人も多く、偶然にも監視カメラの死角になって犯人の顔は分からなかった、とか言っていたな、ニュースでは。」私は鼻で笑った。「少し前に、テレビのニュースや週刊誌で騒いでいただろう。」
男はどこか開き直るような表情で鼻で笑うと、背もたれに体を預けた。
「できればワガツマ関係がいいが、この際なんでもいい。町で気になるようなことを教えてほしい。」
男は少しの間、放心状態で何の反応も示さなかったが、頭を数回掻くと私の目を見つめた。憎むような感情は含まれていなかったと思う。むしろ理解者を見つけたかのような目の潤み方だった。
「自分でもよく分からなくてすまないけれど、腕のいい歯医者がいる、という噂は最近聞くようになったかな。」
私とカイドウは顔を見合わせた。
これにより、この腕のいい歯医者がいる、という噂はこの男も含めて全員が言っていたことになった。
確かに、特に内容に突飛さもなければオカルト的な要素もない噂だ。にもかかわらず噂として成り立っている。ある意味、一番突飛な噂だろう。
「君らって、ヤクザなの、探偵なの。」
答えに困る。
そういう場合は、大抵質問が悪い。
私が無視してカイドウに合図を送ると、カイドウが運転席の男に次の捜査をするための目的地まで送ってほしいと告げた。これ以上聞き込みをする人数を増やしても膠着するだけだ。
「ねぇ、どうなの。」
これは質問ではなく、質問者が悪い。
カイドウが、男の鼻の骨を肘で磨り潰すまでおよそ二秒半。
某アパート 一〇四号室
余り、来たくはなかった。
何も考えずに車を降り、扉を閉め、階段を上り、中へと入る。
この場で死体が発見された。
第二の事件の現場だ。
首を吊っていたそうだ。
首吊りという単語から生まれる、この不快感。
ラムネで流し込みたくなる。
自殺ではなく他殺だということは分かっているのだから大したものだ。後は犯人が分かればなお良いだろう。
ワガツマ一族のうちの誰かであることは分かっている。
だが、どうしてもその先がないのだ。
部屋はお世辞にも綺麗とは言えなかった。ずっと敷いてあると思われるカーペットには染みがあり、踏むと足にくっついてくる。机の上には雑誌とビール缶と未使用のコンドームが数個。カーペットの裏に挟まるようにあったのは、幾つかのブランド物の財布で若干の使用感がある。窓のすぐ横にあるチェストには何故か小さなクリスマスツリーが飾られていた。モールや星などが吊るされている訳もなく、周りには蜘蛛が巣を作ってプレゼントを待ち構えている。
巣ができるほど放置しているのか。蜘蛛が嫌いで巣ができてしまったから放置しているのか。
どちらでも構わない。
息を吹きかけると、巣の上にいた蜘蛛が細かく足を動かして奥へと姿を消した。
君の巣があるこの人間の巣は、もう誰のものでもないのだ。自由に使わないとは随分謙虚な蜘蛛のようだ。指で磨り潰されても、わざわざすみません、と文句も言わずに死ぬのだろう。
「ここで男の人が首を吊らされたのは、わたしたちが強姦魔を拷問して詫状を書かせた日と同じ日だったんだって。」カイドウが部屋の中を訝し気に見回す。
「関連性はないだろうな。」
この殺人現場に来たのも、一応、という意味合いがかなり強かった。
警察は首を噛みちぎられた男と、首を吊るされた男の事件はどちらもワガツマ一族が絡んでいるとみている。そして公庄會もそう考えている。
公庄會からすると、首を噛みちぎられた男の事件は詫状対象となるが、首吊の方は詫状対象外となる。二つを分けた理由はもちろんどちらが刺激的で広告的であるかだ。そのため厳密にいえば、この事件の現場にまで私とカイドウが足を運ぶ意味はなかった。何かきっかけさえつかめれば、という意図で来ていた。ただ、警察では現場百篇というらしい、その道の仕事人の考え方である。学ぶべきところはあるだろう。模倣は往々にして本質を理解した行動と同等の価値を与えてくれる。意味は行為のせいで常に置き去りだ。
「今、警察の人も偶然、何故かこの現場にはいないしね。」カイドウがへらへらと笑う。「偶然ね。」
「そうだな。」私は幾つか携帯で写真を撮った。「持ち場を偶然離れていたのだから、こうして偶然、暴力団の構成員に現場に入られてしまったわけだ。」
「これは偶然起きた悲劇だね。」カイドウが笑顔で私を見る。
そう、すべて偶然が悪いのだ。
私の頭の中には偶然警察から手に入れた男のデータがある。
男の名前はフラノだ。
スキンヘッドで中肉中背であり、無職である。
手術歴はないようだ。
すべての情報を余すことなく統合し、自分なりの考え方も含めた結論は。
「特徴のない男だ。」
「なおのこと殺された理由が分かりにくいよね。」
動機から真相を手繰り寄せるのは難しいだろう。
交友関係もほぼほぼなく、静かに暮らしていたようだ。だからこそ、ワガツマ一族との関係性が色濃くでてきてもおかしくないのだが、残念ながらそうはなっていない。むしろ被害者の影が薄すぎて誰が殺されたのかすら分からない。生きている意味も見いだせないような人間が死んだようだ。最早死んだというのもおこがましい。
無色透明殺人だろう。
机の上に無造作に置かれたチラシがクリップで止められている。チラシの裏にはボールペンで日付と言葉、それを丸で囲っている。おそらく簡易的な日記帳なのだろう。基本的には一行、ないしは二行、というようなもので大した文字数ではない。日付が進むごとに文字数は明らかに少なくなっている。
とある日付にこう書かれていた。
サイレンがまた鳴った。
次の日付にこう書かれていた。
サイレンが二回鳴った。
それから日記は日付が飛ぶようになっていき、書かれている内容もカタカナで、サ、と書き、その隣に数字を書くという簡易的なものになっていった。
サ、はサイレンのことで、数字はそのサイレンが何度鳴ったのか、だろう。
こんなアパートに正直サイレンの設備がなされているとは思えない。見る人が見れば建築基準法に引っかかっていることは一目瞭然だろう。それに治安は悪いまでもそう日に何度も救急車やパトカーのサイレンの音を聞くような街でもないのは明白だ。
「ワガツマ四姉妹の生活とは大きな差があるね。」
「聞きたいことがある。」
「アカネコくんからあたしに質問なんて珍しいね。」
「正直、ワガツマ四姉妹の誰が犯人であると思う。」
「テルとメイのどっちかか、両方かな。」
分からないでもない。
「アカネコくんは。」
「まだアンとヨスミちゃんに会ったわけではないので、正確なことは言えないが。」私は腕を組む。「年齢的なことを考えれば殺人が可能なのはテルかメイかアンだろう。」
「だよね。」
「だが、テルかメイのどちらかが協力すればヨスミちゃんにも殺人は可能だ。」私は頭を掻いた。「ヨスミを凶器にして男の首を噛みちぎらせる。そうすれば死体に残った歯型はヨスミのものとなるが、三歳ほどの少女に殺人ができるとは思えないので迷宮入りとなる。」
「それ、本気で言ってるの。」
「人が本気であるかどうかは現実に起こる事象とは無関係だ。」
「他には、例えば男の方がヨスミちゃんに自分の首を噛みちぎらせたとか。」
「そういう性癖ということか、確かにオートアサシノフィリアの可能性は否定できない。」
「オート、何て言ったの。」
「自分が殺されることに性的興奮を覚える性的な嗜好のことだ。」私はカイドウの方を向いた。「オートアサシノフィリア、と言う。」
「一度きりしかできないね。」
「どんな人間にとっても死ぬのは一大イベントだ。盛り上がるようにフェス自殺でも企画すれば大勢集まるだろう。」
改めて周りを見渡した。するとどうやらこの男が貧しかったことは間違いないように思えた。それは部屋にある食品の安売りシールや、壊れかけの家具を使っている点、アパート自体の質の低さからも推測できる。このあたりであれば一般的な収入があればもう少し良いアパートなど腐るほどあるだろう。
わざわざこの部屋を借りている点はなんだろうか。
お金がない、これは一般的だろう。
もう一つは、この部屋自体に意味がある、というものだ。
これは候補としては考えるに値するだろう。
例えば、女性目当てというのもある。
但し、これはこのアパートに女性が住んでいないという点で消える。
次にこのアパートの周りに何かがある。これに関してはあってもコンビニ程度でほぼ空き地のため消える。
最後に単純な好み、というのも考えてみる。
これについても、引っ越し資金、という名の貯金箱があるため間違いなく消える。中には余りお金は入っていないがこのアパートに満足していなかったことは推察できる。
そうなると、この貧しい生活を強いられていた男は何で生計を立てていたのだろう。近くのコンビニでのアルバイトだろうか。
だが警察にそこまでこのフラノという男の情報は集まっていないようだ。そのことを鑑みるに、おそらくこのコンビニでアルバイトはしていないのだろう。
収入減が見つからない。
どこなのか金の出どころは。
当然この男はこの場所で生きていた。ワガツマ家の誰かに殺されるまでは生きていたはずなのだ。人間は経済活動をしなくとも生きてはいけるが、生きていくべきではない。少なくとも経済はそう人間を教育している。御多分に漏れずこのフラノという男もその教育を受け、経済活動の輪の一部だったのだろう。
ここから離れた場所でアルバイト、それとも契約社員、いや正社員をしていた可能性もある。書類を廃棄してしまっているだけだとも考えられる。
警察の捜査がどれほど広がっているのかが気になるところである。
ただの首吊りではあるし首を噛みちぎられた男の事件と関係性はあっても確証があるわけでもないはずだ。力の入れ具合によっては、私が調べなくともおいおい知らせてもらえる場合もある。同時進行でこちらも捜査をするのだから、まだ手の及んでいない場所をする方が効率がいいだろう。
情報がこのままほぼ見つからずじまいだと仮定するとこの男、フラノ、場合によってはずっと外に出ていなかった可能性もある。そうであれば警察でさえ分かるはずもないのだ。
出なくてもよかったか。
もしくは出たくとも、出る意味を見失っていたか。
もっともらしいのは無職だ。理由はリストラだろう。首切りにでもあったばかりなのかもしれない。
「首切りではなくて。」私は不意に言葉を漏らした。「首吊りか。」
冗談でもなかったので笑顔も生まれない。
カイドウがうつむく。
「あんまり考えないようにしたいな、そういうの。」
少し間をおいてから私の頭の中で思考がゆっくりと進む。
分かっている。そのつもりだ。
だが。
「私は気にしてはいないし、気にしなくともいい。」
そんな投げやりな言葉であしらおうとする。
首吊り、というそんな言葉が引き金になって手足がわずかにしびれる。ピントが合わずに世界がゆがむ。吐き気はないが不快ではある。呼吸が少し早くなるだろうと予測して、今のうちに静かに深呼吸をする。
正確には違うのだ。首吊り、という言葉に特に何の意味合いも感じてはいなかった。ただ、そうではなくて、一つの現象や死因として見る分には問題はなくとも、そこに人間の感情や背景を読み取ると途端にその言葉が体を侵食する。
無意味な不安だ。
駄目だ。少し時間を置きたくなる。
「気にするな。」自分に向かってそう言った。
首を吊った男の姿というのは、ただそこに現実が縄で縛られて吊るされているようにさえ見えるものだ。どこにも逃げないように縛ったはずなのに、縛りすぎて死んでしまい、もはや縛る必要がなくなってしまう。
実際にこのフラノという男の死体を見なくてすんだのは、幸運だった、と思う。
私の経験上、人生において首吊り死体などは視界に映す意味すらないと断言できる。
現在から過去へと少し意識が飛ぶ。
だから嫌なのだ。
首吊りは。
カイドウが躊躇いがちに口を開いた。
「ごめん。」
現実とは不都合であるし、また、不都合でないものは現実ではない。
「謝る必要はない。」
この話題はいつも必ずカイドウの口から謝罪の言葉を引き出してしまう。そのような意図がないと伝わっても同じだ。
「もう十五年以上も前になるね。この人と同じように。」
カイドウが目をつぶる。
「アカネコくんのお父さんが首を吊ったのは。」
十五年と八か月と十三日前だ。
私の父親は首を吊った。
いや、吊るされた。
「そうだな。」
そうだよ、カイドウ。
お前の父親の、言葉の一つ一つが。
私の父親の無能さの、一つ一つが。
ゆっくりと丁寧に、首を締めあげていった。
そう、間違いなく。
「今更だな。」
私の父親は、お前の父親に殺された。
「今更だ。」
何度繰り返しても、今更だった。
「アカネコくんはよく言ってくれるでしょ。」カイドウが視線を落とす。「あたしのお父さんは公庄會の構成員だったから。業務の一環としてアカネコくんのお父さんを追い詰めただけ。だから、気にする必要はないって。でもさ。」
気にしたところで解決などしないし、意味などない。
それに、すべては首を吊った父の姿を見た時がはじまりだった。
「首吊り死体は、だから嫌いだ。」私はごまかす様に鼻で笑った。
自分でも思う。
下手糞なつくろい方だ。
カイドウの父親に追い込まれて私の父が自殺したこともあり、私の一族、アカネコ一族はこうして公庄會の下僕に成り下がった。
そのことは事実だ。覆せる日は、来ないだろう。
実際のところを言えば、私の一族で探偵をしていたのは、父方の祖父と兄弟、そして母だった。父は探偵としてはそれなりの能力はあったが一流にはほど遠かった。一流、二流、三流などというランクは存在しないのだ。一流とそれ以外がいるのみだ。
私の父はまさにそれ以外だった。
だから。
だからだろうか。
経営という形で自分の存在を大きく見せたかったのだろうか。
私は決して父のことは嫌いではなかった。むしろ探偵として優秀だった母よりも好きだった。
人から尊敬されたいのであれば何かで一流である必要がある。人から愛されたいのであれば何かが三流でなければならないのである。そういう点で言えば父はほんの少しの一流さと多くの三流さを抱えて生きていた。
等身大の人間だった。
つまり。
責任を感じて首を吊るには丁度いい役回りだった。
皮肉にも、そう思えた。
カイドウに対して怒りがあるわけではないのだ。今更なにがどうなろうと問題は問題として横たわるだけだ。八方手を尽くしても状況は変化しない。けれど間違いなく私とカイドウの間には何かがある。
決して、誇るべきではない何かがあるのだ。
「いつも、こんな会話になるけど。」
お互い分かっていることを再確認していく。
「今、こうやってさ、公庄會の中でわたしとアカネコくんが組んで仕事してるなんてさ、その、なんていうか。」
部屋の中へと風が入り、物を無造作に動かす。
「宿命を感じてしまうな。」私は長く息を吐いた。
「言っていることは分かるよ。でも、なんでかな。」カイドウが私の目を見つめる。「運命より宿命の方が、冷たそうだよね。」そう言い終えて微笑む。
不思議で湿った。
冗談めかした言葉だった。
自分の人生すら冗談の連続で、つまらないオチもつかずに幕が降りるのだろうと想像する。
言葉は少ないまま時間は過ぎていった。何度も交わした会話だが慣れる日は来ないだろう。それなら最初から避ければよかったとも思う。だというのに引力のようにどうしても近づいてしまう。いつか言葉に殺されると分かっていて近づくのは、電灯の周辺を飛ぶ蠅そのものだ。私はいつか汚い羽音を立てて笑いながら落下していくのだろう。
時間を少しさかのぼってみれば、ワガツマ邸でワガツマ メイとテルに、お二人のことを調べました、と言われた時のことだ。
カイドウは私の一族のことを暴露したことに対する怒りの代償として、ティーカップを壁に投げた。
今でも、割れた破片が転がっていたのを思い出せる。
だが、カイドウの怒りの感情は。
あれは怒りだったのだろうか。
本当は。
安堵だったのではないか。
きっかけさえなければ、私とカイドウも軽々に触れない話題である。
首を吊った男の息子と、吊らせた男の娘の関係性にまで、踏み込んだ発言はしてこなかったからだ。
それとも、テルとメイは実はそのことも言おうとしていて、それを察したカイドウがティーカップを投げることで制したのかもしれない。比べてみれば、こちらの方が幾分、筋が通るというものだ。
私とカイドウが今、こうして組まされていること。
組まされた理由の裏にあるのは公庄會の組頭、ココノエの意図だ。私とカイドウが憎み合い、潰し合いを演じてはくれないだろうか、と淡い期待を持っているようである。
ココノエが私とカイドウをぎりぎりまで使ってから捨てようとしているのは目に見えている。だからこそ、その捨てる瞬間に私とカイドウの複雑な関係を利用するだろう。言うなればこの関係性こそが、ココノエが私とカイドウを自分のもとに置いておくための。
安全装置、なのだ。
場合によってはその逆で、命を狙われる可能性もある。だが、秘書のイデを隣につけた状態でも会話は直接している。それほど自信があるのだろう。
事実、ココノエは殺されてはいないのだし、私たちは、軽々に殺してしまおう、と考える程浅はかでもないのだから的は射ている。
心は沈んだまま、会話はないまま、視線は部屋の中を漂い始め、徐々に仕事へと脳が切り替わる。少しでもこの不快感をぬぐい去りたいという願いも半々にあった。分かりやすく仕事に逃げている自分の姿にどことなく酔っている、そしてそんな自分にも気が付くと吐き気がした。
父親の自殺の後に、自分は家で嫌なことが起きた時に逃げる場所としてよく向かっていた、駄菓子屋に入り浸っていた。子どもであったから、結局のところは大人が居酒屋に入り浸るようなものではなく、ただその周りを歩いていただけに過ぎなかったのだが。
駄菓子屋にはおばあちゃんがいた。
今でもよく会うが、そういえばあの頃からおばあちゃんは、おばあちゃんだった。
父親の自殺は町ではかなり有名であったから、まともに取り合ってくれる大人も少なかったことは事実だ。だからなのだろう、おばあちゃんは私のことを駄菓子屋に来た子供の内の一人として丁寧に、そして平等に扱ってくれたのだ。
私が心を開くのも、それは直ぐのことであったし、おばあちゃんもそれを分かったうえで受け入れてくれたのだ。
本当に、ありがたかった。
何もかも嫌気がさして、駄菓子を万引きしたときに、それを見つけて叱ってくれたことも、それから数週間は出入り禁止にされたことも覚えている。
決して、父親を亡くした少年の心の傷に不用意に痛み止めを塗ることなどなく、自然治癒を待ってくれたのである。
カイドウもそうだ。
カイドウも、カイドウの父親が近所に住む探偵一家の父親を殺した、という噂が広がったことで苦しんでいた。荒れ様はすさまじく、そのころ、喧嘩に自信のある中学生や高校生が爪を引きはがされたり、耳を噛みちぎられる事件が多発していたが、あれはおそらくカイドウの仕業だろう。自分の感情の向ける場所を失って暴走していたに違いない。
おばあちゃんは、カイドウとも仲が良かった。というよりも、その町の小学生全員と仲が良かったのだ。
カイドウもまた家族の中では発散できない思いを、おばあちゃんという存在に受け止めてほしいと感じていたである。
被害者の息子と、加害者の娘ではあったが、どちらも傷ついているという点では一緒である。おばあちゃんは、私とカイドウをよくこの駄菓子屋で会わせてくれた。
この時、おばあちゃんが何かをしてくれたか、というと実際は何もしてはくれなかった。本当に空気と時間を計って二人を会わせて、それを微笑ましそうな顔で見つめるということだけだったのだ。
こういう場合、何もしていないなら、何の意味があったのだと発言する人間がいるが、私にはむしろ、お膳立てまでした人間が、内容には一切口を出さずに見守るというスタンスを崩さなかったことの方が遥かに英断であり、機知に富んでいるとさえ思う。
子どもなのだから、そんなお互いの親の複雑な関係など分からず、仲良くなれるだろう、と楽観視していた訳がないはずだ。おそらく世間の目を気にしながら、家族の問題を引きずった人生を一生送るという、酷く現実的な共通点を二人の子供が持っていることに、共感し合えると踏んだのだ。
私とカイドウは最初こそ話さなかったが、一年かかって挨拶をするようになり、二年かかって救急車が来るほどの喧嘩が起きるまでになり、三年かかって駄菓子屋に来なくなり、四年かかってようやく駄菓子屋で話せるまでに至ったのである。
そのたびに、おばあちゃんはこの駄菓子屋に来たこと自体を褒めてくれた。
そして、私とカイドウに毎回ラムネを奢ってくれたのである。
ラムネの味は明らかに私とカイドウの関係性が子供と子供の関係になるまでの歴史の味だ。
ラムネは、希望溢れる時間の味がする。
そしておばあちゃんの存在は温かい光の感覚がする。
ただそんな、過ごした時間があったとしても、過去を思い出すというきっかけは無造作に空気や感情を壊してしまう。
今が、そうだろう。
無慈悲であり、残酷でなければ時間ではないのだ。
「おばあちゃんのとこのラムネが飲みたいな。」私かカイドウの口から言葉が漏れた。
その時だ。
足が震え始める。少しばかり驚いたが震源地は私の体ではなかった。
どうやら携帯電話のバイブレーションのようだ。
手で触れて確認し、カイドウへと目を向ける。
私の携帯電話の振動音に気づかないのか、それとも気づいているのかは分からないが、決してこちらを見るようなそぶりはなかった。
今はお互い一人になるべきなのだろう。
カイドウから眼を切ると、外に向かって歩いく、外から入り込んでくる光はひと際眩しく、そこに近づくのは自殺行為にも思えた。けれど、何か切羽詰まっているかのように足は動いていく、ごく自然に携帯の通話ボタンを押した。
「もしもし。」
耳をすますための携帯電話だったのか、耳をふさぐための携帯電話だったのか。
「もしもし。」
相手の声がわずかに聞こえる。音量を上げた。
「もしもし。もしもし。」
某アパート 裏庭のベンチ
ワガツマ邸に向かう道中で話題に出た男の名前がここで今一度現れる。
性別は男で、名はオダという。
性格はおだやか、かつ、のんびりであるため、暴力団の構成員らしくない人間だ。
「相も変わらず眠たそうなしゃべり方だな。今日は事実、眠いのか。なるほどな。」
調子は悪くなさそうだ。
だが調子の良いオダなどまずこの世にはいないのだ。
オダと私の相性は悪くないとは思う。ただ、オダは私を窘めてくることが多いのだ。年齢的にはさほど違いはないはずだが、自分にもしも兄がいたらこのような感じなのだろうか、と思わせてくる。根っこの部分ではかなりの心配性なのだろう。そのせいか、今のような状況になると大抵電話がかかってきて状況を言い当てる。さすが私のチームの三人目のメンバーと言える。
「カイドウに代わってほしいだと、そうだなカイドウは。」私は沈黙し少しばかり考えてみた。「今はここにはいない。」
オダがカイドウがいないことに興味を示したことが分かる。非常に面倒だ。理由を聞いてくるだろう。
「大丈夫だ、気にしなくていい。それよりも、あれだ、そちらは何か変わったことはあったか。」
そうしてなんとか誤魔化すと、次に電話から飛び出てきた言葉は、最近タトゥーを入れてみた、ということだった。
若気の至り、など日本では言われることもあるが海外ではファッションとして成立している。体には残ってしまうものの、勢いという言葉で片づけるしかないアートや自己主張は存在する。人間の行動の九割は若気の至りでしかない。
「若気の至りか。」私は呟くように尋ねた。
オダが酷く大きな声で笑い転げるのが聞こえてくる。若気の至り、という言葉の響きが心地よかったようだ。
なるほど。
よく。
「分からん。」
オダは携帯に音声データを二つ送ってきた。選択して内容を確認する。
一つ目のデータには、長女アン様の部屋の盗聴、とある。
二つ目のデータには、四女ヨスミちゃんの部屋の盗聴、
と書かれていた。
探偵のユズキに頼んだものだが、どうやらオダ経由を通ったようである。
基本的に私のチームの情報収集は三通りある。
私とカイドウが聞き込みを行う。
ユズキに情報収集を頼む。
そして。
オダが勝手に情報を集めてくる。
これで事件を解決に導いていく。
ユズキとオダの違い、それは、口頭で済むような情報の場合はユズキの場合が多く、画像や音声などの場合はオダの場合が多い、ということだ。
おそらく今回、ユズキに頼んだことがオダへと流れたのは、私がユズキに音声データについて依頼する。ユズキが音声データの収集を行う。しかし収集に時間がかかり難しいと判断した。そこでオダに話が届いた。という経緯なのだろう。
私たちが最初からオダに頼めば早いのは当然だ。だが、この町に住んでいることは分かっているのだが、オダはまず電話には出てくれないのだ。そしてメールなどもほぼほぼ読まない。
「いつも連絡の取れないお前が、ユズキとよく連絡をとれたな。」
返答がある。
「ただ運が良かっただけ、なるほどな、単にお互いの運がよかったから、か。」
何か引っかかる。
「そういうこともある、か。」
何か引っかかるが。
「なるほど、な。」
今はいい。今後も面白いことがあるとは言い切れない、謎や矛盾を一度見逃せるほど優しい自分の性格に惚れ惚れする。
オダがゆったりとした口調で、どんなタトゥーを彫ったか話しだそうとする。そのため直ぐに、アン様の部屋の盗聴、というデータを選択した。
オダの声が徐々に聞こえなくなり。
音が流れ出てくる。
聞こえてくるのは、部屋の中に漂う雑多で自然な声だ。
音声データ アン様の部屋の盗聴
「アン様、ご気分はいかがでございましょうか。」
「アン様の体調は常に万全でなけれななりませんわ。」
「確かに詩の制作に大きく影響もあるかと思われます。ですが、それ以上に、私共、テルとメイは体調そのものが心配ですの。」
「まったくですわ。確かに詩を書くことがアン様の使命であることは明白でしょう。その詩にどれだけの価値があるかなど測ることなどできません。けれど、アン様自身もまた測ることのできない価値ある存在でしょう、メイさん。」
「まったく、そのためにも少し簡単な質問をさせて欲しいのです。」
「主治医に頼まれておりまして、来る前にこちらでしておけば診察もスムーズになるかと思いまして。」
「できればすぐに終わらせますので。」
「分かっております。詩をお考えなのですね。」
「詩をお考えになるこの神聖な時間に簡易であっても質問など、確かに無粋な真似をいたしました。」
「そのことは謝らせていただきます。申し訳ありません。」
「ですが、今回はテルさんが工夫をいたしまして。」
「はい、こちらをご覧ください。」
「アン様、いかがでしょうか、質問文の下の項目を指でさして頂くだけで答えられるようにしております。これならより深く詩について考えながら質問に答えることができるのではありませんか。」
「あのアン様、いかがでございましょうか。」
「よろしかったらで構いませんので。」
「アン様。」
「アン様。」
某アパート 裏庭のベンチ
「ずいぶんと高貴な長女だな。」
音声データはそのあと、その質問の内容が続いた。内容はいわゆる病院で診察が行われる前に書く問診票そのものだった。アンケートを受ける人間の声を聞いて面白がれる人間がいるのなら、称賛の拍手を送るだろう。退屈しのぎのもならない。
アンの指が紙の上をすべる音は聞こえたが、何を答えたかまでは当然分からなかった。
質問が終わり、扉が閉まる。
二人は出て行ったのだろう。
そのあと少ししてから、大きな雑音と共に音声データは止まった。
壊された、とみて間違いない。
テルとメイの声は聞こえてきたが、肝心のアンの声は何か泡が弾ける低い音のようになっている。アンの発言内容は一切つかめない。声の質さえ分からなかった。
すかさず、次の音声データ、ヨスミちゃんの部屋の盗聴、を選択する。
早く聞きたかったのもそうだが、オダに喋らせる隙を与えたくなかったのもある。
オダの声は最初から聞こえず。
音が流れ出る。
聞こえてくるのは、部屋の中に漂う雑多で自然な声だ。
音声データ ヨスミちゃんの部屋の盗聴
「ヨスミちゃん、元気ですかぁ。」
「ヨスミちゃんは大丈夫ですかぁ、お腹空いてないですかぁ。」
「今日はねぇ、おいしいの作ってきたからねぇ。いっぱい食べるんですよぉ。」
「こんなにこぼしちゃって、そんなにいっぱい食べたかったんですかぁ。偉い偉い。」
「テルさん、テルさん。ヨスミちゃんったらこんなにかわいい。綺麗な笑顔。」
「じゃあ写真で撮って待ち受けにしましょう。毎日でも眺めていたくなるんですもの。」
「いやですわテルさん、あたしも同じことを考えていましたのよ。では。」
「そんなのずるいですわ。くすぐって笑顔を引き出すなんて自然なところを写真で撮らないと、反則。」
「反則も何もありませんのよ。大切なのは今日もヨスミちゃんが私共にとっての。」
「天使であること。」
「分かっているじゃないですか。」
「それは当然。」
「それにしても見れば見るほど、尊い。」
「際限なく尊い、可愛すぎて目が潰れてしまいそう。」
某アパート 裏庭のベンチ
「ずいぶんお姉さんたちに可愛がられている四女だな。」
その後も続いた内容は、ヨスミの可愛さを形容する言葉ばかりだった。つまり、わざわざ口に出すほどの言葉ではなかった、ということである。
特に進展はないまま時間が過ぎる。
最初に聞いた動画の終わりと同じように、テルとメイが外に出ていく。
それから少ししてから壊されるような音が響いて音は途切れた。
この音声データは役に立つのだろうか、と思ってしまう。
中に入っていたものは、テルとメイから話を聞いていておそらくそうだろうと思っていた事実そのものだった。代わり映えのしないデータを上書き保存しただけだ。
盗聴器を部屋の中に滑り込ませた。
ユズキはそう言っていた。
このことから考えるに盗聴器はかなり小型だ。おそらくアン、ヨスミ、テル、メイ、の四姉妹は気づいていなかっただろう。盗聴器に気が付いて芝居を始めたということはないだろう。そうなるとこの会話自体は演じてるわけではないようだ。そう解釈するのが妥当だろう。
壊したのはテルとメイが出て行った後だ。そのため、それぞれアンとヨスミが破壊、部屋に一人になってなんとなく気が付いた、というのはどうだろう。
長女アンの部屋に、次女と三女のテルとメイが入って少しばかりの会話を行う。その次に次女と三女は、可愛くて可愛くて仕方がない四女ヨスミちゃんの元に行ってただただ愛でる。音声からはそう情報を読み取ってみる。
もちろん、事実とは違う点も幾つかあるとは思うがこのあたりではないか。
長女と四女である、アンとヨスミちゃんはテルとメイが間に入ることで関わってはいるが直接的ではないようだ。
詩人アン様が明らかに年下のヨスミちゃんへ天才芸術家らしい他者が理解に苦しむような怒りを持っている、と想像してみる。もちろん想像してみたに過ぎないが、あり得ないことではないだろう。
「音声はありがとう。これで捜査は幾らか進展はするだろう。え、ワガツマ ダイスケの生前の動画か、いや、大丈夫だそれは送らなくていい。」
オダが明らかに落胆しているように息を吐く。雑音が多くて聞き取りにくい程だ。
「動画サイトにそんなにたくさんワガツマ ダイスケの動画があるのか、それはどうなんだ。詩人にしては、それは珍しい訳か、人気はかなりあった、と。」
ワガツマ ダイスケの話題でオダの声のトーンが少しばかり上がる。
その流れで世話でも焼きたくなったのだろうか。暇なのだろう。またカイドウの名前を出した。
「そのこともさっきも言ったと思うが。」私は鼻で笑った。「別にカイドウと喧嘩をしたわけではない。たまたま上手くいかない時があったというだけで。」
オダが私の言葉を遮る。
言葉はどれも正論ばかりで反論の余地などなかった。説教というよりも諭すという方が近く、飽きれるというよりも共感を押し出した言葉遣いだった。私も自分にはあきれているので、共感せざるをえない。
「分かっている。早くカイドウの元に戻る。」
音声データを開いたまま一時停止にしておく、これですぐにカイドウに聞かせることが出来る。
データを送信してしまった方が楽だと直ぐに気が付く。
だが、やめた。
無駄なことはロボットにもできる。けれど無駄なことをしてみたくなるのは、ロボットには真似できない。
ロボットを毛嫌いしている訳ではないが、何となく人間らしいことをしてみたくなった。
これも、無駄なのか。
「オダ、切るぞ。また連絡する。」
言葉もそうだろうか。
ロボットは言葉を発することができる。けれど、それは私たちの知っている言葉なのか。
本当は、何か、同じ音で同じ法則が用いられただけの、私たちが使う言葉によく似たロボットの言葉なのではないか。
本当は伝わっているように演出されているだけで、何も伝わっていないのではないか。
「アカネコさん、伝わっていますのよ。」
「アカネコさん、伝わるしかありませんもの。」
一瞬のことだ。
耳元で囁かれたその声に、吐き気がした。
奥歯のその奥から酸が滲み出てきてくるかのように、口の中に毛虫を投げ込まれ、それを舌と上あごで暴れないように押さえつけている感覚がする。
今、あいつらがこの場にいる。
私の後ろに立っている。
あの双子が、あのテルとメイが、いつの間にか立ってこちらを見ている。
「何故こちらに振り返って下さらないのかしら。メイさん。」
「振り返る必要性を感じていないのかしら。テルさん。」
気配などなかったのに、急に湧き出てきたように感じる。どこからいたのか、何を聞いていたのか、何を知っているのか、何をしようとしているのか。
分からない。
というよりも、分からせようとしていない。
見なくとも、視界に全く映らなくとも、それでも感じ取れる。
この双子が、私の後ろで私を見つめながら笑っていると思える。
振り向けない。
また次の瞬間だ。
耳をつんざくような二人の甲高い笑い声が、後ろから一気に増幅するように噴き出してくる。
耳がその笑い声しか拾わない。
風の音も、車の音も、自分の服の擦れる音も、呼吸音も、鼓動音も消えて聞こえなくなる。
ただただ無重力の高い笑い声だけが響き渡る空間に投げ出される。
そして。
その笑い声が消えた。
「ねぇ。ねぇ。」
片腕が、私の首へと強く巻きつく。
片腕が、私の首へと弱く巻きつく。
優しく激しく首が締まる。
両耳で双子の呼吸音がする。
増幅を繰り返す。
そして。
笑い声と同じように、その呼吸音が消えた。
「言葉は神ですか。」
それから数時間後だ。
今、起きたことが恐怖による幻覚だったのだと気が付いたのは。
嘔吐を二回ほどした後のことだった。