#088「立春」【金子】
#088「立春」【金子】
子供の無邪気さは、時として大人に残酷な現実を突きつける。
「今日、家の中で撒くのは大豆か、それとも落花生か」
ベッドの上で上体を起こしながら、誠は点滴台をセットしている金子に話しかけた。
「私の実家では、播いたあとに雪の中でも拾いやすいってことで落花生だったけど、このあたりは大豆が主流みたいね。――はい、腕を出して」
誠はパジャマの袖を捲り、金子に差し出す。金子は差し出された腕を掴み、消毒用アルコールを含ませた脱脂綿で拭う。
「落花生じゃ、大人は歳の数も食べたら鼻血が出るぞ」
「大人なら、一度に食べるような馬鹿な真似しないわよ。――針を刺しますね」
この男なら、そんな馬鹿な真似をしでかしかねないけど。
金子は、青黒く浮かんでいる血管の上に狙いを定めて針を刺し、素早くガーゼとドレッシングテープで固定する。
「ウッ。何度やられても慣れないな。――それで、昨日の夕方に置いといた話を戻すけどさ」
誠は両手を使い、奥にある箱を手前に持ってくるようなパントマイムをしてみせる。
「『だいてやる』が『奢ってやる』、『だんこちんこ』が『ボタンの掛け違い』だって話かしら」
「そうそう。『男ならだいてやれ』って言われたら誤解するよな、って違うから。春江さんの話じゃない。分かってて話をそらしてるだろう」
もちろん、分かってる。でも、その話の前に、お茶当番の柴田さんの話をしてたのも確かよ。
「明日、姉貴に寿を連れてくるよう言ったから、そっちも、何とか連れて来てくれよ」
「分かってるわよ。包帯で縛って俵担ぎにしてでも持ってくるから、心配しないで」
「おいおい。そこは穏便に頼む」
冗談よ。本当にそんなことをしたら、立派な児童虐待じゃない。
*
お子さま定食は何歳まで注文可能かしらないが、恥ずかしげもなくオーダーできなくなったら、大人の第一歩だ。
病院の一階にある食堂の片隅、正方形のテーブルの二辺に沿う形でエル字になった長椅子に、下手から金子、その息子の琢、寿、誠の順で座っている。そして琢と寿のあいだには、ピリピリとした空気が漂っている。
「もしかして、僕たちが琢くんからお母さんを取り上げると思ってるのかな」
寿が琢に話しかけると、琢は下唇をキッと噛み締め、握り拳を振り回して暴れようとする。寿は、それを抑えて無理矢理抱きしめると、片手で琢の後頭部を撫で摩り始める。
「大丈夫。僕は何があっても、君の味方だから。僕のお母さんや、琢くんのお父さんみたいに裏切らないよ。だから、もう叩く必要なんてないんだ」
琢は握っていた指を緩めると、両腕を寿の背中に回し、額をグリグリと寿の胸に押し付けながら嗚咽を漏らす。
「よしよし。辛かったね。いままで、よく我慢したよ。偉い偉い」
泣き出した琢の背中を優しくトントンと叩きながら、寿は慈愛に満ちた笑顔を浮かべた。
「すっかりお兄ちゃん気取りだな、寿は」
誠は、骨折していないほうの手で寿の頭を軽くポンポンと叩いた。金子は、そんな三人の様子を見て、ホッと胸を撫で下ろす。
うまくやっていけそうで良かった。これまで琢には、酷なことをさせてしまった。琢のエスオーエスに気付かないふりをしてしまった。でも、これからは違う。そのうち、土筆や筍が生え、桜や菫が咲き誇る季節になる。心に降り積もった雪も、優しい人間の温かさに触れて、少しずつ融けていくことだろう。




