番外編⑥「ナース」【金子】
番外編⑥「ナース」【金子】
この亀山誠という男は、ホントに煮ても焼いても食えない根性をしている。
「ナースも大変だな。こんな大晦日の夜まで働いてるんだから。頭が下がる」
そう思うなら、コールしないで欲しいものだけど。
倒れた花瓶を片手に、雑巾で床や戸棚を拭いて回る若い女性看護師。首から提げて胸元に留めてある名札には、金子とだけ書かれている。
「だったら、二十四時間営業の店で働く人間にも、頭を下げてくださいね」
「悪かったって。仕事とはいえ、夜中に掃除させてしまってさ」
まったくだわ。ここが病院で相手が患者じゃなければ、こんなことしないんだから。
金子は絞った雑巾をバケツの縁に掛け、それを持ち上げて端に除けると、拭き残しが無いか目視で確認した。
「毎日お茶を入れに来てくれる北陸訛りのおばちゃんに聞いたぞ。今年で四歳になった息子がいるんだろう。恋しくならないのか」
どこでプライバシーが漏洩するか、分かったもんじゃないわね。
「親は無くとも、子は育ちます。それでは、明日から本格的なリハビリを始まりますから、早く寝てくださいね」
「まぁ、嘯くのは勝手だけどな。ここには、正月休みが無いのか」
「えぇ。病院には、盆も正月も日曜日も無いんです」
「月月火水木金金か、鬼軍曹。三交代の艦隊勤務に患者を付き合わせないでくれよ」
病院はレジャー施設じゃないんだから。真摯にリハビリに取り組んで、一日でも早く治してくれなきゃ、ベッドが塞がってしょうがないわ。
取り替えた濡れたシーツを小脇に抱え、台車に載せる金子。誠は、弱々しげな調子で右手を左腕のギプスにあて、撫でながら話を続ける。
「主治医の爺さんから聞いたけどさ。いよいよ、これを取るんだろう。これ、外すときに痛いんじゃないか」
大の男が、情けない声を出すんじゃないわよ。まぁ、ひと昔前なら、回転するカッターが石膏を切り裂く耳障りな金属音を間近で聞きながら、歯医者の治療並みの恐怖を味わうことになったでしょうけど。
「現代の医療技術の進歩は目覚しくてね。超音波を使って切るから、間違っても皮膚や骨まで切れる心配が無いし、ほとんど大きな音も無く施術が終わります。ご安心を」
「そっか」
バケツを持って台車に載せ、それを押して立ち去ろうとする金子に、誠は後ろから呼び止めた。
「ところで、金子さんよ」
まだ、何か用事があるのかしら。
「何ですか」
「退院したあとにストーキングすることはないし、エスエヌエスでアカウントを特定することもしないし、他の誰にも教えないからさ。フルネームを教えてくれよ」
ベッドサイドのテーブルに置いた手帳を広げ、鉛筆を手に取ってスタンバイする誠。
しつこいなぁ。プライバシーとは別の意味で名前を隠したいから、わざわざ苗字だけの名札に替えてもらったのに。
「教えるか、ここを出るまで聞いてきそうですね。――手帳と鉛筆を貸りますよ」
金子は誠の手から鉛筆を奪い、手帳を手元に引き寄せてシャッシャッと書き付け、鉛筆を挟んで手帳を閉じた。
「私が部屋を出てから見てくださいね。決して、中の文字を読み上げないように。では、失礼」
そう言い残し、金子は台車を押して足早に立ち去った。
幸福と書いてハピネスと読ませる名前なんて、教養ある親なら決して付けない名前よね。




