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籠の中の鳥は  作者: 若松ユウ
第三部
206/232

#196「ヤドカリ」【長一】

#196「ヤドカリ」【長一】


 卒業に新入学、新卒に人事異動に転勤と、年度末の不動産屋は、八面六臂の活躍を期待される。加えて、オーナーが変わったという連絡でも入れば、引継ぎも兼ねて挨拶回りもしなきゃいけなくなって、てんてこ舞いの忙しさになる。

「正直、革靴の底とタイヤの磨耗が激しくて困るよ」

 車を降りながら長一が独りごちると、煙草を吹かしていた永井が耳聡くそれを聞き取り、皮肉を返す。

「それで痩せないんだから、大したものだな、兄貴」

「先輩に向かって、そういうことを失礼な言うんじゃない」

「言われたくなかったら、スラックスの内腿に穴を開けるな」

 くぅー。いつまでもデブと思うな。

  *

「職場での僕とは、はじめまして、になるのかな。次郎とは、面識があるみたいだけど」

「そうですね、はじめまして、ですね。お噂は、かねがね伺ってます」

 きっと、ろくな噂じゃないんだろうなぁ。

「こちらこそ。――えぇ、今日は夫婦生活をスタートさせるに当たっての新居をご紹介、ということでよろしいのでしょうか」

 長一がパイプ式ファイルをめくりながら、言動をメキメキと仕事モードに切り替えて問うと、坂口がハキハキと答える。

「はい、それで結構です。いろいろ考えたんですけど、やっぱり二人だけで住むのが良いだろうという結論になりましてね。そうなると、いま俺が住んでるワンルームでは手狭だろうと思うんです」

 でしょうね。さすがに共働きだと、夫婦と言えども見られたくない書類やデータひとつもあるだろうし、他にも、色々ね。

「なるほど、そうですか。そうしましたら、ですね。事前にご記入いただいた希望調査票を元にしまして、これから何枚か間取り図をお見せしたのち、気に入った物件を実際に見ていただくという形になります。が、その前に確認しますけれども、今日はお一人でよろしいのですか」

 長一が、誰も居ない坂口の隣席を横目でチラリと見ながら問うと、坂口は変わらない口調で答える。

「はい。お互いのプライバシーが確保できるなら、どんな物件でも良いから任せる、とのことで」

 他の住宅サービス業者でそんなことを言って探してたら、釣り物件に騙されたり、法外な手数料を掠め取られたりするところだよ。ここは、そんな阿漕なことをしないから、大丈夫だけど。

「わかりました。――年度末は、金融業界も忙しいんでしょうねぇ」

 長一がファイルをめくる手を止め、雑談モードで率直な感想を述べると、坂口は声を和らげ、ほうじ茶が入れられている湯呑みを茶托から持ち上げながら言う。

「そうみたいですよ。まぁ、この時期は、どこも忙しいものでしょう。俺も、これが終わったら、新しい名簿を作らなくちゃいけませんから」

 そういうことを、サラッと言っちゃ駄目なんじゃないかな。誰が聞いてるか分からないんだから。

「おつかれさまです」

 長一が頭を下げると、坂口も湯呑みを茶托に戻し、頭を下げる。

「いえいえ。そちらこそ、大変でしょう。おつかれさまです」

 これが仕事だから、とは言わないでおこう。お人好しに自虐を言うのは、憚られる。それにしても、松子さんも、お父さんや次郎じゃなくて僕に頼むとは、お目が高いことで。

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