#192「上々」【英里】
#192「上々」【英里】
骨折すると、前よりも骨が太くなるように、子供のうちに何度も挫折を経験しているほど、大人になってから、壁を乗り越えたり、ハードルを飛び越えたりする力が強くなる、らしい。パパが言ってた。
「ドンマイ、ドンマイ。そんなこともあるわよ。それより、面白いドラマがあるのよ。三話まで録画してあるから、下で一緒に観ましょう」
渡すだけで精一杯で何も言えなかったことや、第一志望に落ちたことなんて、ちっとも気に病むこと無いわ。
英里が立ち上がって手を差し出すと、ひと呼吸遅れて小梅も立ち上がり、手を繋いで一階に降りていく。
*
「アニメじゃないのね。それとも、オジョタンがドラマ化されたの」
ソファーに座った小梅が、隣でレコーダーのチャンネルを操作している英里に問いかけると、英里が興奮気味に答える。
「違うけど、面白いのよ。ママが先にはまって、つられて私も観るようになったんだけどね。舞台がファッション雑誌社で、毎回ヒロインの衣装や小物が凝ってし、小道具やセットにも細かな仕掛けがあるものだから、漫画の参考にもなるわよ」
「へぇ。小粋な演出さんね。――アレ。そこ、飛ばしちゃうの」
右向きの三角が二つ並んだボタンを押した英里に、小梅が言うと、英里はウンザリした顔で言う。
「ヒロインと、その隣の部屋に住んでる主役のジョニーズ俳優が遭遇する場面なんだけど、俳優側の演技が大根なのよ。台詞、棒読み」
「あぁ、それはイライラするわね」
「そうでしょう。私もそうだし、ママも同じ意見なんだけど、あとで出てくるモデル上がりの役者さんのほうが、名演だと思うの。――あっ、お菓子やジュースは、適当に食べたり飲んだりして構わないから。足りなかったら言ってね。まだ、冷蔵庫にあるの」
そう言いながら、英里はチョコチップクッキーを一枚つまんで口に運び、チャンネルをグレープジュースが入ったグラスに持ち帰る。テーブルの上にはクッキーの他にも、ココット皿に入れられたマフィンや、薄桃色のチョコレートでコーティングされたワッフル、表面に卵で照りだしがされたフィナンシェが、薔薇柄の紙ナプキンを敷いた楕円形のプラターに品良く並べられている。
「英里ちゃんのママは、お菓子作りが上手よね」
小梅がプラターに盛られた小麦の化身たちと英里を交互に見ながら、感心半分、呆れ半分に言うと、英里は軽く腹鼓を一度打ちながら言う。
「おかげさまで、すくすくと育ったわ。――それより、画面を見てよ。このあと、会社に着いたヒロインを待ってる先輩社員が、とっても良い味出してるんだから」
「お料理みたいに言うわね」
「味覚に例えたほうが、分かりやすいでしょう。――ほら、この人よ」
画面の向こうで、ウェリントン型の眼鏡を掛けた二十代と思しき男が、ヒロインに向かい、ダメ出し八割フォロー二割の叱咤激励をしている。
「てにをはが間違ってて、日本語として成立してないような企画書が通ると思ってるのか。いつまでも学生気分でいられちゃ、仕事が捗らないんだよ。赤を入れてやったから、もう一度やり直せ」
俳優は、そう言ってヒロインのデスクにビッシリと赤ペンで書き込みがされた書類を叩きつけ、自分のデスクに戻る。
「ねっ」
ココット皿を外したマフィンを片手に持ちながら、英里は小梅に微笑みを向ける。すると、小梅もフィナンシェを飲み込みつつ言う。
「たしかに。迫真の演技だわ」
「そうでしょう。この次の話で、廊下で彼が電話で話してるのを小耳に挟んだヒロインが誤解して、ちょっとした騒ぎを起こすのよ」
「へぇ、どんなことになるの」
「それは、見てのお楽しみよ」
さっきまで落ち込んでたのに、面白いドラマと美味しいお菓子で、すっかり機嫌が直ったわね、小梅ちゃん。良かった。
※最後に登場したモデル兼俳優は、『東京シェア・ハウス』の蕨蒼太です。




