#188「続、箱入り」【松子】
#188「続、箱入り」【松子】
高峰秋子は、今年で二十五歳になる。春には行員生活が三年目に突入し、そろそろ直属の後輩が出来てもおかしくない年齢だ。つまり、何が言いたいかと言うと、世間的には立派な社会人の一員であるはずである、ということだ。なのだが。
「これが初めてのバレンタインって訳でもないでしょう、秋子ちゃん」
「男の子にチョコレートを贈ったことなんて、一度もありませんよ、先輩」
二月十一日、建国記念の日。国道沿いにあるショッピングモールの二階で、秋子と松子は、バレンタインデーに贈るチョコレートを選んでいる。松子は、到着後すぐに決めてしまったのだが、秋子は悩みに悩み、なかなか決断できないまま。そして二人は、売り場の中を回遊している。
早く買ってくれないかしら。店内の赤やピンクに彩られた異様な熱気に中って、バターになってしまいそう。
「いくら女子校育ちだからって、機会が無かった訳ではないんじゃなくて」
「社会人になるまで、自分でお財布を持たせてもらえませんでしたし、この時期に家でお菓子作りなんかしてたら、『嫁入り前の身で、チャラチャラ浮かれるんじゃない』って怒られますよ」
「そうかといって、買って帰っても、……玄関で鉢合わせするから、駄目か」
「そうでしょう。お分かりになりますよね」
「えぇ。よく分かったわ」
実家暮らしで、厳格な親が監視の目を光らせてる状態じゃ、異性にチョコレートを贈ることは、大冒険に等しいか。買ったものを、当日まで私に預かってて欲しいって言ってきたのは、そういう事情があるからなのね。やっと理解が追い着いたわ。
*
長々と買い物に付き合わせてしまったので、帰りにお茶でも飲んでいってくださいというので、一旦、荷物を家に置いたあと、お言葉に甘えてお邪魔させてもらったのだが、家に近付くにつれ、だんだん居たたまれなくなってきた。それというのも。
「庭で、誰かガーデニングをしてたけど」
スコーンにバターナイフでクロテッドクリームを塗りながら、松子が聞く。
お父さんにしては歳が若すぎるし、秋子ちゃんは一人っ子のはず。親戚かしら。
「あぁ。あのかたは、庭師さんですよ。ときどき、植木を剪定したり、芝生を刈ったりしてもらってるんです」
秋子は、シュガーポットからトングで角砂糖を二つ入れ、ティースプーンで混ぜながら、何気ない口調で言ってのける。
さも当たり前のように言うのね。庶民の兎小屋に庭師は来ないのよ、秋子ちゃん。ウム。周囲に引けをとらない、見事な豪邸である。小さな洋館と言っても、過言でない。
松子が黙々とスコーンを平らげていると、急に秋子が顔を曇らせ、不安げな声音で言う。
「ふと思ったんですけど、早川くんが甘い物を嫌いだったらどうしましょう」
あらあら。バレンタインにはチョコレートを、という思い込みが強すぎて、何とかして準備しなきゃ、としか考えられていなかったのね。
「知らずに贈ったのなら、罪は無いわ」
「そうでしょうか」
「そうよ。それに、その程度で機嫌を損ねるような器の小さい男なら、どのみち長続きしないから別れなさい」
「先輩。それは、酷いですよ」
ミルクピッチャーから静かに乳白色の液体を注ぎ、アールグレイの紅い液面に波紋を何重にも描きながら、秋子は甘えるような声で言う。松子は、それに淡々と言い返す。
「酷いことないわよ。いつまでも不良債権をかかえてたら、ろくなこと無いんだから」
「お言葉を返すようですけど、鉄工所の社長さんは、ブイ字回復しましたよ。近視眼的に判断するのは、早計だと思います」
まぁ。言うようになったわね。私の影響かしら。でも、論破される気は無くてよ。
このあと二人は、暗くなって庭師が帰るまで、お喋りに興じ続けたのであった。




