#018「逍遥」【竹美】
#018「逍遥」【竹美】
ノックすべきか、せずに帰るべきか。それが問題だ。
ハムレットよろしく竹美が永井の家の前で逡巡していると、太り肉で背が低い男が、陽気に声を掛ける。
「入ろっか止めよっか考え中、ってところかな」
「あっ、すみません。えぇっと」
「僕は永井長一。ここに住んでる、痩せぎすで背が高くて陰気な弟のお兄ちゃんです。君は」
「私は、大学で永井先輩と同じサークルに所属しています、鶴岡竹美です」
「へぇ。次郎にサークル仲間が居たんだ」
「お兄さんなんですよね」
見た目が、先輩とは正反対の三枚目だけど。足して二で割りたい。
「そうだよ。でも、水臭い奴でさ。自分のことを全然打ち明けてくれないんだよね」
それは、打ち明けたら面倒なことになると思ってるからじゃないかしら。口が軽そうだもの。
「電話しても出ないから、こうして定期的に生存確認をしてるんだ。事故物件になると、商品価値が下がっちゃうからね」
長一は懐から鍵を取り出して解錠し、ドアを開ける。
「立ち話もなんだから、中で三人で話そう」
片手でドアを押さえて手招きする長一の勢いに押され、竹美は家の中へと入る。
「お邪魔します」
*
「外の五月蝿いヤンママとガキンチョの声を締め出し、中の音漏れを防ぐためにも、窓は締め切るに限る」
竹美が座るソファーの前で、永井と長一は討論を繰り広げている。
「換気しないと気が塞ぐし、第一、資産価値が下がっちゃうよ」
頑なに窓を開けたがらない永井先輩と、何としてでも窓を開けさせようとするお兄さんとで、議論は平行線を辿っている。
「あぁ、もう良いや。勝手に開けちゃおう」
痺れを切らした長一は、カーテンを開け、窓を全開にする。
「おい、兄貴。埃が舞うから、早く閉めてくれ」
窓からは、微かに麦の匂いが混じった風が抜け、秋の到来を告げる。
「うーん、良い風が入ってくる。一人暮らしには贅沢な優良物件だ」
長一は胸をそらし、深呼吸した。
「他人の話を聞いてないな」
「あの、永井先輩。お兄さんは、何をなさってるかたなんですか」
「あれ。家のこと、何も話してないの」
振り返り、二人のほうを向く長一。
「誰が身内について話すか。プライバシーというものが」
「ナガイ不動産、って知らないかな。僕は、今年から勤め始めて、次郎も、来年から勤めることになると思うんだけど」
「あぁ、駅前ビルの一階にありますね。えっ、待ってくださいよ。ナガイ不動産っていうのは、ひょっとして」
諦め半分に吐き捨てるような調子で、永井が付け足す。
「察しの通り。俺たちの親父が経営してるんだ」
天と地のあいだでなくとも、哲学を介さずとも、思いもよらない出来事があるものだ。




