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籠の中の鳥は  作者: 若松ユウ
第三部
186/232

#176「ごきげんよう」【織田】

#176「ごきげんよう」【織田】


 真の善人や真の悪人は、滅多に居ない。大半は、置かれた環境に応じて、偽悪か偽善かを選んで振る舞ってるに過ぎない。

 平成最後の天皇誕生日。俺は、いま目の前に居る男から独立資金と新居を渡され、これから作楽と新たな二人暮らし生活のスタートを切ろうとしている。

「頑張って働けば、そのうち素敵な自社製品を買えるとなれば、愛社精神が自然に湧くし、宣伝や製造にも熱がこもるでしょう」

「お前は、フォードか」

 廊下から庭を見ながら、織田と観音院が立ち話をしている。織田はスーツ姿で、観音院は綿入りの丹前を羽織っている。雪見障子の向こうは、一面に銀世界が広がっている。

「自動車事業には、参入してないよ」

 そんなことは、百も承知だ。言葉を額面通りに受け取るんじゃない。

 織田は、溜め息混じりに呟く。

「もう、一年近く経つのかぁ」

「月日が経つのは早いよね。人間不信、疑心暗鬼って顔で夜逃げしてた君が、こんなに立派に生まれ変わるとは思わなかったよ。若いって、いいなぁ」

「人聞きが悪い単語が混じってた気がするが、聞かなかったことにしよう」

「フフッ。大人になったね、康成くん。滅多矢鱈に吠える癖がなくなった」

「俺を駄犬と一緒にするな」

「そうだね。失礼いたしました。謹んで、お詫び申し上げます」

「慇懃なのが、かえって腹立つから、やめてくれ。――それより、最後に渡したいものってのは何だよ。見たところ、手ぶらのようだが」

 ジロジロと観察しながら織田が言うと、観音院は袂から巻き紙を取り出し、広げる。

「それじゃあ、読み上げるから、厳粛に聴いてね」

 何を始めるつもりだ。

「コホン。卒業証書。織田康成殿」

 表彰式だった。

「貴殿は、壱丸呉服で一年間住み込みで働き、商いのイロハを学びました。その努力を認め、ここに教育訓練課程が、すべて修了したことを証します。平成三十年十二月二十三日。観音院安彦。――おめでとう」

 紙を百八十度反転させ、両手で紙を差し出す観音院。織田は、それを両手で恭しく受け取ると、それを即座に廊下に叩きつけた。

「白紙じゃないかっ」

「そんなことないよ。それは、心の清らかな人にしか見えない文字で書かれているんだ」

 観音院の小鼻が僅かに動いたのを見た織田は、断定口調で言う。

「それは、嘘だな。もう、騙されないぞ」

「残念。引っ掛からなかったか。観察眼が養われたみたいだね」

 誰かさんのお陰で、真偽を見抜く必要性に迫られ続けてきたからな。鍛えられて当然だ。

「でも、ホッとしたよ。これで、心置きなく見送れるもの。――康成くん。君は、山に登り、頂に着いた途端、足を滑らせて谷底に落ちてしまった」

 例え話か。

「だから、沢に暮らすの僕は川の水を与え、英気を養わせた。あとは、もう一度登り始めるだけだ。――作楽ちゃんと、仲良くね」

 そう言うと、観音院は右手を差し出す。織田は、その手を握る。それに観音院は左手を添えて握り返し、織田にアイコンタクトを送る。

「いろいろ、世話になった。感謝してる」

 そう、織田が照れくさそうに言うと、観音院は含みのない笑顔で言う。

「頑張ってね。でも、一人で抱え込まないように」

「あぁ。……あのさ。もしも困ることがあったときは、相談しても良いか」

「もちろんだよ。いつでも遠慮なくおいで」

 そうそう何度も頼りたくないが、いざというときの避難場所があるのは、安心材料になる。

「もしも、の話だ。出来れば、これっきりにしたい。――いつまで握ってるつもりなんだ」

 織田が右手を見ると、観音院は慌てて手を離す。

「あぁ、ごめんごめん。ゴツゴツとして、力強い男らしい手だと思ってさ」 

 無骨で悪かったな。白くてしなやかな誰かさんの手とは違う。

「お話中、失礼します。送迎の準備が整いましたので、そろそろ玄関のほうへ。作楽さまも、お待ちです」

 廊下の端から青葉が姿を現し、二人に告げると、観音院と織田は顔を見合わせ、玄関へ向かって歩き出す。

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