#169「当たり外れ」【松子】
#169「当たり外れ」【松子】
朝七時まで警報が解除されなければ、その日は休校だという学生が羨ましい。
「おはようございます。あら。渋木くんだけなんですね」
脱いだレインコートを畳みながらオフィスを見渡し、目の端では徳田や秋子の姿を探しつつ、松子は渋木に声を掛ける。渋木は、机の上のメモを見ながら答える。
「あぁ、そうだ。高峰からは、五分くらい前に到着が遅れるとの連絡があった。乗ってる列車が、暴風と大雨によるトラブルで信号待ちしてて、車内で待たされてるそうだ」
あらあら。それは、ある程度は不可抗力だから仕方ないわね。架線が切れたか、河川が氾濫したか、それとも人身事故でもあったか。
「まぁ、可哀想に。それで、課長のほうは、台風に託けたサボタージュかしら」
「だろうな。重役出勤なのは、いつも通りだけど。この分だと、午前の定例会議は、俺が出なきゃならなくなりそうだな。まっ、数合わせだから、どっちかが席を埋めれば問題ないけど」
ここで「そんな会議、必要性があるのか」と言っては、いけない。こんな瑣末なことで逐一つっかかっていては、自分の仕事が滞ってしまう。エントロピーは増大するもの、官僚とお役所仕事は殖え続けるものと割り切らなくては。
松子は自席に着くと、レインコートをレジ袋に入れて足下に置き、積んである書類の整理を始めた。書類の上には付箋が貼ってあり、サインペンで「二十四日の昼までにヨロシク」と書かれている。
何で、今日の午前中までの仕事を、金曜日の帰り際に渡すかな、課長は。はぁ。いつも以上にブルーマンデーだわ。
*
「林檎と梨が安かったから、つい買っちゃったわ」
そう言いながら、万里は嬉しそうに、エコバッグから大袋に十個ほど入った林檎と梨を取り出してダイニングテーブルに置く。
安いからと言って、定価なら買わないものを買うのは損失だと、何回言ったら理解するのだろうか。もう、諦めようかな。
「きっと、一昨日の台風の影響ね。収穫前に落ちたんでしょう」
「ちょっと、松子。どこで小梅が聞いてるか分からないんだから、あたってると言いなさい」
牛乳や食パンをバッグから出しつつ、万里は松子に注意すると、廊下から小梅が姿を見せる。全身ではなく、引き戸の枠を両手で持ちながら、腰から上の部分だけ覗かせている状態である。
「聞こえてるわよ。別に、そんな気を遣わなくて良いから。普通に接してちょうだい。変に配慮されると、腫れ物を触られてるみたいで、かえってナーバスになるもの」
そう苛立たしげに言うと、小梅は浴室のほうへ移動する。
「何かあったの、小梅に」
松子が小声で訊ねると、万里は眉尻を下げ、溜め息まじりに答える。
「今の成績だと、東は厳しいって言われたんですって。夏休みが明けても、数学の伸びが悪かったみたいでね」
なるほど。それは、落ち込むはずだわ。端から数学と理科を捨てて南一本に絞ってた竹美と違って、苦手を克服しようと頑張ってたものね。本番で成果を出す人間は須らく努力してるものだけど、努力が必ず成果として現れるとは限らないのが、受験勉強の辛いところだ。




