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籠の中の鳥は  作者: 若松ユウ
第三部
175/232

#165「亡命」【織田】

#165「亡命」【織田】


 書道なんて、何年振りだろう。

 和室の床几に向かい、甚平を着て畳の上に正座をした織田が、黙々と墨を磨っている。甚平の袖は、襷掛けにして留めている。

 今日は八月七日、立秋。暦の上では秋になり、郵便局の葉書は、残暑見舞いに切り替わる。本当は、暑中見舞いとして出すつもりだったが、気まずさから、ついつい先延ばしにしてしまい、ずるずると今まで出さずじまいになっていたのである。

 織田は墨から筆に持ち替え、その先を黒々とした液に池に浸し、丘で毛を揃えると、下敷きの上に置いた葉書を睨む。

「書けたかい、康成くん」

 今日明日の天気を話すような口調で、薄物を着た観音院は、織田に近寄りながら言う。

「いま、まさに書こうとしてたところだ」

 苛立たしさを滲ませた低い声で織田が言うと、観音院は、口に手を当てて微笑む。

「フフッ。それじゃあ、書けたら言ってね」

 そう言いながら、観音院は織田の側を離れる。 

 さて。気を取り直して、さっさと書いてしまおう。はじめは、残暑お見舞い申し上げます、で良いだろう。それから、俺も作楽も元気だと伝えて、それで、最後は……。

「それ、まだ薄墨なんじゃないかな」

 織田の耳元で観音院が腰を屈めて囁くと、織田は驚いて筆を硯の中に落とし、両手を床について仰け反る。

「どわっ。他人が集中してるときに、横から声を掛ける奴があるか」

 いつの間に、背後に回ってたんだ。まったく。忍者じゃないんだから、気配くらい出せっていうんだ。

 眉根を寄せて険しい顔で抗議する織田に対して、観音院は、くつくつ笑いながら言う。

「必要以上に気負ってるみたいだったから、リラックスさせようと思ってさ。ドッキリ、大成功」

 この野郎。ガキの悪戯みたいな真似しやがって。煮ても焼いても食えないな。

  *

「ちゃんと、左のほうへ入れてきたかい」

「当たり前だ。俺のことを、いくつだと思ってるんだ」

「僕よりは年下でしょう」

 観音院と織田は、往来を並んで歩いている。観音院は和装だが、織田はラフな洋装である。

 これで四十手前だというのだから、驚きだよな。どういう歳の重ね方をしたんだか。

「そうだよ。それより、さっきの話は本当か」

「さっき、何を話したっけ。歳のせいか、物忘れが激しくて。今日の夕食は、青魚にしてもらおう」

 わざとらしく頭を抱える観音院。

 それでシラを切れると思ってるんだとしたら、見くびられたものだ。

「あの四人の過去について、尤もらしく言ってただろうが」

「あぁ、そうそう。青葉は虐待監禁されてて、赤城は放蕩勘当されて、真白は夭逝した某アイドルの影武者で、目黒は元傭兵だって話だったね」

 バッチリ覚えてるじゃないか。

「にわかには信じがたいんだが、その話、事実なのか」

「べらべら喋って良いのかと思ってるんだね。たしかに、どれも重大な秘密のように思うかもしれないけど、核心には触れてないよ」

「だけど、もしも第三者が、その情報を悪用したら、とか考えないのかよ」

「四人の本名すら知らないのに、どうやって悪用するのさ」

「手段は知らない。でも、何か方法があるだろう」

 観音院は足を止めると、口元から笑みを消し、猛禽類のような目で織田を見据えながら、よく研いだ包丁のように冷たく鋭い声音で言う。

「康成くん。僕の目が黒いうちは、四人に危害を加えさせないよ。中学を卒業した人間に手を差し伸べる人間の数は、卒業前の人間にそうする数より格段に少ないんだ。そんな数少ない安全地帯を脅かすことは、絶対に許さないから。それだけは、覚えておいて」

 これは、藪蛇だったか。うっかり、触れちゃいけないところに踏み込んだらしい。

「お、おぅ。誰にも言わないから、安心して、ください」

 緊迫した空気に圧され、織田が恐る恐るそう言うと、観音院は殺気立ったオーラを消し、頬を緩め、にこやかに言う。

「そんなに畏まらなくて良いよ。そうだったら面白いよねって話だから」

 冗談だったのか。脅かさないでくれよ。笑えないから。……んっ。いや、まてよ。本当に絵空事だったのか。作り話だというほうが、嘘なんじゃなかろうか。

 観音院の顔を見ながら織田が考えを巡らせていると、観音院は不思議そうな顔をして言う。

「どうしたの。僕の顔に、何か付いてるのかな」 

「いや、何でもない」

 うん。深読みするのは、よそう。俺に、真相を突き止める義務は無い。


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