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籠の中の鳥は  作者: 若松ユウ
第三部
174/232

#164「暑中見舞い」【斧塚】

#164「暑中見舞い」【斧塚】


 最高気温が二十五度以上で夏日、三十度を超すと真夏日、そして三十五度に達すると、今日と同じ猛暑日だ。

「生徒たちは良いですよね、夏休みがあって」

 二段弁当を広げながら、斧塚は、側に立つ白衣を着た女性と他愛もない話をしている。

「そうね。でも、運動部や吹奏楽部は、朝からグラウンドやプールで練習に励んでるわよ」

 空調が効いた職員室の締め切られた窓の向こうからは、「オーライ」や「ファイト」といった掛け声や足音、管楽器が奏でる行進曲の音色などが、微かに聞こえてくる。

「そうですね、佐伯先生。暑いのに、ご苦労なことです」

「放送部も、活動実績を残すために登校してるみたいですね。今日は、卵焼きですか。美味しそうですね」

 言うが早いか、二段の弁当箱うち、ご飯が詰め込まれてないほうに鮨詰めにされている卵焼きを一つつまみ取り、迷わず口に運ぶ佐伯。斧塚はウンザリした口調で答える。

「夏休みに入ってから、毎日毎日、白米とおかず一種類を詰め込んだ二段弁当を渡される、こっちの身にもなってくださいよ。おかげで、コレステロール値と血糖値が鰻登りです」

「冷凍食品を使わない姿勢は評価しますけど、栄養が、たんぱく質と炭水化物に偏ってますね。でも、嫌がらせではなく、純粋な好意なんでしょう」

「大橋も同じ弁当を食べてるようですからね。だから、余計に厄介なんですよ」

「いつもダウナーですから、精をつけさせたいのかしら。それなら、蒲焼きにすれば良いのに。滋養豊富で、ギンギンに冴えますよ」

「その発言、保健医であっても、立派な通報案件ですよ。スクープ。平然と猥褻まがいを働く欲求不満の養護教諭、佐伯千尋、四十歳独身」

「誰が欲求不満ですか。エロースは、官能小説の中だけに留めてます」

「手遅れになる前に一一〇番しなければ。おまわりさーん。ここに痴女がいます」

「失礼しちゃうわ。フィクションとリアルの区別くらい、ちゃんと付いてますよ。斧塚先生こそ、素麺ばかりじゃ、夏バテしますよ。一一九番されても知りませんから」

「ご忠告、どうも」

 佐伯が側を離れ、斧塚が箸を手にしようとしたところに、垢抜けない髪型と瓶底眼鏡の生徒会長が姿を現す。生徒会長は、片手にバインダーを持っている。

「斧塚先生。あっ、食事中でしたか。失礼しました」

 斧塚は箸を置き、立ち去ろうとした生徒会長を呼びとめる。

「気にしなくて良い。何か用かい」

「はい。この書類に、サインを貰いに来ました」

「貸してごらん」

「どうぞ」

 斧塚は、生徒会長からバインダーを受け取り、クリップに挟んであるペンを手にとってサインをすると、再びペンをクリップに留めてバインダーを返す。

「これで良いかな。生徒会長も、大変だな。下っ端に投げれば良いのに」

「これで終わりですし、好きでやってることですから。ありがとうございます」

 バインダーを受け取って立ち去ろうとする生徒会長を、斧塚は卵焼きが詰められたほうの弁当箱に蓋をし、それを生徒会長に差し出しながら呼びとめる。

「昼飯は、まだだろう。これを、持って行け」

「大丈夫ですよ。あとは、帰るだけですから」

「良いから、持って行け。俺ひとりじゃ、食べ切れないんだ。食べた後の空容器は、大橋に返してくれれば良いから」

 斧塚が押し付けると、生徒会長は、遠慮がちに空いてるほうの手で弁当箱を持つ。

「大橋って、放送部のですか」

「そう。まともに声を掛ける、いいチャンスだろう」

 斧塚が、いわくありげな様子で言うと、生徒会長は顔を完熟したトマトのように赤くしながら頭を振って否定する。

「寝癖髪で予鈴すれすれに駆け込んで来るような奴に、何で声を掛けねばならないんです」

「何でも良いけどさ。それは、お前にやるから、お礼くらいは伝えておけよ。ほら、用はそれだけだから、出た出た」

 斧塚が片手を振ると、生徒会長は渋い顔をしながら一礼し、職員室をあとにする。そこへ、ミルクティーとコーンポタージュの缶を持った佐伯が戻ってくる。

「素直じゃないですね。すっかり、ほの字なのに」

「髪型と眼鏡で損してるよなぁ。染めたりピアスを開けたりするのは論外だけど、もうちょっと色気付けば見違えるのに」

「私が、一肌脱ぎましょうか」

「結構です」

「即決ですね。どうしてですか」

 文字通りの意味でないと分かっていても、安心して任せられないからだよ。

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