#163「ユーターン」【長一】
#163「ユーターン」【長一】
芸者と忍者と侍、そしてマンガとアニメとヲタクの国、日本。極東の島国はミステリアスである。
「テクニック面では問題ないから、あとは、徐々にメニューを増やしていけば良いだけかなぁと」
ダイニングテーブルを、長一、竹美、松子、坂口の四人が囲んでいる。松子と坂口は、洋服に着替えている。
「ずいぶん甘い評価ですね。竹美のこと、買いかぶってらっしゃる」
長一の講評に松子が難癖をつけると、竹美が反論し、坂口が宥める。
「何よ、お姉ちゃん。私の料理が、美味しくなかったって言いたいわけ」
「まぁまぁ、落ち着いてください。――話を戻しますけど、兄弟揃って理系なんですね」
「長一さんは、何学部でしたっけ」
坂口が話題を転換し、竹美が質問すると、長一が朗々と答え始めるが、松子が途中でストップをかける。
「工学部だよ。ドアのクロージャーやトランクのダンパに使われてる作動油の粘性や温度による相関性をアルゴリズムで数式化出来ないかと思って」
「待ってちょうだい。もっと平たく言わなきゃ、竹美の文系脳には届かないわ」
「俺の脳にも、理解のキャパシティーを超えてます。アルゴリズムという言葉から、思わず、行進と体操を連想してしまいました」
坂口が率直な感想を述べると、竹美も坂口に同感し、次いで別の疑問を長一に投げかける。
「私も、同じことを考えてました。――そうそう、長一さん。ときどき、次郎さんが何かのテキストらしきものを広げて、シャーペンを走らせたり回したりしてるんですけど、企業秘密だといって、何をしてるか教えてくれないんです」
受かってから驚かせようと思ってるんだろうな。でも、不安に思ってるから言っちゃおう。
「あぁ、それなら、秋には終わるよ。入社したら、宅建と不動産鑑定士の資格を取ることになるんだ。というより、半強制で取らされると言ったほうが正しいかな。あっ、教材費と交通費、受験料は会社持ちだから、安心してね。次郎が取り掛かってるのは、たぶん、そのどっちかじゃないかな」
「不動産、鑑定士」
長一の答えを聞いて、竹美が食べ慣れないものを口にしたような素振りで言うと、松子がからかい半分に言う。
「床柱をしげしげ眺めながら、この家の大工はいい仕事してますねと言う羽織姿の初老の男性像が浮かんでるんじゃない、竹美」
「なっ。どうして分かるのよ」
図星を突かれた竹美が、照れと怒りに任せて松子の肩を叩いていると、ベランダからリビングに戻ってきた永井が言う。
「残念ながら、俺には骨董品や古美術の目利きはできないぞ」
「あっ、次郎さん。資格学習なら、そう言ってくれれば良いじゃありませんか」
「落ちたら格好悪いから、受かるまで黙ってようと思ったんだ」
あっ、そっちが理由か。
*
「今日の体験で、少しは苦手意識が克服できたんじゃないかい、次郎」
「どっちの意味だ、兄貴」
ベランダの欄干に腕を凭れさせながら、長一と永井が会話を交わしている。長一の手には、濁った色の液体が入ったグラスが握られている。二人の背後にあるカーテンが引かれた窓の向こうには、三人の人影が映っている。
「両方だよ。いつまでも、お義姉さんと冷戦状態では、竹美ちゃんが困っちゃうだろう。――はい、食後の一杯」
長一がグラスを差し出すが、永井はグラスに訝しげな視線を送り、受け取りを固辞する。
「何だ、それは」
「喉が渇いたんじゃないかと思って。栄養満点のオリジナルブレンドを作ったから、試飲を頼もうかと」
「毒見の間違いではないのか。アナフィラキシー反応が起きそうだ」
「アレルゲンは無いよ。次郎が飲まないなら、竹美ちゃんに頼もうかな」
リビングに戻ろうとする長一。永井は、それを引き止め、長一の手からグラスを奪う。
「被害者は、俺ひとりで良い。悔いの残る人生だった」
そう言うと、永井はグラスを口にあて、グッと一気に飲み干す。
「辞世の句でも詠むかい。動かねば、闇にへだつや、花と水」
「俺は沖田総司じゃない。あー、不味い」
「もう一杯、かな」
「ケール百パーセントか。今度は、何を入れた」
永井は手の甲で口の端を拭い、グラスを長一に返す。長一は、それを笑顔で受け取る。
「フフッ。企業秘密だよ」
「教えないなら、こんな精神的苦痛を受けてますって、事実を三割増しで脚色して、あの鬼嫁に電話するぞ」
両手の人差し指を立て、頭の上に乗っける永井。
「ちょっ。そんなことされたら、また玄関の鍵を替えられちゃうよ」
「今度は、そっちが苦手を克服する番だ」
あちゃー。とんだブーメランだった。




