#160「親指姫」【松子】
#160「親指姫」【松子】
スマートフォンやブイアールゴーグルは、電話ボックスやアーケードゲームが人口に膾炙していた時代からすれば、エスエフ世界の道具に映るだろう。
「悪用しないように、きつく言われてましたからね。話し合いで解決するに越したことありませんよ」
「そうですね」
弱い犬ほど、よく吠える。めったに吠えないのが、強い犬だ。
坂口と松子は、花火を見つつ、そぞろ歩きしながら、会話を交わしている。
「使い込んでるみたいですね、そのタオル」
そう言いながら松子は、坂口が首に提げているスポーツタオルを指差す。傷みは少ないが、日に焼けて色褪せている。
「えぇ。使い勝手が良くて、大いに役立ってます」
記念に残るものより、実用的なものを選んでよかった。
タオルの端を触りながら、松子が言う。
「大事にしてるのが、よく分かります。でも、そろそろ替えどきですね」
「うーん。やっぱり、そう思いますか」
坂口は諦めきれず、慈しむような目でタオルを見る。
捨てるのが惜しいと思ってもらえるのは、ありがたい限りだけど、くたくたになるまでヘビーユーズしたら、さすがに新しくしなきゃ。
*
古語で「あたらし」という形容詞には、「もったいない」という意味がある。
松子が持っている巾着から、携帯電話のバイブレーション音が鳴る。坂口が、巾着を指差して言う。
「鳴ってますよ、携帯」
誰だろう。このリズムは、メールじゃなくて電話のほうね。職場からかしら。
「電話なんですけど、出ても良いかしら」
「どうぞ。急ぎの用だと大変ですから」
「ごめんなさいね」
松子は、素早く巾着から携帯電話を出して開き、通話ボタンを押し、ディスプレイ面を親指で押さえながら耳に当てる。
「もしもし、鶴岡です。……何だ、竹美か。どうしたのよ。……そう。いま、坂口さんと一緒なの。……そうよ、悪かったわね。待ってて。ちょっと、聞いてみるから」
「何かあったんですか」
不安そうに表情を曇らせる坂口に、松子は通話口を手で塞ぎ、あっけらかんとして言う。
「そんな深刻な顔しないでくださいよ。別に、大した用じゃなかったんです。竹美が、永井くんのお兄さんに料理を教わったらしくて。まぁ、それだけなら良かったんですけど、ついつい調子に乗って二人で作りすぎちゃったようで。それで、よかったら食べに来ないかって言うんです。どうでしょう」
「松子さんが良ければ、ご一緒しますよ」
「わかりました。それじゃあ、了解で返事しますね」
松子は、通話口から手を外して言う。
「もしもし、竹美。こっちは、オーケーよ。……えっ、何。……あっ、そう。大丈夫よ。子供じゃないんだから。……はいはい。それじゃあ、切るわよ」
松子は電源ボタンを押し、手首をスナップさせて携帯電話を二つに折り、巾着に仕舞う。
「松子さん。その携帯、いつから使ってるんですか」
松子は、顎先に人差し指を当て、斜め中空を眺めながら答える。
たしか、入行三年目くらいに二年縛りから解放されたくて、別のキャリアに乗り換えるときに買ったから、えーっと。
「そうですねぇ。もう、かれこれ八年くらいは使ってることになるかしら」
「塗装も欠けてますし、ヒンジも甘くなってるじゃありませんか。買い換えましょうよ」
「でも、このタイプの携帯に慣れてるせいか、抵抗感が強くて」
「愛着があるのは分かりますけど、もう寿命だと思いますよ。スマホの操作なら、俺が教えますから。ねっ。使いこなすと便利ですよ、アプリ」
熱弁する坂口に押され、松子は首肯してから言う。
「わかりました。明日にでも、買い換えます。その代わり、坂口さんも新しいタオルを買ってくださいね」
そう言って、松子は、坂口の首元からタオルを取りあげる。
「そう来ましたか。良いでしょう。お互い、新しくしましょう」
そして二人は、そのまま永井家に向かって行った。




