#155「全員野球」【松子】
#155「全員野球」【松子】
プロのオーケストラ楽団において、打楽器奏者とバイオリン奏者のギャラは同じである。
「先輩、お茶です」
「ありがとう、秋子ちゃん」
松子が湯呑みを持ち上げると、秋子は、お盆で口元を覆いながら、小声で松子に囁く。
「総務課のほうに、いつかの慰安旅行でお会いした本店のかたがお見えなんですけど、何かあったんですかね」
「あら、そうなの。どうしたのかしら。――あっ、渋木くん。お帰り」
「外回り、おつかれさまです。汗ビッショリですね」
松子と秋子が声を掛けると、渋木は鞄を机にドンと置き、椅子に座り、片腕で目元を覆いながら天を仰ぎ、背凭れにグッと身体を預ける。
「あー、疲れたぁ。空調の効いた部屋で鄭重に扱われるサーバーが羨ましいぜ」
「気温も高まってますけど、それ以上に、湿度が高くて不快ですよね。お茶を煎れてきます」
秋子は給湯室に向かい、松子は、その後ろ姿に向かって言う。
「行ってらっしゃい。――サボタージュしなかったみたいね。珍しい」
秋子を見送ったあと、松子が渋木に声を掛けると、渋木は身体を起こして反論する。
「珍しいは、余計だ。まったく。総務課の新米がうつ病で自宅療養に入ったせいで、本来ならしなくて良い仕事まで回ってきてさ。社会人なら、セルフコントロールしとけっていうんだ。甘えだ、低能だ、給料泥棒だ」
そう言いながら、渋木は鞄から乱暴にパイプ式ファイルを取り出し、机に積み上げていく。
なるほど。それで、総務課に本店の行員が居るのね。大ごとにならなければ良いんだけど。
「そういえば、課長の姿が無いな。先に戻ったはずなんだが」
そう言って、渋木はオフィス内を見渡す。
「どこかで油売ってるんでしょう。いつものことよ」
「残念だが、その予想はハズレだよ、松子女史」
松子の後ろ側から徳田が姿を現す。右手には、四玉二十三桁の算盤を持っている。
「あっ、課長。てっきり、ここに帰ってるものだとばかり思ってたのに」
「算盤を持ち出してまで、今まで、どちらに」
渋木と松子の質問に、徳田がまとめて答える。
「演算プログラムに不具合があったらしくてね。午前中いっぱい、帳簿や伝票の細かい数字と睨めっこしながら、玉を弾いてたんだ」
「それは、大変だ」
「抜けてきて、大丈夫なんですか」
「あぁ。昼休みに、エンジニアが来てね。基盤の一部を交換したら、ちゃんと稼動するようになったよ。ウーム。目薬が欲しい」
能ある鷹は爪を隠す、とまでは言わないけど、こう見えて珠算一級なのよね、課長。普段は、まったくと言って良いほど役に立ってないけど、こうした有事には頼りになるから馬鹿に出来ない。働かない蟻にも、意味がある。組織規模が大きいほど、非常事態への対処が折り込み済みであるべきだ。さもないと、過労で全滅してしまう。渋木くんは、あぁ断罪したけど、うつ病の新米くんだって、存在意義があるに決まってる。全曲中にシンバルを一回鳴らすだけだからといって、怠け者呼ばわりしてはいけないのと同じだ。




