#154「一枚上手」【安彦】
#154「一枚上手」【安彦】
将棋の世界では、上手の人間が、下手の人間との実力差を考慮して飛車や角行の駒を減らして対局することがある。そこから、自分より優れた相手のことを一枚上手と呼ぶようになったとされている。
「初めて寄付に行ったとき、九月になっていたんだけど、まだ残暑が厳しかったから、単衣ではなくて、今と同じ格好で行ったんだ。そしたら、色白で透ける着物を纏ってるものだから、子供たちから幽霊と勘違いされたってわけ」
往路と同じように、観音院と織田は、後部座席で話し込んでいる。ただし、復路の運転をしているのは赤城である。
「なるほど。いかにも、ガキが考えそうなことだな」
「子供たちの想像力には、感心させられるよね」
「だけど、何かもったいない気がするな。せっかく腰上げまでしたものを渡してやっても、浴衣には屋号も何も入ってないから、店の宣伝にならない。それに、寄付自体、匿名でしてるんだろう」
「そうだよ。お世話になった恩返しさ」
「兎の皮を被った狐の、狡猾な売名行為だと思ったんだけどなぁ」
それは、当たらずしも遠からず。浴衣の良さを知れば、将来的に呉服業界が潤うと見込んでのことだからね。ある近江商人は言いました。稚魚を育てないと、成魚は獲れないと。ただ、壱丸呉服だけが儲かれば良い、僕だけが有名になれば良いという考えは捨ててるんだよね。虚しいだけだから。
「洋服は、サイズが合いにくいし、直しにくいから、結果的に服に身体を合わせる羽目になって、窮屈で可哀想な思いをさせがちだけど、和服は、身の丈に柔軟に対応しやすいからね。慣れるのに、ちょっと時間が掛かるけど」
「そうだな。俺も、最近になって、ようやく慣れて来た」
「そうなんだ。それは、進歩だね」
今でも、ときどき、見えないところに皺が寄ったり折り目が付いたままになったりしてる場合があるけど、そこはご愛嬌かな。
*
「いつもヘラヘラしてるもんだから、てっきり、目に入れても痛くないとばかりに甘やかされて育てられたのかと思ってたぜ。何にも知らずに、傷付けるようなことを言って悪かった」
ぎこちなく殊勝な態度を取る織田に、観音院は笑いを堪えつつ、平生を取り繕って言う。
「大した苦労だとは思ってないよ。あの施設に居たのは七歳までだし、僕を引き取ってくれた大旦那さまも、厳しかったけど、理不尽に感情をぶつける人じゃなかったし。まぁ、途中で僕に逃げられたら、息子も男兄弟も居ない大旦那さまは御家断絶で店を畳まなきゃいけない危機に逆戻りしちゃうから、多少の我が儘には目を瞑ってたんだと思うよ」
「いやぁ、立派だよ。それに比べて俺ときたら、恵まれた環境にありながら、両親に文句ばっかり言って、挙句、全部パーにしちまってさ。あぁ、情けなくなってきた」
織田は悄気込み、ガックリと項垂れる。
おやおや、落ち込ませちゃったか。このまま帰ったら、作楽ちゃんが気を遣っちゃうなぁ。それは、避けたいところだ。うーん。……あっ、そうだ。
「赤城。次の角を、右に曲がって」
「えぇっ。ちょっと、そういうことは、直前に言わないでくださいよ。焦りますから」
あたふたと、赤城は左側にあるレバーを上げ、ハンドルを右に切る。
「とか何とか言いながら、だいぶ慣れてきたじゃないか。ここへ来たときは、ワイパーを動かしてたのに」
「忘れてくださいよ、旦那さま」
二人のやりとりを聞いて、織田はフッと口の端に笑みを零す。
このまま回り道して赤城を混乱させていれば、少しずつ機嫌が上向くかな。




