#142「二階にて」【英里】
#142「二階にて」【英里】
猫に小判、豚に真珠、価値の分からない人間には、どれほどありがたい物であっても、宝の持ち腐れになってしまう。
「グー、グー、グー。辞書を枕に、高鼾。という、うまい具合には、いかないもんだな、松本」
仰向けになっていた吉川が起き上がり、枕元に置いてあった辞書をローテーブルに載せる。帯には「十年ぶり改訂七版。約一万語を追加収録」と書かれている。
「時代劇のお侍さんになった気になれば、いけるんじゃないかしら」
「箱枕かよ。それなら、丁髷を結わないと」
「それじゃあ、キッチンから、オリーブ油を持って来るわ」
英里がローテーブルに手をついて立ち上がろうとすると、吉川は英里の腕を掴んで引き止める。
「やめてくれ。相撲部屋の新弟子と勘違いされる」
その前に、お巡りさんに呼び止められるんじゃないかしら。
英里はスカートの裾を払って座りなおし、辞書を開く。
「はい。休憩は、ここまでにして、調べ学習を再開するわよ。ほら、ノートを開いて、鉛筆を持つ」
「へい、へい。また、新しそうな言葉を探しますか」
何か自由学習のテーマは無いかと思っていた矢先、パパが注文したこの辞書が届いたのよね。調べ物に丁度良いし、面白そうだと思って借りたんだけど、吉川くんのやる気ゲージが駄々下がりで、ちっとも捗らない。
「ここまで、どんな言葉があったっけ」
向学心が無いわね。ノートが驚きの白さだわ。ホント、勉強に関しては、他力本願なんだから。
英里はノートのページを捲り、書いてある単語を読み上げて説明する。
「ジャンルごとに五つずつのグループにしてみたんだけどね。現代語が、安全神話、上から目線、自撮り、ちゃらい、無茶振り。カタカナ語が、クールビズ、クラウド、スマホ、ツイート、バリスタ。ニュース関係が、東日本大震災、ビットコイン、ブラック企業、マタニティー・ハラスメント、アラブの春。科学用語が、アイピーエス細胞、エーイーディー、ゲリラ豪雨、ニホニウム、パンデミック。人名が、赤塚不二夫、川上哲治、大鵬、高倉健、原節子。地名が、富岡製糸場、東京スカイツリー、熊野古道、軍艦島、南スーダンよ」
吉川は、英里のノートを覗き込み、感嘆の声をあげる。
「おぉ、すごいな。もう、そこまでまとめられたんだ」
誰かさんが辞書を枕にしてるあいだにね。
英里が嘆息を漏らす傍らで、吉川は額に手を当てながら言う。
「あれは、なかったんだっけ。ピーティーエーじゃなくて、えーっと」
「ティーピーピーのことかしら」
「そう、それだ」
親と教師が、環太平洋の貿易について話し合ってどうする。
「無かったわよ。あと、豊洲市場も」
英里は辞書を捲りながら答えていたが、あるページで手を止める。
こんな言葉も載ってるんだ。
「そっか。んっ。何か見つけたか」
「なっ、何でもないわよ」
英里は、急いで辞書を閉じようとしたが、すかさず吉川が鉛筆を挟み、辞書を取り上げて立ち上がる。
「よーし、このページだな。一項目ずつ、読み上げていくぞ」
「やめなさいよ」
英里は吉川の服を引っ張り、辞書を取り返そうとする。
「だったら、何を見つけたか教えてくれよ」
「それは、私の口からは言えないわ」
吉川が鉛筆を挟んだページには、「お姫様抱っこ」という項目が追加されている。




