#120「記憶に固執」【英里】
#120「記憶に固執」【英里】
長髪、丸眼鏡。生まれる時代と場所を間違えたような格好のこの英語教員こそ、我らが三年二組の新担任、斧塚由紀その人である。着任早々、愛用のマンドリンを弾き語りした彼に、クラスでジョンというアダ名が付いたのは、自然な流れであろう。演奏したのはギターではないけど、名前が名前だから。
「キャノット、ヘルプ、アイネヌジー。これで、何々せずにはいられないという表現になる」
そう言いながら、斧塚は黒板に白チョークを走らせる。一部の不真面目な生徒を除き、大半の生徒は、それと同じ内容をノートに書き込んでいる。
私の席は窓際。言っておくけど、左遷寸前という訳ではないわよ。今は五時間目。耳をすませば、換気のために開けっ放しにされた窓の外から、日中、市民広場で一時間おきに鳴らされてるカリヨンの鐘や、豆腐屋のラッパ、竿竹屋のアナウンスが微かに聞こえてくる。この学校は住宅街の中にあり、この教室は校舎の一階にあるからだ。フェンスの向こうは、すぐ通学路になっている。
「吉川、キャノットヘルプスリーピング、アフターランチ。昼食後に眠らずにいられないようだな、吉川」
斧塚がそう言って吉川に歩み寄ると、教室じゅうには、クスクスという笑い声が溢れた。そんなこととは、つゆ知らず。吉川は、涎を垂らさんばかりに大口を開け、熱したチーズかダリが描いた時計のように机の天板に張り付き、惰眠を貪っている。英里はペンを走らせる手を止め、吉川のほうを一瞥し、深い溜め息を吐いた。
もう、だらしないんだから。進級しても変わらないわね。ノート、見せてあげないわよ。
「吉川。先生に言われてるぞ」
山下は後ろを向き、吉川の旋毛あたりをペンの尻でぐりぐりと押すが、吉川は我関せずと、睡眠学習を続行する。
「文系の成績を上げないと、高校進学は厳しいぞ。特に、英語は必ず課されるんだから、理解できなくても、せめて起きて俺の話を聞け」
そういえば「みんなに関する情報は、前任の秋山先生から共有済みだけど、至らない点は教えてくれると助かる」って言ってたっけ。
斧塚が吉川を起こそうとしてるころ、同時に窓の外の道路では、不動産屋の自動車が路肩に停まり、中からスーツ姿の小太りの男が降り、校舎に向かって手を振った。
「おーい、プリンス。ジョーカーだよ」
誰だろう。先生では無さそうだし、事務の職員さんでも無いわよね。
「無視するなよ、斧塚由紀。星雪舎ギターマンドリン研究会の、ピースメイカー」
「他人の黒歴史を大声で曝露するな、永井長一」
斧塚は血相を変えて窓枠から身を乗り出し、長一に向かって怒鳴り散らす。
クールな先生かと思ってたのに、すごい剣幕で怒ってるわね。よっぽど触れられたくない過去だと見た。
「ん。何だよ、うるさいな。俺のシエスタを妨害しないでくれよ」
あまりの騒々しさに、吉川はむくりと身を起こし、大きく欠伸をした。
この一連の出来事を境に、アダ名がジョン王子に変わったのは、容易に想像できることであろう。斧塚先生も災難である。合掌。




