#118「君主論」【織田】
#118「君主論」【織田】
この観音院という男は、どこまでが冗談で、どこからが本気なのか、とっさの判断に苦しむ。
「俺としては、狐に化かされてる気分だ」
「コンとでも鳴こうか。それとも、耳や尻尾を出すべきかな。木の葉をお金に替えても良いね。実は、この屋敷に来てからのことは、すべて妖術による幻覚だったと言ったら、君は信じるかい。――はい、襦袢の袖を持って、ここに通して」
観音院は、藍染の小紋を持ち、背後から織田に着せる。織田は襦袢の袖を持ち、腕を小紋の袖に通す。
「もし、そうだとしたら、現実の俺と作楽は、巣穴で昏睡してることになるのか」
「どうだろうね。そうかもしれないし、そうでないかもしれないよ」
鈴を転がすように笑うと、観音院は立て膝をつき、織田の腰に手を回して角帯を締める。そのあいだ、織田は袖の端を持ち、姿見を前に、腕を横に広げてジッと直立して待つ。
「住み込みの仕事って、もっとキツイものだと想像してたんだけど」
「お望みなら、ビシバシ叩いて身体で覚えさせるけど。もしかして、そのほうが嬉しい性格なのかい」
観音院が肉食獣めいた目をして不敵に笑うと、織田は怖気を震う。
「おぞましいことを言うな。口頭指示で結構だ。俺に被虐趣味は無い」
「良かった。僕も気が進まないからね。叩かれたほうだって痛いだろうけど、叩くほうも痛いんだよ」
そんな菩薩のようにのほほんとした顔で言われても、説得力ゼロだ。もし、異国の取調官に生まれてたら、嬉々として諜報員を拷問してただろう、貴様。
「部屋だって、客から従業員に降格した時点で、二階のゲストルームから追い出されると思ってたのに」
「気持ちよく働いてもらうためには、余暇を快適に過ごせる必要があるからね。そうじゃないと、何のために働いてるのか分からなくなるもの」
快適すぎて、あとが怖いくらいだ。日当たり良好の部屋に居候できるなんて、あのときは思わなかったものな。正直、そのうち俺が油断した頃に、この高待遇のツケを払わされるんじゃないかと、心の片隅で疑っているのは事実だ。
帯を締め終わると、観音院は軽く皺を払いながら立ち上がる。
「はーい、おしまい。ふふっ。浴衣くらいしか着たこと無いなら、初めからそう言ってよね。暇を見て、着付けのイロハをレクチャーしてあげるから」
けっ。意地を張るんじゃなかったぜ。
*
「鳳凰とか、雷神とか。男物では、勇ましいモチーフが多いね。僕が今、中に着てるのも、背中のところに獅子が描かれてるんだ」
「へー。着物って、案外、中は派手なんだな。浴衣は、外見も派手だけど」
「一見、地味に見えるだろうけど、一枚捲ると派手なんだよ。見えないところで贅を凝らすのが粋なんだ。あと、浴衣は本来バスローブだから、着物としては例外だよ。奥が深いでしょう」
「なるほど。――ところで、これから、どこへ行くんだ。市の中心部へ向かってるみたいだけど」
車窓を眺めながら、織田は観音院に質問する。
出かけるから着替えるように言われたが、行き先を聞いてないんだよな。
「言ってなかったっけ。かごめ銀行だよ。わっ、ちょっと、車内で立ち上がったら危ないよ」
織田は立ち上がり、運転席に向かって怒鳴る。
「降ろせ。車を止めるんだ、目黒」
「致しかねます。渋滞が無ければ、あと十五分少々で着きますので、そのあいだに覚悟を決めるべきかと」
「腹を括りなよ、康成くん。帯を締めたんだからさ」
織田は説得しても無駄だと諦め、シートにどっかりと座る。観音院は片手を控えめに口にあて、クツクツと笑う。
くっ、謀られた。やっぱり、この男は油断ならない。




