#117「上善は」【織田】
#117「上善は」【織田】
写真が嫌いになったのは、いつからだろうか。
蛇口を止め、鏡に映った己の顔と目を合わせる織田。
「……酷い顔だな」
観音院家で世話になるようになってから、早いもので三月余りが経つが、未だに、あの狐目の男の真意が読めない。煮ても焼いても食えそうにないのは確かだけど。
織田がフェイスタオルで乱暴に顔と手を拭いていると、そこへ観音院が現れ、織田に話し掛ける。
「顔を洗ったかい」
「あぁ」
「手も洗ったかい」
「あぁ。一々、ガキを相手にするように聞くな」
「ついでに足も洗ったら」
「別に俺は、犯罪に手をそめた訳じゃないから。うわっ」
観音院は背後からカメラを取り出し、フラッシュを焚いて織田を撮影する。織田は、眩んだ目をしばたかせながら、何が起きたか、状況の把握に努める。
「よしよし。自然な顔が撮れてるね」
ボタンを操作し、いま撮影した画像を確認する観音院。
「おい、若旦那。それは、何の真似だ」
「人相の変化を記録したくてね。良ければ、左手も」
記録されて堪るか。俺はチューリップや朝顔じゃないんだぞ。
「肖像権の侵害だ。この場でただちに、撮ったデータを消してもらおう」
「訴訟を起こすなら、お好きにどうぞ。いくらでも受けてたつよ。ただし、君を解雇してからの話だけど」
カメラを袂に入れ、口角を吊り上げてニヤニヤと笑う観音院。
誰か、こいつに脅迫罪について説明してやってくれ。もしくは、俺に六法全書を渡してくれ。後者なら、出来ればポケット版が望ましい。
*
店の手伝いというから、どんな重労働をさせられるのかと思えば、便所磨きとは。
ブラシやトイレ用洗剤を入れたバケツを持ち、織田が店のトイレを出ると、観音院が自然な微笑みを浮かべて待ち構えていた。
「ご不浄は綺麗になったかい。ふふっ。駄洒落じゃないけど、金運は水廻りからだからね」
どこぞのドクターか、貴様は。水晶や翡翠でできた龍の置物でも買わせてそうだな。琥珀や瑪瑙で出来た虎のブレスレットもセットにして。
「掃除する必要を感じないぐらい、元から綺麗なものだったぞ」
「毎日、みんなで交代で掃除してるからね。昨日は、僕の当番だったんだよ」
えっ、お前もローテーションに加わってるのかよ。
「従業員に押し付けるか、清掃業者にでも丸投げすれば良いだろうに」
「ご不浄は、店にとって裏の顔だよ。表の顔の暖簾と同じで、ここが汚れたままのお店には、心優しい人や、気前の良い人は寄ってこないよ」
そんなのは綺麗事だって否定したいけど、妙に説得力があるんだよな。ここは、心を改めて素直に言うことを聞いておくべきか。たとえ、従ってるフリだとしても。無一文の俺を騙しても、こいつには何のメリットもないことだ。
織田が、傍に観音院のことも忘れて考え事をしていると、観音院は袂からカメラを取り出し、織田を連写する。
「こら。勝手に撮るな」
「あー、怒っちゃ駄目だよ。せっかく良い顔してたんだからさ。……ほら」
ボタンを操作し、織田に向け、撮影した画像の中のベストショットを提示する観音院。
今の俺、こんな表情をしてたのか。朝の顔とは、ずいぶん違うな。これなら、撮られて悪い気もしないでもない。けれども。
「カメラを貸せ」
「やだよ。ゴミ箱に入れる気だろう」
「データなら消さない。ただ、フラッシュを止めるだけだ。眩しくて敵わない」
「何だ。それならそうと、最初に言ってくれれば良かったのに。はい」
そう言って、観音院は織田にカメラを渡した。織田は、ボタンを操作し、撮影モードを切り替えていく。
ここが鉄工所のいつも薄汚かった便所なら、こいつを床に叩きつけて壊したくなっただろうが、ここでは投げつける気にならないな。癪だけど、この男の言うことは、一理あると認めなければならないかもしれない。




