#107「春分」【万里】
#107「春分」【万里】
「昨年の秋以来ね。お久しぶり。ご機嫌いかが、博さん」
万里はバケツに掛けた雑巾を手に取ると、軽く絞って墓石を拭いていく。
「この前来たときから、また色々とあったのよ。大きな変動が起きる予感がするって言ったでしょう。シックスセンス的中よ」
墓石を拭き終えた万里は、バケツの縁に雑巾を掛けた。そして花立に柄杓で水を入れ、仏花の束を二つに分けて挿した。
「毎度おなじみ、菊と樒と彼岸花。今日は、ひと束だけしか残ってなかったわ。お花屋さんが、私が来ると見越して、売らずに置いてあったのかも。ふふっ。自惚れすぎかしら」
万里は蝋燭を燭台に固定し、マッチを擦って火をつける。そして、炎を線香の束に移すと、軽く振って消し、それを香炉に寝かせて置く。そして、両手を胸の前で合わせ、静かに瞼を閉じて拝んだ。
あれから年末に、松子は坂口さんに、竹美は永井さんにプロポーズされてね。松子は、まだ家にいるんだけど、竹美は、もう永井家に引っ越したの。それで、一週間前に入籍してきたんだけど、そこに偶然、誠も居合わせてね。えっ。どうして誠がそこに居たのか、ですって。実は、誠は誠で、入院先の看護師さんと再婚話を進めてたのよ。向こうにも男の子が一人居るんだけど、彼と寿くんと相性は悪くなくてね。臆病な内面の裏返しで虚勢を張る癖があったんだけど、寿くんの優しさに触れて、改まってきたそうなの。波及効果、その二よ。
万里は目を開けて半歩下がり、その場にしゃがみ込み、右手の墓誌を見ながら呟く。
「ただ、小梅は相変わらず漫画ばかり描いてるの。何か熱中できることがあることは良いことよ。だけど、もう少し生身の人間にも関心を持って欲しいというのが、私の本音ね。せっかく、仕事のこととか生活のこととか気にせず、異性とお付き合いできるチャンスなんだもの。どうしたら、興味を持つようになるのかしら。お節介を焼かないほうが良いのかしら。でも、あんまり放っておくのも考えものだし。……子育てって、難しいわ。面白いけど」
万里は立ち上がり、墓石に視線を戻す。
「娘を取られたからって、坂口さんや永井さんを恨まないでちょうだいよ。博さんだって、亀山家から私を取ったんだからね」
万里はバケツを手に取り、玉砂利をザクザクと踏みつつ外柵の外へ出ると、一度だけ振り返り、再び前を向いて本堂のほうへ歩いて行った。
変動は大きかったけど、まだまだ序の口のような気がするわ。小梅のことに限らず、これまで地下に眠っていた根っこが、これから続々と地上に顔を出してくるでしょう。
万里はバケツと雑巾を用具棚に戻すと、ふと上を見上げ、流れる雲を目で追った。
目黒さんのことは触れなかったけど、別に言う必要ないわよね。




