#099「湯加減」【永井】
#099「湯加減」【永井】
月が明けて三月一日。
「次郎。肩まで髪を伸ばしてお揃いになったら、白亜の教会でチャベルウエディングしようって歌があったよね」
アコースティックギターをポロンポロンと掻き鳴らしながら、長一は永井に話しかけている。永井は座布団に長座になりながら、長一の話に応じている。
「そのギター、まだ持ってたんだな。エフコードは押さえられるようになったか、兄貴」
「鋭意、特訓中だよ。それより、竹美ちゃんと仲直りしなよ。一緒にグリーンのシャツでも買えば」
「ペアルックなんてダサい真似できるか。でもまぁ、そろそろ熱が冷めたことだろうから、帰るとするか。邪魔したな」
「そもそも、何で喧嘩したのさ。カレーを全部混ぜてから食べ始めたとか、唐揚げに何の断り無しでレモン汁と掛けたとか」
「原因は食べ物じゃない。別に大したことではないから、言う必要もない」
永井は立ち上がり、部屋を出ようとする。しかし、その行く手を、アコースティックギターを送りバントの要領で腰の高さに構えた長一が遮る。
「いいや、あるね。ありまくりだよ。キッカケを白状するまで、家の敷居を跨がせないから」
やれやれ。面倒なことになったものだ。これなら、リュースケのところに逃げれば良かった。浴室の給湯温度を何度にするかで揉めたなんて、どんな顔をして言えばいいんだか。
*
リビングのソファーで、竹美は永井の胸に顔を埋めて泣きじゃくっている。セーターやシャツの胸元は、濡れて暗い色に変わっている。
「ごめんなさい。今日、合同説明会に行ったんだけどね。黒山の人だかりと熱気に圧倒されて、急に不安に駆られてしまってて。これじゃあ、八つ当たりもいいところよね」
そうか。竹美の学年の企業エントリーは、今日からだったか。
永井は片手の指で竹美の目元に溜まった水滴を軽く拭い、軽くポンポンと頭を撫でた。
「隣の芝は青い。周囲の学生が立派に見えただろうけど、誰も彼も、おおよそ見かけ倒しだ。心配するなよ。竹美には、竹美にしかない取り柄があるんだから」
竹美は小さく頷くと、言葉にならない震え声を漏らし、再び泣きはじめる。
「気が済むまで胸を貸してやる。シャツやセーターを、いくら濡らしても構わない。ただ、涙や鼻水は良いけど、血は付けないでくれると助かる。染み抜きするとなると、結構大変だからな」
竹美は涙を瞳に浮かべながら、顔を胸から離して上目遣いで言う。
「そこは、クリーニングに出せば良いんじゃないの」
「馬鹿を言え。海外製品はクリーニング代が高くつくんだぞ。そうそう頻繁にポンポン出してられるか。特に今は、極力、無駄な支出を抑えたいんだ」
六月に向けて、もう少し蓄えが欲しいところだからな。
「あっ。ひょっとして、ずっと前にコーヒーを引っ掛けたときも」
あぁ、あの日のことか。
「あのジーンズなら、すぐに脱いで食器用洗剤で落とした」
念入りに叩きすぎてインディゴも落ちかけたけど、乾けば判らなかったからセーフだろう。
竹美は、しばらく永井の顔をしげしげと見たあと、不意に吹き出した。
「ハハッ」
「何が可笑しいんだ」
「だって。想像したら、笑えるじゃない。そんなこと、絶対しそうにないのに」
悪かったな、見た目に似合わず家庭的で。……でもまぁ、笑顔を取り戻せて良かったよ。




