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籠の中の鳥は  作者: 若松ユウ
第二部
106/232

#099「湯加減」【永井】

#099「湯加減」【永井】


 月が明けて三月一日。

「次郎。肩まで髪を伸ばしてお揃いになったら、白亜の教会でチャベルウエディングしようって歌があったよね」

 アコースティックギターをポロンポロンと掻き鳴らしながら、長一は永井に話しかけている。永井は座布団に長座になりながら、長一の話に応じている。

「そのギター、まだ持ってたんだな。エフコードは押さえられるようになったか、兄貴」

「鋭意、特訓中だよ。それより、竹美ちゃんと仲直りしなよ。一緒にグリーンのシャツでも買えば」

「ペアルックなんてダサい真似できるか。でもまぁ、そろそろ熱が冷めたことだろうから、帰るとするか。邪魔したな」

「そもそも、何で喧嘩したのさ。カレーを全部混ぜてから食べ始めたとか、唐揚げに何の断り無しでレモン汁と掛けたとか」

「原因は食べ物じゃない。別に大したことではないから、言う必要もない」

 永井は立ち上がり、部屋を出ようとする。しかし、その行く手を、アコースティックギターを送りバントの要領で腰の高さに構えた長一が遮る。

「いいや、あるね。ありまくりだよ。キッカケを白状するまで、家の敷居を跨がせないから」

 やれやれ。面倒なことになったものだ。これなら、リュースケのところに逃げれば良かった。浴室の給湯温度を何度にするかで揉めたなんて、どんな顔をして言えばいいんだか。

  *

 リビングのソファーで、竹美は永井の胸に顔を埋めて泣きじゃくっている。セーターやシャツの胸元は、濡れて暗い色に変わっている。

「ごめんなさい。今日、合同説明会に行ったんだけどね。黒山の人だかりと熱気に圧倒されて、急に不安に駆られてしまってて。これじゃあ、八つ当たりもいいところよね」

 そうか。竹美の学年の企業エントリーは、今日からだったか。

 永井は片手の指で竹美の目元に溜まった水滴を軽く拭い、軽くポンポンと頭を撫でた。

「隣の芝は青い。周囲の学生が立派に見えただろうけど、誰も彼も、おおよそ見かけ倒しだ。心配するなよ。竹美には、竹美にしかない取り柄があるんだから」

 竹美は小さく頷くと、言葉にならない震え声を漏らし、再び泣きはじめる。

「気が済むまで胸を貸してやる。シャツやセーターを、いくら濡らしても構わない。ただ、涙や鼻水は良いけど、血は付けないでくれると助かる。染み抜きするとなると、結構大変だからな」

 竹美は涙を瞳に浮かべながら、顔を胸から離して上目遣いで言う。

「そこは、クリーニングに出せば良いんじゃないの」

「馬鹿を言え。海外製品はクリーニング代が高くつくんだぞ。そうそう頻繁にポンポン出してられるか。特に今は、極力、無駄な支出を抑えたいんだ」

 六月に向けて、もう少し蓄えが欲しいところだからな。

「あっ。ひょっとして、ずっと前にコーヒーを引っ掛けたときも」

 あぁ、あの日のことか。 

「あのジーンズなら、すぐに脱いで食器用洗剤で落とした」

 念入りに叩きすぎてインディゴも落ちかけたけど、乾けば判らなかったからセーフだろう。

 竹美は、しばらく永井の顔をしげしげと見たあと、不意に吹き出した。

「ハハッ」

「何が可笑しいんだ」

「だって。想像したら、笑えるじゃない。そんなこと、絶対しそうにないのに」

 悪かったな、見た目に似合わず家庭的で。……でもまぁ、笑顔を取り戻せて良かったよ。

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