#098「月の光る夜」【竹美】
※後半は、竹美がリビングでピアノを弾いているがあいだに、ベランダで交わされた会話です。
#098「月の光る夜」【竹美】
「そこに何か置く予定なの、次郎さん」
リビングの片隅に不自然に空いた一畳ほどのスペースを指差し、竹美は永井に質問した。
「今度のトラックで、竹美の電子ピアノが届く。――こっちは食器類だったか。衣類は、どこだ」
段ボールをテーブルの上に置き、クラフトテープを剥がし、梱包を解きながら、永井がシレッと何気ない調子で告げると、竹美は驚いて荷解き作業の手を止め、永井のほうへ向かう。
「えっ。だって、あれは置き場所がないから諦めてくれって」
「考え直したんだ。使ってないものを処分したり、広いからと言って兄貴が勝手に置いてた兄貴の物を、まとめて宅配用の段ボールに詰めて着払いで送りつけたりしたら、割とあっさりスペースが空いたん、どわっ」
永井が言い切る直前に、竹美は永井の腰に後ろから抱きついた。永井も、作業の手を止める。
嬉しい。あのピアノとさよならするのは、ちょっと寂しいと思ってたの。
「ありがとう、次郎さん」
「どういたしまして」
永井が竹美に触れようとしたところに、甘いムードを壊す場違いな陽気な声が聞こえてくる。
「ヒューヒュー。お熱いですな、お二人さん」
永井と竹美は声のするほうへ顔を向け、そこにいる長一の姿を認めると、永井は作業を再開し、竹美は腕を解いた。
「良いところを邪魔して悪いんだけど、トラックが到着したんだ。こっちに来て、ピアノを運ぶのを手伝ってよ」
*
立春を過ぎ、雨水を過ぎ、もうすぐ啓蟄になろうとしているが、日が暮れたベランダは、まだまだ依然として冬の寒さが残っている。
「九度が届かないのに、何でベートーベンのソナタを弾こうと思ったんだろう」
「良いじゃないか。静かな第一楽章に明るい第二楽章、そして激しい第三楽章へ。――九度って、どこからどこまでだっけ」
「ドから始めるなら、一オクターブ上のレまで。俺は、手が大きいから十度でも届くけどさ」
「出たな、サックスの悪魔」
「パガニーニは、バイオリンだ。――追加料金は、ちゃんと払ってくれたか」
「一切の抜かりなし。いやぁ、無事に引越しが済んで良かったよ。ピアノや箪笥を退けたら、そこだけ床が色褪せたり傷んだりないままだったんだけどさ。何でも、二人部屋になるのは十年ぶりらしくてね。子供部屋が少し広くなったって、喜んでたよ」
「そうか。それで、向こうの姉貴は、俺のことを何か言ってたか」
「えーっとね。認めたわけじゃないし、許す気もないけど、こうなった以上は責任を持って幸せにしなさいって。万が一、竹美ちゃんを泣かせたら、絶対に承知しないらしいよ」
「おぉ、そうかい。運び出しに行かなくて正解だったぜ」
「そうかな。口では批難してたけど、内心は仲良くしたいと思ってそうだったよ」
「それは、どうだか」
リビングに置かれた花瓶には、ミモザが黄色い花を咲かせている。




