#094「待ちあい」【金子】
#094「待ちあい」【金子】
唯一にして最大に懸念材料は、十日前に取り越し苦労だったと判った。だから、あとは、こちらの気持ちを伝えて、向こうの返事を待つだけだ。そう。それで良いはずだ。
「ちょうど今日から一ヵ月後、三月十四日が退院予定日だから」
「そうか。あと一ヶ月で退院できるんだな」
「そう。これでやっとベッドが空くよ。――はい、これ」
金子は顔を窓のほうへ向けながら、不器用にラッピングされたチョコレートを片手で誠に渡す。
「今日はバレンタインだったな。患者に配って歩いてるのか」
「そういう看護師も居るけど、私は本命にしか渡さない」
ほんの数秒、二人のあいだに無言の時間が流れたあと、誠が口火を切る。
「それって、やや遠回しなプロポーズだと受け取って構わないのか」
割とストレートな方法だと思うけど。
「あぁ、そうだよ。返事は退院するときに聞かせてもらうから、不摂生と不養生を重ねて酸欠になってる頭で、ひと月とっくり考えろ」
金子は吐き捨てるように言い、台車を押して立ち去る。
*
帰り際、エレベーターを待っていたら、同じく帰りだという柴田さんに捉まった。早く帰りたいところだけど、どう話を切り上げて良いか分からない。
「これでも、努めて方言を出さんようにしとるんだけど、それでも、一度染み付いた訛りは変えられん。どうにもならんちゃ」
今でも、ときどき新米の医師や患者さんから誤解を招いてるものね。私や看護師のあいだでは、もう慣れてるけど。
「気にすること無いと思いますよ。必要なら、私たち看護師がフォローしますから」
「きのどくな。何も、こんな頭の鈍い年寄りのために、いらん苦労を背負うことないうぇ」
たしか、「きのどくな」は「ありがとう」だったわね。「いいえ、構わない」と言うときは、たしか。
「なーん、つかえんよ」
「これは、いそくった。たびのひとだのに、はしかいちゃ」
だんだん、脳内翻訳が追い着かなくなってきたわ。「いそくる」は「驚く」、「たびのひと」は「県外の人間」、「はしかい」は「賢い」だったっけ。
「ばやばやになっとるにゃ。あっかりするが、早かったっちゃ」
しまった。急に黙り込んだものだから、落胆させたようだ。
「すみません。つい、調子に乗りました」
「つかえん、つかえん。それくらい、言葉の違いがあるんだから。あぁ、ちんとすると、こたえる。それじゃ、さいならね」
会話を切り上げ、柴田は、ちょうど到着したエレベーターへと向かった。
いま乗ったら、さらに会話を続けなくちゃいけない。ここは、もう一台が来るのを待とう。




