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~ 午ノ刻   屍肉 ~

 気がついてみると、無我夢中で逃げ込んだ部屋は思いの他に暗かった。


 そっと部屋の扉に鍵をかけ、宗助は先程の麻袋を被った奇妙な男のことを思い出した。


 あれは、いったい何だったのか。明確な答えは宗助にも出せない。ただ、フライパンで鉈を受け止めた時、一つだけはっきりとしたことがある。


 あの男は、既に人間ではない。それだけは、宗助も確信していた。フライパンを通じて伝わってきた、背筋の痒くなるような不快感。陰の気を持った向こう側の世界・・・・・・・の住人と同じ力の存在を、どうして忘れることができようか。


 肉体を持っている以上、男が幽霊のような存在である可能性は低い。が、しかし、まともな人間というわけでもないだろう。殺人鬼という意味ではなく、普通の肉体を持った人間とは違うという意味で。


 信吾の脚を奪った罠。あれを仕掛けたのは、恐らくはあの男だ。密室に等しい船の中、あんな者が何人もいるとは考え難い。いや、考えたくないといった方が正しいのかもしれない。


(武器や罠を使っているってことは、少なくとも幽霊じゃないな……。だったら、あいつは何が目的で俺達を襲ったんだ……?)


 呼吸を整えつつ、宗助は記憶の糸を探りながら考えた。陽明館事件。あの忌まわしい事件の記憶が、再び頭をもたげて来た。


 人の姿をしていながら、しかし人ならざる者と化した存在。そんな相手を、宗助は一つだけ知っている。


 船傀儡ふなかいらい。美紅の話では、海に巣食う魔性の存在が使役する、小さな海洋生物のことらしい。より詳しく説明するならば、その海洋生物を体内に宿された人間だ。


 通常の悪霊や妖怪も、時として傀儡と呼ばれる存在を用いることがある。自分よりも下等な霊を従える力に優れた霊的な存在は、時にその下等な霊を近くの人間に憑依させ、己の操り人形と化してしまう。憑依された人間は超絶的な力を得るが、代わりに思考を奪われてしまう。そうやって生まれた存在を、美紅は傀儡と呼んでいた。


 もっとも、そんな傀儡ではあるが、祓うのは意外と簡単らしい。宗助には未だ不可能な技だが、美紅程の霊能者にかかってしまえば、傀儡を人間に戻す事も簡単だ。ただし、これが船傀儡となると話は異なって来る。


 船傀儡は、海の魔物が己の力を分け与えた小型の海洋生物。故に、それを体内に入れられた場合、海洋生物の方を追い出さねばならない。生物の肉体は時として霊的な攻撃のフィルターにもなるため、これを追い出すのは容易ではない。


 唯一の救いは、そうやって生まれた船傀儡が、通常の傀儡よりも単純な命令しかこなせないことだ。要はゾンビと同じであり、次々と体内の海洋生物を他人に分け与えながら仲間を増やし、標的を追い詰めることくらいにしか使えない。


(あいつは……船傀儡じゃないな。でも……あいつの身体から感じられた、陰鬱な力は本物だった……)


 それでは、あの男はいったい何者か。やはり、答えらしい答えは出ない。ただ、この世の者ではない力を持った何か。それ以外に言い表しようもない。


 やはり、ここは来てはいけない場所だったのだ。いや、思えばあの霧に包まれたときから、自分達の運命は決まっていたのではないか。この無人船に遭遇したのも偶然ではなく、自分達は何者かによって呼び寄せられたのではないだろうか。


 そこまで考えたとき、ヨットの上で徹が宗助の御守を奪った際の記憶が脳裏を掠めた。


 あの御守は、美紅が自分に渡してくれたものだ。実際は美紅の従姉妹である朱鷺子の作ったものなのだが、とにかく霊的な何かを遠ざける力を持っていたらしい。


 そんな御守を失くした直後、謎の霧にヨットが包まれた。そして、不気味な無人船が姿を見せ、その中には恐ろしい殺人鬼が潜んでいた。


 考えたくない、考えてはいけない考えが頭をもたげる。しかし、偶然にしては出来過ぎた事の連鎖が、宗助に他の可能性を見出す術を与えなかった。


(もしかして……俺が、皆を巻き込んだのか?)


 それ以外に、納得のゆく説明がつけられなかった。


 自分は霊的なものを呼び込み易い体質だ。ならば、御守を失ったことで船の中に潜む怪人を呼び寄せたのだとしたら、それは即ち他の者達を自らのせいで危険に晒したことになる。


 自分がいなければ、自分が参加しなければ、楽しいクルージングで終わるはずだった。真弓に怖い思いをさせなくても済んだし、信吾の脚も失われることなどなかった。


 やはり自分は、既に普通の人間と関われない、関わってはいけない存在になっていたのだ。俺に関わると不幸になる。そんな安っぽい映画の主人公のような台詞が、まさか現実のものとなるとは。


 いや、本当は自分でも薄々感づいていたのかもしれない。それでも、どこかでまだ普通の生活への未練を捨てきれずに、藁にもすがる思いで信吾の誘いに乗ったのかもしれない。そして、その結果……自分は逆に、多くの者を危険に巻き込んでしまったのだ。


 ふと隣を見ると、そこでは真弓が震えていた。無理もない。知人の脚が奪われ、恐ろしい怪人に襲われて、おまけに兄は行方不明。そんな状況で、冷静でいられる方がむしろ異常だ。


「あの……。宗助さん?」


 こちらの視線に気づいたのか、真弓が唐突に口を開いた。


「なんだい? どこか、怪我でもした?」


「それは平気です……。でも……さっきの人、あれ、何だったんですか?」


「ごめん……。俺にも、よくわからない」


 自分の口から出た言葉に、宗助の胸が思わず痛んだ。


 本当は、あれが何か知っている。その正体までは判らなくとも、あれがこの世の摂理から外れた存在であるということを。そして、もしかすると自分自身が、あれを呼び寄せてしまったのかもしれないということを。


「宗助さん……。私……怖いです……」


 震える声で、真弓が手を重ねて来た。その指先もまた、小刻みに震えている。


 信吾の手当てをしていたときには見せなかったが、やはり彼女も一人の女だ。美紅のようにタフではない、至極普通の女の子だ。


 恐怖を押し殺して応急処置を済ませたのは、そうしなければ自分の心が折れてしまいそうになるからだろう。目の前で、顔見知りの人間が死んでゆく。それに堪えられなかったからこそ、彼女は自分にできる限りのことをしようとした。看護師として使命感などではなく、ただ恐怖を紛らわすために、目の前の患者に集中することで。


 もっとも、そんな彼女のことを責めるつもりは、宗助自身にも毛頭なかった。こんな状況では、それもまた仕方ない。自分と彼女は違う。そう思っているからこそ、真弓が今になって怯え出したのにも頷けた。


「大丈夫だよ、真弓ちゃん。あいつは……塚本は、絶対に俺が助ける。だから、一刻も早く君の兄さんを見つけて、この物騒な船から脱出しよう」


 同意を求めるようにして言った宗助だったが、真弓から言葉は返ってこなかった。代わりに伸ばされたのは彼女の両手。真弓は全身の体重を預けるようにして、宗助の胸元に飛び込んで泣いた。


 自分は卑怯だ。泣いている真弓を宥めるように手を回しつつ、宗助は再び胸の奥が痛むのを感じていた。


 本当は、この悲劇を招いたのは、他でもない自分自身であるかもしれないというのに。それなのに、気休めと知りながらも、自分は真弓に優しい態度を取り続けている。無論、彼女の身を案じている部分もあるが、自分自身が嫌われ、恐れられることを避けていないかと訊かれれば、それを否定することはできない。


(こうなったら、せめて真弓ちゃんだけでも、日常に返してやらないとな……)


 徹を探すという目的は、既に宗助の頭の中から消えていた。


 この船には、今も危険な殺人鬼が彷徨っている。信吾を襲ったような罠も、あれが最後とは思えない。それに、霊的な力によって動く存在を前にしては、自分以上に真弓は無力だ。


 一年前、自分は美紅に命を救われた。しかし、自分の仲間は誰一人として助かることなく、全て海の魔物の餌食となってしまった。


 もう、あんな思いはしたくない。自分の腰に伸ばされた手に力が入ったのを感じ、宗助もまた真弓の肩を抱く手に力を込めた。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 鼻先に水が滴り落ちるのを受けて、千晶はハッと顔を上げた。


 頭が重い。そして、身体がだるい。どうやら泣いている内に、自分でも気づかないまま眠ってしまったようだった。


 ここはどこだろう。無我夢中で逃げ出して来たので、はっきりと思い出すことができない。ただ、あの怪物から逃げ出したい。その一心で、この部屋に飛び込んで鍵を掛けた。


「そうだ……! は、晴美ちゃんは!?」


 そこまで思い出して、途端に千晶は身体を丸めて震え上がった。


 吐き気を訴え部屋を出た晴美は、いつの間にか異形の怪物へと姿を変えていた。全身からフジツボを生やし、魚か蛙を思わせる瞳をした、恐ろしくも醜い姿になっていた。


 いったい、晴美に何が起きたのか。いや、それ以前に、本当にあれは晴美だったのか。


 残念ながら、今の千晶の頭では答えを出せそうにもなかった。もしかすると、あれは晴美の姿に似た化け物だったのかもしれない。こちらを騙して油断させ、近づいた者を襲うつもりだった。そう考えると、幾分か気が楽になった。


 自分は晴美を見捨てたわけではない。あれは化け物、逃げたのは正解だ。なんとも勝手な考えだったが、そう思わねばやっていられなかった。


 重たい腰を上げ、千晶はそろそろと立ち上がる。ずっと丸まって座っていたためか、少しばかり脚が痺れてしまった。


 腰を伸ばして辺りを見回すと、どうやら随分と底の方まで来てしまったようだった。天井から滴り落ちる水は、寒さのために結露したものが垂れているのだろう。ふと思い立って二の腕に手をやると、知らない内に随分と鳥肌が立っていた。


 この部屋がどんな部屋なのか、それは千晶も知らない。ただ、妙に肌寒いことは事実であり、夏服でいつまでも留まるのは気が引けた。こんな場所に座り込んでいたら、それこそ風邪をひいてしまう。


「そうだ……。皆のところに……戻らなきゃ……」


 誰に言うともなく、ぽつりと言葉が漏れた。


 この船には、恐ろしい化け物がいる。それを皆に知らせねば、次に襲われるのは宗助や真弓かもしれない。


 自分だけ逃げ出してもよかったが、さすがにそれは怖くてできなかった。誰かを見捨てるという罪悪感よりも、あの怪物に再び遭遇した際に、誰も守ってくれる者がいないという恐怖感が大きくて。


 部屋の扉をそっと開け、千晶は恐る恐る首を外に出した。


 誰もいない。思わず安堵の溜息が出る。化け物が追ってきたらどうしようかと思っていたが、どうやら心配はなさそうだ。


 音を立てぬように扉を閉じ、千晶は薄暗い廊下を歩き出した。自分がどちらから来たのか。今となってはそれも覚えてはいないが、とにかくここを離れなければ。仲間達の待つ部屋に戻らねば、不安で押し潰されそうだった。


 規則的な足音だけが、誰もいない廊下に響き渡る。一瞬、不安になって後ろを振り返りたくなるが、それをしても誰の姿が見えるわけでもない。


 自分は今、たった一人だ。信吾が負傷し、徹が消え、宗助と真弓と、それから晴美まで消えた。メアリー・セレスト号事件のように、目の前から次々と人が消えて行った。


 もしかすると、自分はもう誰にも会えないのではないか。この船に残っているのは自分だけで、他の仲間達は全てどこかへ消えてしまったのではないか。


 人間、一人になると、つい下らない想像をしてしまうものだ。これが平時であれば笑って済ませられるところだが、今の千晶には不安を広げる要素でしかない。


(皆……無事だよね……)


 そう、心の中で呟いて、千晶は何気なく壁に手をついた。


 冷たく、それでいてぬるりとした感触が掌に伝わる。慌てて手を離すと、自分の手が赤い色に染まっているのに気がついた。


「ひっ……!!」


 思わず喉の奥から悲鳴が出る。これは血だ。それも、かなり大量の。


 掌に着いた血を振り払うようにして、千晶は改めて壁を見る。赤黒い液体は広範囲に飛び散り、半分ほどが生渇きだった。


 血が新しいからなのか、それとも量が多過ぎる故のことなのか。そんなことは、今の千晶にはどうでもよかった。


 恐怖に顔を歪ませ、千晶は小刻みに震えながら壁から離れていった。もう、これ以上は自分を抑えられない。次から次へと恐ろしいことが起こり、気が狂ってしまいそうだ。


「あ……あぁ……」


 後ろに下がって行くと、直ぐに壁に阻まれて行く手を遮られた。進むか戻るか。既にその判断もできなくなった矢先、何やら聴きなれない音が耳に届いた。



――――ズルッ……。



 コンクリートを金属で引っ掻くような、何かを引き摺る音だ。ハッとした様子で意識を戻し、思わず耳を傾ける。



――――ズルッ……ズルッ……。



 間違いない。音は確実に、こちらへと近づいている。


 まさか、晴美の姿をした怪物が追い掛けて来たのか。背中に冷たいものが走り、額に脂汗が浮かび始めた。



――――ズルッ……ズルッ……。



 暗闇の中から、音の主が姿を見せる。それは千晶の予想していた怪物ではなく、しかし奇妙な姿をした男だった。


「い、いやぁぁぁぁっ!!」


 今度は遠慮せず、大声で叫んだ。


 あの男が誰なのか、千晶とて知っているわけではない。だが、それでも、姿を見た瞬間に普通ではないと悟っていた。


 麻袋を頭から被り、片手には巨大な鉈を持った男。作業着のような服を着ているが、そのあちこちに血痕がある。何かの返り血を浴びて着いたと思しき、褐色をした斑点が。


 千晶は逃げた。何もかも忘れ、今しがた通って来た道を走り抜けた。


 あの男は普通じゃない。関われば、きっと殺される。ほとんど半狂乱になりつつも、千晶は泣きながら逃げ続けた。


 恐怖は思考を鈍らせ、千晶の中から冷静な判断力を奪ってゆく。あの男が何者であれ、今の千晶であれば逃げ出しただろう。顔見知り以外は……いや、下手をすれば顔見知りでも信用できない。そんな状況において、あんな怪しい格好の男に近づこうと思うはずがない。


 廊下を曲がり、下へと続く階段を駆け降りる。この下は、恐らく船の最深部だろう。どんどん信吾の寝ている部屋から遠ざかっている気もするが、とにかく今は逃げなければ。


 そう、千晶が思いながら、階下への一歩を踏み出したときだった。


「えっ……?」


 自分の意思に反し、身体がぐらりと揺れて倒れる。世界が揺れて、世界が回り、続けて猛烈な痛みが脚の方から彼女の全身を駆け抜けた。


「いっ……ぎぃぃぃぃっ!!」


 色気の欠片も感じられない、本当に恐怖と痛みだけから来る悲鳴。本能の命じるまま叫び声を上げ、千晶は両手をバタバタと動かして床を這った。


「脚……私の……脚……」


 溢れ出る大量の血と、床に転がっている二本の脚。空中に張られた鋼線からも、鮮血が滴となって滴り落ちている。


 信吾の脚を奪った罠。それと同じものが、ここにも仕掛けられていた。逃げるのに精一杯で、罠の存在を忘れていた。そのことを悔やんでも、今や後の祭りだ。



――――ズルッ……ズルッ……。



 鉈を引き摺る音が、だんだんとこちらに近づいて来る。痛みでおかしくなりそうな頭を抱えつつ、しかし死にたくないと千晶は願う。


 だが、そんな彼女の願いなど、聞き届けてくれる者は誰もいなかった。


 床に転がっている千晶の脚には見向きもせず、鉈男は空いている方の手を千晶の腕に伸ばして来た。そのまま彼女の腕をつかみ、ずるずると廊下の奥へ引き摺ってゆく。まるで、鉈も千晶の身体も同じと言わんばかりに、何の感情の欠片も見せず。


「い、痛い……痛いよぉ……。晴美ちゃん……た、助……け……」


 掠れる声で、かつての友に助けを乞う。それがどんなに身勝手で、自己中心的な叫びであると知りながらも。


 これは罰なのか。怪物となった晴美のことを見捨て、自分だけが逃げ出したことに対する。


 一瞬、そんな考えが千晶の頭を掠めたが、既に彼女は声を出すことさえできなかった。脚の傷口から流れる血で廊下を染めながら、千晶の姿は彼女を引き摺る男と共に、闇の中へと消えて行った。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 扉を開けると、船内の湿った空気が再び鼻をついた。


 慎重に辺りの様子を窺いつつ、宗助はそっと外に出る。あの、鉈を持った袋男がいるのではないか。そう思って警戒を怠らないようにしていたが、辺りには人の影さえも見えなかった。


「大丈夫だ。今、外には誰もいない」


 そう言って、真弓にも外に出るよう促す。とにかく、今は彼女の兄である徹を見つけ出し、一刻も早く船を離れねば。


 ここを脱出して、それからどうするか。それは、宗助も考えてはいなかった。あの霧を抜ける方法が、果たして今の自分達にあるのかどうか。だが、考えていても始まらない。罠で片足を失った信吾のことを、早く医者に見せなければ。


 薄暗い廊下を歩き、更に奥へと歩を進める。辺りに扉はなく、ただ細い廊下が続いているだけだ。


 いったい、この船はどれだけの広さがあるのだろう。客船でもないのに、この船は妙に入り組んでいて、しかも無駄に広い気がする。貨物船だか調査船だか知らないが、こうも複雑な構造をしている船とはどんな目的のために作られた船なのだろうか。


 いや、考えるのは止めよう。今しがた浮かんで来た取りとめもない疑問を、宗助は首を軽く振って打ち消した。


 ここは異界だ。既に普通の人間の常識が通用しない、向こう側の世界・・・・・・・の住人達によって支配されている世界なのだ。人の常識など、そこでは何の意味も持たない。そのことを、宗助自身も陽明館の経験から知っていた。


「急ごう、真弓ちゃん。塚本だって、いつまでもあの部屋に寝かせておくわけにもいかない」


「はい……。でも、宗助さんも気をつけて下さいね。また、どこかに罠でもあったら大変ですから」


 先程の涙は、既に真弓の頬で乾いていた。


 再びしっかりと気を持って、真弓は宗助の後に続いた。あの涙は本物だったのだろうが、それでもやはり彼女はタフだ。あんな兄を持ったからなのか、それとも天性のものなのか。とにかく、この異常な状況下において、なんとか心を乱さないようにしてくれるのは助かるというものだ。


(それにしても……徹のやつ、いったいどこへ消えやがったんだ?)


 コツコツという自分達の足音を聞きながら、宗助は次に何処へ向かうかを考えた。


 この船は広い。何故、ここまで広いのかは不明だが、とにかく無駄に廊下が長く部屋数も多い。それこそ、内部だけ見れば客船に匹敵する部屋の多さだ。


 しかし、ここが普通の客船等でないことは、宗助とて十分に理解していた。もっとも、それでは何の船かと訊かれれば、そこまでは判らない。それに、今はそんなことよりも、もっと他に考えねばならないことがある。


 上に行くか、それとも下に行くべきか。一度、足を止めて宗助は考える。


 始め、食堂から各々が探索に向かった際、信吾と徹は下の階へ向かって行った。食堂と同じ階層を探索していた宗助達とは違い、彼らだけは一番先に階段を下りて行ったはずだ。そして、その先で恐ろしい罠にかかり……信吾は片足を失った。


「上だ……上に行こう!!」


 一瞬、自分でも随分と大きな声を出してしまったことに気づき、宗助は慌てて息を飲み込んだ。


「ど、どうしたんですか、急に?」


「えっ……? いや、その……上の階って、まだ誰も調べてなかったからさ。もしかしたら、君の兄さんも上にいるんじゃないかと思って……」


「そういうことですか。わかりました……行きましょう」


 言葉を返す代わりに、宗助はそっと真弓に頷いて返事をする。鉈男から身を潜めるためというよりは、自分の本心を隠すためといった方が正しかった。


 上の階に、何が待っているかは判らない。だが、少なくとも下の階よりは、比較的安全なのではないだろうか。


 正直なところ、何の根拠もない話ではある。が、それでも今の宗助は、自分の中にある霊的な直観力を信じるしかなかった。


 この船に上がる前から感じていた奇妙な不安感。それが、下の階に降りるに連れて、どんどん大きくなっていたのだ。


 この船の底には、きっと恐ろしい何かが待ち受けている。それがあの鉈男なのか、それともまったく別の存在なのか。とにかく、下に降りることは危険だと、宗助の中の本能が告げている。


 気持ちがざわつき、身体の中の力が騒ぐのが感じられた。まずいな、と宗助は心の中で舌打ちをする。


 七人岬より受け継がれし陰の力。それは強大な霊力として宗助の中に留まっていたが、同時に制御もまた困難だった。その力が、暗く深い海の底より現れし魔物の力が、ざわざわと心の中で震えているのだ。まるで、自分の仲間が現れたことを知らせるかのように、自分の古巣に帰れたことを喜ぶかのように。


 そういえば、あの鉈男と初めて対峙した際にも、七人岬の力は宗助の中で震えていた。恐怖ではなく歓喜。今思えば、あの場で感じたのは男に対する霊的な不快感ではなく、自分の中で陰の力が騒ぐことに対する不快感だったのではあるまいか。


 考えていても仕方がない。とにかく、あの男が今も徘徊している可能性がある以上、あまり一個所に留まることは危険だった。


 徹が今、どこで何をしているのか。できることなら無事であって欲しいが、宗助はどこか彼に対して冷めていた。


 あんな兄でも、心の底から心配して船の中を探すと言い出す真弓。そんな彼女だけでも、絶対に危険に晒したくはない。そんな使命感にも似た感情が、宗助の中で芽生え始めていた。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 光の届かない船底を、何かを引き摺る音がする。


 両足を失った千晶のことを、その男は雑巾を引き摺るようにして船の底まで運んで来た。片手には鉈を、片手には千晶の腕を持ち、一言も喋らずに淡々と。


 しかし、それでも男の力が常人のそれを凌駕しているのに変わりはなく、ここまで千晶の身体を引き摺るのに何の苦労もしていないようだった。


「ひぃ……ひぃ……」


 掠れた声で、千晶が微かな悲鳴を上げている。脚の痛みは既に痺れへと変わり、感覚そのものを失いつつある。引き摺られながら全身をあちこちにぶつけた痛みも、今となってはさしたるものに感じられない。


 重たい鉄の扉を開け、男は千晶の身体をその奥へと運んだ。


 次の瞬間、溢れ出る重たい空気を吸って、千晶は内臓ごと腹の中の物を吐き出しそうな衝動に駆られた。


 生臭い、それでいて鉄にも似た不快な臭い。腐臭と入り混じって漂うそれは、紛れもない人間の血の臭い。


 突然、男が鉈を放り出し、千晶の身体をひょいと抱えた。既に抵抗する気力は失われていたが、自然と口から言葉が漏れた。


「や……やめ……」


 自分が何をされているのか。既にそれさえも、千晶にはよく判らなかった。ただ、怒涛のように押し寄せる恐怖を前に、ひたすら怯えて震えるだけで。


 男の両腕が、千晶を乱暴に放り投げる。背中にぬるりとした感触を覚え、千晶は自分が何かの台の上に寝かされているのだと知った。


 背中を伝う不快な感触。これは、恐らく誰かの血だろう。これほどの出血だ。きっと、血の持ち主は既に生きてはいないに違いない。そしてそれは、自分が次なる犠牲者となることを、背中に感じる血の持ち主と同じ運命を辿るということを示している。


 こうしてはいられない。恐怖は千晶の本能を突き動かし、彼女に最後の力を与えた。たとえ脚がなかろうとも、とにかく今はここから逃げねば。そう思い、彼女が両手を突いて身体を起こそうとしたときだった。


 カチリ、という冷たい音が、自分の首の辺りで響いた。慌てて首下へ手をやると、そこには金属製の頑丈な輪がはめられているのに気がついた。


 これはいったい何だ。自分はこれから何をされる。混乱した頭のまま、拘束を解こうと千晶は暴れた。が、直ぐに男の手に組み伏せられ、やがて両腕も台に固定された。


 金属の冷たい感触が、肌を通じて伝わって来る。両腕と首だけでなく、どうやら腰の部分も固定されてしまったようだ。


 これでもう、逃げることさえ叶わなくなった。完全に動きを封じられた彼女の前で、男は頭を覆う麻袋に手を伸ばす。


 粘性の高い液体が飛び散るような音がして、男の手から麻袋が落ちた。怪人の素顔を目の当たりにして、千晶の目が思わず点になった。


 そこにあったのは、何の変哲もない人間の頭だった。これがあの怪人の、恐るべき殺人鬼の正体なのか。一瞬、肩透かしを食らったような気にさせられたが、直ぐにそんな気分は吹き飛んだ。


 男の口から、何やらどろりとした物体がゆっくりと吐き出された。男はそれを掌で受け止め、にやりと笑って千晶を見下ろす。指の隙間から液体を滴らせつつ、男はもう片方の手で千晶の頬を力強くつかむ。そのまま強引に口を開けさせ、今しがた吐き出した物体を千晶の口の中に押し込んだ。


「んぐぅっ……!?」


 次の瞬間、魚の腐ったような臭いが口内に広がり、千晶は思わず声を上げて泣き出しそうになった。が、男はしっかりと千晶の頭を、口を押さえ、彼女の口の中から黒い塊が毀れ出ないように締め上げていた。


 薄気味の悪い、得体の知れない物体が、徐々に喉の奥へと侵入してゆく。鼻が曲がりそうになりながらも、千晶はそれを半ば強引に飲み込まされた。


「うぅ……えっ……ぇぇ……」


 身体が熱い。自分はいったい、何を飲まされてしまったのだろう。その答えを千晶が知るよりも先に、男は再び床に転がっている鉈に手を伸ばした。


「ぎゃっ!!」


 自分でも、まだこれだけ大きな声が出せるのが信じられなかった。


 男の振るった鉈の一撃が、千晶の頭を直撃する。普通なら致命傷になるはずの一撃だが、なぜか千晶の意識は消えなかった。


 男の鉈が、再び千晶に振り降ろされる。その度に猛烈な痛みが全身を襲うが、しかし何故か死なない。いや、死ねない。


 身体を台に固定され、動くことさえままならない。そんな状態のまま、千晶はその身を何度も何度も鉈で斬り付けられた。その傷口からは血液と共に、赤黒い肉のような塊が姿を覗かせている。それはぶくぶくと膨らんで、そのまま千晶の身体を覆うようにして飲み込んでゆく。


 やがて、一通り千晶の身体を斬り付けたところで、男がぼそりと呟いた。


「また……失敗……だな……」


 雨の道路を車が滑ったときのような声で、男はそれだけ口にした。明らかに人間のものではない。人ならざる者が発する歪んだ音。それをそのまま人間の言葉に直して言っているようだった。


 再び麻袋を被り、男は千晶の身体を台から外した。その間にも、彼女の傷口からは醜い肉の塊が溢れ続けている。悪性の腫瘍を思わせるような、不気味に脈打つ奇怪な肉が。


 男の腕が、千晶であった物を無造作に放り投げた。ベチャッという音と共に、かつては人の姿をしていた肉の塊が床に転がる。傷口から顔を覗かせていた肉は、今や完全に千晶の身体を包み込み、その内部へ取り込むようにして覆い隠していた。


 再び鉈を片手に、男はずるずるとそれを引いて部屋を出る。最後に残された肉の塊は、部屋の片隅でぶるぶると小刻みに震えていた。まるで怯える千晶の姿と同じように、人としての姿を奪われた、彼女の恐怖と悲しみを現すかのようにして。

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