~ 巳ノ刻 変調 ~
重い瞼を開けると、そこは狭苦しくも殺風景な船室の中だった。
両目を擦りつつ、信吾はゆっくりと身体を起こして辺りを見回した。途端に激痛が走る。思わず痛んだ脚を押さえようとして、既にそこにはあるべきはずの部位がないことを悟った。
「あっ、気がつきましたか?」
近くで誰かの声がする。聞き覚えがあるが、うまく思い出せない。脚の痛みが酷く、堪えるだけで精一杯だ。
それでもなんとか顔を上げると、そこには真弓の姿があった。
「真弓……ちゃん……?」
「無理しないでください。まだ……止血したばかりですから」
そう言って、真弓は信吾の右足を、既に失われた部分を指差した。
右足の太腿部分に、血の滲んだ白い布が巻かれている。それだけではなく、太腿はベルトできつく縛り上げられている。
出血を止めるための措置なのだろう、と信吾は思った。傷口を覆っている布は、誰かの衣服を破ったものだろうか。あまりに酷く血に染まってしまい、既に元の布地の色さえもわからなかった。
「大丈夫か……って、平気なわけないよな。とりあえず、死んでなくて良かったぜ」
気がつくと、そこには宗助が立っていた。いや、彼だけではない。よくよく部屋を見回すと、晴美も千晶も全員が同じ場所にいた。
「宗助……。お、俺は……っ!?」
再び痛みが脚を襲う。喉まで出かかった言葉を飲み込み、信吾は傷口を庇うようにして呻いた。
未だに頭がはっきりしない。麻袋を被った奇妙な鉈男に追い回され、階段を上ろうとした矢先に足を切断された。
信じられない。これは何かの悪い夢だ。そう思えれば、どれだけ楽か。だが、右足のあった場所に何もないのは事実であり、断続的に響くような痛みはこれが現実であることを否応なしに物語っている。
「船の中を探索していたら、お前の悲鳴が聞こえてさ。何事かと思って駆けつけてみたら、階段の側に倒れているお前を見つけたんだ」
訊かれてもいないのに、宗助は信吾に説明した。
「そう……だったのか……。お前達は……大丈夫……だったのか?」
「ああ、なんとかな。お前の脚は……あの場所に置いて来ちまったけどさ」
「いや……いいんだ……。皆が……無事なら……」
切れ切れになりながらも、なんとか言葉を口にする。痛みに堪えながら話すのは、思った以上に精神力を要求される。
「とにかく、今は休めよ。正直、この船は普通じゃない。早く徹を見つけて、この船から離れないと……」
この船は普通ではない。それは、信吾とて十分に解っていた。いや、この場合は、思い知らされたと言った方が正しいか。
謎の霧。乗員の姿が見えず、しかし確実に誰かがいたと思しき船内の様子。床に流れていた血の跡と、恐るべき凶器を持った鉈男。そして、妙に広すぎる船の構造に、階段に仕掛けられた罠。
どれも、常識の範疇を越えた話だった。安っぽいホラー映画のような世界。そんな物が、今や現実となって目の前に転がっている。
自分達は、本当に生きて帰れるのか。楽しいクルージングのはずだったのに、何故こんなことに。
考えていても仕方がないと、信吾は溜息を吐いて横になった。
人間、あまりに恐ろしいことが立て続けに起こると、却って冷静になれるのだろうか。脚の痛みは酷く喋るのも辛かったが、恐怖よりも疲れの方が大きかった。
とにかく、今は身体を休めよう。宗助の言葉からして、徹はまだ船の中をうろついているはず。あんな奴ではあるが……それでも、見捨てて逃げるのは人として間違っていると思ってしまう。
こんなときに、自分はまだ小さな良心の呵責に苛まされるのか。心の中で自重気味に笑いながらも、それが限界だった。
両目を閉じた途端、奈落の底に吸い込まれるようにして意識が飛んで行く。抗おうという気にさえならず、信吾は成り行きに身を任せたまま深い眠りへと落ちて行った。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「眠ったか……」
船室のベッドに横たわっている信吾の様子を見て、宗助は誰に言うともなく呟いた。
彼は、まだ死んではいない。しかし、それも時間の問題だ。こんな場所に重傷を負った人間を放置しておけば、じきに手遅れになってしまう。
ふと、横へ目をやると、真弓が不安そうな顔をして信吾のことを見下ろしていた。
あの時、悲鳴を聞きつけて階段を降りた際に、真っ先に信吾を見つけたのは彼女だ。そして、階段に張られた罠に気づき、その場で信吾に応急手当てを施したのも。
真弓の話では、彼女は看護師を目指しているとのことだった。応急処置ができたのも、そういった類のことを一通り習っていたからとのこと。もっとも、彼女の知識だけでは十分な処置を行うまでに至らず、結果として信吾自身のベルトで太腿の血管を縛り上げるという荒療治しかできなかったが。
だが、それでも彼女のタフさには、宗助自身も驚いていた。
薄暗がりの中、階段に仕掛けられた罠にいち早く気づくだけの洞察力。脚を失った人間を前にしても取り乱さず、懸命に応急処置を施そうとする姿勢。
普通の女性には、なかなか真似できないことである。極限の状態においても自分を見失わない。そんな真弓の一面に、宗助はどこか美紅と同じ物を感じていた。
何事にも負けない、己の芯をしっかりと持った、優しくも強い人間。もしも美紅が、彼女が普通の大学生であったなら、きっと真弓のような感じであったのだろうか。そんな考えが、一瞬だけだが頭をよぎる。
「あの……どうしました、宗助さん?」
「えっ……!? いや、なんでもない」
急に真弓に声を掛けられ、宗助はハッとした顔になって現実へ意識を戻した。
いったい、自分は何を考えているのだろう。今、この場でしっかりせねばならないのは、他でもない自分自身だ。
重傷を負った信吾を前に、千晶は明らかに怯えていた。彼女達は後から現場に駆け付けたのだが、それでも信吾が負った怪我は、千晶に盛大な悲鳴を上げさせるのに十分な物だった。
そんな彼女と一緒に現れた晴美は、こちらはこちらで酷く気分が悪そうだった。現に、今も顔色が悪いまま、じっと椅子の上で丸まって動こうとしない。普段の気丈な雰囲気は消え失せ、随分と弱々しく感じられた。
そして、残る最後の一人、真弓の兄である徹は未だに船内で行方不明と来ている。
本当に、どこまでも迷惑をかけるやつだと宗助は思った。徹が姿を消していなければ、信吾を背負って速攻で船から脱出しているところだ。
一瞬、このまま見捨てて逃げるのも手かと思ってしまった。が、真弓のことを考えると、さすがにそれは気が引けた。
あんな奴でも、真弓にとっては兄なのだ。このまま見捨てて逃げてしまえば、他でもない真弓自身が深い罪悪感に苛まされることになるだろう。
「よし、行こう……」
その場でスッと姿勢を伸ばし、宗助は部屋の扉に手をかける。唖然とした表情の仲間達を他所に、警戒しつつも扉を開く。
「ちょっと、宗助さん! 行くって……どこへ!?」
「決まってるだろ。君の兄さんを探しに行くんだ。塚本のことも心配だけど、このまま逃げ出すわけにもいかないから」
「だったら、私も行きます!」
「駄目だ、危険過ぎる。あの階段に仕掛けられていた罠……あれは、君も見ただろう? 塚本をあんな目に遭わせたやつが、まだ船の中をうろついているかもしれないんだぞ!」
「それなら、宗助さん一人で行くのだって危険じゃないですか! 一緒に船の中を歩いていたときには見かけませんでしたけど……さっきみたいな罠が、そこら中にあるかもしれないんですよ!?」
「それは……」
残念ながら、それ以上は上手く言い返すことができなかった。
部屋を出ようとした宗助の手をしっかりと握り、真弓は真っ直ぐな視線を向けて来る。
決して引かないという目だ。このまま手を振りきっても、無理を言ってついて来そうな勢いである。強引に部屋に残すことも考えたが、下手をするとこっそり後をつけて来るかもしれなかった。
仕方がない。多少、不安もあったが、宗助は真弓の言葉に軽く頷いて返事をした。
この船は、いったいどのような場所なのか。今、自分達の周りで起きていることは何なのか。
ここは危険だ。信吾を襲った罠を抜きにしても、宗助にはそう感づいていた。自分の中に潜む陰の力、七人岬より受け継がれし霊的な感性が、宗助にそれを告げている。
(これ以上、誰かが死ぬのを見るのは御免だな……)
陽明館事件。そこで失われた多くの命と、己の中に刻まれし消えない傷。
この船に漂う空気は、正にあの当時の事件と同じ物。だが、だからこそ立ち向かわねばならない。徹を探し出し、この船から脱出し、全員で生き延びるためにも。
自分には、美紅のように魔性の存在と戦うための力はない。それは十分に承知していたが、真弓の姿を前にしては、さすがに自分だけ逃げ出すような道は選べなかった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
人の去った後の船室は、急に静けさを増していた。
寝ている信吾のことを気にかけつつも、千晶はそっと扉へと目を向ける。
宗助と真弓。二人が出て行ってから、まだそれほど時間が経ったわけではない。この船がどれほどの広さを誇っているのかは知らないが、そう簡単に徹を見つけて帰って来ることはないだろう。
あの時、宗助と真弓の二人と一緒に、自分も同行を願い出ればよかったか。一瞬、そんな風にも思ったが、直ぐに恐ろしくなって首を横に振った。
悲鳴を聞きつけ、晴美と共に駆けつけたとき、信吾は片足を奪われていた。顔見知りの人間――――とはいえ、数年ぶりに顔を合わしただけだが――――が、身体の一部を失って血の海に倒れている。そんな光景を目の当たりにしただけでも、十分過ぎる程の恐怖である。
今の時代、新聞に載る交通事故の報でさえ、どこか遠くの世界の出来事だと思っていた。命に関わる病気やけがなど、自分には縁のないことだ。そんな平穏無事な暮らしが、いとも容易く打ち破られた。
信吾の片足を奪ったのは、階段に仕掛けられた罠だったという話だ。なんでも鋭く固いピアノ線のような物が張られており、それに引っ掛かって太腿から右足を切断されたのだとか。
この船には人がいた。しかし、それは自分達に救いの手を差し伸べてくれるような存在ではなく、狡猾な罠を張って人を殺す悪魔の手先だった。
階段に罠を張ったのが誰なのか、それは千晶にもわからない。しかし、ともすれば人の命を容易に奪いかねないような罠を仕掛けるような人間が、まともな思考回路をしているとは思えない。
気がつくと、そっと息を潜めて身体を丸めている自分がいるのに気がついた。
怖い。怖くて震えが止まらない。いったい、何故こんなことになってしまったのか。自分の何が悪かったのか。それさえも、今の千晶には考えることができなかった。
わからない。わからない。わからない……。
頭の中でぐるぐると言葉が回り、まともに何かを考えることさえできない。こんな状況だというのに、宗助も真弓も、よくもまあ徹を探しに行けるものだと思う。
(まさか……本当に、幽霊船ってわけじゃないよね……)
食堂で語ったメアリー・セレスト号の話が、再び千晶の頭をもたげてきた。
あの話は、所詮は単なる都市伝説に過ぎない。幽霊船はおろか、人体消失などありえない話だ。そう言われて、安心したのも束の間。他でもない、オカルト話を否定した信吾自身が、何者かによって仕掛けられた罠で重傷を負った。
やはり、ここは幽霊船だったのか。恐ろしい何か、それこそ骸骨船長か得体の知れない化け物か知らないが、自分たちでは到底敵わない何かが船内を徘徊し、こちらの命を虎視眈々と狙っているのではないか。
考えれば考えるほど、想像が悪い方へ向かってゆく。誰かに頼りたくとも、晴美は吐き気を堪えて辛そうにするばかり。信吾に至っては、時折身体を軽く震わせて呻く以外に、既に言葉さえ発しない。
もう、こうなったら自分一人で逃げ出してしまおうか。いや、駄目だ。晴美や信吾を置いて扉の外へ出るなど、さすがにできるはずもない。
「ね、ねえ……千晶……」
突然、晴美に名前を呼ばれ、千晶は身体を震わせて立ち上がった。別に、隠すことなど何もない。こちらの頭の中身を読まれるはずもないのに、今しがた考えていたことの後ろめたさに、必要以上に緊張していた。
「わ、わたし……もう、駄目だわ……。また……ちょっと、吐いてくる……」
「えっ!? で、でも……」
「ここで吐くわけにも……いかないでしょ……。大丈夫……。ちょっと、そこの角まで行くだけだから……」
口元を押さえ、身体を曲げたまま晴美も立ち上がった。止めようとした千晶だったが、既に彼女の言葉は晴美の耳に届いていないようだった。
扉を開け、晴美はいそいそと外へ出る。そのまま小走りに駆け出すと、やがて足音がどんどん部屋から遠ざかって行った。
静寂が、再び部屋を包む。残されたのは、千晶と信吾のただ二人。頼りになる者達がどんどんいなくなり、千晶は世界中で生き残っている人間が自分だけになったような錯覚に陥った。
別に、大袈裟なことではない。本当にそう思ったのだ。
徹が消え、信吾が重傷を負い、更には宗助、真弓、そして晴美と消えてゆく。あの扉の先に出たら、二度と再びこの部屋には戻って来られないのではないか。そんな風にさえ思ってしまう。ちょうと、あのメアリー・セレスト号の船員達が、何の音沙汰もなく忽然と船上から消えてしまったように。
「つ、塚本君……」
苦し紛れに、千晶は信吾の方を見て彼の名を呼んだ。が、返って来たのは普段の彼が見せている明るい笑顔などではなく、苦痛に顔を歪めながら痛みに堪える信吾の姿だけだった。
部屋の中に、だんだんと生臭い臭いが充満して来る。気のせいではない。信吾の傷口から漏れる血の臭いが、徐々に部屋の空気を汚しているのだ。
(ねえ……。私達……これから、どうなっちゃうの……)
その瞳に涙を浮かべたまま、尋ねる相手もいない問い掛けを心の中で繰り返す。
崩壊した日常は、果たして元に戻るのか。自分達は、この狂った船の中から抜け出して、再び明るく陽の当たる世界へと戻れるのか。その答えは、残念ながら千晶自身にもまったくわからなかった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
人気のない船の中を、宗助と真弓は無言のまま歩き続けていた。
別に、話すことがないわけではない。ただ、話をする必要がなかっただけだ。信吾を襲った謎の罠。あんな物が、まだあちこちに仕掛けられていると考えると、正直なところ悠長にお喋りなどしている場合ではない。
廊下の角を曲がり、足下に注意しつつ階段を上ったところで、二人は見覚えのある場所に出た。
ここから右へ行けば、最初に訪れた食堂に辿り着く。徹はあそこへ戻ったのだろうか。保証はないが、とにかく行ってみなければ始まらない。
「行こうか、真弓ちゃん」
そう言って、そっと手を差し伸べる。何気ない行動のつもりだったが、真弓は躊躇い無く宗助の手を握り返してきた。
鼓動が早くなり、手に汗が滲む。
真弓は震えていた。本当は、彼女とて怖かったのだろう。目の前で顔を知る人間が脚を失い、兄は行方不明。この先、無事に家に帰れるかもわからない状況で、不安に思うなという方が無理だ。
ここは自分がしっかりせねばならない。改めて決意を固める宗助だったが、さりとて徹を探す当てがあるわけでもない。
とりあえず、まずは知っている場所から探そうか。真弓を安心させるようにして手を握り返し、宗助は食堂へと向かって歩き出した。
狭い廊下を抜けて食堂に入ると、あの時と同じように食事が並んでいる。そういえば、晴美はこの食堂で、テーブルの上にある食事を摘まみ食いしていたはずだ。もしやとは思うが……それが原因で腹を壊したのではあるまいか。
(待てよ……。階段に罠が仕掛けられていたってことは……もしかして、この食事も!?)
恐ろしい考えが頭をよぎり、宗助の顔が見る間に青くなった。
階段の罠は、明らかに侵入者を殺すためのものだ。信吾は足を奪われたが、もしもあの鋼線が、もっと高い場所にあったなら。
答えは聞かずとも簡単である。間違いなく首を切断され、一瞬の内に絶命していたであろう。そして、それらの罠を仕掛けた者が船内にいるということは、この食事もまたしかり。
晴美の様子を見る限り、彼女は随分と具合が悪そうだった。ヨットの上では何事もなかったはずなので、船酔いというわけではない。それに、そもそもこの船は海上に停泊しているわけで、そこまで酷く揺れているわけでもない。
だとすれば、晴美が体調の不良を訴えた理由は何か。考え得ることは、ただ一つ。この料理もまた罠の一種で、毒の類が盛られていたということである。
このまま戻るか。そんな考えも浮かんだが、戻ったところで何ができる。仮に、晴美が何かの毒物を口にしたとして、それを解毒する術もないのだから。
これはいよいよ、時間がなくなってきたと宗助は思った。重傷の信吾と、毒物中毒の疑いがある晴美。そんな二人を、あのまま部屋に放置し続けてよいはずがない。
「どうしました、宗助さん?」
無言のまま足を止めていた宗助の顔を、真弓が不安げに覗き込んで尋ねた。
「あっ……いや、何でもない。ちょっと、考え事をしていただけだよ」
「そうですか。それにしても……お兄ちゃんったら、こんな時まで皆に迷惑かけて、本当に最低ですよね」
同意を求めるようにして口にする真弓だったが、宗助は敢えて答えを言わなかった。
ここで徹の悪口を言ったところで、彼が見つかるわけでもない。それに、いくら酷い兄だからと言って、実の妹の真弓の前で、徹の悪口を言うのを気が引けた。
とにかく、まずは一刻も早く、徹のことを見つけなければならない。この場所にいないとすると、やはり別の場所に向かったのだろうか。
「ねえ、宗助さん」
突然、真弓が宗助の手を引いた。
「なんだい? 何か、気になる物でも見つけたかい?」
「違うんです。その……あの音、なんでしょう?」
「音……? 別に、何も聞こえな……」
そこまで言って、宗助は急に言葉を切った。
――――ズルッ……。
部屋の外で、何かを引き摺るような音がする。固い金属のような物で、コンクリートの地面を引っ掻いたときに出るような音だ。
――――ズルッ……ズルッ……。
また、音がした。音はどんどんこちらに近づき、だんだんと大きくなってくる。
間違いない。あの音の主は、自分達が食堂にいることに気づいている。何故だか知らないが、宗助は直感的にそう思っていた。
「宗助さん……」
「心配ないよ、真弓ちゃん。でも……確かに、この場に留まるのはよくないかもね」
不安は口に出さない。怖いのは真弓とて同じのはず。必要以上に彼女を怯えさせることは、今の状況を更に悪化させることにも繋がり兼ねない。
(どうする……。このまま外に出て、危険だったら一目散に逃げるか……?)
考えている時間はない。しかし、迂闊に動けば真弓を危険に晒すことになる。謎の音が徐々に近づいて来るなかで、宗助は慌てて首を横に振った。
(駄目だ。ここで下手に飛び出して、真弓ちゃんが逃げ遅れでもしたら……)
では、どうするべきか。最適な答えを考えている暇は、残念ながら宗助にはなかった。気がつくと真弓の手を引いて、そのまま厨房へと駆け込んでいた。
「えっ!? ちょ、ちょっと……!?」
「じっとして! 下手に声を出さない方がいい」
驚く真弓を他所に、宗助は彼女の肩を抱いて厨房の影に身を隠す。その間にも、音は更に大きくなり、やがて食堂の中へと入ってきた。
――――ズルッ……ズルッ……。
音の主が、食堂の中を彷徨っている。間違いなく、こちらを探している様子だ。
あの音はいったい何か。答えを教えてくれる者はいなかったが、宗助は既に見当がついていた。
階段に罠を張った者。それ以外に思いつかない。そんな相手と顔を合わせればどうなるか。さすがにそれは、誰にでもわかりそうなものである。
このまま出れば殺される。下手な好奇心から迂闊な行動を取れば、それは即ち己の寿命を縮めることに繋がってしまう。
―――――ズルッ……ズルッ……ズルッ……。
だんだんと、音が遠くなってきた。どうやら諦めたらしい。ほっと安堵の溜息を吐く宗助だったが、次の瞬間、今まで聞こえていた音が急に止まった。
突然、何かに気づいたように、音が再びこちらに近づいてきた。まさか、気づかれてしまったのか。だんだんと鼓動が早くなり、自分の意思に関係なく手に脂汗が湧いてくる。
バンッ、という乱暴な音と共に、厨房の扉が開け放たれた。もう、何かを引き摺るような音は聞こえない。代わりに、宗助達の目の前には、薄汚れた服を着た奇妙な男の姿があった。
(こいつは……!?)
人間じゃない。全身を駆け巡る悪寒に、宗助は瞬時にそう判断した。
未だ完全に制御できないものの、自分にも美紅のような霊的な存在に通じる力がある。その力が告げているのだ。目の前にいる存在は人間ではない。あれは人間のような形をした、まったく別の存在だと。
無言のまま、宗助の前に立っている男が右手を振り上げた。その先に握られている物を目にした瞬間、宗助は素早く調理台の上にあったフライパンに手を伸ばしていた。
金属と金属が、激しくぶつかり合う音がする。
麻袋を頭から被った奇怪な男。その右手に握られた鉈が振り降ろされたのを、宗助はフライパンで受け止めていた。
「宗助さん!!」
「来るな!!」
思わず駆け出そうとした真弓に、鉈を受け止めたままの姿勢で叫ぶ。正体までは判らないが、少なくとも真弓がどうにかできる相手ではない。
「こいつ……いい加減にしろ!!」
両手でフライパンを握ったまま、宗助は男に強引な体当たりを食らわせた。反撃を食らうとは思っていなかったのか、男の身体が少しだけ揺れる。その隙を、その一瞬を、宗助は見逃さない。
右足を相手の足首に引っかけて、宗助は男を転ばせた。男の手から鉈が落ち、宗助はすかさずそれを厨房の奥まで蹴り飛ばす。
「こっちだ、真弓ちゃん!」
止めを刺すという考えは、残念ながら宗助の頭に浮かんではこなかった。まずは真弓の安全が最優先だとばかりに、彼女に手を差し伸べて部屋を出る。そのまま後ろも振り返らずに、一目散に食堂から逃げ出した。
廊下を抜け、階段を下り、適当な船室に転がり込む。信吾の脚を奪った罠の存在は、これもすっかり忘れていた。もしも、自分達が通ってきた道に罠が仕掛けられていたら。それを思い出し、宗助の顔が少しだけ青ざめた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
信吾の容体が急変したのに千晶が気づいたのは、晴美が部屋を出てから少しばかり経った頃だった。
突然、ベッドの上の信吾が呻き出したので、何事かと思って顔を覗き込んだのだ。その瞬間、千晶は喉まで出かかった悲鳴を飲み込み、そろそろと彼の側から後退った。
顔が青い。いや、既に紫色になっていると言った方が正しい。額には脂汗が浮き出して、苦しそうに声を漏らしている。呼吸は荒く、彼の身体が危険に晒されていることは、疑いようのない事実だった。
「つ、塚本……君?」
返事はない。試しに呼びかけてみたが、信吾は既に千晶の声さえ届いていないようだった。
(ど、どうしよう……)
慌てて辺りを見回すが、当然のことながら何もない。ここは何の変哲もない小さな船室。天井も低く、ベッドも狭く、おまけに医療器具や応急手当の道具さえない。
こんな場所に、脚を失った人間を放置しておいたのがいけなかったのだ。が、そうは言っても、他に何ができただろう。医者の一人もいない状況で、どうやって信吾を救えたというのだろう。
不安と罪悪感。それは次第に恐怖へと変わり、千晶の中で大きく膨らんでいった。時間にして数秒。しかし、それは彼女から冷静な思考を奪い、感情のままに行動させるのに十分だった。
「ご、ごめんなさい!!」
既に聞こえていないはずなのに、千晶はそう叫んで部屋を飛び出した。
部屋の外には、信吾をこんな目に遭わせた者がいるかもしれない。そんな考えは、既に頭の中から吹き飛んでいた。
自分の目の前で、知り合いがじわじわと死んで行く。そんな姿を、これ以上は見たくない。ただ、それだけの理由で、千晶は部屋から逃げ出した。
あのまま放っておけば、数刻もしない内に信吾は死ぬだろう。もっとも、それが判っていたところで、千晶自身には何もできない。彼の身体が徐々に腐って行くことを、止める手立てなどないのだから。
やがて、どれほど走っただろうか。
気がつくと、千晶は自分でも見たことのない場所にやって来ていた。
「やだ……。ここ……どこだろう……」
呟いたところで返事はない。右も左も、ずっと長い廊下が続き、その壁には船室へと繋がる扉がある。そこから更に奥へと目を凝らすと、下の階へ続く階段があるのに気がついた。
あの階段は、どこに続いているのだろうか。ふと、そんなことが気になった。
こんなとき、晴美だったらどうするだろう。きっと、階段の先に何かあるのではないかと言って、そのまま探索を続けるのだろう。同じ女であるにも関わらず、自分と晴美では雲泥の違いがある。いつも強気で勝ち気、おまけに行動力もある彼女が羨ましい。
(はぁ……。晴美ちゃん……今、どこにいるの……?)
途端に心細くなったのだろうか。晴美のことを考えていたら、急に不安が増してきた。あのまま部屋に残り、晴美の帰りを待つべきだったか。そんな自分勝手な考えが、千晶の頭をもたげたときだった。
「う……ぇぇぇ……」
どこかで誰かの呻く声がする。聴き覚えのある声だ。それに、声の場所も随分と近い。
「晴美ちゃん!?」
地獄に仏とは、正にこんなことを指すのだろうか。
あの声は晴美のものだ。先程、気分が悪いと言って部屋を出てから戻らなかったが、まさかこんな場所に来ていたとは。
偶然とはいえ、俄然気持ちが楽になってきた。晴美が一緒なら、とりあえず怖い物はない。たとえ、彼女の具合が悪くとも、一人ぼっちでいるよりは幾分かマシだ。
声のする方へと耳を澄まし、千晶はそっと歩き出す。扉の一つに少しだけ半開きになっているものを見つけ、千晶は躊躇うことなくそれに手を掛けた。
「晴美ちゃん……いるの?」
扉の隙間から首を突っ込み、千晶は震える声で尋ねてみた。まさかとは思うが、晴美ではない別の人間だったら。そんな不安もあったものの、見覚えのある背中を見つけて直ぐに安堵の溜息を吐いた。
「なんだ……。いたんなら、返事くらいしてよ……」
そう言って近づくも、晴美からの返事はない。よほど気分が悪いのだろうか。ならば背中くらいさすろうかと、千晶は優しく手を伸ばす。
だが、彼女の指先が背中に触れる瞬間、晴美が唐突にこちらを振り返った。その顔を、その姿を見た千晶の顔が、見る間に恐怖に怯え歪んで行く。
「あ……あぁ……」
そこにいたのは、晴美ではなかった。いや、晴美ではあったのだが、千晶の知る晴美の姿をしていなかった。
顔と、それから腕の部分。衣服から覗いている全ての場所が、びっしりとフジツボのような物で覆われていた。よくよく見ると、それは晴美の皮膚に貼り付いているというよりも、中から皮膚を破って現れていると言った方が正しかった。
「ち……あき……」
潰れたヒキガエルのような声で、晴美は千晶の名を呼んだ。二つの瞳からは白眼が失われ、どろりと濁った黒い塊に変わっている。まるで蛇か……もしくは魚の眼球のような球体が、ぐりぐりと不規則に蠢いている。
「ひっ……!?」
悲鳴を飲み込み、じりじりと後ろに下がる千晶。
これは晴美ではない。では、晴美はどこへ行ったのだ。自分の知る、あの強くて頼りになる晴美は、いったいどこへ消えてしまったのだ。
「待っ……て……」
ずるずると這いつくばるようにして、晴美が千晶に迫ってきた。彼女が呼吸をする度に、口から生臭い吐息が漏れる。浜辺に打ち上げられた海の生き物の死体が、そのまま腐敗したときに発するような臭いだ。
不気味な突起物の生えた手が、ゆっくりと千晶の足に伸ばされる。粘性の高い液体が滴る掌が触れた瞬間、不快なぬめりと冷たさに、千晶は我慢できず泣き叫んだ。
「い、いやぁぁぁぁっ!!」
伸ばされた手を振り払うようにして、千晶は晴美を蹴飛ばした。爪先から水ぶくれのスポンジを蹴ったような感触が伝わり、それが更に彼女の恐怖を引き立てた。
もう、これ以上は我慢できない。乱暴に扉を開け、千晶は一目散に部屋を出る。決して後ろを振り向かないようにして、脱兎の如く駆け出した。
「待って……千晶……」
遠くで晴美の呼ぶ声がする。その声に抗うようにして、千晶は両手で耳を塞いだ。
(ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……!!)
心の中で、謝罪の言葉を繰り返す。それが晴美に届くはずもないと知りながら、それでも自分の良心に逆らい、己の行いを正当化するために。
「置いて……行か……ないで……」
だんだんと、晴美の声が遠くなる。自分の身体にまとわりつく何かを振り払うようにして、千晶の姿は階下へ繋がる階段の先へと消えて行った。