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~ 辰ノ刻   鉈男 ~

 実際に探索を開始してみると、船の中というのは思ったよりも狭かった。


 細長く続いた薄暗い廊下を、信吾と徹の二人は慎重に歩いていた。


 別に、足音を殺さねばならない理由はない。ただ、あまりに静かなこの環境が、この船全体を覆う気妙な空気が、彼らの警戒心を無意識に強めていったのは間違いない。


 金属質な階段を下り、二人は船の底へと向かって進んで行った。互いに言葉は交わさない。無駄なお喋りをするつもりもなかったし、何より話をしたいという気分にもならなかった。


 だが、口には出さずとも苛立ちまでは隠せない。実際、徹はかなり苛立っているようで、時折理由もなく悪態を口にしては壁を這うパイプを蹴り飛ばしていた。


「ったく、辛気臭ぇ場所だな! 誰かいるんだったら、さっさと顔を見せやがれ!!」


 先ほど、信吾に言われた『紳士的であれ』という言葉。そんなものは、とっくに徹の頭から消え去っていた。


 本当は、楽しいクルージングになるはずだったのだ。波の音を聞きながら、潮風を感じられるヨットの上で女の子を口説いて、あわよくばお持ち帰りまで考えていた。それが、なぜ自分達はこんな薄暗く陰気な場所で、人を探して彷徨っているのだろう。


 まったく、やっていられない。そう思い、徹はその辺に転がっていた金属棒を勢いよく蹴り飛ばした。


 誰もいない船内の廊下に、甲高い音が響き渡る。思いの外に音は大きく、蹴り飛ばした徹自身も少し驚いた。


「おい、止めろ! あまり乱暴なことするな」


「うるせえ! さっきから探しまわってるが、全然人がいねえじゃねえか! 正直、やってらんねぇんだよ!!」


 信吾の制止も聞かず、徹は乱暴に壁を叩いた。衝撃が壁から天井にまで伝わり、なにやら埃のような物がパラパラと頭に落ちる。


「止めろってば! こちとら、助けてもらおうって身なんだぜ? あまり失礼なことすんなって!!」


「んだよ、偉そうに! だいたい、元はと言えば、てめぇがヘッポコな装備しか積んでねぇヨットで海に出ようなんて言ったからだろうが! 誘ったんなら誘ったで、最後まで責任取りやがれ!!」


 さすがに、これは言い過ぎだった。温厚で人当たりの良い信吾でさえ、この言葉には堪忍袋の緒が切れそうになった。


 そもそも、今回の件に強引に同行してきたのは、他でもない徹自身なのだ。それなのに、事ある毎に場の空気を乱し、人を不快な気持ちにさせ、あまつさえ都合が悪くなると八つ当たりを始める。


 どれもこれも、人として最低の行為だ。真弓の顔をふと思い出し、信吾は辟易した顔で徹から目を逸らした。宗助ではないが、本当に同じ血をわけた兄妹なのかと、あの真弓がこいつの妹なのかと疑いたくもなる。


「けっ、なんだよ、急に黙りやがって! それにしても……マジで人がいねぇんじゃねぇのか、この船?」


 相変わらず飽きもせず、徹は悪態を吐いていた。が、その最後の部分、彼が言った最後の言葉に信吾は思わず反応した。


 確かに徹の言っている通り、この船には誰もいないのかもしれない。食堂に入ったときもそうだったが、今までほとんど人の気配というものがしなかった。まるで廃船か、それでなければ海上に遺棄された難破船のように、船の中には人の息吹が感じられない。


 しかし、その一方で、この船には確かに人がいた跡がある。食堂に残された食事は作り立てと言っても過言ではなかったし、何よりも廃船や難破船にしては、船の外観が新し過ぎる。それに、ここまで巨大な船が海上に遺棄されているなど、普通に考えてあり得ない。


 やはり、この船には人がいるのだ。そう考えねば辻褄が合わない。


 今まで人に出会わないのは、単に船員の数が少ないからだろう。調査船や貨物船に乗ったことはなかったが、聞くところによれば随分と窮屈な構造になっているという。


 船員の部屋も狭く、乗員も少なく、民間の客船とは豪い違いがあるのだとか。そんな船であるからして、勝手がわからず迷っているのだと。そう、彼が考えたときだった。


「おわっ!」


 突然、目の前を歩いていた徹が足を滑らせた。何かに躓いたのか、それとも滑ったのだろうか。


「おい、大丈夫か?」


「う、うるせえ! ったくよ……なんで、こんなところに水が垂れてやがんだよ……」


 腰の痛みに耐えながら、徹が文句を言いながら立ち上がる。なるほど、言われてみれば、確かに水のようなものが廊下に広がっている。薄暗がりでよく見えないが、奥の方まで一筋に続いているようだった。


「気をつけろよ。船の中ったって、濡れてない場所がないとは限らないんだからさ」


「冗談じゃねえ。浸水だか何だか知らねえが、とんだポンコツだな、この船はよ!!」


 また、徹が壁を蹴った。ガァン、という嫌な音が反響し、廊下の奥まで響いてゆく。


 再び舞い落ちる埃。思わず目を擦り、信吾は何気なく足下へ目をやった。彼の視線の先には、徹が滑ったと思しき水の後がある。だが、よくよく見ると、水にしては妙に色が濃いのは気のせいか。


「これは……」


 まさか、とは思った。人間、不安になると嫌な方向にばかり物事を想像してしまう。できれば予想が外れて欲しい。そう思い、信吾はそっと廊下を伝う液体に手を伸ばす。


 瞬間、指先に伝わる粘り気のある感触。恐る恐る、信吾は自分の指を顔の前へと持ってゆく。もっとも、こうして直に調べずとも、触れた瞬間に液体の正体には気づいていたが。


 果たして、そんな彼の予想は正しかった。


 粘性の高い赤黒い液体。温かさは既に失っていたが、まだ完全に乾いてはいない。鼻先に指を運んで臭いを嗅ぐと、むせ返るような酷く不快な臭いがする。


 人のものかどうか定かではないが、それは紛れもない生物の血液に他ならなかった。廊下に広がった血は長々と奥まで続き、そのまま更に下の階層に続く階段へと伸びている。


「どうした、塚本? なにか、妙なもんでも見つけたか?」


「ああ……。お前が踏んだの、水じゃない。これ……血だぜ……」


 普段の明るく飄々とした笑顔は、既に信吾の顔から消えていた。


 いったい、何故こんな場所に血が垂れているのか。この船が捕鯨船か何かで、解体した鯨の肉でも引きずって行ったのだとすれば、一応の説明はつくのだろうか。


 いや、いくらなんでも、その説明では苦しいだろう。廊下に流れる血の跡は、どうやらこの場所から始まっているらしい。いくら捕鯨船であったとしても、こんな廊下のど真ん中で鯨の解体ショーなど行うはずもない。


 これは危険だ。何が危険なのかはわからないが、信吾の中にある本能のような物が告げていた。


 こんな場所に血が流れているなど、どう考えても普通ではない。まさかとは思うが、このご時世に船上で反乱でも起きて乗組員同士で殺し合ったとでもいうのだろうか。それとも、海賊か何かに襲われて、乗員が皆殺しにされてしまったのだろうか。


 どちらも決め手に欠ける、馬鹿馬鹿しい想像ではある。大航海時代ならいざ知らず、今の日本で船員の反乱だの海賊の襲撃だのが起こり得るはずがない。しかし、そうやって割り切らねば、それこそ千晶の話にあった都市伝説を採用せねばならない事態になる。


 メアリー・セレスト号。乗組員が消え、船だけが残されたという謎の人体消失事件。だが、実際は単なる遭難事故であり、その大半は後付けの創作なのだ。不気味に一致する点はあるものの、いくらなんでも荒唐無稽で飛躍が過ぎる。


 とにかく、今はこのことを他の仲間にも知らせねば。何故だが知らないが、バラバラに動いていては危険な気がする。特に、女だけでまとまって歩いている晴美と千晶が。


「戻るぞ、田宮。いくらなんでも、こいつは普通じゃない」


「はぁ、何だお前? もしかして、血ぃ見てビビってんのか?」


「常識的に考えてみろよ。普通、こんな場所に血なんてあるか? それも、こんなに大量に……」


 長々と続いた血の跡に、改めて目をやりつつ言葉を切る。これだけの出血量だ。もし、これが人間のものであれば、恐らく血の持ち主は既に生きてはいないだろう。


「まったくよ。たかが血の跡程度で、な~にビビってんだか。どうせ、誰かが転んで血ぃ流したか、海で取った獲物の血か何かだろ?」


 本当に、そう思うのか。血を見てもまったく表情を変えない徹に、信吾はそれ以上何も言うことができなかった。


 こいつは真正の馬鹿なのか、それとも単に強がっているだけなのか。どちらにしろ、この状況であんな言葉が口から出るなど普通ではない。


 もう、これ以上は構うのもよそう。今はとにかく、他の仲間と合流せねば。


 そう思い、信吾が今しがた通ってきた廊下を戻ろうとしたところで、何やら奇妙な音がした。



――――ズルッ……。



 重たい物を引き摺って、何かが擦れるような音だ。時折、それに混ざって、金属が擦れ合うような音もする。



――――ズルッ……。



 また、音がした。今度は空耳などではない。誰もいないと思われた船の中、明らかに自分達以外の誰かがいる。


「なんだぁ? もしかして、ようやく船員の誰かとご対面ってか?」


 本当に何も考えていない様子で、徹が誰に言うともなく口にした。そのまま音のする方に歩き出そうとするものの、寸でのところで信吾が止めた。


「おい、離せよ。俺は、男にしがみつかれる趣味なんかねえっての!」


「馬鹿! お前こそ、ちょっとは頭使えよ! 今の状況、どう考えたっておかしいだろ?」


 人の気配が消えた船内。血の跡が残る廊下。そして謎の音。


 どれだけ楽観的に考えても、この事態が異常であることは容易に想像がつく。いや、恐らくは最初にヨットを包んだあの霧。あれが最初の異変であったのだ。


 やはり、宗助の言っていた通り、この船に上がらない方が良かったのか。では、どうすれば良かったのかと尋ねられれば、それは信吾も答えになる考えを持ってはいない。


 だが、それでも、今は慎重に動くことを第一に考えねばならないことは確かだ。あの音の正体は何か。それが判らない以上、迂闊に動くべきではない。


 確信を持って言い切れるわけではない。むしろ、動物的な第六感といった方が正しかっただろう。普段はそこまで慎重に行動しているわけでもないはずなのに、人間、緊張するとここまで気が張れるものなのか。あまりの精神の高ぶりに、信吾は自分でも内心は驚きを隠せなかった。



――――ズルッ……ズルッ……。



 音が、だんだんと近づいて来る。思わず耳と顔を背けそうになるが、それでもどこか怖い物見たさのような感情もあるのだろう。


 気が付くと、信吾は徹の服の裾をつかんだまま、じっと薄暗がりの廊下の奥を見つめていた。


「おい、いつまでしがみついてんだよ!」


 徹の声に、ハッとした表情になって手を離す。が、次の瞬間、信吾の視線は苛立ちを隠しきれない徹の顔から離れ、廊下の奥から現れた者に釘付けとなっていた。


「な、なんだ、あれ……」


 それ以上は、何も言葉が出なかった。


 彼らの前に現れたのは、奇妙な格好の男が一人。頭からすっぽりと麻袋を被り、薄汚れた作業着のような服を着ている。両手はだらりと下がっているが、その片方の手には鉈が握られている。先ほど、地面を擦るような音がしていたのは、これを引きずっていたからに違いない。


 男はふらふらと揺れながら、しかし確かな足取りで信吾と徹に近づいてきた。


 あれは、どう見てもこの船の船員ではない。調査船だか貨物船だか知らないが、いくら客船でないとはいえ、あんな妙な格好をした者が船内をうろついているはずがない。


 考えるより、逃げる方が先だった。あの男が誰で、いった何の目的で船内を徘徊しているのか。そんなものは知らないし、信吾は知りたいとも思わなかった。


 いや、本当は薄々気づいていたのかもしれない。先ほどの鮮血が、目の前の男によってもたらされたものであるということを。この船に人がまったくいない原因が、あの男によって作り出されたということを。


 このままでは殺される。直感的に、そう思った。が、信吾が逃げ出した直後、なにやら後ろから徹が啖呵を切っている声が聞こえて来た。


「あの馬鹿!!」


 振り向きざまに、そう叫んでいた。


 鉈の男が、ゆっくりと徹に迫って行く。が、徹は一歩も引かずに男を睨み返すと、何ら臆する様子も見せずに前に出た。


「なんだぁ、てめぇ? 妙な格好しやがって……頭、イカレてんじゃねぇのか?」


 頭がおかしいのはどっちだ。あの男の姿を見て、その全身から発している空気を感じて、お前は何も思わないのか。


 そう、信吾が叫ぼうとした矢先に、男が手にした鉈を音もなく振り上げた。瞬間、空気を切る鋭い音と共に、鉈が徹目掛けて振り下ろされた。


「おわっ、何しやがる!!」


 間一髪、済んでのところで直撃は避けた。が、それでも微かに鉈の切っ先が腕を掠め、赤い鮮血が腕を伝って滴り落ちた。


「この野郎……。舐めた真似しやがって!!」


 このまま逃げればいいものを、徹はそれをしなかった。腕を切られたことで逆上し、完全に頭に血が昇っていた。


 問答無用。そのまま相手の顔面目掛け、痛烈な拳の一撃を繰り出した。拳が麻袋にめり込んだ瞬間、何やら水ぶくれのスポンジを叩いたような感触がした。


 男の身体が、ぐらりと揺れる。しかし、直ぐに何事もなかったかのようにして身体を起こし、再び鉈を振るってくる。


 今度も直撃は避けた。距離を取れば怖くはない。ただ、先ほどの感触は何だろうか。人を殴ったときのそれとは、随分違っていたような気もするが。


「おい、何やってんだよ! 早く逃げるぞ!!」


 再び徹が男の顔を殴りつけるよりも早く、信吾が腕を引いて駆け出した。


 あれは人間ではない。何か別の、得体の知れない存在だ。そうでなければ、きっと頭の狂った殺人鬼だ。


 実際に頭を殴った徹も違和感を覚えてはいたが、それ以上に信吾の方が慌てていた。


 この船に人がいない理由。それはきっと、あの麻袋の鉈男に船員が皆殺しにされたからだ。少なくとも、信吾にはそうとしか思えなかった。


 馬鹿馬鹿しい、荒唐無稽な話だとは思う。こんな船の中に殺人鬼が一人紛れ込み、船員を皆殺しにした上で徘徊しているなどとは。今時、B級のホラー映画でさえこんな展開はあり得ない。あまりに下らない発想過ぎて、自分でも苦笑したくなる。


 しかし、それでも、あの男に徹が襲われたのは確かなのだ。そして、自分が床で触れた赤黒い液体。あれもまた、紛れもない血液に他ならなかった。


 信吾は逃げた。隣で徹が悪態を吐いているのが聞こえたが、それに構っているほど余裕はなかった。


 今は一刻も早く、あの奇妙な男から逃げねばならない。それに、他の仲間にも危険を伝えねば、いつ誰が代わりに殺されないとも限らない。


 階段を上り、廊下を走り、二人は船の中を逃げ回った。食堂に戻ることも考えたが、今はそれどころではない。あんな鍵のかからない部屋に逃げ込んだところで、直ぐに見つかって皆殺しだ。


 それよりも、今は仲間と合流しよう。その上で、この船から逃げ出す算段を考えよう。霧のことも気になったが、少なくともヨットに逃げ帰れば男に追われずには済む。


 鉈が地面を引きずる音が、徐々に二人の後ろから迫ってきた。一瞬でも後ろを振り返ったら、その瞬間に鉈が自分の脳天目掛けて落ちてくるような気がしてならない。考えてはいけないと思うのだが、どうしても思考が最悪の状況を思い浮かべてしまい仕方がない。


 やがて、どれだけ走ったのだろうか。


 気が付くと、二人の目の前に新しい階段が姿を見せていた。


「はぁ……はぁ……。なんとか……逃げ切れた……か……」


「みたいだな……。しっかし、思ったより広いんだな……この船。廊下はこんなに狭っ苦しい癖に、妙にあちこち入り組んでやがる」


 呼吸を整えつつ、徹が何気なく口にした。彼にしてみれば、単に率直な感想を述べたまでのことだ。が、その言葉に何か妙なものを感じ、信吾は思わず顔を上げた。


 思ったより船が広い。何のことはない話だが、落ち付いて考えてみると、これも妙だ。


 こういった調査船や貨物船の類は、その用途故に狭く簡単な構造をしていることが多いと聞く。信吾も船には詳しくなかったが、以前に何かの本で読んだ記憶がある。


 では、仮にこの船が何らかの調査船だったとして、少々広過ぎはしないだろうか。客船と自分のヨット以外には乗ったことがないため、本当のところはわからない。それでも、あの男の存在を抜きにしても、この船がどこか妙な造りをしていることは確かである。


 いったい、何が起きているのか。もしかすると、これは悪い夢なのか。夢であれば覚めてくれ。そう願って頬をつねってみる信吾だったが、悲しいことにこの痛みは紛れもない現実のものだ。


 気持ちが逸る。あんな得体の知れない鉈男が徘徊しているとなれば、自分たち以上に晴美や千晶、それに宗助の連れている真弓のことが心配だ。


 こんなことなら、徹のスケベ心から守るために、女性だけで行動させるようなことをしなければよかったか。完全な采配ミス。これであの二人に何かあったら、それこそ自分は彼女達の両親に顔向けできなくなってしまう。


「くそっ……。とにかく、一度宗助達と合流しないと……。晴美ちゃんや千晶ちゃんのことも心配だ……」


 そう言って、足下に注意を向けなかったのが失敗だった。


「……っ!?」


 目の前の階段を上ろうと、信吾が足を前に出した瞬間である。途端に激しい痛みが右足を襲い、次いで身体がぐらりと揺れた。


 激痛と共に視界が揺れる。世界が回り、自分の意思とは反対に身体が前に倒れて行く。


「ぎゃぁぁぁぁっ!!」


 自分に何が起きたのか。それを理解する前に、信吾は激痛の走った場所を押さえて叫んだ。


 右足の感覚がない。あまりに酷い痛みに、意識が一瞬で奪われそうになる。


 痛みに耐えながら手を伸ばすと、果たしてそこには自分の右足と呼べるものが失われていた。代わりに伝わるのは、何やら妙に生温かい感触。先ほど、あの廊下で触れたのと同じものだ。


 違うのは、これが誰かの流した血ではなく、紛れもない自分自身のものであるということ。押さえても、押さえても、血はどんどん流れ出して止まらない。


「塚本、どうし……!?」


 駆けつけた徹も、さすがにこれは言葉を飲む以外に返すことができなかった。


 足がない。信吾の足が、太腿から下の辺りでバッサリと切断されている。見ると、左足にも筋のような血の跡があり、こちらもそれなりに深い傷を負っているようだった。


「畜生! どうなってやがる!!」


 転がった信吾の足に目を背けつつ、徹が見えない誰かに向かって叫んでいた。


 いったい、信吾に何が起きたのか。その答えは意外に早く見つかった。


 徹の目の前に走る一本の赤い筋。途切れ途切れに、しかし一直線に並ぶそれは、よくよく見ると信吾の血で作られたものだった。


「野郎……。妙な罠仕掛けやがって……」


 張り巡らされた鋼線を、徹が憎々しげに睨みつける。


 信吾の足を切断したもの。それは他でもない、一本のピアノ線のような鋼鉄の糸だった。この暗がりでは、細さも相俟って視認することが難しかったのだろう。だからこそ、これは恐るべき罠にもなる。下手に足を踏み出せば、信吾のように太腿から下を真っ二つにされてしまう。人間の肉や、果ては骨でさえ容易に切断できるほど、鋭く強靭に作られた物のようだった。


 最悪だ。片足のなくなった信吾の姿に、徹は思わず舌打ちをした。


 後ろからは、あの鉈男が迫っている。かといって、慌てて前に進めば信吾の二の舞。さすがに同じ場所の罠には引っ掛からないだろうが、他に罠がないとも限らない。その上、負傷した信吾を連れて歩かねばならないとなれば、逃げる際のリスクも一気に上がる。


 こうなったら仕方がない。これは事故だ。今から自分が行うことは、自分の身の安全を確保するために仕方のないことだ。


 そう、心の中で言い聞かせて、徹は未だ叫び声を上げている信吾の側からゆっくりと離れて行った。


「悪ぃな、塚本。でもよ、そんなに叫ばれると、こっちも見つかっちまいそうで困るんだよな」


 既に、聞こえているのかいないのかさえ判らない。いや、判らない方が好都合だ。


「た、田宮……。ま、待って……」


 足の痛みを堪え、信吾が徹に手を伸ばす。だが、その指先が徹の足に届きそうになったとき、彼の力は限界を迎えた。


 ああ、自分はここで死ぬのだと。こんな得体の知れない船の中で、妙な男に追われるままに、無残な最期を遂げるのだと。


 薄れ行く意識の中、信吾はだんだんと全身から力が抜けて行くのを感じていた。


 世界が揺れて、視界が闇に包まれる。いったい、何故こんなことになってしまったのか。色々なことが一度に起き過ぎて、もはや何がなんだか解らない。


(あれ……この音……)


 空耳だろうか。どこかで誰かの足音がする。徹のものでも、ましてやあの鉈男のものでもない。理由はわからないが、信吾には何故かそう思えた。


 足音が、だんだんと近づいてくる。せめて、その正体を探るまでは死ねないと……そう思って痛みに耐える信吾だったが、それでも人間、無理をすることはできないようになっている。


 結局、その足音の主が誰なのか、最後まで信吾には判らなかった。


 やがて、足音が階段を下る際のそれに変わったところで、信吾の意識はぷっつりと途絶えた。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 船底に向かう階段とは違い、食堂から真っ直ぐに続く廊下は随分と小奇麗な造りだった。


 コツ、コツという足音が、誰もいない廊下に反響する。相変わらず人の姿はない。自分の呼吸の音まで聞こえてきそうなほどに、船の中は恐ろしいまでの静寂に包まれていた。


「ねえ……。本当に、私達だけで大丈夫なの……?」


 どこか不安を隠しきれないままに、千晶が晴美の服の袖を引っ張った。


「なに言ってんの。そもそも、この船に上がったのだって、あの変な霧から抜け出す方法を見つけるためじゃない」


「で、でも……。やっぱり、何か変だよ、この船……」


「そりゃ、確かに静か過ぎるとは思うわよ。それでも、誰かいるのは間違いないでしょ? 食堂にだって、あんなできたてのご飯が置いてあったくらいなんだから」


「うん……。そう、だけど……」


 それ以上は、言葉に詰まって何も言えなかった。


 千晶自身が、晴美や他の仲間に語った幽霊船の話。信吾は単なる都市伝説の域を出ない作り話だと言っていたが、やはり何か引っ掛かる。


 これだけ船の中を歩き回っているというのに、今まで誰にも遭遇していない。船長と数人の船員しかいない船なのかもしれないが、ここまで人気がないのはあまりに妙だ。


 まさか、この船は本当に幽霊船なのではなかろうか。そんな考えがふと頭をもたげるが、直ぐに首を横に振って否定する。


 幽霊船と言えば、難破した船がボロボロになりながら漂流しているようなイメージが常である。人気がまったくないとはいえ、この船は幽霊船にしては少々綺麗過ぎる感じがする。


 それに、極めつけは例の食事だ。仮にこの船が幽霊船だとすれば、あんな綺麗な食事が置かれているはずがない。食事は誰かが作らねば出て来ない。故に、この船には必ず人がいる。メアリー・セレスト号の話が作り話であるなら、この船には誰か他の人間がいなくてはおかしいのだ。


 見た目は普通、人のいた痕跡もある。では、この妙な不安と違和感はなんだろうか。そんな疑問が千晶の頭をぐるぐると回り始めたところで、唐突に晴美が足を止めた。


「ど、どうしたの!?」


「ごめん……。ちょっと、なんか急に気分悪くなってきちゃって……」


「えぇっ! だ、大丈夫なの!?」


「いや……なんか、駄目っぽい……。その辺に、トイレとかあると助かるんだけど……」


 微妙に腰を折り曲げつつ、腹を押さえて晴美が辺りを見回している。


 ほら見ろ、と千晶は思った。だから、言わないことじゃないのだ。きっと、何か悪い物を食べて当たった違いない。食堂で晴美が摘まみ食いしたことを思い出し、千晶は本気で心配した。


 晴美の顔が、心無しか青白くなっているような気がする。額にはうっすらと脂汗まで浮かび、随分と我慢している様子だ。


「ねぇ、千晶……。悪いけど……ちょっと、その辺で……用足してくるわ……。もう……マジで……限界……」


 それだけ言って、晴美は千晶の返事を待たずに小走りで立ち去った。慌てて引き留めようとした千晶だったが、晴美は彼女の腕をすり抜け、そのままどんどん奥へと向かって走って行く。


「待ってよ、晴美ちゃん! ねぇってば!!」


 こんな場所で、一人にされてはたまらない。今まで押し殺していた不安が、途端に心の奥底から溢れ出して来た。


 だが、そう思って晴美の後を追い掛けようにも、彼女は千晶と比べて随分と早足だった。それこそ、本当に腹が痛いのか疑わしくなるほどに、その距離はどんどん開いてゆく。


「もう……。なんで、一人にするのよぉ……」


 気が付くと、千晶は晴美の姿を完全に見失ってしまっていた。


 誰もいない船の中、不気味なほど静かな廊下にただ一人。この世界には、既に自分以外の人間はいないのではないか。そんな荒唐無稽な考えが、千晶の頭の中に次々と湧いては消えてゆく。


 とりあえず、今はここで待つしかないか。さすがに晴美も、こんな場所に千晶を置いてどこかへ消えるはずはないだろう。


 その場にうずくまって膝を抱え、千晶はじっと動かずに晴美を待った。時間にして数秒。しかし、千晶にとってはその間が、酷く長い時間に感じられて仕方がなかった。


 まさか、晴美はこの船の中で、霧のように消えてしまったのではあるまいか。あの、メアリー・セレスト号の伝説にあった船員達のように、この船を包む白い霧に飲まれるようにして忽然と姿を消してしまったのではないか。


 想像が、どんどん嫌な方へと向かっている。考えないようにしようとすればするほど、悪い方へ、悪い方へと不安な気持ちが膨らんでゆく。


「ぎゃぁぁぁぁっ!!」


 突然、どこかで叫び声がした。身体をビクッと震わせて、丸まっていた千晶が頭を上げた。


 今の声には聞き覚えがある。普段の雰囲気は欠片も感じられなかったが、間違いない。


 あれは信吾だ。彼の身に、きっと何か良くないことが起きたのだ。それこそ、千晶の頭では想像もつかない程に、最悪最凶の出来事が。


「もう、嫌……。なんで……なんで、私がこんな目に遭わなくちゃいけないのよぉ……」


 言葉と共に、自然と涙が溢れていた。信吾に何かあったのであれば、一刻も早く彼の元に駆け付けるべきではないのか。平時であればそんな考えも頭に浮かんだのだろうが、残念ながら今の混乱した千晶では、ただ震えながら晴美の帰りを待つことしかできなかった。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 廊下を曲がった先にあったのは、この船の船員用に作られたと思しき個室だった。


「し、失礼……します……」


 込み上げる吐き気に耐えながら、晴美はそっと中へ足を運ぶ。辺りを見回してみるが、やはりというか誰もいない。


(うぅっ……。や、やばっ……)


 もう、これ以上は我慢の限界だ。口元を両手で抑えたまま、晴美は部屋の中に洗面台でもないかと探してみた。本当は手洗い場まで行きたかったが、そんなものを悠長に探している暇は無さそうだ。


 部屋の中に足を運び、晴美は改めて中の様子を窺った。


 天井が低い。そして、ベッドも狭い。これが船乗りの過ごす普通の環境だというのだろうか。なんだか予想に反し、随分と殺風景で圧迫感のある場所だ。


 こんな場所では、洗面台に期待などできないだろう。そう思って部屋の隅へと目をやると、そこには果たして調度良い頃合の物体が転がっていた。


(あれは……!?)


 そこにあったのはバケツだった。こうなったら、もう何でもいい。とにかく胃の中の物を吐き出して、さっさとすっきりした気分になりたいものだ。


 ひっくり返っていたバケツを拾い、晴美はおもいきりその中に向かって胃の内容物を吐き出した。途端に口内が酸っぱい液体で溢れ返り、本能のままに晴美は全てを吐き戻した。


「はぁ……はぁ……」


 やがて、全てを吐いたところで、晴美はほっと溜息を吐いて呼吸を整えた。


 とりあえず、悪い物は全て吐き出したような気がする。片手で腹をさすりながら、晴美はふと自分が吐き戻した物へと目をやった。


「げぇっ!?」


 それ以上は、何も言葉が出なかった。


 バケツの中には、どろどろとした真っ黒な液体が広がっていた。海苔の佃煮を思わせるような物体だが、当然のことながら晴美はこんなものを食べた記憶がない。


 それに、本当に海苔の佃煮ならまだしも、この黒い物体は随分と酷い臭いがする。嘔吐独特のすえたような臭いではない。何か、もっと磯臭く、それでいて決して口にはしたくない臭いだ。


 強いて言うならば、それは海の生き物が死んだときに放つ腐臭にも似た臭いだった。改めて深呼吸をしてみると、口の中に残っていた臭気が鼻をついて嫌になる。


 この黒い物体は、いったい何だろう。腐った物を食べたにしても、ここまで酷く腐敗臭のする物であれば手を付ける前に捨てるはず。


 自分の身体に起きた異変。それが信じられないまま、晴美はしばし部屋の中で茫然としていた。千晶には悪いが、少し休んで頭を整理したい。が、しかし、そんな彼女の淡い希望さえ許されず、部屋の外から微かに誰かの悲鳴が響いてきた。


「あれは……塚本君!?」


 ハッとした表情になって顔を上げ、晴美はなんとか立ち上がる。


 今の悲鳴は、間違いなく信吾のものだ。きっと、何かあったに違いない。


 未だ気分の悪い感じが残っていたが、それでも晴美は懸命に堪えて歩き出した。

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