~ 卯ノ刻 怪船 ~
最初に異変に気付いたのは、船上の空気を堪能していた徹だった。
「なんだ、こりゃ? なんか、霧が出てきたんじゃねえのか?」
目の前を覆う白い影。気がつけば、辺りは完全に白一色の世界となっていた。
「さ、寒い……」
同じく外に出ていた千晶が、思わず両腕を抱えて震え上がった。そのただならぬ気配に、誰もが息を飲んでいた。
夏の海ということで、確かに彼女は薄着だったかもしれない。だが、この寒さはそれだけで説明できるものではない。まるで霧全体が巨大な一つの生き物のようになって、こちらの体温をじわじわと奪っているような気がしてならない。
触れているのは肌だというのに、骨の髄まで伝わる冷たさ。調度、冬の川の水といえば分かり易いだろうか。あるいは、太陽の光さえ届かない、深い海の底を漂う水の流れか。
これはただの霧ではない。決して口には出さないが、宗助は何か奇妙な感覚を霧の中に感じ取っていた。自分の中に潜む霊的な感性。それが、危険のシグナルのようなものを告げている。
「おい、どうなってんだ、これ!? なんとかなんねえのかよ!!」
船内に戻った徹が、操舵席にいる信吾に向かって叫んでいた。
「そんなこと言われたって、俺だって判んねえよ。くっそ……天気予報では、今日は快晴のはずだってのに……」
「そんなもん当てにすっからだろーが! レーダーか何か、そういったもん積んでねえのかよ、この船!!」
無茶苦茶だ。横から聞いていて、宗助は思わず溜息をこぼした。
こんな民間のクルージング用の船に、高度なレーダーやセンサーなど積んでいるものか。確かに船内には二、三日の生活ができるだけの設備も整っているが、それでもあるのは必要最低限の通信機器くらいだ。それ以外には、徹の期待するような物は何もない。
(そうだ……! 通信機器だ!!)
突然思い立ったように、宗助はその場で立ち上がった。
徹の罵声はさて置いて、この船にとて無線機の一つくらいあるはずだ。それを使って周囲の船舶に危険を知らせれば、もしかすると助かるかもしれない。
信吾の許可を待っている暇などなかった。すかさず側に置いてあった無線機へと手を伸ばし、宗助は外部への通信を試みた。
「おい、何やってんだよ!」
隣で徹が怒鳴っているが、今は構っている暇などない。所詮はただの霧。そう思いたかったが、やはり何かがおかしい。この不安を払拭するためにも、なんとかして安全を……心の安心を確保せねば。
そう思いながら無線機のスイッチを捻った瞬間、周囲に物凄いノイズが放たれた。思わず耳を片手で塞ぎ、もう片方の手で無線機を止める。周波数の設定がおかしかったのかもしれないが、それにしても酷い音だ。
「うぅ……。酷い音……」
その場にいた全員が言葉を失う中で、真弓が両耳を押さえた状態で呟いた。ノイズはなくなったが、未だに頭がくらくらする。鼓膜の奥に残る不快な音の感触が、脳の神経の一部を揺さぶっているのだろうか。
「ったく、いきなり妙なもんいじくってんじゃねえよ! 耳が潰れるところだったろうが!!」
舌打ちをしつつ、徹が悪態を吐いている。だったら、お前も少しは何かしろと言いたくなったが、宗助は敢えて言葉を飲み込んだ。
ここで徹とやり合っても始まらない。問題なのは、船全体を包む白い霧だ。なぜ、こんなところで霧に包まれたのかは判らないが、まずは原因を突き止めて安全を確保せねば。
「ねえ、塚本君? あれ、何かしら?」
遠くに何かの影を見つけたのだろうか。相変わらず酷い霧で何も見えなかったが、それでも晴美が何かに気づいたようだった。
船の操縦を誤らないよう注意しつつも、信吾は用心深く晴美の指差した方向に目をやった。
速度を落とし、慎重に意識を集中させて舵を切る。晴美の見つけたものが何かは知らないが、もしも岩礁の類だったとしたら、ぶつかればそれこそただでは済まない。
既に船は、動いているのかいないのか、それさえも判らないくらいの速度になっていた。霧で目の前が見えないとはいえ、やはり船が動いていないと不安なのだろうか。外にいた千晶も震える身体を温めるように、船内へと滑り込んで来た。
「あの……。何か、あったんですか……?」
「わからない。とりあえず、今は外には出ない方がいいと思う」
不安そうな千晶に、気休め程度の言葉をかける宗助。それでもなお、不安そうな態度を崩さない千晶の肩に、すかさず徹が手を伸ばした。
「きゃっ! あ、あの……」
「心配すんなって! こんな霧、どうせ直ぐに晴れっからよ。いざとなったら、俺達がついてんだしさ」
先ほど、信吾に喚き散らしていたのはどこの誰だ。おまけに気の強い晴美ではなく、敢えて千晶の肩を抱いたというのが腹立たしい。
こういった、大人しくて逆らえなさそうな……それこそ、電車の中で痴漢に遭っても声を上げることのできないような、気の弱い女性。そういった人間に助平心から手を伸ばすような徹の態度を、宗助は許すことができなかった。
(こいつ……。とんでもないセクハラ野郎だな……)
さすがに我慢の限界だ。口論になっても構わないと、宗助は徹を睨みつける。が、彼が動こうとするよりも先に、側にいた真弓が徹の手を千晶の肩から払い落していた。
「お兄ちゃん、最っ低! こんな時に女の人に手を出すなんて、何考えてんのよ!!」
思わず全員の目が点になった。未だ顔に幼さの残る真弓だったが、それでもこんな度胸があったとは。中学時代、美術部で一緒に制作をしたときの姿しか知らない宗助にとっても、今の真弓の姿は意外なものがあった。
普段は誰にでも気さくに振舞っているが、いざという時は周りを驚かせるような行動に出る。なんというか、つくづく徹には過ぎた妹だと思う。兄妹でこうも性格が違っているというのは、やはり宗助には不思議に思えてならない。
まったくもって、遺伝子の悪戯とは不思議なものだ。いや、この場合は、環境変異とでも言った方が正しいのだろうか。徹の横暴な性格を考えると、真弓の中に同じ血が流れていようとは、どうしても考えたくなくなってしまう。
ふと、そんなことを考え始めたとき、唐突に信吾が船を止めた。先ほどまでしていたエンジン音が止んで、途端に辺りが静寂に包まれる。
「どうした、塚本? こんなところで船を止めて……」
「悪いな。でも、とにかく前を見てくれよ。もしかすると、助かるかもしれないぜ」
何やら自信ありげな表情で、信吾はにやりと笑って正面の窓を指差した。相変わらず霧で前は見えにくいが、それでもよくよく目を凝らすと、そこには何かの巨大な影が姿を現していた。
「おい、これって……!?」
「ああ、船だ。それも、俺達の船みたいな、クルーズ用の小さいやつじゃない。貨物船か、それとも調査船か……とにかく、でかい船だ」
「でかい船って……動いてないのかよ?」
「みたいだな。とりあえず、外に出て調べてみようぜ」
そう言うが早いか、信吾はそのまま操舵席から離れて外へ出て行った。慌てて後を追い外に出ると、やはり辺りは一面の霧に覆われている。霧の冷たさが再び体温を奪い始め、宗助は白い息を吐いて身体を震わせた。
自分の息の色が、周りの霧の色と混ざってよくわからない。それほどまでに酷い濃霧だったが、辛うじて数メートル先くらいなら見ることができる。
信吾の後に続き、宗助は改めて自分の正面に聳え立つ物体をゆっくりと見上げた。
大きい。自分達の乗っている船など比べ物にならない、巨大な船がそこにあった。見たところ、そう古い船ではないようで、損傷の類も見受けられない。航行はせず完全に停止しているようだが、何かトラブルでもあったのだろうか。
「ねえ、どうしたの?」
宗助と信吾が外に出たことで、他の者達も釣られて次々と外に顔を出した。霧の冷たさにしばし身を震わせた後、やはり目の前の船を見て言葉を失う。もう少し気づくのが遅かったら衝突していたかと思うと、さすがに背中を冷たいものが走るのが止められない。
巨大な船は何も言わず、その場にじっと鎮座している。霧に包まれ、船のエンジン音さえもなくなった海上は、思いの他に静かだった。
「なあ……。ちょっと、あの船に上がってみないか?」
突然、信吾がそんなことを口にした。あまりに唐突なことで、彼の言葉を頭の中で整理するのにしばしの時間が必要だった。
「上がるって……何、言ってんだよ」
「でもよ、宗助。このまま海の上を彷徨ってたって、正直なところ埒があかないぜ。どうせ無線機も使えないんだし、いっそのことあの船に助けを求めるってのも悪くないと思うけどな」
「確かに、そうかもしれないけど……」
それ以上は、自分でも上手く説明できなかった。
信吾の言っていることは、確かに正しい。原因は不明だが、船の無線機は使用できない状態にある。このまま霧の中を彷徨っていても危険であり、かといって救助を呼ぶための手段もない。ならば、目の前の船に助けを求めるという話の流れは、至って自然なものではないか。
だが、それでも宗助は、目の前の船に言い様のない不安を感じてならなかった。それが何がと訊かれれば答えられないのだが、とにかく不安なのだ。
あの船は、どこかおかしい。自分の直感が、そう告げていた。
だいたい、こんな霧の中で、何故あそこまで大きな船が止まっているのか。こちらと同じく霧のせいで航路を見誤ったのかもしれないが、それにしても妙だ。こんな小さなヨットならいざ知らず、あそこまで大きな船であれば、それこそ先ほど徹が口にしていたような最新鋭の設備が整っているはずだろうに。
やはり、あの船に近づくのは危険だ。そう、仲間に告げようと思った宗助だったが、何から説明すればよいのかわからなかった。その間にも信吾は他の仲間達と話を続け、何やら船と連絡を取るための手段を模索している。
「それじゃ、とりあえず向こうの側までこっちの船を近づけよう。もしかすると、向こうから気づいて何かしてくれるかもしれないし」
「そうだな。だったら、俺達は船に近づいたら、外からでかい声で叫ぶからよ」
「悪いな。それじゃ、そっちのことは頼んだぜ」
徹に向かってそれだけ告げて、船内に戻る信吾。船が再び音を立てて動き出し、揺れる波の感覚が足下から伝わってくる。
やがて、向こうの船との距離が縮んでくるにつれて、だんだんとその全容が明らかになってきた。
船の大きさは、ざっと見てもメートルは下らない。客船というわけではなさそうで、そうするとやはり、貨物船か調査船だろうか。漁船にしては、目の前の船は少しばかり大きさが過ぎると宗助は思った。
「ねえ……。あれ、梯子じゃない?」
先の見え難い霧の中、それでも晴美が目敏く見つけて指差した。
なるほど、確かにそこに見えたのは梯子だ。甲板から降ろされた、比較的頑丈そうな縄梯子。これを伝えば、あの船にも上がることができるだろうか。
宗助達を乗せたヨットが、梯子の側で静かに停止した。操舵室から顔を出した信吾の手には、一本のロープが握られていた。
「とりあえず、ここから上がれるか? まあ、念のため先に呼び掛けておいた方がいいような気はするけどさ」
そう言いながらも、信吾は手にしたロープを縄梯子と繋ぎ、手際良くヨットと船を繋いでいる。こうしておけば、とりあえず流される心配はない。船が動き出したときのことを考えると危険だったが、これだけ巨大な船だ。発進の際には、必ず何かの動きがあると思われる。
「おい、塚本……。本当に、船の上に上がるのか?」
「まあな。さっき、中に戻ったときに試してみたけど、やっぱ無線は駄目だ。外からの呼びかけにも答えはないみたいだし、もうこっちから挨拶に行くしかないだろ?」
横で叫んでいる千晶や徹達の姿に目をやって、信吾はさも当然のようにして宗助に答えた。
確かに、信吾の言っていることは正しいかもしれない。無線が使えないのであれば、最後はこちらから乗り込むしかないだろう。最悪、船が何かのトラブルに見舞われて、こちらの合図に気づいていないだけだったとしても、こんな小さなヨットに身を寄せているよりはマシだ。ここまで巨大な船ならば、少なくとも設備はまともな物があるはずだ。
だが、その一方で、宗助はどこか今の流れに奇妙な違和感を捨てきれなかった。
話があまりにも出来過ぎている。晴天の海上が突如として霧に覆われ、無線も急に駄目になった。そうして困っている矢先、目の前に巨大な船舶が現れる。船から応答はないものの、甲板からはご丁寧に縄梯子が一本降ろされている。
まるで、こちらを誘っているようだ。そんな気がしてならない宗助だったが、では誰がと訊かれれば、それはわからない。単なる杞憂である可能性も捨てきれないだけに、確かなことは何も言えなかった。
「それじゃ、ちょっと俺は上まで行ってくるわ。悪いけど、皆はここで少し待っててくれないか?」
「んだよ、てめえ! 一人だけ、抜け駆けして逃げ出す気かよ!!」
梯子に手を掛けた信吾に向かって徹が怒鳴り、真弓が彼を睨んだ。
こんなときでさえ、徹は自分のことしか考えていない。さすがに辟易する宗助だったが、彼自身もまた信吾を一人で行かせるのは不安でもあった。
「なあ、塚本。やっぱり、俺も一緒に行くぜ。何もないとは思うけど……万が一のことがあった場合、一人より二人の方がいいだろうから」
「だったら私も行くわ。こんな場所でヨットの中に置いてきぼりなんて、正直勘弁願いたいし」
宗助の言葉に続き、晴美もまた信吾に同行を願い出た。見ると、他の者達もまた、彼女と同じように考えているようだった。
もう、こうなっては仕方ない。多少、困惑した表情になりつつも、信吾は頭をかきながら同行を許可せざるを得なかった。ここで晴美を放っておいたら、最悪の場合、勝手について来ないとも限らない。
「しょうがないな……。だったら、俺と徹で先に上がるから、女の子達はそれに続いて上がってくれよ。宗助は、悪いけどしんがりの確保を頼む」
「おい、塚本! なんで最後が俺じゃなくてコイツなんだよ!!」
「お前の性格を考えたら、至極当然な結果だと思うけどな。文句があるなら、一緒に来なくても構わないけど……」
「チッ、仕方ねぇ……」
自分の意見を流されて、徹が決まり悪そうに舌打ちした。梯子を上がる順番など、別にどうでもいいではないか。いったい、何に執着しているのかと、宗助は不思議そうに首を傾げた。
そうしている間にも、信吾や徹は次々に縄梯子を上ってゆく。甲板から降ろされているだけの梯子は、ともすれば酷く不安定で揺れやすい。が、今の海上に風はなく、振り落とされる心配はなさそうだった。
足を踏み外さないよう気をつけつつ、最後に宗助も他の仲間に続いて梯子を上がった。先に上がっている者達が足を動かす度に、その動きが梯子を通じて伝わってくる。全員が足並みを揃えて上がらねば、途端にバランスを崩してしまいそうだ。
「ねえ、椎名君。気づいているとは思うけど……」
突然、上から晴美が宗助の名を呼んだ。思わず頭を上げそうになる宗助だったが、次の言葉が耳に届いた途端、そうしなくてよかったと心の底で安堵の溜息を吐いた。
「私達が上がり終わるまで、上を見たら引っ叩くからね!」
そう言えば、晴美や千晶達の服装はスカートだった。梯子を上がっている彼女達の姿を下から見上げれば、その中身が丸見えである。
なるほど、信吾が徹をしんがりにしなかったのは、こういうことか。今まで何も意識していなかったことが却って災いし、宗助は自分の顔が急激に赤くなってゆくのを感じていた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
甲板の上に出ると、そこは相変わらずの静寂に支配されていた。
視界が悪い。当たり前だが、ここもまた一面が真っ白な霧に覆われている。
「なあ……。なんか、誰もいねえみてえだぞ?」
あまりの静けさに、思わず徹がそう口にした。甲板の上は驚くほど静かで、およそ人の気配がしない。いや、甲板だけでなく、下手をすれば船内にも誰もいないのではないのかと。そう思わせるほどに、船の上は不気味に静まり返っていた。
「とりあえず、議論していても始まらないさ。まずは船の中にいる誰かを見つけて、救難信号でも出してもらおうぜ」
「そうね。もしかしたら船の人達も、この霧のせいでドタバタしてるだけかもしれないし」
静寂を他所に、信吾と晴美が話している。彼らは、この船に漂う違和感に気づかないのだろうか。ふと、そんなことを考えた宗助だったが、口に出すことはしなかった。
彼らと自分では感覚が違う。自分はもう、常人と同じ感覚で物を見ることはできない。だからこそ、この船に対しても妙に警戒心を抱いてしまうのではないかと。改めて甲板の上を見回して、そう考えることにした。
見たところ、船自体はそこまで古い物ではなさそうである。漂流船の類とも思えず、むしろ今の今まで普通に航行していたような感じである。
それに、そもそもこれほどの規模の船が行方不明になったのであれば、必ず大きな事件として扱われるはずだ。大規模な捜索も行われるだろうし、いつまでも船を洋上に漂流させておくはずもない。
やはり、自分の考え過ぎだろうか。いや、きっとそうだろう。
横にいる千晶が俯いているのを見て、宗助は自分が妙に神経質になっていたことが少しばかり恥ずかしくなった。
不安なのは、彼女達も同じだ。千晶はあの通りの性格だし、真弓に至ってはこの中で最年少である。それぞれ口には出さないが、こんな状況になれば不安の一つも抱くだろう。
ここは、自分がしっかりしなければならない。徹など当てにはならないし、全ての責任を信吾に押し付けるのも気が引ける。
だんだんと落ち着きを取り戻し、宗助は大きく息を吸い込んで歩き出した。冷たい霧が口の中に入り込んで刺激したが、今となっては目覚まし代わりに調度よかった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
扉を開けると、そこには狭い通路が左右に細長く伸びていた。
客船とは違い、完全に海での仕事のためだけに作られた船である。余計な飾りも、不必要なスペースも必要ない。全てが無駄なく作られた、実に理に適った構造なのだろう。
「えっと……。誰かいませんか~!!」
重たい水密扉が閉じると同時に、信吾が通路の向こう側に向かって叫んだ。
返事はない。相変わらず、船の中には人のいる気配がまるでしない。
「ねえ……。本当に、誰かいるのかな?」
「さあな。元から、船員が少ねえ船なんじゃねえの?」
妹の真弓の心配を他所に、徹はあくまで意に介さない方向で流した。元より細かいことを気にする性格ではなかったので、この状況においても特に不審には思っていないようだった。
「まあ、田宮君の言っていることも、まったくのハズレってわけじゃないかもね。この船、客船なんかとはちょっと違うみたいだし」
「そうだな。船は大きくても、中にいる船員は少なかったなんて話、珍しいことじゃなさそうだし」
晴美の言葉に頷きながら、信吾もそれに同意する。
実際、客船などを考えても、乗客に比べて船を動かすための人間は圧倒的に少ない。この船が何の目的で造られたのかは知らないが、貨物船等の場合、そこまで多くの人員を常に乗船させている必要もないはずである。
「それじゃ、とりあえず人を探そうか。でも、向こうも俺達に会えば驚くだろうから、対応はあくまで紳士的に頼むよ」
横目でちらりと徹を見て、信吾は『紳士的』の部分を強調して言った。こちとら、遭難しかけていたとはいえ、立場はあくまで不法な侵入者。まさかとは思うが……尊大な態度を取って海にでも放り出されたら、それこそ洒落にならない。
徹が勝手なことをしないよう釘を刺し、宗助達は信吾を先頭に歩き出した。相変わらず、船内には人の気配がしない。まるで、この船の中だけ時間が止まってしまっているかのように、酷く静まり返っている。
無人の廊下を歩き続ける内に、宗助の中で先ほどの不安が再び大きく膨らんで来た。
確かにこの船は、貨物船か何かの類なのかもしれない。人の姿が見えないのも、単に船員の数が少ないからなのかもしれない。
だが、それにしても、ここまで静かなのはどうしたことだろう。いくら船員の数が少ないとはいえ、船の中に他人が乗り込んでいるというのに、それに気づいて姿を現さないというのは妙だ。
いや、それ以前に、この船はなぜ霧の中に停泊していたのだろう。霧の中でも航行可能な設備を持っているのだとすれば、それこそ航行を続けている方が自然ではないか。
気持ちが落ち着いてくると同時に、だんだんと頭の中も冷静になってきた。霧に包まれたことや、直感的に感じた奇妙な違和感に振り回されて、ヨットにいたときは随分と頭が混乱していたのだと自分でも思った。
ここは、やはり来てはいけない場所だった。少なくとも、この船の空気は……この霧に包まれた空間は普通ではない。あのとき、無理やりにでも信吾を引き留めて、ヨットで船から離れるべきだったのだ。
そう、宗助が思ったとき、信吾が突然歩みを止めた。
「おい……。なんだ、この扉?」
全員の視線が、一斉に正面へと向けられる。そこにあったのは、何の変哲もない二枚の扉。観音開きになっているらしく、鍵などもかかっている様子はない。
どうやらこの先は、少しばかり開けた場所になっていそうだ。このまま狭い廊下を歩き続けても仕方がないと、信吾は躊躇いなく扉に手をかけた。
見た目からして重そうな扉が、音も立てずに開かれる。外見に反し、そこまで重たくはなかったようだ。そっと中へ足を踏み入れると、果たしてそこには長いテーブルの上に数名分の食事が置かれているのが目に入った。
「すみません! 誰か、いませんか!!」
念のため呼んでみたが、相変わらず何の返事もない。しかし、食事が置かれているということは、この船には誰かがいるということだろうか。
信吾が部屋に入ったのに続き、宗助もまた同じ部屋へと足を踏み入れる。どうやらこの部屋は食堂らしく、奥には厨房へと続いている扉も見える。
「なんだ、こりゃ? 俺達のために、わざわざ飯を用意してくれたってか?」
冗談めいた口調で徹が言ったが、誰も笑わなかった。隣で真弓が兄を睨み、それ以上は誰も突っ込むことをしない。はっきりいって、正直今は食事どころの気分ではない。
「食事、か……。どうやら、誰かがいることは確かみたいだね。このコーヒーだって、さっき淹れたばっかりみたいだし」
ステンレス製のコップに軽く触れ、信吾が温度を確かめていった。そうしなくても、コップから微かに湯気が立ち昇っているのは見て取れる。皿の上に盛りつけられたトーストやベーコン等も、今しがた調理を終えて並べられたばかりのようだった。
「でも……何か、変ですよね? この船の人達……ご飯も食べないで、何処に行ったんでしょうか?」
皿の上の料理を改めて眺め、真弓が訝しげに首を傾げる。その言葉に、宗助は自分の中で言い様のない不安が膨らんでゆくのに気がついた。
船の中で人に出会わなかったのも、出来たての食事が置かれたままになっているのも、説明しようと思えば説明できる。乗員の少ない作業船。霧のせいで航路を見失い、慌てて席を離れた船員達。合理的な解釈ならば、確かにいくらでもできそうだ。
では、この目の前に広がる光景に対して感じる、凄まじいまでの違和感はなんだろう。何かが不自然で、何かが狂っていて……しかし、それが何かと尋ねられれば、明確に答えられないのがもどかしい。
「あの……。ちょっと……」
突然、今まで黙っていた千晶が口を開いた。その声はか細く、ともすれば直ぐに消えてしまいそうなものだったが、静寂に支配された船内では酷く耳に響いて聞こえた。
「えっと……その……」
「なによ、千晶。あんた、言いたいことがあるなら、はっきり言いなさいよ」
「うん……。実は……私、前に本か何かで……こういう船の話を読んだんです……」
「船の話? なんなのよ、それ?」
ここにきて、いきなり何を話し出すのだろう。晴美だけでなく、その場にいた全員が千晶の話に耳を傾けていた。徹などは明らかに面倒臭そうな表情をしていたが、宗助や真弓は真剣だった。
「皆さん……メアリー・セレスト号の話って、聞いたことありますか?」
「メアリーなんとか? それも船の名前なの?」
「うん……。昔、太平洋かどこかで発見された……幽霊船の話」
幽霊船。その言葉が千晶の口から出た途端、周囲から気抜けした溜息が洩れた。もっとも、宗助だけは何も言わず、ただ千晶の話に耳を傾け続けてはいたが。
「千晶、あんたねぇ……。まさか、この船が幽霊船だとでも言いたいわけ? オンボロの海賊船とかだったらまだしも、こんな綺麗な幽霊船があるわけないでしょうが!!」
「で、でも、晴美ちゃん……。メアリー・セレスト号も、発見されたときは綺麗なままだったって……。それに……今みたいに、誰もいないはずの船の食堂に、用意されたばっかりの朝食が湯気を立てていたって……」
「ハッ、馬鹿馬鹿しい! そんなの、どうせ作り話でしょ? だったら、この食事は幽霊が用意したとでも言いたいわけ? そういうの、マジで下らないんだけど?」
この手の話は信じない。そう言わんばかりの口調で、晴美は千晶の言葉を否定した。晴美ほどではないにしろ、宗助以外の面々は、その誰もが怪訝そうな顔をしている。確かに奇妙な点はあるが、幽霊船とはいくらなんでも飛躍が過ぎると言ったところか。
「なるほど、幽霊船ね。まあ、その話だったら俺も聞いたことはあるよ。もっとも、幽霊船っていうよりは、神隠しの話って言った方が正しいのかもしれないけど」
晴美の言葉に続け、信吾がさらりと流すようにして口にする。必ずしもこの手の話が得意なわけではなかったが、信吾もメアリー・セレスト号の話であれば聞いたことはある。
メアリー・セレスト号。1870年代に、ポルトガル沖で無人のまま漂流していたのを発見された船である。発見された当初、中には誰の姿も発見できず、船全体がびっしょりと濡れていたという。積み荷は主にアルコールだったが、これはまったくの手つかずで、海賊などに襲われたわけでもなさそうだった。
これだけならば、単に遺棄された船舶が洋上を漂っていたというだけで終わっただろう。しかし、後に語られた話によれば、このメアリー・セレスト号においては、数々の奇妙な点が存在していたという。
例えば食事。食べかけの食事がそのまま残され、食堂の様子はあたかも先ほどまで船員が存在していたかのようであったらしい。救命ボートも同様で、こちらも綺麗に残されていた。また、六か月分の食料も無事で、空腹によって反乱が起きたとも考えにくい。
その一方で、手すりに三カ所の不可解な傷跡が残されていたり、船長室のベッドの下から血まみれの刀剣が発見されたりしたという。船内には血痕も残されており、航海日誌には『我が妻マリーが……』という謎の走り書きがあったなど、他にも奇妙な噂には枚挙に暇がない。
もっとも、現在ではその話のほとんどが、後に作られた捏造であったと発覚している。実際には作り立ての朝食などなく、救命ボートもしっかり無くなっていたのだとか。おまけに船長のベッド下から発見された刀剣というのは、実は単なる赤錆だったというオチまでついている。
結局のところ、メアリー・セレスト号の話というのは嘘なのだ。漂流船の話を聞いた当時の誰かが話を面白おかしく捏造し、それが人伝に語られるにつれて怪談めいた話になったというのが真相か。どちらにせよ、下らない都市伝説の域を出ない話ではある。千晶が不安になるのはもっともだが、彼女の心配は単なる取り越し苦労に過ぎない。
「……と、まあそういうわけで、メアリー・セレスト号の話ってやつは創作に過ぎないんだよ。確かに状況は似ているかもしれないけど、現実とフィクションを一緒にするのは良くないと思うぜ」
だから、気にしていても仕方がない。それだけ告げて、信吾は改めて他の者達の顔を見回した。
相変わらず千晶は不安そうな顔をしていたが、それ以外の者達は、随分と気が楽になっているようだった。それはそうだろう。不安が増したところに幽霊話を持ち出された矢先に、その種明かしをされたのだから。
幽霊船など、所詮は誰かの見間違いに過ぎない。そう思っている信吾には、宗助が未だ険しい表情を崩さないことに気がつかなかった。それは晴美も同様で、食卓に並べられているソーセージを一つ摘まむと、そのまま何も言わずに口の中に放り込んだ。
「えっ……! ちょ、ちょっと、晴美ちゃん!?」
「なによ。別に、ちょっとくらい頂戴したって構わないじゃない。どうせ、放ったらかしにされていた食事なんだし。後で何か言われたら、皿でも洗って返せばいいんじゃない?」
突然の摘まみ食いに驚く千晶を他所に、晴美は何ら悪びれずに言ってのけた。なんというか、随分と神経の太い人間である。これ以上は何を言っても無駄だと知り、千晶も渋々口を閉じた。
「えっと……とにかくだ。ここで議論していても始まらないよ。ここは一つ、手分けして船の中を探すってのはどうかな? 誰かに会ったり、何か役に立つ物を見つけたりしたら、またこの食堂で合流ってことで」
「賛成だ。正直、ぞろぞろ連れだって歩くのは好きじゃないんでな。俺は俺で、好きにやらせてもらうぜ」
待ち兼ねたようにして腕を伸ばし、徹が欠伸交じりに答える。その目は早速千晶の方へ向けられており、何やら色々と品定めするように彼女のことを見つめている。
自分に向けられた邪な視線。それに気づいたのか、咄嗟に千晶が晴美の後ろに隠れた。そんな彼女の変化を、宗助と信吾が見逃すはずもない。今度こそ物申してやろうと意気込む宗助だったが、それより早く、再び信吾が口を開いて何かを言おうとした徹の言葉を遮った。
「だったら、お前は俺と一緒な。千晶ちゃんは、晴美ちゃんと一緒の方が気楽でしょ? 宗助は……悪いけど、真弓ちゃんのこと頼む」
「なっ……ちょっと待てよ! こういうときは、男女一組ずつになるってのがお約束じゃねえのかよ!?」
「悪いけど、お前に誰かを任せたら、そっちの方が危険そうだからね。それとも、妹の面倒見るっていうんなら、真弓ちゃんに一緒に着いて行ってもらうか?」
思い通りの展開にならないことに腹を立てる徹を、信吾はにやりと笑っていなして見せた。さすがは海千山千の遊び人を自称するだけのことはある。こういう手合の扱いも、彼にとっては手慣れたものということか。
結局、信吾と徹、晴美と千晶、それに宗助と真弓のペアで船内を探索するということで話がまとまった。何やら妙な展開になってきたと思う宗助だったが、ここで自分だけ逃げ出すわけにもいかなかった。
この船の中に未だ漂う奇妙な感じはなんだろう。せめてそれを突き止めるまでは、一人だけ逃げ出すというのも気が引ける。
だが、それでも、やはり危険なときは迷わず逃げよう。事は既に、自分だけの問題ではない。
隣にいる真弓の姿を改めて見やり、宗助は心の中で呟いた。あんなやつの妹であっても、彼女は決して危険に晒すまいと。何かあったときは躊躇わず、彼女を逃がすことを優先しようと。