~ 寅ノ刻 魔霧 ~
翌日は、海で遊ぶには絶好の日和だった。
雲一つない、青い空。クルージングをするにはもってこいの天気だ。大きく息を吸い込んで、宗助は潮風の混じった海の空気を堪能する。
昨日までは、海で遊ぶことに多少の不安が残っていた。が、やはりどこかで、楽しみにしていた部分もあったのだろうか。広がる海と空を眺めていると、今まで自分は何を不安に思っていたのかと不思議な気持ちになる。
もっとも、それは単に天気のせいだけでないことを、宗助はちゃんと知っている。首から紐で下げられた、紺色の袋に入った御守。昨日の晩、美紅から手渡された物だ。
どうしても不安なら、これを持って行くといい。そう言って、美紅は御守を宗助に手渡した。自分の代わりに、きっと守ってくれるからと。白く細長い紐を取り付けて、彼の首にそっとかけて。
意外なことに、この御守を作ったのは美紅ではなかった。なんでも朱鷺子が作った物らしく、出発する前にこっそりと受け取っていたのだとか。
初め、このことを美紅から聞いたとき、宗助は怪訝そうな顔をして美紅に尋ねた。なぜ、朱鷺子がこんな物を自分にくれるのかと。その問い掛けに、美紅はただ笑って返すだけだった。
既に力を封印しているとはいえ、朱鷺子もまた美紅と同じ外法使いの血を引く者だ。使役するまでには至らないにしても、彼女も美紅と同様に、自身の影に己の犬神を宿しているという。
そんな朱鷺子が作った御守であれば、確かに効果はあるのだろう。だが、そんな御守を、なぜ今になって彼女が自分に渡すよう美紅に言ってきたのかわからない。外法使いとしての仕事から身を引いている以上、朱鷺子は霊的な存在に関わることを控えている節さえあったというのに。
いったい、彼女は何を考えているのだろう。色々と気になることはあったが、宗助はあえて今は考えるのを止めた。
理由はどうあれ、美紅や朱鷺子が心配して渡してくれた御守だ。未だ自分の力を制御できず、時に悪霊の類を引き寄せてしまう宗助に、それらの霊的な存在から身を守るための魔除けとして。ならば、その好意を無下にしてしまうというのも、いささか無粋な物がある。
一瞬、この御守さえあれば、自分は修業などせずとも悪霊から身を守れるのではないかと思った。が、四六時中、肌身離さずに御守を持って生活するなど、およそ現実的ではない。御守を失えば悪霊に憑かれる危険があるのなら、おちおちと風呂にも入れない。
それに、他人の作った物に頼って自らの鍛錬を怠ることは、美紅は嫌うだろうと思っていた。
生きることは、戦うこと。陽明館事件の最後に、美紅が言った言葉だ。未だ実感はないものの、その言葉の意味はなんとなくわかる。少なくとも、自分が己の身に降り注ぐ霊的な災厄と戦わねばならないということくらいは。
今回、朱鷺子の御守を美紅が宗助に授けたのは、特例中の特例だろう。修業の終わらぬ宗助が、せめて今だけは友人と気兼ねなしに遊べるようにと。そんな気遣いもあってのことだろうと思っていた。
同伴してもらったばかりでなく、こんな気遣いまでされてしまうとは。美紅の気持ちを考えると、ここは難しいことなど考えず、友人と楽しい一時を過ごした方が良さそうだ。折角、ここまでしてもらったのに、変に尻込みするのは美紅や朱鷺子にも失礼だ。
そう思い、宗助が波止場に向かって顔を向けたところで、そこにいる数人の男女の姿が目に留まった。一番左、ヨットに最も近い場所にいるのは信吾だ。その隣にいるのは、千晶と晴美だろう。昨日とは服装も髪型も変わっていたので、一瞬気がつかなかった。
「おっ、宗助も来たな。早くこっち来いよ!」
待ちきれないといった様子で、信吾が宗助に手を振っている。だが、そんな彼の言葉に返事をするよりも先に、宗助は千晶達の後ろにいる男の姿を見て顔をしかめた。
(あいつは……)
そこにいたのは徹だった。昨日の同窓会では、気の弱そうな連中に軒並み絡み酒を仕掛けていたのが記憶に新しい。ガサツで強引で、おまけに場の空気も読めない困り者。なぜ、信吾はこんなやつを誘ったのか。いくら人当たりが良いとはいえ、声をかける相手を選べと思ってしまう。
それとも、まさかとは思うが、これが信吾の言っていたサプライズなのだろうか。だとすれば、これはとんだドッキリだ。徹が一緒だとわかっていれば、最初から参加などしなかった。
「おい、信吾……。あれ、どういう意味だよ」
何食わぬ顔で信吾に近づき、宗助はそっと耳打ちする。
「仕方ないだろ、それは。お前を驚かそうと思ってサプライズ仕掛けようとしたら……とんだオマケが着いてきちまったんだからよ」
宗助の言葉に、信吾もまた小声で耳打ちした。どうやら信吾にとっても、徹の参加は予定になかったことらしい。二人して冷たい視線を徹に送るが、肝心の徹は完全に女性陣を口説くのに夢中になっている。晴美や千晶に声をかけ、隙あらば肩でも抱こうかと必死だ。
相変わらず、見ていて痛々しいやつだと宗助は思った。徹の強引なアプローチに、千晶は完全に引いている。晴美が間に入ることで阻まれているが、もしも彼女一人だったら、どんな目に遭わされているかわからない。
なんとも嫌な光景を見せつけられて、宗助は思わず船の方に顔を背けた。すると、揺れる船の中から顔を覗かせている、見慣れぬ少女と目が合った。
「あっ……! お久しぶりです、宗助さん!!」
いきなり自分の名を呼ばれ、宗助はしばし呆然として少女を見る。いったい、彼女は誰だったのか。思い出そうにも、頭の中に靄がかかったようになって上手く思い出せない。
「嫌だなぁ、忘れちゃったんですか? 私、真弓ですよ。ほら、中学校の美術部で一緒だった」
「えっ……? もしかして……あの、真弓ちゃんか!?」
途端に繋がるかつての記憶。中学時代、宗助の所属していた美術部で、一緒に制作に取り組んだこともある少女だ。当時とは随分と雰囲気が違っていたので、一瞬、誰だかまったく思い出せなかった。
「どうだ、驚いただろ。真弓ちゃん……随分と綺麗になったんじゃねえか?」
小声で耳打ちしつつ、信吾が宗助の脇腹を小突く。なるほど、彼の言っていたサプライズとはこのことか。確かにこれは、宗助も十分に驚かされた。
「実はな、俺がヨットを手に入れてから、最初に声をかけたのは真弓ちゃんだったんだよ。初めは彼女だけ誘うつもりだったんだけど……運悪く、あの空気読めねえ兄貴に嗅ぎつけられてな……」
晴美を口説こうと必死になっている徹のことを、信吾は苦虫を噛み潰したような顔をして指差した。
およそ信じられないことではあるが、真弓は徹の妹だ。兄妹だというのに、その性格はまるで似ていない。ガサツで粗暴な徹に比べると、真弓は気立ても良く周囲への気遣いも忘れない。本当に同じ親の腹から生まれて来たのかと、宗助自身、不思議に思ったことが何度もある。
「なるほどな。真弓ちゃんを誘おうとして、兄貴のオマケがついたってわけか。確かに、そいつは頭が痛いな……」
「だろ? しかも徹のやつ、他に女がいないと面白くねえとか言い出しやがってさ。仕方なく、残りの定員は女で埋めなきゃならなくなって、晴美や千晶を誘ったんだよ」
何やら随分と疲弊した様子で、信吾は溜息と共に宗助に言った。
信吾としても、本当は気心の知れた仲間達だけで、楽しい一時を過ごしたかったのだろう。しかし、あの徹が乱入してきては、その楽しさも半減してしまう。せめて、真弓が船を降りると言い出さなかったことが不幸中の幸いか。
「あの……二人とも、さっきから何を話しているんですか?」
ヨットの上で、真弓が宗助と信吾に怪訝そうな顔を向ける。徹に感づかれてはまずいと、二人は慌てて表情を戻し、そのままヨットに乗り込んだ。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
男が逃げていた。
狭く、薄暗い通路の中を、男は息を荒げて駆け抜ける。後ろを振り向いてはいけないと、ただそれだけを考えて。
ここは、どこかの船内だろうか。通路の脇には無数のパイプが張り巡らされ、時折、バルブのような場所から水滴が滴り落ちていた。壁は所々が赤錆に覆われて、それは壁を這うパイプの一部さえも浸食している。
「あっ……!」
足に何かの引っ掛かるような感じがして、男は頭から床に転がった。つま先と膝が痛い。冷たい床に打ちつけられた身体にも、じんわりと痛みが広がってゆく。
男が身体を起こすと、そこには鉄パイプのような物が転がっていた。なるほど、これに躓いたのか。自分の不注意を呪いながらも、男は鉄パイプを握ってゆっくりと立ち上がる。
絶体絶命の状況でも、人間、武器を手に取ると気持ちが大きくなるのだろうか。男は呼吸を整えつつ、自分を追って来た相手を待ち構える。
ずるっ、ずるっ、という引きずるような音が、徐々に男の方へと近づいてきた。鉄パイプを刀のように構え、男の顔に緊張が走る。
こんなところで死んでたまるか。こうなれば、最後まで戦ってやる。そう、男が覚悟を決めたとき、それは静かに男の前へと姿を現した。
「来やがったな、化け物……」
そこにいたのは、実に奇妙な男だった。いや、男なのか女なのか、その様子からは窺い知ることはできない。なぜなら、相手は麻袋のような物をすっぽりと被り、顔の全てを覆い隠していたのだから。
麻袋の怪人が、獲物を前にして足を止める。あんな袋を被っていても、目は見えるのだろうか。それとも、人間の知らない不可思議な力が働いているのか。そこまでは、男にもわからない。
だが、目の前に立つ怪人が、自分の命を狙っているということ。それだけは、男も十分に理解していた。怪人の手にしている古ぼけた鉈が、暗闇の中で鈍く輝く。
「でやあっ!!」
先手必勝。相手が動き出すよりも先に、男は鉄パイプを振り上げて怪人に襲いかかった。殺らねば殺られる。男の中の直感が、本能的にそう告げていた。
生物を潰したような、ぐにゃりとした感触。男の顔に嫌悪の色が浮かび、怪人が小刻みに身体を震わせる。振り下ろされた鉄パイプが頭部に直撃し、麻袋の中身が醜く陥没している。
だが、それなのに……およそ、生きられるはずがないのに、怪人は頭にめり込んだ鉄パイプへとゆっくり手を伸ばした。そのままパイプを握り締めると、強引に頭から引き剥がして放り投げる。
パイプを放られた反動で、男の身体が仰け反った。そこを逃さず、怪人は空いている方の手で男の首筋をがっしりとつかむ。不快な粘性の強い液体に覆われた指が、ぎりぎりと男の首を締め上げる。
「あ……が……」
声を出そうにも、まともな言葉が出なかった。あまりに強烈な力に、このまま窒息してしまいそうだ。
片腕で身体を宙に持ち上げられ、男の足がバタバタと揺れる。死にかけの魚のように口をパクパクと開けて動かすが、怪人の力が弱まるはずもない。
気がつくと、怪人の頭が醜い男を立てて再生を始めていた。麻袋の下の陥没した頭部。それが徐々に盛り上がり、瞬く間に潰される前の姿に戻ったのだ。
麻袋で顔は見えないが、男には怪人が袋の中でにやりと笑ったような気がした。途端に走る、物凄い悪寒。まずい。このままでは、確実に殺される。
しかし、果たして男が思った通りに、怪人は彼の首を握り潰すことなく放り投げた。狭い廊下を振り回すようにして投げ飛ばされ、背中に軽い衝撃が走る。壁を走るパイプにぶつかったらしい。
「ぐぇ……」
潰されたヒキガエルのような、無様な呻き声を上げて男が床に倒れた。先ほどの一撃で喉を潰されてしまったのだろうか。叫ぼうにも、上手く声を出すことができない。その上、首を酷く絞められたせいで、未だに身体が痺れている。
とにかく、今は逃げなくては。あの怪物に力で勝とうなど、端から無理な話だったのだ。
そう、男が思った矢先に、彼の足首に猛烈な痛みが走った。たまらず悲鳴を上げようとするが、潰された喉では、それも叶わない。掠れた声が微かに漏れるだけで、直ぐに滴る水音によってかき消された。
男の足から、怪人がゆっくりと鉈を抜く。完全に斬り落としてはいないようだが、アキレス腱が一撃の下に切断されている。
再び怪人が鉈を振り上げ、男の足首に叩きつけた。瞬間、男の身体が激しく痙攣を起こし、流れ出る鮮血が辺りを濡らす。
これで、もう歩くことさえできなくなった。諦めにも似た感情が、男の脳内を物凄い速さで埋め尽くしてゆく。ああ、自分はここで死ぬのだと。激しい痛みに感覚を奪われつつも、男は朦朧とした意識の中で考えた。
動けなくなった男の身体に、怪人がゆっくりと手を伸ばす。赤い血で濡れた右足をつかみ、怪人は男の身体をずるずると引きずりながら去って行く。
やがて、その姿が暗闇の奥に消えたところで、通路には再び静寂が訪れた。時折響く、水の音。古ぼけたパイプの這いまわる壁の下には、男の足から流れ出た血が、まるで道標のように赤い筋を作っていた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
外海に出てしまうと、爽やかな潮風が宗助達を迎え入れてくれた。
「わぁ、気持ちいい!!」
ヨットから身を乗り出して、晴美が叫んでいる。そんなにしていると、今に船から落ちるのではないか。隣で千晶がハラハラした様子で見ているが、晴美はまったく気にしていない。
「あら? それ、何ですか?」
宗助の首から下がっている、紺色の御守袋。それを目敏く真弓が見つけ、不思議そうな顔をして指差した。
「ああ、これか。こいつは、俺の知り合いから貰った御守だよ。ちょっと、心配性な人だから……海で事故に遭わないようにって、持たせてくれたんだ」
「ふぅん……。でも、宗助さんって、そういうの気にする人だったんですね。なんか意外です」
「そうかい? もしかして、幻滅した?」
「そ、そんなことないですよ! ただ……私も、占いとか、そういうの気にしますから……。もしかしたら、話が合うかなって……」
途中、言葉を噛みながらも、真弓は慌てて宗助に告げる。もしかすると、要らぬ気を使わせてしまったか。これ以上は御守の話をするのは止めようと、宗助は一度、話を切った。
だいたい、先ほどの自分の言葉とて、全てが真実なわけではない。心配性なのは、他でもない自分自身だ。海に対するトラウマから、未だにあの日のことを夢に見る。海を訪れる度に襲ってくる、奇妙な渇きと飢えにも似た感覚。それに耐えられず、宗助は海という場所から……己の中にある業から逃げ出していた。
だが、どんなに逃げ出しても、業は決して消えることはない。ならば、向き合い立ち向かうことこそが、美紅の言う『生きる』ことに繋がるのではないかと。そう思って、今まで彼女の下で訓練を積んで来た。
もっとも、今の自分では己の中に潜む魔性の力を完全に制御するには至らない。だからこそ、美紅は同伴を申し出てくれたし、朱鷺子は御守を授けてくれた。彼女達の好意に甘え続けるわけにもいかないが、今の宗助には他に普通の世界に戻るための術がない。
もしかすると、自分はこのまま決して日常に戻ることができないのではなかろうか。そんな不安も確かにある。こうして、かつての友人達と一緒に語らうことさえも、いずれは叶わぬことになるのではないのかと。
そう、宗助が思ったところで、彼の目の前で御守袋がふわりと持ち上がった。
「はぁ? な~に、辛気臭いもんつけてんだよ、お前?」
見ると、徹が何やら怪訝そうな顔をして、宗助の首にある御守をひったくった後だった。頼みの綱が身体から離れ、途端に物凄い不安が押し寄せる。まるで、今まで押し止められていた黒い何かが、一斉に自分の心の中に入って来るような気がしてならない。
「おい、返せよ!」
自分でも、驚くほどに大きな声だった。
一瞬、そこにいた者達の時間が止まり、全ての視線が宗助の方へと向けられた。
「ちょっと、お兄ちゃん! 宗助さん、困ってるじゃない! 早く返してあげなさいよ!!」
真弓の声に、他の者達が一斉に我に返る。まだ、顔に幼さの残る彼女だったが、その表情は至って真剣そのものだった。それこそ、気魄だけなら粗暴な兄の徹でさえ、そのまま押し負かしてしまいそうなほどに。
「んだよ、うっせーな。ちょっと、借りただけじゃんかよ」
いかにも面倒臭いという表情を浮かべ、徹は真弓から顔を背けた。口では妹に敵わないと知っているのか。それとも、単に厄介事を嫌っているだけなのか。もっとも、その厄介事を引き起こしているのは、他でもない徹自身なのだが。
「ったく、どうせ首から下げんなら、銀のアクセサリーなんかにしとけよな。で……こいつの中身、何なんだ? さては、女の写真とかか?」
妹に背を向けたまま、徹が御守袋の紐に手をかけた。それを見た瞬間、宗助の中で何かが切れた。
御守は、袋を開けてしまうと効果を失ってしまうと聞く。しかも、あの御守はその辺の神社で売っているような土産物とは違う。自分のことを心配して、朱鷺子が作り、美紅が手渡してくれた物。今の自分を理解してくれる、数少ない人間の手から渡された物。
そんな御守が、今、正に蹂躙されようとしている。大袈裟な表現だと思われるかもしれないが、宗助にとっては一大事だ。人の想いが込められた御守。それを踏みにじるような行いを、黙って見過ごすほど御人好しではない。
「お前……いい加減にしろよ!!」
普段の温厚な姿は、既に消えていた。柄にもなく本気で徹につかみかかり、宗助は御守を奪い返そうと揉み合った。
「ちょっと、二人とも! そんなに暴れたら、船から落ちるじゃないの!!」
さすがに、これは拙いと思ったのだろう。慌てて晴美が止めに入ったが、それでも宗助には聞こえていないようだった。徹も徹で、こうなると意地があるのだろうか。さっさと御守を返せば済む話なのに、執拗に返すのを拒み、宗助に抗った。
このままでは、本当に取っ組み合いの喧嘩になるのではないか。誰もが不穏な空気を感じたその時、大きな波にぶつかり船が揺れた。
「あっ……!?」
気がついたときには、既に遅かった。
船が揺れた拍子に、徹の手から御守袋が離れて宙を舞った。袋はそのまま海へと落ち、直ぐに波に飲まれて見えなくなる。慌てて手を伸ばす宗助だったが、紺色の袋は既に海の中へと消えた後だった。
「お、お前が悪いんだぜ、宗助! 下らねえ御守如きで、ムキになりやがってよ!!」
まだ、誰にも責められていないというのに、徹が勝手に宗助に向かって叫んだ。途端に向けられる冷たい視線。晴美も千晶も、それに真弓も、明らかに軽蔑した眼差しを徹に向けている。
「大丈夫ですか、宗助さん? 本当……ごめんなさい」
徹に代わり宗助に謝る真弓だったが、その言葉は宗助の耳には届いていなかった。
御守を失ったことで、再び蠢き出した不安な想い。自分はここにいてはいけない。何か、目に見えない恐ろしい存在に、そのまま引き込まれてしまいそうな錯覚に陥りそうになる。
揺れる波間が、自分を暗黒の世界に誘っているような気がしてきた。興奮したことで、少しばかり酔ったのだろうか。たまらず頭を抑え、宗助は船内の小部屋に戻って行く。途中、何やら真弓が後ろで叫んでいたが、やはり宗助は彼女の言葉に耳を傾ける気にはなれなかった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
朱鷺子が襖を開けると、そこには机に向かって勉強する皐月の姿があった。
「あら、感心ね。ちょっと、休憩にしましょうか?」
お盆の上に切ったスイカを乗せて、朱鷺子がそっと後ろから声をかける。皐月は「うん」とだけ返事をしたが、何やら机に向かって作るのに必死だった。
「皐月ちゃん、何を作っているのかしら? 良かったら、見せてくれる?」
そう言いながらも、朱鷺子は肩越しに皐月の手元にあるノートを覗き込んだ。途端に目に入る、色とりどりの草花。どうやら押し花を作っているらしく、花の種類や採集場所を賢明にノートに書き込んでいる。
「これ……もしかして、皐月ちゃんの自由研究?」
「そうだよ。夏休みが終わったら、学校に持って行くんだ」
「へぇ……。それにしても、上手ねえ。お父さんに似て、手先が器用なのね、皐月ちゃんは」
お世辞ではなく、それは朱鷺子の本心だった。
皐月の父は、退魔具師。魔を祓い、滅するための道具を作り、それらを美紅のような人間に売りさばくことを生業としている。
そんな父に倣ってか、皐月もまた手先は随分と器用だった。彼女の作っている押し花の出来は、小学生にしてはなかなかの物だ。適当に市販品の工作キットを買って宿題を済ませる子どもも多いと聞く中で、女の子の自由研究としては、なかなかの物だろう。
「よしっ! これで、後は読書感想文を書けば宿題は終わりかな」
どうやら、最後のページを書き終えたらしく、皐月が大きく腕を伸ばして言った。それを見た朱鷺子は優しく微笑むと、改めて皐月に盆の上のスイカを勧めた。
「スイカ、ぬるくならない内に食べた方がいいわよ。ここに置いておくけど……食べ終わったら、お盆だけ戻してね」
「はーい、わかりました!」
そう、元気そうに答えるや否や、皐月は盆の上にあった比較的小ぶりなスイカに手を出した。
口の中に広がる、爽やかな甘さと程良い冷たさ。やはり、夏はスイカに限る。言葉に出さずとも、皐月の顔がそれを朱鷺子にうったえている。
ここは一つ、自分も皐月と一緒にスイカを堪能させてもらおうか。そう、朱鷺子が思った瞬間、彼女の首から何かが滑り落ちるような音がした。
「あっ……!」
余程、慌てていたのだろう。両手で首筋を押さえたことで、スイカを乗せた盆が手から転がり落ちた。これには皐月も驚いて、慌てて無事なスイカを拾い上げる。
だが、そんな皐月の仕草を他所に、朱鷺子が拾い上げたのは一枚の御守袋だった。宗助が出発する前に、美紅を通じて彼に渡すよう頼んでおいた物と同じ物だ。違うのは色だけで、こちらは赤を基調としたシンプルな柄になっている。
紐の結び方が弱かったのかと思い、朱鷺子は改めて御守を見た。が、そこから伸びる紐に結び目が残っていたことで、一瞬にして彼女の顔に緊張の色が走った。
(これは……)
袋から伸びた紐が、まるでハサミで切られたかのように、ぷっつりと切れていたのだ。そこまで古い紐を使っていたわけではない。紐が切れた理由は、朱鷺子にもわからない。
いや、本当は彼女にはわかっていた。ただ、それを認めたくなかっただけだ。
宗助に渡した御守は、彼女の持っている御守の姉妹品。強い魔除けの力を持つと同時に、今の宗助と朱鷺子を繋ぐ唯一の物でもある。
そんな御守の紐が、何の前触れも無しに唐突に切れた。確信があったわけではないが、これは何か嫌なことの前触れではないか。朱鷺子には、そう思えて仕方がなかった。
(宗助さん……。どうか……無事で……)
ぎゅっと御守を握り締め、祈るようにして心の中で呟く朱鷺子。だが、その言葉に答えてくれる者は、今の彼女の周りには誰一人としていなかった。