~ 丑ノ刻 妖誘 ~
荒波の太平洋。晴天の空の下を、一艘の漁船が走っていた。
船を駆るのは、その誰もが卓越した経験を持つ漁師達。皆、随分と歳を食っていたが、まだまだ現役で仕事ができるだけの腕を持っている。
「いい風だ……。それに、潮の流れも悪くねぇ」
口に咥えた煙草を指で摘まみ、漁師の一人が呟いた。
煙草に火は着けていない。船内が禁煙であるためだ。男が咥えている煙草は、既に煙の上がらなくなったシケモクだ。
「最近は、魚の獲れる量も減ったからなぁ。今日みたいな日は、久々に良い流れが来るといいんだが……」
漁に使う道具を整備しつつ、もう一人の漁師が言った。こちらは少し痩せ気味で、頭には手拭を鉢巻のようにして巻いている。
彼が手にしているのは、これは投網だろうか。破れ目がないか、最後まで確認を怠らない。出向前に準備を整えているとはいえ、常に不足の事態に備えるのは男達の日課だった。
「しかし、本当に最近は魚が獲れなくなったな。俺の爺さんが現役で働いてた頃にゃ、旬の季節になれば大量は間違いなしだったって聞くぞ」
「ぼやくなよ。そりゃ、戦前の話だろ? こんだけ日本がでっかい国になっちまったら、昔と違って魚を食う量もケタ違いになんのよ。魚の方が減ってくのは、そりゃ、当たり前じゃねえか」
「そうは言ってもなぁ……。こちとら、この道三十年で飯食ってんだ。これ以上、魚が獲れなくなったりしたら、こっちは飯の食い上げだぜ」
「確かに、そいつは言えてるな。いっそのこと俺達が魚を獲るみたいに、人間を獲って食ってくれるような連中がいたら、バランス取れるんじゃねえのか?」
「おいおい、縁起でもないこと言うんじゃねえよ。どんな化け物か知らねえが、人間様を獲って食うようなやつが野放しにされてたら、おちおち外も歩けねえじゃねえか」
揺れる船の上で、男達は他愛もない会話を続けてゆく。ここ最近、漁が思うようにゆかないこと。生まれてこの方、漁師の仕事しか知らない男達にとって、魚が減るのは正に死活問題だった。
日本の魚は、年々姿を減らしている。いや、日本だけでなく、世界でも漁獲量は年々落ちている。
国際情勢など詳しくない男達であったが、漁の話となれば別だ。魚が獲れなくなるということは、それは即ち自分の仕事が無くなることに繋がってしまう。この歳で漁師を辞めたとて、果たして自分達を雇ってくれる場所があるのかどうか。それは、彼ら自身が一番良く知っている。
世界の魚が減っているのは、やはり消費量が上がったことが一番の問題だったようだ。限りある水産資源を守れという声は、外国では徐々に大きくなっていると聞く。中には過激な活動を続ける環境保護団体もおり、水面下で行動を開始しているというから洒落にならない。
だが、それでも男達は、海に出て仕事をする以外の選択が見つけられなかった。
確かに水産資源を守ることも重要だ。しかし、ここで漁を辞めてしまったら、自分達の生活はどうなるのか。何の保障もされないまま、仕事を奪われた漁師達はどうなってしまうのか。
結局、自分達の生活は自分達で守るしかないのだ。明日の地球のため、今を生きる人間に死ねという。そんな者達に、果たして地球の未来を語る資格があるものだろうか。
難しい話は、男達にもわからない。ただ、彼らにとって重要なことは、地球の明日ではなく自分達の家族を守ることの方だった。こちとら、生活がかかっている。そのためには、最後まで誇りを持って自分の仕事を務めねばならない。確実なのは、それだけだ。
「おい……ところでよ」
煙草の吸殻を携帯式の灰皿に押し込み、海を眺めていた男は投網を手にしていた男に言った。
「最近、漁船が行方不明になるって話が相次いでるらしいな。お前、知ってるか?」
「ああ、知ってるぜ。海がシケてたってわけでもねえのに……妙な話だぜ、まったく」
投網をいじる手を休め、男は不思議そうな顔をして空を見上げた。この仕事に就いてから、時に仲間を失うこともあったものの、こんな妙な話は聞いた試しがない。
「俺が聞いたラジオのニュースじゃ、普通の海難事故って片付けられてたみてえだけどな。ただ……俺は、そんな生易しいもんじゃねえと思ってる。お前……アメリカの南の方にある、三角形の話を聞いたことがあるか?」
「三角形? なんだ、そいつは?」
急に話を振られ、投網をいじっていた痩せ気味の男が怪訝そうな顔をした。すると、シケモクを咥えていた男の方が、ここぞとばかりに何やら意味深な笑みを浮かべる。
「俺がまだ、ガキの頃に聞いた話だ。なんでも、アメリカの南東部……だったっけか? そこにある海には、昔っから船やら飛行機やらが頻繁に行方不明になる場所があるんだとよ」
「おいおい。こんな真昼間から怪談か? まさか、海坊主に引っ張り込まれたってわけでもあるまいし……」
「まあ、そう言わずに聞けよ。その場所は、近くの島だかなんだかを、とにかく三角形に繋いだところらしくってな。そこに間違って迷いこんじまうと……後は、煙のように消えちまうんだとよ」
どうだい、恐ろしいだろう。そう言わんばかりの口調で、シケモクを咥えていた男は話していた。が、痩せ気味の男は、こういった類の話には全く興味がないのだろうか。完全に聞き流した様子で、再び投網の点検をし始めた。
「下らねえな。それじゃ、あれか? ここ最近で行方不明になった漁船も、そういった妙な場所に迷いこんじまったからだって言いてえのか?」
「そう決めつけたわけじゃねえさ。ただ、ちょっとガキの頃に聞いた話が気になっただけだ」
「馬鹿馬鹿しい。第一、お前がガキの頃に流行った話なんざ、今じゃほとんどが嘘っぱちの作り話だって相場が決まってるじゃねえか。外国の、どこぞの湖に出るっつう怪獣だって、ありゃ誰かが細工してビデオカメラ回しただけだろうに」
「やれやれ、真面目だね、お前は。生憎と、俺はまだこの歳になっても、ロマンってやつを忘れてねえのよ。海の男なら、一度は大海原に冒険に出たいって……そう、ガキの頃は思ってたさ」
「その、ロマンとやらに食われて、遭難しちまったら元も子もねえぞ。俺たちゃ、海に冒険しに来てるわけじゃねえ。いいかげん、現実に戻って魚獲る準備したらどうだ?」
シケモクを咥えていた男はどこか遠くを見るような目をしていたが、痩せ気味の男は淡々とした口調で彼の話を流すだけだった。
相変わらず、クソ真面目な奴だ。現実に引き戻されたことに多少の腹を立てながらも、シケモクを咥えていた男もまた漁の準備に取り掛かり始めた。
確かに自分は、仲間の内でも童心を忘れていない人間として通っている。しかし、この歳になってロマンだけを追い続けるような、そんな馬鹿な夢は見ていない。ロマンだけで飯が食って行けるのであれば、とっくに漁師の仕事など辞めているのだから。
それから、どれほどの時間が経っただろう。漁具の準備をする男達の前に、急に白い煙のような物が立ち込め始めた。思わずぎょっとして臭いを嗅いでみるが、どうやら煙ではなさそうだった。
「こいつは……霧か?」
仕事の手を止め、痩せ気味な男が辺りを見回す。気がついたときには、既に遅し。周囲は一面の霧に覆われて、一寸先も見えないほどになっていた。
「おいおい、なんだよ。今日の天気は晴れだって、ラジオの向こうで言ってたじゃねえか」
「そんな呑気に構えてる場合か? こんな海のど真ん中で、ここまで濃い霧が出るってこと事態、普通じゃねえぞ!!」
いったい、この霧はなんだろう。屈強な海の男達の顔にも、思わず焦りの色が見え始める。荒れ狂う大海原での漁を経験してきた彼らにとっても、いきなり霧に包まれる等という経験は初めてだ。
未知の物への純粋な不安。それが徐々に大きくなり、男達はたまらず船内へと駆け込んだ。
「石崎さん! 霧が……霧が出てきましたぜ!!」
操舵室に駆け込み、男達は慌てた様子で叫んだ。石崎と呼ばれた男もまた、急なことに状況が飲み込めていないのだろうか。平静を装ってはいるものの、明らかに動揺しているのが見て取れた。
「わかっとる! しかし、拙いぞこれは……。こう先が見えぬようでは、他の船がいた場合、下手をすると衝突し兼ねん……」
海上の衝突事故は、それが即ち死に直結する危険なものだ。長年の経験から、石崎もその恐ろしさは嫌というほど知っている。
こうなっては、いつも通りの航行はできないか。仕方なく船のエンジンを低速にすると、石崎は濃霧に覆われた海域を脱するべく、今しがた進んで来た航路を引き返すようにして舵を切った。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
宗助が地元の街へ戻ったときには、既に太陽が西の空に傾きかけていた。
駅前で美紅に別れを告げ、宗助は友人の塚本信吾からの手紙にあった店へと向かった。
信吾とは小学校からのつき合いで、中学はおろか、高校までもが一緒だった。多少、気障な部分があるものの、基本的には人当たりが良く好感が持てる人間だ。彼の家は宗助の家と比べても随分な金持ちだったが、信吾自身はそれを鼻にかけるようなことは少なかった。
もっとも、金持ちにありがちな金銭感覚のズレは、宗助も信吾に対して感じてはいた。何しろ、高校時代はその金銭力に任せて、随分と遊んでいたのだから。学年問わず、顔の広いお調子者。そんなイメージが、宗助が信吾に抱いている印象だった。
実際、大学に入ってからも、信吾とは何度か連絡を取り合って遊んだことがある。イベント事が好きな信吾は積極的に宴会の幹事等も務め、宗助もそれなりに楽しんではいた。
そんな信吾から、急に同窓会の誘いが入る。本当は無視しても良かったのだが、昔のよしみで、行ってやらないわけにもいかないだろう。それに、宗助自身、自分が普通の生活に戻れないと知りつつも、どこか昔の自分に戻りたいと願っている部分があったのも事実だ。
駅前の繁華街を抜け、宗助は抜け道になっている路地裏を通って別の大通りに出た。引っ越して久しいとはいえ、やはり馴染の街だ。さして迷うこともなく、目的の居酒屋へと辿り着いた。
「すいません。塚本信吾さんの名前で、予約している者なんですけど……」
居酒屋の戸をくぐり、宗助は遠慮がちに側にいた店員に尋ねた。以前、来たときとは違い、宗助の知らない顔だ。この一年の間に、アルバイトが大きく入れ替わったのだろうか。
「ああ、塚本さんですね。それでは、ご案内いたします」
アルバイトの青年が、やけに響く張りの良い声で答えた。恐らく、彼は新米だろう。こちらに向けられた笑顔に、まだ少しばかり不自然なところが残っている。
青年に言われるまま、宗助は店の奥の座敷へと案内された。この居酒屋で宴会を開くとき、信吾は必ず、この座敷部屋を予約するようにしていた。
「おっ、宗助じゃないか! 久しぶりだな!」
開口一番、宗助と目があった塚本が手を振って来た。相変わらずの、気さくな態度だ。
「すまない、遅くなった」
「気にすんなって! それより、皆も集まってるぞ。早くこっち来て、お前も何か頼めよ」
「ああ、わかった」
そう、信吾に返事をしながら、宗助は改めて部屋に集まった者達の姿を見回した。
同窓会とはいえ、さすがに小学校や中学校の友人では、今では連絡を取らなくなって久しい者も多い。中にはガラリと雰囲気を変え、一見して誰だったのか思い出せない者もいる。
だが、中には昔とまったく変わらぬ雰囲気を纏っている者もおり、そういった人間は見つけ易い。もっとも、信吾のように良い意味で変わらないのであればいいのだが……悪い意味で、何も変わっていない者がいるのは困り物だ。
(あいつは……徹か。相変わらず、あいつも強引な性格が直ってないな……)
中央の席に陣取り、隣にいる気弱そうな青年に酒を勧めている男。田宮徹。宗助が小学生の頃から、近所ではガキ大将として有名だった。
正直、宗助は徹のことが、そこまで好きにはなれなかった。徹は典型的なガキ大将で、物事を考えて行動するよりも、直感的に動くことの方が多かった。そして、その結果として周りの人間を巻き込んで、多大なる迷惑をかけることも。
例えば、野球。新しいバットを買ったとかで、よせばいいのに近所の空き地に繰り出して、そこでボールをかっ飛ばして隣の家の盆栽を壊した。
ボールを打ったのは徹であり、そもそも試合というよりは練習のような野球だったのに、連帯責任で全員が叱られた。その上、ガラスの弁償代金まで、それぞれの小遣いから割り勘にさせられるところだった。信吾が親に頼み込んで、ガラス代を立替えてくれたのが唯一の救いだ。
その他にも、雨の日に友人を川遊びに誘って警官に叱られたり、給食の配膳台に乗って学校の廊下を爆走し、女子に衝突して怪我をさせたり……とにかく、数え上げればキリがない。
できるだけ、関わり合いにならない方が良さそうだ。隣で無理に酒を進められている人間――――誰なのか、未だに思い出せなかったが――――には悪いが、折角の同窓会で藪蛇をつつくような真似はしたくなかった。
「おい、宗助。お前、最近は何をやってんだよ?」
とりあえず適当な席に着いたところで、信吾がビールの入ったジョッキを片手にやって来た。片方は彼の物だが、もう片方は今しがた届いた物だ。なんというか、こういったところで信吾は手際が良い。
「いや……その……」
「なんだよ、宗助? まさか、お前……人に言えないような仕事してんのか?」
「そういうわけじゃ、ないんだけどさ……」
なんとも説明しづらい自分の状況。まさか、霊能者の下で訓練している等とも言えず、宗助はジョッキを受け取りつつも言葉を濁らせた。
「実は……俺、ちゃんとした仕事はしてないんだ」
「なっ……!? おいおい、マジかよ!? お前ともあろう者が、そんな親不孝するなんて……俺は、友人として悲しいぞ!!」
「すまないな……。でも、別に定職に就かないで遊んでるってわけじゃないぞ。今は知り合いの……民俗学者の先生のところに、ちょっとお世話になってるんだ」
とりあえず、親元に話しているのと同じに言っておけば大丈夫か。嘘を吐くことに多少の後ろめたさは感じたが、考えられる限りでは、これが一番無難な返答だった。
「なんだよ、心配したぜ。まあ、お前のことだから、きっと大丈夫なんだよな? その先生んところで、何か研究でもしてんのか?」
「まあ、そんなところだ。でも、民俗学の研究なんて地味だからな。信吾には、興味のない話じゃないか?」
「そうだな……。難しい話は、昔っからサッパリだったからな。それでも、お前はやっぱり凄ぇよ。大学卒業したのに、まだ勉強してるってことだろ? 大学院に進む連中もそうだけど……俺には正直、真似したくてもできねえな」
途中、何度かジョッキのビールを口にしながらも、信吾はやけに感心した口調で宗助と話していた。
大学を卒業してからも勉強する。遊び人だった信吾にとって、そんな考えは頭の片隅にもなかったに違いない。だからこそ妙に感心しているのだろうが、そんな信吾の顔を見るのが、宗助にとっては少々心苦しくもある。
なにしろ、先ほどの話は全て嘘。大学で民俗学を専攻していたのは事実だが、卒業後は何の勉強もしていないと言っても過言ではないのだから。少なくとも、幽霊だの妖怪だのといった、向こう側の世界の話について以外は。
とりあえず、この話は終わりにしよう。それだけ言って、宗助は信吾に軽く頭を下げて場を去った。これ以上は、何かの拍子にボロが出ないとも限らない。できることなら昔の仲間と、ゆっくりと昔話でもしたいものだ。
信吾からもらったジョッキを片手に、宗助はできるだけ静かな場所を探して席を移動した。徹の近くには寄りたくなかったし、あまり賑やか過ぎるのも少々苦手だった。
「えっと……ここ、空いてるかな?」
とりあえず適当な席を見つけ、宗助はその場に腰かけた。近くにいたのは、少々気弱そうに見える女性が一人。彼女の顔には見覚えがあるが、名前は何と言っただろうか。
「はい……。どうぞ……」
その外見から想像できる通り、彼女はもじもじとしながら宗助に席を勧めた。別に、身体が触れるような距離でもないのに、その女性は少しだけ気まずそうにして、宗助からそっと距離を取った。
「ごめん、邪魔だったかな? 気を使わせたんだったら、別の席に行くよ」
「いえ……いいんです……。私……昔から、人見知りが激しくて……」
そう、彼女が言ったとき、宗助の頭の中で何かが繋がった。
まだ、自分が小学生だったとき、やたらと物静かで目立たない少女がいたのを覚えている。名前は確か、高瀬千晶。決して自分一人では行動せず、常に誰かの後ろにくっついて行くような形で、何をするにも友達と一緒なのが常だった。
「あれ、もしかして、高瀬さん? 雰囲気変わってたから、一瞬、思い出せなかったよ」
場の空気がまずくなったことを感じ、宗助はなんとか元に戻そうと声をかけてみた。しかし、それでも千晶は首を縦に振って頷くだけで、それ以上は何も話そうとはしなかった。
やはり、そう簡単に溝は埋められないか。幼馴染とはいえ、千晶とは小学校時代、数えるほどしか話していない。人見知りするというのが本当なら、彼女にとって、宗助は初対面の男に等しい。例えそれが、かつての同級生だったとしても。
これは、早々に退散した方が良さそうだ。変に気を使わせるのも申し訳ないし、信吾のところに戻って話でもするか。ふと、そんなことを宗助が考えた矢先、千晶の隣で何やら強気な声がした。
「何やってんのよ、千晶! あんた、ま~た一人で丸くなってたわけ!?」
腰まで伸びた茶色い髪。サワーの入ったグラスを片手に、千晶とは別の女性が見降ろすようにして立っている。
「あっ……晴美ちゃん……」
今まで固くなっていた千晶の顔が、途端に綻んだ。この場にいるということは、宗助にとっても知り合いのはず。だが、あまりに容姿が変わり過ぎているためか、やはり急には思い出せない。
「へぇ、椎名君じゃない。お久~、元気してた?」
千晶とは違い、茶髪の女性は随分と馴れ馴れしく宗助に接して来た。近くに寄られると、それだけで十分にわかるくらい、髪の毛から甘い香りが漂っていた。
「ねえ、私のこと、覚えてる? ほら、五年生のときに一緒のクラスだった、三沢晴美よ」
「えっ……もしかして、あの三沢さん?」
「他に、誰がいるっていうの? それにしても……私のことも忘れてるなんて、随分と失礼なんじゃない?」
何ら物怖じをせずに言う晴美に、宗助は思わず口をつぐんで言葉を切った。
髪の毛の色を変えていたので気づかなかったが、声を聞いて思い出した。晴美は昔から、目立ちたがりな少女だった。千晶とは対象的に、何でも自分が一番で、クラスの中心にいないと嫌なタイプだ。
その我の強さ故に学級委員などを任されることも多く、当時のクラスで彼女に頭の上がる男子はいなかった。唯一の例外といえば先ほどの徹がいるが、彼はそのとき晴美とはクラスが違っていた。
「ごめん、三沢さん。別に忘れてたわけじゃないんだけど……ちょっと、見違えちゃってさ」
できるだけ晴美を怒らせないよう、宗助は言葉を選んで彼女に返した。そして、言葉を言い終わった瞬間、自分が随分と他人行儀になっているのに気がついた。
そういえば、先ほどの千晶にしてもそうだったが、普段とは違いどうにも遠慮が態度に出ていたような気がする。幼馴染なら、もっと気さくに話せばいいとは思うのだが、信吾を除いてそれができない。昔の、それこそ単なるクラスメイトだった時の呼び方で、つい距離を置いた対応をしてしまう。
結局のところ、時間は止まったままなのだ。そんなことを、宗助は信吾や千晶、それに晴美とのやり取りから感じていた。徹を見たときもそうだったが、なんというか、良くも悪くも変わっていない。それは態度や性格だけでなく、互いの関係もまた同じこと。
昔、それこそ小学校や中学校時代に親しかった人間とは、当時のままの雰囲気で楽しめる。しかし、その一方で、単なるクラスメイトだった相手とはクラスメイトのままだ。未だに敬語で話してしまったり、名前で気さくに呼んだりすることができないままの関係が続いている。
現実の時間が進んでも、心の時計は進まない。なんだか妙に肩身の狭い感じがしてきたが、直ぐに気を取り直して考えるのを止めた。
今まで疎遠な関係だったからといって、それが未来永劫続くわけではない。これを機に、昔は疎遠だった人間と、新たに仲良くなるのも良いだろう。大人になった今だからこそ、色々とできることもあるのだから。
ジョッキのビールを一口だけ含み、宗助は改めて晴美の話に耳を傾けた。話の内容は他愛もないものだったが、他人の自慢話を聞くのには慣れていた。大学時代、癖の強い仲間を付き合っていたことで覚えた、処世術の一つだった。
「おう、宗助! 楽しんでるか?」
再びジョッキ片手に、信吾が宗助の前に現れた。「楽しんでるよ!」と晴美が宗助に代わって答える。宗助も軽く頷いて流し、ふと横に目をやった。相変わらず、千晶が晴美の影に隠れるようにしているのが気になったからだ。
もう、十分に大人と呼べる年齢なのに、千晶は昔の小動物のような雰囲気を変えようとしない。こういった女性を可愛いと思う者もいるのだろうが、正直、これでは仕事にならないのではないかと――――定職に就いていない自分が言えたことではないが――――心配になる。
「なあ、お前達。ちょっと、話があんだけどさ」
宗助と晴美の間に割り込むようにして、信吾が強引に腰を降ろした。多少、窮屈な感じがしたが、信吾は宗助達に文句を言わせる隙を与えない。懐から素早く何かの写真を取り出すと、それを宗助と晴美にこっそりと見せた。
「あら、素敵な船じゃない。これ、ヨットか何か?」
「へへ、格好良いだろう。俺の父さんが、誕生日に買ってくれたんだぜ」
「誕生日にヨットって……相変わらず、塚本君の家はお金持ちなのね」
「まあな。で……ものは相談なんだが、このヨット、お前達も乗ってみたくねえか?」
宗助と晴美の顔を交互に見て、にやりと笑う信吾。いきなり話を振られ、二人とも何を言って良いのかわからなかった。
「なあ……。なんで、よりにもよって俺なんだ? こんな凄いヨットなら、他にも乗りたいってやつがいるんじゃないか?」
「まあな……と、言いたいとこなんだが、残念だが都合のつくやつが少なくてさ。俺も明後日からは仕事だから、船出せるのは明日だけなんだ」
少しばかり申し訳なさそうに、信吾は宗助と晴美に説明した。そういうことならば、確かに話もわからないではない。いくら魅力的な誘いとはいえ、学生の頃とは状況が違う。いきなり、明日ヨットに乗らないかと誘われても、それぞれに予定というものがある。
自分のような暇人なら、少しは信吾の相手をしてやるか。一瞬だけ、そんな考えが宗助の頭を掠めたが、直ぐに昨年のことを思い出して首を横に振った。
海には辛い思い出が多過ぎる。かつて、大学の民俗学研究室のメンバーを殺した怪物も、元はと言えば海の底からやってきた連中だ。
あれ以来、自分は海に近づいてはいない。辛い記憶を思い出すのもそうだが、それ以上に、自分の中にある力が疼くような気がしてならないのだ。七人岬より受け継がれし、陰の気を源とする霊的な何かが。
「おい、どうした宗助? 何、難しい顔してんだよ」
急に信吾に名前を呼ばれ、宗助はハッと我に返って顔を上げた。どうやら自分でも気づかない内に、色々と考え込んでしまったようだ。
「ねえ、塚本君。そのヨット、まだ誰も乗りたいって言う人がいないんでしょう? だったら、私が一緒に乗ってもいいわよね?」
信吾の横で、晴美が服の袖を引きながら頼み込んでいる。信吾もまんざらでないらしく、二つ返事で了解した。安易すぎると思ったが、ヨットで遊びに行くのに女性がいなければ華がないと思ったのだろうか。
「やったぁ! それじゃ、千晶も一緒ってことで……いいわよね、千晶?」
「えっ? う、うん……」
「何よ、煮え切らない返事ね。折角、塚本君が誘ってくれたのよ? あんた、どうせ暇なんだし、少しは私に付き合いなさいよ」
「わ、わかったわ……」
「それじゃ、決まりね。塚本君には悪いけど、この子も一緒ってことでいいわよね? 定員には、まだ余裕があるんでしょう?」
先ほどから会話に参加していなかった千晶を強引に誘い、晴美はどんどん勝手に話を進めてゆく。これには宗助はおろか、さすがの信吾も何も言えずに目を丸くするだけだ。
やがて、言いたいことを言うだけ言うと、晴美はさっさと千晶を連れて席を立ってしまった。どうやら他にも話したい相手がいたらしく、千晶と一緒にそちらで盛り上がっている。
「なあ……よかったのか、信吾?」
「何がだよ」
「何って、三沢さん達のことだよ。あんなに軽く、二つ返事で了解して良かったのか?」
「仕方ないだろ、そりゃ。まあ、ヨットの定員はぎりぎり空いてたし、なんとかなるだろ。もっとも、今ので定員は埋まっちまったから、もう誘う相手もいないけどな」
「そうか……。だったら、俺は今回は見送らせてもらうよ。三沢さん達と一緒に、信吾も楽しんでくれ」
そう、軽く流すように口にして、宗助はそっと席を立った。これで海に行かなくても済む。信吾には悪いが、そんな安堵の方が強かった。
ところが、宗助が席を離れようとした瞬間、信吾が服の袖を引っ張って彼を止めた。
「おい、待てよ。まだ、お前には話があるんだってば!!」
強引というよりは、むしろ懇願するような視線。訝しげに思いつつも、宗助は仕方なく信吾の隣に腰を降ろした。こうなっては、話を聞いてやる他にない。我ながらお人好しだとは思うが、信吾は数少ない昔からの友人だ。
「しょうがないな。で、話ってなんだ?」
テーブルの上に置かれた枝豆をつまみながら、宗助は信吾に尋ねる。お気楽そうに見えているが、何か悩みでも抱えているのだろうか。
「悪いな、宗助。実は、あのヨットなんだけどさ……お前には、是非とも乗ってもらいたいんだよ」
「俺が!? なんでだよ……」
「元々、俺はお前を誘おうと思ってたんだぜ。あっ、でも、別に変な意味とかないからな。その辺、勘違いすんなよ」
「わかってるよ、それは。でも、何で俺なんだ? 他にも暇そうなやつ、何人かいるんじゃないのか?」
怪訝そうな顔をして、宗助は信吾の顔を見ながらビールで枝豆を流す。それでも信吾は、そんな宗助にお構いなしに、ほとんど頭を下げるような形で頼み込んで来た。
「すまん、宗助! この通りだ! 俺の顔を立てると思って、ここはなんとか力を貸してくれ!!」
写真を片手に、ほとんど土下座しそうな勢いだった。そこまで頼み込まれれば、宗助としても断る理由はない。海に出ることに多少の不安はあったものの、泳いだり潜ったりしなければ大丈夫だろうと思っていた。
「わかったよ。わかったから、顔を上げてくれ。折角、久しぶりに会えたんだ。土下座なんてされたら、こっちの方が気が引ける」
「本当か!? やっぱり、お前は話のわかるやつだぜ! さあ、今日は俺の奢りだ! 会費はいらねえから、遠慮なく飲め!!」
ジョッキを片手に、宗助と遅めの乾杯を上げる信吾。グラスとグラスがぶつかる音が、妙に涼しげで心地よい。
「そうそう。当日はスペシャルゲストもいるから、会って驚くなよ?」
残りのビールを一気に飲み干して、信吾がにやりと笑ってみせた。こういうとき、信吾はいつになく面白いといった顔をして、人を食ったような笑みを浮かべる。昔から、信吾は人を驚かせるのが好きだった。悪い意味ではなく、良い意味で。
「なんだか知らないけど、お前のことだからな。まあ、期待させてもらうとするよ」
相変わらず、そっちは何も変わっていない。そんな想いを表情に出しつつ、宗助は信吾の言葉に頷いた。
彼が何を思って宗助を誘ったのか、それはまだわからない。まあ、当日になって行ってみればわかるだろう。海で遊ぶことに対して多少の不安は残ったが、ここまで話が進んでいるのに断るなど、さすがの宗助にもできなかった。