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~ 子ノ刻   手紙 ~

 宗助が部屋を出ると、そこには朝の陽射しが射し込む庭の風景が広がっていた。


 K県、土師美村はじみむら。そこにある旧家、犬崎家の居候というのが、今の宗助の立場である。昔ながらの田舎の家だったが、それだけに広く、部屋も多い。居候が一人増えた程度、何の支障もないといったところなのだろう。


 大学を卒業はしていたが、宗助は定職に就いていなかった。働く気がないわけではなかったが、自分の身体のことを考えると、既に元の生活に戻れないというのは知っていた。


 陽明館事件で得た強過ぎる霊感。それを制御するためには、しかるべき場所で修業を積む必要がある。身に余る力を持てば、その代償として心を病み、果ては自ら暗黒の世界へと堕ちることになりかねない。後天的に霊感を得てしまった宗助にとって、選択肢など残されてはいなかった。


 庭の向こうに広がる竹林の中から響く音に、宗助はハッとして耳を傾ける。断続的に響く乾いた音。それに導かれるようにして、宗助は縁側に転がっていた草履を履いて竹林へと走った。


 足下を覆う熊笹を掻き分け、宗助は藪の奥へと進んで行く。すると、唐突に開けた場所に出て、そこに一人の女性の姿を見つけて足を止めた。


 犬崎美紅けんざきみく。陽明館事件で宗助を助けた女性だ。宗助の知る限り、彼女は極めて強い霊能力と、優れた戦闘センスを併せ持っている。その力を駆使し、あの事件では多くの怪物を退けて、宗助や他の生存者達の命を救ってみせた。


 一見して色白でひ弱そうに見えるが、彼女を見かけで判断すると痛い目に遭うということは、宗助自身が一番良く知っている。彼女の精悍な身体には、無駄な肉などまったくない。戦うために鍛え上げられた、しなやかで強靭な肉体。彼女の身体を一言で喩えるなら、芸術品と言った方が相応しいか。


 木漏れ日の中で刀を振るう美紅の姿に、宗助はしばし見惚れていた。対する美紅は、こちらは宗助に気づいていないのだろうか。枯葉の舞い散る中、気を一点に集中させて刃を振るう。その風圧が葉を吹き飛ばすよりも早く、彼女の振るった刀の先端が、舞い散る木葉を両断する。


 木葉斬り。剣の風圧で葉を吹き飛ばさずに、舞い散る木葉を刀で斬る。少しでも剣について詳しい者からすれば、正に達人級の技。それを易々とやってのける辺り、やはり美紅は只者ではない。


 ふぅ、と軽く息を吐いて、美紅は手にした刀を鞘に納めた。竹林を抜ける風が止んだところで、彼女は後ろを向いたまま宗助に声をかける。


「どうしたの、そんなところで突っ立って?」


 どうやら、最初から宗助が来たことには気づいていたようだ。いきなり声をかけられて、宗助は慌てて言葉を返した。


「あっ……いや、その……。今日も、朝から剣の練習してたのか……」


 見惚れていた、とは言えなかった。当たり障りのない返事で、宗助はなんとか感情が表に出そうになるのをごまかした。


 白金色の髪が、風にふわりと揺れた。美紅がこちらを向いた瞬間、その赤い瞳と目があってどきりとする。


 先天的白子症。美紅の家系は、代々色素の薄い子どもが生まれる特殊な血筋だった。その高い霊能力と引き換えに、太陽の光を直に浴びることを許されない。だから、こうして修業をするにも、藪の中を選ばねばならない。そう、美紅は言っていた。


 赤い瞳と白い肌。普通の人間とは明らかに違う身体をしていたが、それでも宗助は美紅のことを偏見の目で見るようなことはしなかった。いや、むしろ彼女の髪の毛や肌の、透き通るような美しさに惹かれていた。


 自分は美紅に惚れているのか。人から尋ねられれば、その場では否定をしただろう。が、同時に自分の心の中では、間違いなく首を縦に振っているはずだ。


 美紅のことを意識してしまうのは、彼女に命を救われたからというだけではない。彼女は強く、そして優しい。普段は感情を表に出さず、常に冷静に振舞っているが、その瞳の奥にある穏やかな心を宗助とて知らないわけではない。


「ねえ、それよりも……」


 刀を納め、美紅はそっと宗助の側に歩み寄った。そのまま白く美しい手を、そっと宗助の肩に乗せる。


「また、アレができたんじゃないの? あなたの中から、あまり良くない気を感じるわ」


 急に真剣な顔つきになって、美紅は宗助の瞳を真っ直ぐに見る。射抜くような、鋭い視線。心の奥底に秘めた感情を覗かれやしないかと、宗助は思わず目線を逸らす。


「あ、ああ……。今日は、背中の方に少しな。でも……別に、そこまで酷いわけじゃない」


 心配をかけまいと、宗助はあえて強がった。美紅は気づいている。背中にある痣のことも、それがただの痣でないということも。


「駄目よ、強がっちゃ。どうせ、まだ自分では祓うだけの力を持ってないんだから。いいから、私に任せておきなさい」


 少しばかり呆れた顔をして、美紅は宗助の手を優しく握る。そして、宗助が何かを口にする前に、半ば強引に彼を後ろ向きにさせて服の裾をまくった。


「えっ……あっ……ちょ、ちょっと!?」


「少し、動かないでいてね。今回のやつ、随分と大きいから。ちょっと、痛むかもしれないわよ?」


 そう言うが早いか、美紅はスッと目を閉じて、自身の影に意識の全てを集中させた。瞬間、彼女の足下から伸びる黒い影が、どろどろと流れるようにして形を変えてゆく。やがて、人の姿を捨て、巨大な犬の姿になったところで、影はゆっくりと地面から離れて起き上がった。


 黒い、流動的な塊の身体を持つ犬が、そこに立っていた。金色の瞳を湛え、その大きさは虎ほどもある。見るからに凶悪そうな顔つきをしていたが、敵意のようなものは感じられない。


「お願いね、黒影こくえい。宗助君の背中にいるやつ、さっさと引っ張り出しちゃって」


 犬の鼻先を撫で、美紅はちらりと宗助の背にある痣を見やった。苦悶の表情を浮かべる人の顔。不気味な青痣からは、亡者の呻き声さえ聞こえてきそうな感じがする。


 影の犬が低く唸り、再び不定形な姿に形を変えた。どろどろの黒い塊になった影は、滑るようにして宗助に背にできた痣に向かう。影が痣に触れたところで、宗助は鋭い痛みを覚えて軽く叫んだ。


「痛いと思うけど、我慢して。今、剥がしておかないと……下手に根を張られたら厄介だから」


 苦痛に耐える宗助の背を撫でながら、美紅はさらりと流すようにして口にする。そうは言っても、この痛みは尋常ではない。傷口を何度もナイフで斬りつけられ、さらにそこへ塩や辛子を塗られる。そんな拷問にも等しい痛みが、断続的に襲ってくるのだ。


 弱音を吐きそうになる自分を抑え、宗助は辛うじて歯を食いしばり痛みに耐えた。美紅の前で、情けない姿は見せたくない。そんな見栄にも似た感情が、今は痛みを堪えるのに一役買っていた。


 痣の上に覆い被さった影が、風船のように膨らんでゆく。影はそのまま宗助の背中を離れ、ぼとりと地面に落ちて震えている。


 全身から何かを引き剥がされたような感覚に、宗助はがっくりと膝をついた。気がつけば、顔には無数の脂汗が浮かんでいる。耐えがたい痛みを堪えていたことで、呼吸も荒くなっていた。


「よくやったわ、黒影。それじゃ、後の始末は任せたわよ」


 足下に転がる影に向かって、美紅は再びその名を呼んだ。すると、その言葉に呼応するようにして、影が犬の姿に戻ってゆく。その口には歪んだ男の顔をした、青白い塊が咥えられている。


「う……うぅ……」


 男の顔が、無念に満ちた表情を浮かべて声を漏らした。しかし、影の犬はまったく意に介さず、青白い塊を一飲みにする。途中、何やら悲鳴のようなものが聞こえたが、直ぐに音は消えて静かになった。


 犬神。代々、犬崎の家に伝わるという、美紅の使役する下級神。本来は呪詛に使われることもある危険な存在だが、しかるべき力の持ち主が使役すれば、霊的な存在と戦う者にとっては心強い味方となる。


 黒影と呼ばれた犬神は、普段は美紅の影に潜んでいた。が、一度戦いが始まれば、瞬く間に実体化して敵を薙ぎ払う。口から吐く青白い破魔の炎を武器に、低級な霊であればまとめて焼き尽くすだけの力を持つ。


 今、美紅が宗助に施したのは、そんな黒影の力を使った除霊術の一種だった。


 陽明館事件で、宗助は強い霊能力を得た。しかし、力を制御できなければ、それは浮遊霊達にとっても格好の餌となる。時に、心の隙を突くようにして、連中は宗助の身体にとり憑き、蝕んだ。


 これが、単に強い霊能力というだけならば、宗助も苦労はしなかっただろう。ところが、宗助の得た力は、本来は人が持ち得るものではない。どちらかといえば、妖怪や悪霊、闇の眷属と呼ぶに相応しい者達が持つ、呪われた力といっても過言ではない。故に、普通の霊能力者に比べても、今の宗助は歪んだ想念の生み出す浮遊霊に好まれ易い体質となっていた。


 宗助が美紅の家で居候を続けているのは、これが主な原因だ。彼女の下で修業を積み、浮遊霊に憑かれないよう力を使いこなせるようにする。仮に力の制御が上手くゆかなくとも、最終手段として、今のように彼女に祓ってもらうこともできる。彼の意思に関係なく、宗助にとって美紅は色々な意味で大切な女性だった。


「終わったわよ、宗助君。今日は、朝から少し疲れたんじゃない?」


 自分の中に黒影をしまい、美紅は軽く微笑んで言った。こちらも大丈夫だと、宗助は空元気を出して美紅に答える。何やら全身の力が抜けたような感じがしていたが、数時間も経てば元通りになることは経験済みだ。


 痣の消えた背中をそっと撫でて、美紅は宗助の服を戻した。もう、幾度となく行われてきた除霊の儀式。それでも、やはり宗助は美紅を意識せずにはいられない。彼女の指先が背中を這うたびに、顔が赤くなっているのが自分でもわかる。


 いったい、美紅は自分のことを、どう思っているのだろう。やはり、彼女もこちらの気持ちに気づいているのだろうか。それとも、力を使いこなせない未熟者として、どこかで厄介者扱いしているのだろうか。


 できることなら、後者ではあって欲しくない。そう思うからこそ、宗助は美紅にこれ以上の迷惑をかけたくないと思っていた。一刻も早く、自分で力を制御できるようにしなければ。そのためには、いつまでもこんな場所で油を売っているわけにはいかない。


「さて……。除霊も終わったし、そろそろ戻りましょう。お母さんが、朝ご飯を用意している時間だしね」


 藪の中に射し込む木漏れ日に、美紅のミステリアスな微笑が映える。結局、何を考えているのか、最後まで見せてはくれなかった。ただ、今は特に、彼女から嫌われているわけではないようだ。今の宗助にとっては、それが唯一の救いだった。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 屋敷に戻ると、既にそこでは朝食の準備が整っていた。


 ちゃぶ台の上に並べられているのは、焼き魚や漬物といった典型的な田舎の食事。もっとも、質素なメニューであるにも関わらず、味の方は申し分ないので安心だ。


「おや、今朝は宗助さんも一緒だったのかえ? だったら、調度いい。皐月さつきも起きたところだし、食事にしようか」


 竹藪から戻った宗助達を、美紅の母親である多恵たえが迎え入れた。白髪こそ随分と混じっているものの、その髪は美紅と違い普通に黒い。犬崎の家に嫁入りした身である彼女には、美紅のような身体的特徴は見られない。


 反対に、そんな美紅と同じ宿命を背負っているのは、他でもない彼女の父である臙良えんりょうだった。宗助達より一足先に食卓へとついていた彼は、寡黙な表情のまま朝の新聞に目を通していた。


「ふむ……。太平洋岸で、漁船の海難事故相次ぐ、か……。夏も終わりに近づいているというのに、不穏なことじゃのう」


 ぼそり、と呟くように言って、臙良は新聞を畳んで置いた。美紅とは違い、彼は既に仕事からは身を引いている。退魔の行は美紅に任せ、隠居に近い生活を送っている。


 だが、それでも宗助は知っていた。目の前の男が、未だに強い力を持っているということを。それこそ、本気になれば美紅でさえ圧倒するほどの剣の腕と、彼女同様に犬神を操るだけの高い霊能力を秘めているということを。


 自分の力のことを、臙良は宗助に話したことはない。それなのに彼の潜在能力に気づいてしまうというのは、これもまた己が得た霊能力の恩恵か。


 良くも悪くも、自分が持つには過ぎた力だと思っていた。産まれてこの方、二十数年。霊能力などとは無縁の生活を送っていたにも関わらず、唐突に力を得ることになってしまったのだから。


「どうしたの、宗助君? 早く食べないと、お味噌汁が冷めるわよ」


 美紅に言われ、ハッとした様子で顔を上げる宗助。別に、何か隠すようなことをしたわけでもない。それなのに、何故だか急に恥ずかしくなり、宗助は慌てて茶碗の中の米を口の中にかき込んだ。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 朝食が終わってからは、宗助にとっては束の間の休息を得られる時間だった。


 夜になれば、美紅や臙良の下で己の力を制御するための修行が始まる。それまでに、息の抜ける時間は少しでも大切にしたい。そんな想いは、常に心のどこかで抱えていた。


 正直なところ、自分の今後を考えると、不安がないというのは嘘になる。霊能力を制御できるようになったところで、それで直ぐに仕事ができるわけでもない。男として、定職にも就かずに日々を過ごしているのは、どことなく後ろめたい感じがする。


 だが、美紅に言わせれば、そういった感情を抱くことが、そもそも悪い者を引き寄せるきっかけになるらしい。だから、楽しめる時は楽しんで、休める時は休んだ方がいい。それが美紅の考え方だった。未だに全てを納得したわけではなかったが、宗助も少しは、そんな彼女の考えに耳を傾けるようにはなっていた。


 朝食の片付けを終えて、宗助は美紅と共に近くの山へと繰り出した。なにしろ、土師美村は過疎の進む山奥の集落だ。子どもの数も年々減り、村内の学校も小中学校がそれぞれ一つずつ残っているだけ。以前に学校があった場所には、不気味な廃校が静かに影を落としている。


 そんな村であるからして、若者が遊べるような場所などは存在していなかった。もっとも、宗助自身は都会の喧騒のようなものが好きではなかったので、こうして美紅と一緒に山の空気を楽しめるだけでも幸せだった。


 木漏れ日の降り注ぐ木の下で、宗助は美紅と共に川のせせらぎに耳を澄ます。時折、水の跳ねる音に混じって、なにやら子どもがはしゃぐような声が聞こえてくる。


「ねえ、お兄ちゃん! こっちに来て、一緒に遊ぼうよ!!」


 川の方で、水着姿の小さな少女が手を振っているのが見えた。鳴澤皐月なるさわさつき。美紅の仕事仲間である、鳴澤達樹なるさわたつきの娘だ。


 宗助と同じく、彼女もまた例の陽明館事件の生き残りだった。彼女は土師美村の生まれではないが、仕事柄、美紅とはよく顔を合わせている。宗助ともそれは同じで、あの事件以来、彼女は宗助のことを兄のように慕っていた。


「皐月ちゃんが呼んでるわよ。早く、行ってあげたら?」


 日陰に置かれた岩に腰かけたまま、美紅が宗助の顔を見て言った。


「ああ……。でも、やっぱり止めておくよ。君を一人、置いて行くってのも、なんだか気が引けるし……」


 そう言って、宗助は少しばかり顔を下に向ける。


 美紅の身体は、生まれつき色素が薄く陽射しに弱い。真昼の太陽の光は、彼女の繊細は肌にはいささか刺激が強過ぎる。幼い頃から父である臙良に鍛えられてきた身ではあるが、それでも体力を消耗することに変わりはない。


「私のことなら、気にしなくても構わないから。折角、夏休みで皐月ちゃんが遊びに来たんでしょ?だったら、ちょっとは相手をしてあげないと、あの子が可哀想よ」


 自分に気を使っているのを察してか、美紅はさらりと流すようにして宗助に促した。それ以上は何も言えず、宗助も皐月の方へと手を振って駆け出してゆく。


 蝉の鳴き声に混ざり、再び河原に楽しげな声が広がった。時折、頬を撫でるそよ風に髪を揺らしながら、美紅は河原で遊ぶ宗助と皐月の姿を見て微笑んだ。


 父親の仕事柄、皐月は一カ所に留まって生活するということが少ない少女だ。彼女の父は、退魔の行に使う道具を作り、それを美紅のような人間に売ることで生計を立てている。故に、その材料を探して全国を転々とすることが多く、皐月はいつも転校を繰り返していた。


 典型的な転勤族。そう、言ってしまえば話は早いのだろう。だが、皐月の父の仕事は、普通のサラリーマンのそれとは訳が違う。


 時に自らも霊能者として戦うことのある彼女の父親は、いつ命を落として皐月の前から消えてもおかしくはない。現に、彼女は自身の母親――――父親とは違い、本業が退魔師だった――――を、幼くして失っている。その上、他には兄弟もおらず、皐月は常に不安と隣り合わせに生きてきた。


 普段は元気で溌剌とした姿を見せている皐月だったが、その心の奥底には、常に誰かの愛情に飢えている少女の顔がある。彼女は美紅に姉として、そして時には母親としての姿を求め、宗助には兄としての姿を求めている。


 河原で遊ぶ二人の姿を見て、美紅は自分が一緒になって遊んでやれないのが悔やまれた。真昼の陽射しは、自分の身体には少々毒が強過ぎる。生まれながらの定めとわかっていても、それで皐月や宗助に気を使わせるのは嫌だった。


 もし、自分が犬崎の家に生まれていなければ。退魔の力を持たず、普通の少女として生を受けていれば、違った未来があったのだろうか。


 いや、考えていても仕方ないことだ。自分に力があったからこそ、皐月や宗助と出会うこともできた。それに、己の内に秘めたる力と向き合って生きるということは、犬崎の家を継ぐことを、赫の一族の名を継ぐことを決めたときから、わかっていたことなのだから。


 川のせせらぎと蝉時雨。爽やかな夏の音を聞きながら、美紅は大きく腕を伸ばし、石の上に横になった。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 皐月を連れて美紅と宗助が家に戻ると、そこには先客の姿があった。


「あら、朱鷺ちゃんじゃない。来てたのね」


 自分と同じ、赤い瞳と白い肌。まったく同じ身体的特徴を持った女性を前に、美紅はさらりと流すようにして口にした。


 狗蓼朱鷺子くりょうときこ。美紅の親戚であり、彼女もまた退魔の力、赤の一族の血を引く者の一人である。もっとも、美紅とは違い、朱鷺子は霊能力者としての修業を受けていない。


 遠い昔、犬崎の家から別れてから、狗蓼の家は退魔の仕事から完全に身を引いていた。代々伝わる犬神こそ持っているが、美紅のように、自在に使いこなせるわけではない。どちらかといえば、己の魂の中に犬神を封印し、暴走するのを食い止めていると言った方が正しかった。


「美紅姉さん! 今、帰ったんですか?」


 入れ違いになりながら、朱鷺子は玄関で突っ立ったまま美紅に尋ねた。実の姉ではないのにも関わらず、昔からの癖なのか、朱鷺子は美紅のことを姉さんと呼ぶ。


「ええ。ちょっと皐月ちゃんを、その辺の川まで遊びに行かせててね」


「そうだったのね。私は達樹さんから、皐月ちゃんの荷物を預かって来たのよ。なんでも、学校の宿題の残り……とか言っていたわ」


「あら、それ本当? 皐月ちゃん……あなた、宿題は全部終わったって話だったんじゃ……」


 朱鷺子の言葉に、美紅がじろりと皐月を見る。そっと逃げ出そうとしていた皐月だったが、美紅の言葉と視線に気づき、ピタリと足を止めて振り返った。


「え、えっと……。実は……まだ、読書感想文と自由研究が終わってなくて……」


「呆れた! よりにもよって、時間のかかるものばっかりじゃない!!」


「うん……。でも、読みたい本も決まらないし、研究も、何をやっていいか、よくわかんないんだもん」


 先程、河原で見せていた笑顔はどこへやら。途端にしょんぼりした表情になって、皐月はしゅんと項垂れた。


 しかし、そうは言っても、これを放っておくわけにはいかない。達樹がわざわざ朱鷺子に届けさせたということは、放っておけば本当に終わらないと危惧したからだろう。娘には、少しでも小学生らしい生活を送らせたい。そう思っているからこそ、達樹もまた学校生活に関する話には厳しくなる。


「仕方ないな……。だったら、今年の自由研究は俺と一緒にやるか? それに、本も少しだったら、皐月ちゃんが読めるようなやつを紹介してやるよ」


「えっ、本当!? やったあ! お兄ちゃん、大好き!!」


 見るに見かねて、助け船を出したのが間違いだった。いきなり皐月に飛びつかれ、もんどり打って転倒する宗助。何やら鈍い音がして、宗助は痛々しそうに頭を抑えて呻く。


「きゃっ! そ、宗助さん……大丈夫ですか!?」


「ああ……。なんとか、ね……」


 口元を抑えて心配する朱鷺子に、宗助はそう言って虚勢を張る。もっとも、実際は大丈夫などではなく、頭に小さな瘤ができている可能性があったが。


「あっ、そうだ! そう言えば、宗助さん宛てに、お手紙が届いていましたよ。差出人は……もしかして、宗助さんの地元の方ですか?」


 身体の埃を払って立ち上がる宗助に、朱鷺子が思い出したようにして何かを渡す。彼女の手にあったのは、一枚のシンプルな茶封筒。それを手にした瞬間、宗助の瞳が一瞬だけ大きく見開かれた。


「これは……もしかして、塚本のやつか?」


 久しく聞かなかった名前を目にし、宗助は慌てて封を破った。予想が正しければ、この手紙の差出人は自分の幼馴染。小学校以来の友人である、塚本信吾つかもとしんごから送られてきたものだ。


 果たして、そんな宗助の予感は正しく、封筒の中から現れたのは見覚えのある文字だった。間違いない。この、癖のあるカナクギ文字。やはり、差出人は塚本だ。


 いったい、塚本はどこから自分の居場所を聞き出したのだろう。訝しげに思いつつも、宗助は手紙の内容に目を通す。塚本が犬崎家の住所を知っていたのは、恐らく宗助自身の両親にでも聞いたのだろう。


 手紙には、久々に同窓会を開くので、よかったら来ないかということが書かれていた。どうやら夏の休暇の間、都合のついた者だけで集まって遊ぶらしい。


 同窓会。久々に昔の仲間と会えるとなれば、どこか心踊るものがある。それが、普通の人間であればの話だが。


 自分は何も見なかった。そういうことにして、宗助は手紙を封筒の中へしまった。


 霊感体質となり、悪霊や浮遊霊に好かれやすくなった自分が一人で出歩けば、何が起きるかわからない。旅先で妙なものに憑かれてしまえば、今の宗助にはそれを祓う術がない。


 だが、そんな宗助の気持ちを知ってか、美紅は優しく宗助の肩を叩いて微笑んだ。


「行ってらっしゃいよ。折角、お友達が誘ってくれたんでしょ?」


「ああ……。でも、もしも旅先で妙なものに憑かれたら……今の俺には、どうにもできないし」


「だったら心配ないわ。私も一緒に行けば、問題ないから」


「本気か、美紅!? 一緒にって……なんかそれも、無理に付き合わせてるようで悪いな……」


 一瞬、目を丸くして叫び、宗助は申し訳なさそうに頭をかいた。


 美紅を一緒に連れて行く。確かに話はわかるが、そうなると、色々とややこしいことになりそうだ。


 実家の両親には、自分はとある民俗学者のところに世話になっていると話をつけている。まさか、退魔師の家で修業をしているなどとは言えず、大学時代に専攻していた学科の名前を上手く利用してごまかしている。


 そんなところに、美紅を連れて行ったらどうなるか。彼女のことだから心配ないとは思うが、少しでもボロを出したら一発で墓穴を掘ることに繋がってしまう。


 それ以前に、美紅を連れて行くとして、泊まる場所などはどうするのか。また、宗助が友人と一緒にいる時間、彼女にまで同伴してもらうのも気が引ける。折角の同窓会、塚本達に変な気を使わせるのも申し訳ない。


 やはり、今回は行かないことにするか。そう、言葉を切った宗助だったが、美紅は何の心配も要らないと言った顔をして笑っていた。


 泊まる場所なら、適当に街で安宿を探せば問題ない。それに、四六時中一緒にいなくとも、宗助が何かに憑かれたら、それを祓ってやればよいだけの話だと。


 それでも心配する宗助だったが、最後は美紅だけでなく、朱鷺子までが彼の背を押した。美紅の力は、宗助も知っての通りだと。だから、何の心配も要らないはずだと。


「やれやれ……。なんか、皆にそう言われたら、なんか大丈夫かもって思えて来たよ。ただ……そうなると、皐月ちゃんの宿題を手伝ってことができなくなっちまうけどな」


 ちらりと横を見やり、宗助は皐月の方へと顔を向けた。もしかすると、皐月は不満に思っているかもしれない。そう思った宗助だったが、以外にも皐月はあまり気にしていないようだった。


「行ってきなよ、お兄ちゃん。私、やっぱり宿題は自分でやるから。久しぶりに、昔のお友達に会ってきたら?」


 先ほどの無邪気な笑顔とは違う、明らかに無理して作った笑顔。そのことに気づき、宗助はそれ以上、何も言うことができなかった。


 転校を繰り返す皐月にとって、友人との思い出は大切なものだ。それを知っているから、彼女は宗助に気を使ったのだ。まだ、小学生であるにも関わらず、そんな大人のような態度を取る。これもまた、皐月の置かれた境遇がさせるものなのかもしれない。


 結局、その日は周りに推される形で、宗助は大急ぎで里帰りの仕度をすることになった。滞在日程は、ものの二日。美紅や朱鷺子の太鼓判もあってか、そのときは、そう面倒なことになるとは思っていなかった。

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