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~ 終ノ刻   赫契 ~

「がぼっ……げぼっ……がぁ……」


 巨人の顔から黒い液体が溢れ出す。排水管の中に溜まった腐敗ガス。それが逆流するような音を立てて、徹の目と鼻、それに口から怪物の体液が溢れ出していた。


「美紅……あれは……?」


「あれが、あの化け物の本体よ。身体はあくまで仮初のもの。黒っぽい水に見えるのが、この船と一体化した哀れな魂よ……」


 最後の方は、どこか憐れみを込めた口調になっていた。


 徹は確かに酷い男だったかもしれない。しかし、彼とて犠牲者の一人であることに変わりはない。実の妹を手に掛け、あまつさえ戦闘狂のようになってしまったのも、元はと言えば肉体を乗っ取られた副作用。その魂を異形なる者に同化され、粗暴で好戦的な性格だけが増幅されてしまった成れの果て。


 気がつくと、徹の身体は酷く萎んで小さくなっていた。全身を覆っていた肉塊は、既に溶けて姿を消している。足下に広がる赤い液体が、かつては千晶や真弓だったものだ。


「ぐぼぉぉぉぉっ!?」


 肉の鎧を剥がされて、徹が一際大きな声で叫んでいた。その瞬間、吐き出された黒い液体の中から、これまた黒い影が犬の形を持って飛び出した。


「よくやったわ、黒影。戻りなさい」


 軽く鼻の頭を撫でるようにして、美紅は自分の使役する犬神を影に戻した。


 弾丸として放たれた犬神は、そのまま敵の肉を穿ち骨を砕く。しかも、それだけに留まらず、内部からその魂を食らい尽くす。


 首を落としても駄目。心臓を穿つのも駄目。ならば、最後は肉体の中から魂を先に焼き尽くす。肉体より魂を先に仕留めることで、不死身の怪物に引導を渡す。


 我ながら、随分と無茶をしたものだ。思わず苦笑する美紅だったが、直ぐに気を取り直して部屋の隅に転がっている太刀を拾った。


「さあ、行くわよ宗助君。最後の仕上げが待ってるからね」


 折れた肩腕を庇いつつも、美紅はそう言って太刀を構える。その間にも徹の口から出た黒い液体は、ずるずると床を這うようにして部屋の奥へと消えて行く。


 天井から吊下がっている人魂が、導かれるようにして黒い液体に向かって行った。人の顔をしたそれは、しかし人間の首ではない。燃える人間の頭部。そうとしか言い表せないような不思議な物が、ふわふわと揺れながら部屋の中央へと飛んで行く。


 どす黒い液体と、それから多数の人魂と。すべてが一つに重なったところで、それらは醜い瘤のような塊となる。液体とも気体ともつかない、黒くどろどろとした物体が、部屋の中央に浮いていた。


 そこにあったのは多数の顔だった。顔は次々と塊の奥から現れては、何事かを呟いて消えて行く。沼の底から沼気が湧き立ち、それが泡となって爆ぜるように。



――――寒い……寒い……。



――――苦しい……苦しい……。



――――痛い……痛い……。



 どの顔も、その全てが沈痛な面持ちのまま、悲痛な叫び声を上げていた。


 あれは、かつてこの船の船員だった者達と、この船に取り込まれてしまった者達の姿なのだろうか。海の魔物と一つになって、ただ食らうことでしか自分の痛みを癒せない。永遠に大海原を彷徨いながら、次々に犠牲者を生み仲間を増やす。そんな存在になった者達の叫びなのだろうか。


「なあ、美紅……。あいつらは……」


「もう、気づいているんでしょ? あれが、この船の本体よ。擬態に力を使い過ぎて、あの姿じゃ何もできないけどね」


 左手だけで太刀を構え、美紅はそっと力を解き放った。黒い闘気のようなものが再び刀身を覆ってゆき、溢れ出す気は蛇のようにうねうねと蠢きながら獲物を探していた。


「ねえ、宗助君」


「なんだ?」


「人って、弱いわよね。こうして群れなければ生きられないのに、結局は自分可愛さに走ってしまう。誰かのために、なんて口では言いながら、結局、それをするのは自分のためが一番大きな理由だったりするわ」


「それは……」


 美紅の言葉に、宗助は何も返せなかった。彼女は自分を責めているのか。いや、それにしては表情がおかしい。そういう彼女自身、どこか寂し気な顔になっているのは、気のせい等ではないはずだ。


「別に、あなたを責めているわけじゃないの。私も……所詮は同じようなものだからね。普通の世界じゃ生きられないと知っていても、それでもやっぱり、どこかで普通の世界との関係を持ちたいと思ってしまう。そうでなくても、自分の理解者を一人でも多くって……そう、思うことだってあるのよ……」


「美紅……」


「私があなたを助けたのって、要はそういうこと。自分の心を護りたいって思うのは、人として普通の感情だからね」


 そう、諭すように告げながら、美紅はそっと黒い塊に近づいていった。宗助からの返事は待たない。返事など待たずとも、既に答えは決まっている。彼女の背中がそう物語っていた。


 ここで最後の決着をつける。全ての悪夢に終焉を。ただ、それだけを考えて、美紅は目の前の塊に刀を突き刺した。


「……滅」


 刀を突き刺すと同時に手を離し、すかさず複雑な印を結ぶ。その途端、刀より溢れ出た無数の闇が、触手のように黒い塊に絡みついた。


 闇薙の太刀。その内に秘めたる貪欲なる闇は、ただひたすらに魂を求めて荒れ狂う。生者も死者も問わず、本能の命じるままに相手を食らう。ただ、己の渇きを癒すため。それだけの理由で全てを飲み込み闇へと帰す。


 美紅は言った。海の魔物の本質は食らうことだと。恐らくは、この太刀も同じなのだろう。向こう側の世界・・・・・・・の者達は、意外と純粋なる弱肉強食の世界に生きているのではないかと。ふと、そんな考えが頭を掠めた。



――――あ……あぁぁぁ……。



 だんだんと、人の顔の数が減ってきた。それに合わせて黒い塊も徐々に小さく縮んでゆく。やがて、全ての食事を終えたとき、そこに転がっていたのは銀色の刀身を持った鋭い一振りの刀だけだった。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 崩落は唐突に訪れた。


 船の中枢を成す人魂の群れ。それを破壊したことで、船は船としての姿を保てなくなっていた。


 元より、これは船であって船ではない。沈んだ船に、海の魔物が擬態していたものだ。が、擬態している魔物が倒された結果、擬態によって補われていた部分が崩壊を始めたのだ。


 気がつくと、壁のあちこちが既に色を失っていた。ある場所は赤錆にまみれ、ある場所は無残にも腐食が進み、触れるだけで崩れ落ちてしまいそうになっていた。


「走れる、宗助君?」


「ああ。美紅の方こそ、大丈夫か?」


 互いに互いの身体を庇いつつ、宗助と美紅は出口を目指して走った。捻挫した足が痛んだが、それでも美紅に比べればまだマシだ。最後の最後に、ここで怪物と心中してなるものかと。痛みを堪えて賢明に上の階を目指し走り続けた。


 船体がぐらりと傾く。身体が斜めに倒れ、壁にぶつかった。


 崩壊のときは近い。船が斜めに傾いでいるのは、その身を再び海の底に沈めようとしている証拠だ。


 既に、形振りなど構ってはいられなくなっていた。肩腕を折られた美紅に肩をかしつつ、宗助は這うようにして外へと飛び出した。


「これは……!?」


 水密扉を叩いて開けると、そこには一面の青空が広がっていた。船を覆っていた霧は跡形もなく消え失せ、日常への帰り道が宗助達を待っていた。


 もう少しだ。もう少しで、完全にこの悪夢から逃れられる。


 逸る気持ちを抑えることができず、宗助は甲板目掛けて足を急がせた。そのことが、油断を生んだのだろうか。


「危ない!!」


 突然、美紅が宗助から離れ、無事な方の左手で彼を突き飛ばした。


「美紅、何を……!?」


 そこまで言って、直ぐに宗助も気がついた。


 目の前を落下する鉄のパイプ。それが美紅の頭を直撃し、鈍い音を立てて転がった。


 船の崩落は内部だけではない。外部もまた、擬態によって形作られていたのだと。そのことを忘れていた自分を悔いたときには遅かった。


 パイプの直撃を食らった美紅が、糸の切れた人形のようにして崩れ落ちた。さすがに、不意打ちでは受け身さえ取れなかったのか。白金色の髪が揺れ、瓦礫と共に美紅の身体が宙に舞う。


「くそっ! 間に合えっ!!」


 慌てて手を伸ばすと、辛うじて指先が触れ合った。そこをすかさず握り締めたが、刹那、再び大きな揺れが船全体を襲って来た。


 身体が滑る。右手で美紅の手を掴んだまま、左手で手すりを掴んで持ち堪える。


 既に、船はその身を海面に垂直に立てるような形になっていた。このままでは沈む。それまでに信吾のボートに戻らねば。そう、頭ではわかっていても、現状はどうすることもできなかった。


 気を失った美紅の身体が、見た目以上に重く感じられた。自分の腕も既に限界だ。その間にも徐々に海面がこちらに迫り、手すりを掴む右手もまた痺れて行く。


(駄目だ……落ちる!!)


 手すりを握る手が汗で滑り、宗助は成す術もなく眼下に広がる大海原へと落下した。目の前に波打つ海面が迫ったところで、視界が水飛沫によって遮られた。


 身体が重い。美紅を掴んでいることや、服を着ていることもあっただろう。だが、それでも今は夏だというのに、この水の冷たさはなんだろう。海水浴場やプールの水とはまったく違う。外洋というのはここまで寒く、冷たい水の漂う場所だったというのだろうか。


 このまま死んでたまるか。沈んでゆく美紅の身体をなんとか引き寄せ、宗助は呼吸のために顔を上げた。


 身体は酸素を求めていたが、口を開くと同時に余計な海水まで入り込んでくる。それでも空気が肺に入ると、少しばかり力が戻った。


 再び身体を水中に沈め、宗助は美紅の顔をしっかりと抑えて正面に向けた。


 やはり、気を失っている。このまま放っておけば、彼女は遠からず溺れて死ぬ。


 迷いは既になかった。唇を重ね、舌で強引にこじ開けると、口の中に含んだ空気を彼女の中に吹き込んだ。


 再び呼吸が苦しくなる。泳ぎながら頭を上げて息を吸い込み、また身体を沈めて美紅へと空気を送る。


 身体の痛みは既にどこかへ吹き飛んでいた。ただ、二人で絶対に生き残るのだと。それだけを考え、我武者羅に泳ぎ続けた。


 それから、どれくらい経ったのだろうか。気がつくと、自分は小さな救命ボートにつかまっていた。


 あの船に搭載されていたものが流れてきたのだろうか。それとも、徹のヨットに積まれていたものが、何かの拍子に流れ出したのだろうか。


 その、どちらでも関係はなかった。今となっては些細なことだと、美紅の身体を引き上げつつ宗助は思った。


「はぁ……。今度こそ……終わった……のか……」


 沈みゆく船を横目に、宗助は天を仰いだまま口にした。これで本当に悪夢は終わりだ。白い綿雲を目にしつつ息を吐いたところで、彼の腕を何かが掴んだ。


「美紅……?」


 気がつくと、隣に寝ている美紅が、自分の腕をとって微笑んでいた。


「無事だったのね……。よかった……」


「そっちこそな……。ったく……最後の最後で、無茶しないでくれ……」


「お互い様でしょ、それは」


 美紅の顔に、悪戯っぽい笑みが浮かぶ。赤い瞳と視線が重なり、宗助は自分でも自分が抑えられなくなるのを感じていた。


 言葉など、既に必要なくなっていた。ただ、本能のままに指先を美紅の頬へと伸ばし、そのまま互いに唇を重ねた。


 潮の香りと血の臭い。微かにそれを口の中に感じながら、宗助は美紅を抱き締めた。冷えた身体を温め合うように、失った何かを埋め合わせるように、ただひたすらに、彼女を求めた。


 もう、これ以上は失いたくない。自分の大切な何かを手放したら、二度と帰って来ないような。そんな気がしてならなかったから。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 洋上を漂う宗助と美紅が救助されたのは、それから程なくしてのことだった。


 謎の船舶行方不明事件。一般には異常気象に伴う霧の発生と、それによって航路を失った船が座礁、もしくは転覆するなどして起きたものとされていた。


 軽傷――――とはいえ、入院が必要な程ではなかったというだけだが――――の宗助とは違い、右腕を折られた美紅は、未だ病室のベッドの上だ。脱出の際に頭を打ったことも災いし、しばらくは安静にして様子を見る必要があるとのことだった。


 病室のベッドに横たわる美紅を後ろに、宗助はふと、窓の向こうに広がっている夜の街へと目をやった。


 街の灯りが揺れている。そこにあるのは、ただの日常。しかし、自分は既に、あそこへ戻ることは叶わない。多くの悪夢を掻い潜り、数多の仲間を失って、あまつさえ人ならざる力を内に秘めたる存在となってしまった自分には、日常の中に戻るべき場所などありはしない。


「なあ、美紅……」


 彼女はまだ起きているだろうか。そろそろ帰らねばと思いつつ、宗助は最後に美紅の名を呼んだ。


「どうしたの? また、何か変な物が身体に入ったのかしら?」


「そうじゃない。ただ……」


 言葉が詰まる。言いたいことはわかりきっているいるのに、それから先が出て来ない。


 あのとき、船の本体に止めを刺す際、美紅は自分に言った。


 人間は弱い。だから、群れてその寂しさを紛らわそうとするのだと。その一方で、どんなに言葉で飾っても、結局は自分可愛さに走ってしまう。そんな矛盾を孕んだ生き物であると。


 だが、陽明館事件の際に、彼女はこうも言っていた。生きることは戦うことだと。戦って、傷ついて、悲しいこともたくさん経験するかもしれないが、その度に人は強くなると。


 結局、人は強いのだろうか。それとも、弱いのだろうか。その答えは、既に宗助の中で決まっていた。


(そうだ……。人間は……弱い……)


 だが、それは一人だから弱いのだと。たった一人で絶望に立ち向かおうとするから、その闇に押し潰されて負けるのだと。それが宗助の出した答えだった。


 人は弱い。だから仲間同士で群れ、そこに安住の地を求めようとする。


 問題なのは、その先だ。そこから先、仲間と共に運命に抗い立ち向かうか。それとも、全てに背を向けて己の運命から逃げ出すか。人が闇に堕ちるか否かは、それが別れ道になっている。そんな気がした。


 仲間を信じることができず、変化を恐れて世界に背を向けようとした七森志乃。


 仲間など最初からおらず、魔物の闇に全てを委ね、破壊と暴力の権化と化した田宮徹。


 彼らは孤独だった。そして、共に運命に抗う仲間もいなかった。それが彼らを二度と戻れぬ深淵に引きずり込むことになったのか。だとすれば、自分も例外ではないと宗助は思った。


 生きるための戦い。それは、決して孤独な戦いであってはならない。たった一人で戦った先に待つものは、結局は永遠の闇だけなのだから。


「美紅……もし、君がよかったら……」


「なに? こういうときに、勿体をつけるのは良くないと思うけど?」


 上半身だけを起こし、美紅が軽く微笑んで見せた。こちらの言いたいことは既に承知している。そんな笑顔だった。


「これからも……俺の側にいてくれないか? 俺は君と一緒に戦いたいんだ。自分の……運命ってやつを相手にさ」


「あら? 私なんかでいいのかしら?」


「ああ。我侭なのは、解ってる。俺なんか、足手まといにしか過ぎないってことも承知してる。それでも……」


 それでも、自分には美紅しかいないのだと。多くの仲間を失った今の自分に、最後の最後で残された者。それを失いたくないのだと、宗助は早口でまくし立てる様に口にした。


 一瞬の時間が、永遠のように長く感じられた。全てを告げた後に訪れた静寂の中、宗助は自分の意思とは関係なしに、鼓動がどんどん速くなってゆくのを感じていた。


 赤い瞳が真っ直ぐにこちらへ向けられている。無言のまま、表情一つ変えずにこちらを見つめる美紅の姿に、宗助の中で少しだけ不安が膨らんだときだった。


 病室のガラスに反射した美紅の顔が、優しく微笑んだそれに変わった。透き通るような美しさ。そんな言葉が似合う笑顔を湛え、美紅は静かに宗助に答えた。


「ええ、いいわよ。あなたとだったら、喜んで」

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