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~ 戌ノ刻   理由 ~

 湿った空気が肌を撫でる。


 階段を下ると、そこは酷く濡れた空間が広がっていた。


 磯の臭いが漂い、天井から滴る水滴が肩にかかる。どこかで水が漏れているのだろうか。あちこちで水滴の落ちる音が響き、こちらの足音と混ざって奇妙な旋律を奏でている。


 あれから美紅は、何も宗助に語ってくれなかった。いや、宗助自身が、美紅に何かを聞ける状態ではなくなっていた。


 晴美は死んだ。ああなっては、もう救う術はなかった。それは宗助にも解る。


 だが、理屈ではわかっていても、自分の心まではごまかせない。あのときの晴美の姿、怪物と成り果ててもなお助けを請うようにして手を伸ばす姿が、脳裏に焼き付いて離れなかった。


 他に方法がなかったのか。自分達は、本当に正しいことをしているのか。ふと、そんな疑問が頭をよぎる。


 生きるために戦うのは正しいが、立ちはだかる者を殺すということは、それは即ち全ての可能性を奪うことに他ならない。自分や美紅に、それを決めるだけの権利があるのか。そこまでして生き延びる資格があるのかと、今更になって心が痛んだ。


「なあ、美紅……」


 いたたまれなくなり、宗助は美紅の名を呼んだ。先程の話の続きを聞くためではない。事件の真相など、今の宗助にとっては些細なことに過ぎなかった。


「晴美は……本当に、助からなかったのか?」


「晴美? ……ああ、さっきの娘ね。そりゃ、私だって助けられれば助けてるわよ。でも、残念だけど、あそこまで同化が進んでいたら手遅れよ。私だけじゃなく、どんな霊能力者に聞いたところで、同じ答えを返したでしょうね」


「すまないな……。頭じゃ解ってるけど、やっぱり駄目なんだよ。俺は君みたいに強くない。君みたいに、何でも割り切って考えられるほどタフじゃないんだ……」


 次第に声が小さくなっていった。


 宗助の言葉を聞きながら、美紅は無言のまま彼のことを正面から見据えていた。その赤い瞳は、真っ直ぐに宗助の瞳へと向けられている。弱さを侮蔑するわけでもなく、彼の言動を非難するわけでもなく、ただ力強い意志の込められた視線だけを送っていた。


「正直に言ってくれないか、美紅。今回の事件は……もしかすると、俺が引き寄せたってことじゃないのか? 俺がこの船を……海の化け物を引き寄せて、皆を巻き込んだんじゃ……そうなんじゃないのか!?」


 相変わらず、美紅は何も言わなかった。それが却って不安を煽り、宗助は先程にも増して語気を荒げながら美紅に問うた。


「答えてくれ、美紅! どうなんだ!? やっぱり、俺が皆を巻き込んだのか!? 俺の中に眠る力が……七人岬の力が、海の化け物を呼んだ! そうなんだろう!?」


「自分の力が海の化け物を呼んだ、か……。その問題に、私はどう答えればいいわけ? あなたは悪くない、悪いのは全部、向こう側の世界・・・・・・・の住人達。そう言えば気が済むのかしら?」


「誤魔化さないでくれ! 俺は別に、気休めが欲しいわけじゃない! ただ……本当のことを知りたいんだ!」


「本当のこと? 悪いけど、それは私も知らないわ。あなたの中に霊的な力が宿っているのは事実だけど、それが全ての根源ではないもの」


 少しだけ視線を逸らし、美紅は溜息混じりに言った。嘘を吐いている様子はない。だが、それでも宗助は納得せず、更に美紅へと詰め寄った。


「なあ、美紅……。君は、前に言ってくれたよな。生きることは戦うことだって。だから、辛くても傷ついても、決して諦めずに前に進まないといけないって……」


 声が掠れ、涙が頬を伝わった。自分でも気づかない内に、宗助は嗚咽を漏らして泣いていた。


「もし、本当に俺の力が魔性を呼んだのだとしたら……塚本も晴美も、俺が殺したようなもんだろ? それでも、俺は戦わないと駄目なのか? 仲間の死体を乗り越えて、自分が助かるなら仲間も犠牲にして……そうやって、乗り越えていかないといけないのか?」


 矢継ぎ早に、宗助は美紅に向かって叫んでいた。それは彼女に向けられた問いというよりは、彼自身の自問にも等しい言葉だった。


「どうなんだよ! 答えてくれ、美紅!!」


 拳を握り、涙を堪えた。一度、心の中にあるものを吐き出すと、自分でも止められなくなっていた。


 自分の力が仲間を危険に晒し、そして死へと導いた。もし、それが本当だとすれば、果たして自分に生き延びる資格などあるのだろうか。


 気休めが欲しいわけではない。ましてや、慰めの言葉をかけて欲しいわけでもない。ただ、答えが欲しかった。どのような答えであれ、美紅の口から言ってくれれば受け入れられる。そんな気がしたからだ。


 水の滴る音がして、それから再び静寂が訪れた。


 この場所は、空気からして死んでいる。そんな表現が似合う程の静けさだったが、果たしてそれは決して長くは続かなかった。


 乾いた音が、水音を掻き消すようにして響き渡る。頬に熱い痛みを感じ、宗助は思わず片手で押さえた。


「いい加減にしなさい! 自分のせいで仲間が死ぬ? 仲間を犠牲にして乗り越える? 自惚れるんじゃないわよ!!」


 赤い瞳が震えていた。その奥に見えるのは怒りではない。憐みと悲しみ。それに近い何かを感じ、宗助は何も言えなくなった。


「落ち着いて聞いてね、宗助君。確かにあなたの言っていることは、ある意味では正しいわ。私達、向こう側の世界・・・・・・・に通じる力を持った者は、互いに惹き合う性質を持つ。それは紛れもない事実なの」


 やはりそうか、と宗助は思った。だが、それではなぜ、美紅はこうも激しく感情を表に出しているのか。普段とは違う彼女の様子に戸惑う宗助だったが、美紅はなおも言葉を続けた。


「でも、考えて。今、この瞬間にも、世界ではたくさんの人が死んでいるわ。事故で、殺人で、それから戦争で……。それこそ、大人から子どもまで、秒単位で誰かが生まれて誰かが死んでいるのよ。幽霊や妖怪に出会うよりも、よっぽど高い確率でね」


 先程とは打って変わり、そっと手を差し伸べるように。しかし、その瞳は真っすぐに向けたまま、宗助の身体を、心を射抜いている。


「いい、宗助君。これは……強いて言えば、運の悪い事故みたいなものなの。絶対に安全を謳われた飛行機が墜落して事故に遭う人もいれば、本人は何も悪くないのに、いきなり道端でトラックに轢かれてしまう人もいる。それと同じで、これも事故なのよ。運悪く、自分達の命を奪う何かに遭遇してしまった。それが、たまたま向こう側の世界・・・・・・・の存在だった……。それだけよ」


「でも、やっぱり俺がいなけりゃ、この船とだって出会わなかったかもしれないじゃないか! それでも君は、これが不慮の事故だって言えるのか!?」


「ええ、そうよ。私の見立てでは、この船は既に何人もの人間を食らっているのでしょうね。だから、それに味を占めて人間を誘い込んでいるだけで、別にあなたが悪いんじゃない。これで納得してくれた?」


「それは……」


 単なる自己弁護の現実逃避ではないのか。そう口にしようとするも、言葉に出すことはできなかった。


 美紅の言いたいことは宗助にも解る。確かにこれは事故だ。向こう側の世界・・・・・・・の住人に襲われて死ぬという、極めて珍しいが、しかし死という事実は変わらない出来事。違うのは過程だけであり、結論だけ見れば車に轢かれるのと何ら変わらない。そういうことなのだろう。


 たまたま街頭で買った宝くじで一億円を当てる者もいれば、運悪く不慮の事故で命を奪われる者もいる。確率の世界だけで考えれば、どちらも等しく全ての人間に起こり得る可能性がある。


 妖怪や幽霊は、決して空想の産物ではない。それを知った今、彼らによって殺されないという保証が、どのような人間にもないということは理解していたつもりだ。


 だが、それでも、やはり宗助は納得できなかった。なぜ、自分の知り合いばかりが、こうも不幸な目に遭わねばならないのか。生きるということは、ここまで辛く苦しいことなのか。


 やり場のない怒りと悲しみ、そして苦しみ。交通事故で身内を失った遺族のように、誰かに答えを言ってもらいたかった。もう、ここで休んでいいのだと、そう言って欲しかった。


 生きることは戦うこと。ならば、その戦いに背を向けて逃げることは、即ち死ぬということだ。生きていても死んでいる等という表現があるが、今の自分にはそんな言葉が相応しいのかもしれない。


「行きましょう、宗助君。私達に、立ち止っている暇は……」


 ようやく普段の口調に戻り、美紅が促すようにして言った。もっとも、その全てを言い終わるよりも先に、彼女の視線が再び細く、鋭く変わった。


 獲物を狙う猛獣の目だ。暗闇の中で煌々と光る赤い瞳は、夜行性の肉食獣を連想させる。


「伏せて!!」


 そう言うが早いか、美紅の手から銀色のナイフが投げられた。それは宗助の頬を掠め、後ろにいた者の頭に深々と突き刺さった。


「ぎぃぃぃぃっ!!」


 ガラスか黒板を引っ掻いたような、全身に鳥肌を覚えさせる不快な音。その手に握っていた棍棒のようなものを放り出し、それは一目散に闇の中へと消えて行く。


「あいつは!?」


 いったい、何が起きたのか。その全てを理解するまでに、宗助には数秒の時間が必要だった。


 新手の刺客か。そう考えるのが自然だったが、あれは今までの相手とは違っていた。晴美のような怪物でもなければ、以前に遭遇した鉈男とも違う。


 この期に及んで、まだ隠し玉を持っていたのか。擬態しか能力がないとはいえ、宗助は改めてこの船の持つ力の強大さに身を震わせた。


 確かに美紅の言う通り、これは立ち止っている時間などないのだろう。未だ気持ちの整理はつかないが、納得のゆく答えを見つけるのは後回しだ。


「気をつけてね、宗助君。敵は、あいつだけじゃないわよ……」


 トランクを開け、梵字の刻まれた木刀を取り出して静かに構える。鉄球やナイフといった武器をコートの内側に納め、美紅は空になったトランクを無造作に放り投げた。


 出し惜しみをしている場合ではなさそうだ。こちらに近づいてくる音に耳を立てながら、美紅は深く息を吸い込んで精神を研ぎ澄ました。



――――ズルッ……ズルッ……。



 暗闇の中、何かを引き摺る音がする。それを聞いた宗助もまた、思わず美紅から授かった霊撃銃を引き抜いて身構えていた。


(あれは……。間違いない……奴が来る!!)


 自然と鼓動が早くなってゆくのが自分でもわかった。


 人間、死が間近に迫ると、本能的に身を守ろうとするのだろうか。先程まで困惑していた頭が、皮肉にも冴えてゆくのが感じられた。



――――ズルッ……ズルッ……ズルッ……。



 音が更に近くなる。グリップを握る手が、自分の意思に関係なく汗ばんでゆく。


「わかってるわね、宗助君。今は……」


 気がつくと、美紅が背中を合わせるようにして霊木刀を構えていた。刻まれた梵字が赤く輝き、彼女の力が刀身に宿っているのがわかる。


 無言のまま頷き、宗助は美紅に答えた。


 そう、今は迷っているときではない。甘えも泣き言も許されない。自分の欲しい答えを手に入れるまで待ってくれるほど、残念ながら現実は常に甘いわけではない。


 闇の奥から、音の主が姿を見せる。その頭を袋で覆い、片手に巨大な鉈を持った処刑人。信吾の足を奪い死に至らしめた仕掛けを施し、宗助や真弓の命でさえも狙った張本人。


(鉈の……男か……)


 あれが人間ではないことくらい、既に宗助も感づいていた。それは美紅も同様だ。打ち倒すべき障害を目の前に、霊木刀に刻まれし文字が更に強く、赤く輝く。


 男の片手に握られた鉈が、音もなくゆっくりと持ち上げられた。重たい金属の塊、断頭台を思わせる刃が振り下ろされ、それが戦いの狼煙となった。


「……っ!?」


 頭の中心を狙って放たれた一撃。済んでのところでそれを避け、美紅はお返しとばかりに渾身の突きをお見舞いした。


 喉元を突かれ、鉈の男が少しばかり後退した。が、自慢の一撃を当てたにも関わらず、美紅の顔は未だ警戒の色を崩さなかった。


 感触が鈍い。人間の身体を突いたときとは異なる、不快で手応えのない反応が不気味だった。


 それは、喩えて言うなら水を大量に含んだスポンジのような感触をしていた。打てども突けども響かない。痛みも苦しみも感じない。身体は人の形をしていながら、目の前にいるのは既に人であることを捨てた存在だ。


「撃って、宗助君!!」


 次の一撃が放たれる前に、美紅は後ろにいる宗助に向って叫んでいた。


 閃光が闇を切り裂く。霊撃銃から放たれし神秘の力は、そのまま霊的な存在を穿つための弾となる。力の調節こそできないものの、今の宗助でも敵を撃つだけなら十分に務まる。


 両手、両足、そして首筋。人間であれば、動脈のある場所だ。矢継ぎ早に放たれた閃光は、確実に鉈の男の急所を撃ち抜いていた。が、果たしてそんな宗助の狙いもむなしく、攻撃を食らった鉈の男は、少しばかり身体を震わせただけだった。


 やはり駄目か。軽く舌打ちをして、美紅は霊木刀を構え直す。


 宗助の銃の腕は、美紅も十分に知っている。以前、陽明館事件で戦ったときも、彼の腕前には助けられた。なんでも近所のゲームセンターで鍛えたとのことらしいが……本当のところは、美紅にもわからない。


 だが、そんな彼の腕を持ってしても、目の前に立ちはだかる鉈の男には無力だった。


 霊撃銃は、霊的な力を光の弾と変えて発射することで、向こう側の世界・・・・・・・の住人達を滅するための武器だ。しかし、実体のない幽霊や完全に異形の怪物と化した存在ならいざ知らず、生きた肉体を持った相手には効果が激減してしまう。


 肉体に捉われた生き物は、その肉体によって霊的な力を制限される。が、同時に肉体は霊的な攻撃に対するフィルターの役割も果たすため、こちらが相手を攻撃する場合は壁となる。


 幽体離脱した状態で悪霊に攻撃されれば危険だが、肉体を持った人間は、いかなる悪霊でも殺すのに苦労するのと同じだ。よほど強力な力を持った存在でもなければ、呪いや祟り、憑依等で衰弱死させるよりも、ナイフで刺した方がよっぽど早い。


(なるほど……。同化型の憑依をしてるってわけね)


 再び襲い来る鉈の一撃を避けたところで、美紅は改めて敵の姿を凝視した。


 赤い瞳が大きく見開かれ、その中心に鉈男の姿が映し出される。霊的な感性を全開に、美紅は敵の中に宿る仄暗い何かを捉えていた。


 人の身体を持ちながら、しかし人でも亡霊でもない存在。霊的な存在によって、その肉体を中途半端に歪められたものだ。


 この肉体は、魂のレベルで変異している。どんよりと濁った何かを瞳の奥に見据え、美紅は懐から敵の顔面目掛けて鉄球を投げつけた。


 不思議な曲線を描きながら、回転する鉄球が鉈男の頭にめり込んだ。質量による一撃は通じていないようだが、それもまた計算の内。


 敵の身体から鉄球が離れるよりも早く、美紅は片手で奇妙な印を結んだ。


「……砕!」


 鉄球が、美紅の言葉に呼応するようにして輝く。ただの鉄球ではない。内部に特殊な護符を仕込んだ特注品だ。


 閃光が闇を照らし、爆音が響いた。飛び散る鮮血と肉の欠片を、美紅は軽くコートを翻すことで避けてみせた。


 霊的な力に感応して破裂する爆弾。美紅の使う武器の中では、珍しい使い捨ての品である。


 霊能力だけで勝てない相手には、時にこうした品も使わねば勝つことはできない。爆風で肉体を、閃光に秘められた霊力で魂を焼き焦がし、完膚なきまでに敵を粉砕する。物理と神秘を巧みに使い分け、融合させることが、彼女の強さの一端を担っていたのは間違ない。


「や……やったのか?」


 大の字になって倒れている鉈の男を見て、宗助がそっと後ろから顔を覗かせた。が、美紅はそれを軽く制し、再び霊木刀を構えていた。


「いえ、まだよ……。どうやら、随分とタフなお相手みたいね。倒れて直ぐに二回戦なんて、焦り過ぎて品性がないわ」


 そう、冗談めいた口調で言っていたが、彼女の顔は笑っていない。


 顔面を醜く砕かれた男が、音もなく静かに起き上がった。被っていた袋は焼け焦げ、既に覆面の役割を果たしていない。目も鼻も、およそ顔面の部品という部品を全て失いながらも、男は何事もなかったかのように立っていた。


 肉塊が膨張し、血飛沫の飛び散る音がする。砕かれた男の顔は醜い腫瘍の姿を経て、瞬く間に人間のそれへと再生を遂げた。


「な……! う、嘘だろ!?」


 銃口を相手に向けるのも忘れ、宗助は思わず叫んでいた。


 そこにあったのは、紛れもない人間の男の顔だった。しかし、先程の再生能力を見る限りでは、目の前の相手が人間でないことは明白だ。


 だが、それ以上に宗助を驚かせたのは、その顔があまりに普通の人間の顔だったからに他ならない。晴美が変貌した異形とは違う、至って普通の……それこそ、どこにでもいそうな人間の男のものだったのだ。


 淀んだ灰色の瞳で、男は美紅を睨んでいた。人間らしい感情など持たない相手だと考えていたが、目の前の男は明らかに怒っている様子だった。


「あらあら、顔を砕かれてご立腹のようね? でも……悪いけど、いつまでもあなたと遊んでいられるほど暇じゃないのよ!!」


 霊木刀が唸りを上げて、男の鉈と交差する。樫の木で作られた木刀とはいえ、所詮は木の棒だ。鉈の刃とぶつかることで、辺りに木片が飛び散った。


「美紅!」


「大丈夫よ、宗助君。ここまでは……計算通りだから」


 木刀に鉈の刃をねじ込まれながらも、美紅はにやりと笑って言った。


 純粋な力では男の方が上だ。それは美紅も知っている。それでも彼女は、敢えて真っ向から勝負に出た。正々堂々と戦う等といった信念からではなく、あくまで作戦の一環として。


「残念だけど、チェックメイトよ。砕いて駄目なら……まずは武器に流し込んであげるわ!!」


 気合いと共に空気が震える。赤い瞳が輝きを増し、白金色の髪の毛が重力に逆らう形で逆立った。


 霊力全開。怪物と化した晴美を倒した際にも見せた、美紅の得意技だ。己の持てる力を一点に集中させることで、退魔具の力を最大限に引き出してぶつける。彼女の背中に背負う立ち、闇薙の太刀の力を除くなら、正に必殺の名を冠するに相応しい技だ。


 晴美を倒したときは、内部へと力を流し込むことで彼女の狂った魂を消滅させた。では、今回の美紅の狙いは何か。先程の彼女の言葉が示す通り、それは敵の持っている鉈だった。


「……ぐぅっ!!」


 低い唸り声を上げて、男が手にしていた鉈を放り出した。


 鉈の刀身は、当然のことながら金属で作られている。そして、古来より金属は霊的な波動を通しやすい物体として、退魔具の材料としても珍重されてきた。


 鉄は金や銀に比べて波動を通し難いとはいえ、美紅の膨大な霊力の前では関係ない。肉体のフィルターを持ってしても、鉈を通じて流れ込む彼女の力を持ってすれば、武器を叩き落とさせることなどは容易だった。


 この機は逃さない。


 男の手が再び鉈に伸ばされるよりも先に、美紅の強烈な蹴りが男の胴を捉えた。鋭く、しなやかに、しかし力強い一撃の前に、さすがの男も身体を揺らして後退した。


「これは……お釣りよ!!」


 巨大な鉈を拾い上げ、美紅はそれを腰溜めに構える。やはり、重い。振り回すだけでも相当の力が必要だったが、この期に及んで鉈を振り回す必要など彼女にはなかった。


 渾身の力を込め、美紅は鉈を抜刀するようにして放り投げた。回転する巨大な刃は真っすぐに男の身体目掛けて飛んでゆき、鈍い音を立てながら食い込んだ。


 男の身体がぐらりと揺れる。しかし、それでも美紅は未だ攻撃の手を休めようという素振りを見せない。


 この敵は、魂を滅ぼさない限り永遠に再生を続けるのだろう。かつて、彼女や宗助が戦った七人岬と同じように、完全に滅するまで何度でも再生を繰り返す。


 これを倒す方法はひとつしかない。身体を震わせ、早くも再生を遂げようとする男に向かい、美紅は冷ややかな視線を浴びせたまま呟いた。


「焼き尽くしなさい、黒影……」


 影が細く、長く伸びる。流動的で不定形な塊の姿を経て、それは金色の瞳を持った巨大な犬の姿へと変化する。


 咆哮が空気を震わせ、青白い炎が暗闇を走った。あらゆる魔を滅する破魔の炎。その効果は、さしもの鉈男でも例外ではない。


 その身を焼かれ、男は奇声を発してもがいていた。身体に食い込んだ鉈を外すことも忘れ、無様に床を転がっていた。


「美紅……これは!?」


「まだよ、宗助君。まだ、最後の詰めが残っているわ」


 燃え盛る炎に身を包まれながら、しかし男の身体は燃えてはいない。


 黒影の炎が焼き尽くすのは、あくまで霊的な存在に過ぎない。異形とはいえ、目の前の相手は肉体と魂の双方を持っている。その上、驚異的な再生能力まで併せ持っているのだとすれば、倒すべき手段は限られている。


 苦しみもがく男の口から、どろりとした物体が吐き出された。それを見た美紅の瞳が一段と鋭くなり、黒影もまた低い唸り声を上げて威嚇の姿勢を取っていた。


「喰らえ!!」


 主の命を受け、黒影の口が大きく開かれる。それは男の口から吐き出された塊を咥えると、一撃の下に噛み砕いた。


 情け容赦ない、冷酷無比な一撃だった。敵に情けをかける術など、犬神の黒影は持ち合わせてはいない。ただ、己の主に命じられるままに、目の前の敵を破壊するだけである。


「やれやれ……。なんとか片付いたわね」


 額の汗を拭い、美紅は傷ついた霊木刀を拾い上げて言った。鉈の一撃を辛うじて耐えたそれは、残念ながら使い物にならなくなっていた。


「片付いたって……何をしたんだ、美紅?」


 黒影が彼女の影に戻るのを見計らって、宗助もまた霊撃銃を納めて訪ねた。あの不死身とも言える男を、いったいどうやって倒したのか。そのことだけが気になっていた。


「そうね……。簡単にいえば、肉体から引っ張り出して魂だけを壊したってところかしらね。あいつは肉体を持っていたけど、それは既に人間のものじゃなかったわ。元は人間だったのかもしれないけど……今や、完全に魂が異物と融合していたからね」


「異物と……融合?」


「そうよ。宗助君は、憑依については詳しいかしら?」


「憑依?」


 質問に質問で返され、宗助は面食らった。


 憑依というものがなんなのか。それは、宗助とて知らないわけではない。幽霊が、人にとり憑いて思いのままに肉体を操る。そこまでいかずとも、肉体の一部に痣のような形で付着して、その人間に断続的な苦痛を与え続けるものだ。


 己の力を完全に制御できない宗助は、正にそういった憑依現象に悩まされていた。そして、それを救ってくれたのが、他でもない美紅だったのだから。


「憑依っていうと……俺の身体にできていた、あの痣みたいなものか?」


「ええ、そうよ。ただ、こいつの憑依の仕方はそんな生易しいものじゃないわ。より深く、より奥底で相手の魂と繋がって、完全に同化してしまっているの。」


「同化……ってことは、まさか!?」


「あなたの考えている通りよ、宗助君。こいつらは、人間でも亡霊でもない。人の肉体を持ちながら、悪鬼の魂を宿した者。正に、魑魅魍魎と呼ぶに相応しい存在なのよ」


 驚くべき事実を、美紅はさも当たり前のように言ってのけた。


 人間の身体に霊的な存在が憑くことで起きる憑依現象。それらは大別すると二つに分けられ、中には人間の肉体さえも変貌させるものがある。そして、そうなってしまった場合、大概は元の姿には戻れない。


 人でもなく、しかし幽霊でもない存在として、この世の摂理を外れて彷徨い続ける。自分が自分でなくなる感覚。それがどのようなものなのかは、できれば想像したくはなかった。


「私の見立てじゃ、こいつも所詮は尖兵に過ぎないわね。元の魂と融合したのは、恐らくこの船の一部……。本人の人格はちょっとだけ残っていたのかもしれないけど、それ以外は完全に操り人形に成り果てていたわ」


 床に伏せったままの鉈男の残骸。それを横目に美紅は語る。既に核とも呼べる魂を砕かれたためか、男はピクリとも動かなかった。


「こいつを倒すには、さっきみたいに動きを止めて、それから黒影の炎で異形化した魂を燻り出すしかないの。でも……これだって、別に今回の事件の元凶ではないわ。一匹は取り逃したことを考えると、急いだ方がいいのかもね」


 そう言えば、最初に美紅のナイフを食らった襲撃者もいたはずだ。暗がりでよく見えなかったが、あれはどこへ消えたのだろうか。


 ふと、廊下に目をやると、そこには赤黒い血が点々とついていた。恐らく、あの刺客が流したものだろう。


 互いに無言のまま頷いて、美紅と宗助はそれを追った。通路を曲がり、更に下へと続く階段を下りたところで、美紅は唐突に足を止めた。


 血痕が消えている。足元に転がっているのは、これは先程投げつけた銀製のナイフだ。


 恐らくは、敵が再生を遂げた際に排出されたのだろう。他に何か手掛かりがないか。そう思って辺りを見回すと、今度は比較的新しい血溜りを見つけることができた。


「あれは……」


 足音を殺し、そっと近づく。指で触れてみると、まだほんの少しだけ生暖かい。


 量と質感からして、怪物の流した血ではなさそうだ。では、果たしてこれは誰の血なのか。口にしなくとも美紅には、そしてなにより宗助にはわかる。


 仲間の誰かが襲われた。それ以外に考えようがなかった。


 ここにきて、忘れかけていた絶望が再び宗助の心を蝕み始めた。もしかすると、自分以外の人間は既に全員が死んでいるのかもしれない。そう考え始めると、もう駄目だった。


「美紅……。やっぱり、もう他の皆は……」


「しっかりしなさい、宗助君。あなたが悲観したところで、運命は何も変わらないわ」


「何も変わらない、か……。だったら、俺が何かをしたところで、既に決まった運命は仕方ないってことじゃないか! 死んだ連中は、もう絶対に戻らない! 違うのか!?」


「そうね……。でも、だからといって自分から運命に抗うのを諦めるわけにはいかないでしょう? それをやったら、そこがその人の本当の終焉よ。生きる意志を失ったところで、人は本当に死んでしまうの。例え、肉体的には生きていても……心の喪失が、本当の死よ」


「それは……」


「抗いなさい、運命に! どんなに不幸でも、どんなに苦しくても、抗って、抗って……最後の最後まで抵抗する。それができるのが、人間ってものじゃないの?」


 自然と語気が荒くなっていた。珍しく感情的になっている美紅の姿に、宗助もしばし唖然とした表情のまま言葉を失った。


 生きることは戦うこと。その戦いとは、己の運命に抗うこと。だが、確かにそれは正論であっても、全ての人間が彼女のように強いわけではない。


 戦う力を持たぬ者、戦う術を持たぬ者は、そのまま運命に翻弄されて死ぬしかないのか。そんな疑問が、ふと頭を掠めてしまう。


「なあ、美紅……。君が俺のために、こうして助けに来てくれたことには感謝しているさ。だけど……やっぱり、俺は君みたいに割り切れない。戦えと言われても……君みたいに強くはなれない……」


 自然と弱音が口から零れた。


 陽明館事件の際、自分は誓ったはずだ。死ぬのは怖いし、他人が死んでゆくのを見るのも怖い。だからこそ、最後まで戦おうと。そう誓ったが、やはり人は一人では限りなく弱い存在なのだろうか。 


 あのとき、自分は怪物と成り果てた七森志乃に言った。苦しいときは仲間を頼れ。困ったときは仲間と一緒に切り抜けろ。そうやって、一緒に苦難に立ち向かうことが戦いだと。その想いは、今でも変わらない。


 だが、蓋を開けてみれば現実はどうだ。


 他人より少しばかり強い霊能力を持ったところで、その大切な仲間一人救えない。信吾はその身を腐らせて死に、晴美は異形と成り果てて消えた。そして今、また誰かの血が床や壁に飛び散っているのを目の当たりにして、希望の灯火が消え去って行くのを感じている。


 自分には仲間を持つ資格などない。美紅がいなければ、自分など何もできないちっぽけな存在だ。その現実が、宗助の肩に重く大きく圧し掛かっていた。


「ねえ、宗助君」


 俯いたままの宗助に、美紅はそっと手を差し伸べた。そのまま撫でる様にして頬に指先を伸ばすと、苦笑交じりに彼を見つめた。


「確かに私は、連中と戦うための力を持っているわ。でも……それだけで、今まで戦えてきたわけじゃないの。私達の持っている力は、本来だったら人の手に余る代物よ。そんな爆弾を常に抱えて生きていられるほど、人間の心はタフじゃないわ」


 少しだけ視線を逸らし、美紅は軽く溜息を吐いた。普段は決して見せることのないような、どこか寂しげな顔だった。


「自分の心を守りたいから、自分の大切な人を守る。それが私の戦う理由よ。自分のために戦う人間は強い、なんて言うでしょう? それと同じことよ」


「そんな……! だったら、何で君は危険を冒してまで、わざわざ俺を助けに来てくれたんだ!? 俺なんて……君にしてみたら、お荷物みたいなもんじゃないか!」


「なに、馬鹿なこと言ってるのよ。私があなたのこと、そんな風に言ったことがあったかしら?」


 叫ぶ宗助を軽くいなし、美紅は悪戯っぽく笑って見せた。先程の寂しげな様子は既に消え、またしても普段の彼女に戻っていた。


 いったい、美紅は何を言いたかったのだろう。その答えを宗助が探そうとするよりも先に、美紅は床に転がっているナイフを拾い上げて軽く血糊を拭いた。


「ほらほら、いつまでも暗い顔して突っ立ってないの。敵の親玉は、まだ健在なんだからね。油断して気を抜いたら、今に首と身体が離れ離れになっちゃうわよ」


 軽くナイフで空を切り、美紅はその切っ先を何もない空間に突き立てた。


 否、何もないと言うのは語弊があっただろう。


 ナイフの先端が空中で止まり、見えない何かに押されて軽く跳ね返された。確かな手応えを感じ、美紅は再びナイフを振るった。今度は跳ね返されることもなく、それは目の前の空間に張り巡らされていた何かを一刀の下に斬り捨てた。


 プチッという音がして、美紅の足下に鋼線が落ちる。信吾の足を奪った、あのトラップと同じものだ。


「ここから先は、トラップ地獄ってわけね……。自分から親玉への道を教えてくれるなんて、随分と御親切なことで」


 皮肉交じりに鋼線を切ったナイフを見る。人体の一部でさえ軽く切断するそれを切った代償は、刃こぼれという形で彼女のナイフに残っていた。


 このまま進むのは危険過ぎる。宗助の目には見えていなかったが、夜目の利く美紅にはしっかりと見えていた。この先の廊下の至る所に、これと同じトラップが仕掛けられていることを。


 罠が多いということは、即ちその先に重要な何かが隠されているということだ。この船の中で最も重要な場所といえば、それは船に擬態している海の魔物の本体がいる場所だろう。そこを叩けば全てが終わる。そのことを知っているが、しかし焦りは禁物だ。


 残りのナイフで罠を解除して進むのもよいだろう。もっとも、それは同時に武器の無用な消耗をも招いてしまう。これから先のことを考えると、下手に道具を無駄遣いするわけにもいかなかった。


 仕方ない。少しだけ下がって呼吸を整えると、美紅は背中に背負った日本刀の柄に手をかけた。


「行くわよ、宗助君。あなたの気持ちがどうであれ、私はあなたを助けるために進むから……。だから、ちゃんと着いて来なさいね」


 異論は言わせない。そう締め括り、美紅は一振りの刀を引き抜いた。


 白銀の刃が解き放たれ、その刀身を深い闇が包んでゆく。船内を覆う闇よりも深く、彼女の操る犬神よりも濃い色をした漆黒の気。生者も死者も問わず貪欲に魂を食らう、犬崎家に伝わりし最終兵器。


 闇薙の太刀。あらゆる魂をむさぼり食う性質を持った呪剣は、同時に刀としての性能も秀逸だった。


 なにしろ伝説によれば、千人以上の罪人の血を啜るという過程を経て呪いの妖刀と化したとされる刀である。それだけの者の首を落としてもなお錆つかない刃は、やはりただの刃ではない。何らかの魔性の力を帯びた、決して腐ることも錆びることもない鋼なのである。


 柄に巻かれた封じ布を自分の手にも巻き付けて、美紅は自分の身体に食い込んでゆく刀の闇を封じ込んだ。


 今はまだ、この刀の力を完全に解き放つ時ではない。それまで力を温存せねば、今にこちらが食われてしまう。


 慎重に辺りの様子を探りつつ、美紅は刀の先で鋼線を切りながら進んで行った。その先に待つのは強大な闇。歩を進める度に強くなる陰の気を感じながら、美紅は船の本体に近づきつつあることを肌で感じていた。

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