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~ 酉ノ刻   追撃 ~

 甲板に腰かけた美紅が最初に取り出したのは、赤い色をした手作りの御守りだった。


「それは……」


 見覚えのある形と模様に、宗助の眼が丸くなる。あれは、自分が美紅から手渡された物と同じだ。彼女の従姉妹である朱鷺子が作ったという、霊的な存在を退けるための物。クルージングの最中に、徹の心ない行動から海に落とされてしまった物と。


 唯一異なっていたのは、御守り袋の色だった。自分が美紅から手渡されたのは、紺碧とも言える青い色をしていた。しかし、美紅の手に握られているのは、朱のような赤い色をしている。


「これは、朱鷺ちゃんがあなたに渡した物と同じよ。姉妹品ってやつね」


「姉妹品?」


「そう。単に同じ型をしているってだけじゃなくて、真の意味での姉妹なの。だから……片方に何か異変があれば、もう片方がそれを知らせる。そういうことよ」


 紐の切れた御守り袋を見せて、美紅は軽く笑って見せた。なるほど、そういうことだったのかと、宗助は自分の頭の中で様々なことが繋がってゆくのを感じていた。


 美紅がここへ助けに現れた理由。恐らくは、朱鷺子から御守りに異変があったという報を受けて、単身海へと乗り出したのだろう。どうやってここまで辿り着いたのかは知らないが、もしかすると皐月の力――――振り子を使い、目的の対象物を探り当てる能力だ――――を借りて探し出した可能性もある。


 ここに来るまでの足は、まあこれは小型の船でも借り受けたのだろう。美紅のような霊能者は、時として依頼の報酬に法外とも思える値段の金を要求することがある。彼女の力は本物故に、決してインチキ商法の類ではないのだが……何も知らない者からすれば、同じように見えるのだろうが。


 一度の仕事で数百万の金が動くこともある。それらの潤沢な資金は、時として彼女の戦いの支えとなる。向こう側の世界・・・・・・・の住人を相手に無茶な調査を行うとなれば、多額の金が必要になることもあるのだ。


「それにしても……」


 霧の漂う甲板の上を、美紅は改めて見まわしながら続けた。辺りに転がっているフナムシ達の死骸には、あまり興味がないようだった。


「どうやら、ここから逃げるには少しばかり手間が必要みたいね。まあ、突入した時から薄々気づいていたから、今更って感じもするけど」


「気づいていたって……。脱出の方法、考えていなかったのか?」


「考えてはいたわよ。ただ、楽に逃げられるとは思っていなかったってだけね。そのための準備も、ある程度はしてきたつもりだけど」


 足元に置かれた銀製のトランクを開き、美紅はその中身を取り出して見せた。彼女の肩に背負われた刀とは違う、様々な武器が一度に顔を見せる。


 梵字の刻まれた木刀に、これまた複雑な紋様を刻まれた掌サイズの鉄球。木札のような護符に加え、なにやら拳銃のようなものまで入っている。


 これらは全て、美紅が霊的な存在と戦うための道具だ。退魔具師と呼ばれる男、あの鳴澤皐月の父である、鳴澤達樹の手によって作られた専用武器。その威力は浄霊などという生易しいものではなく、邪悪な意思を持った霊的存在を完膚なきまでに消滅させることをも可能とする。


 陽明館事件の際も、宗助はこの退魔具達に助けられた。そしてそれは、美紅もまた同じこと。いかに彼女が強力な力を持っていようとも、武器なしで戦うのはさすがに厳しい。


 もっとも、そうは言ってもこれらの武器は、彼女の使うほんの一部のものに過ぎない。本気を出した彼女の力がどれほどのものか。それは、宗助も十分に知っている。


 貪欲に魂を食らうことを求め、生者も死者も関係なく食らい尽す闇薙の太刀。そして、犬崎家に代々伝わるとされる、犬神の黒影。


 甲板のフナムシ達を一掃した際にも、これらの武器や犬神の力を使ったのは明白だった。あれだけの敵と戦ってもなお、美紅は未だ余裕を崩さない。そんな彼女の姿を見て、宗助は改めてその力の凄まじさを実感していた。


「なるほどな。確かに、これだけの準備があれば……それに、君がいてくれるなら、この船から脱出することも可能かもしれないな」


 お世辞ではなく、それは本心だった。甘えるのは間違っていると思いながらも、今は彼女しか頼れる者がいないのも事実だった。


「さて……。それじゃあ、そろそろ行こうかしら? このまま座っていても、時間が勿体ないからね」


「ああ。でも、その前に少しだけ待ってくれないか。実は……まだ、この船の中に、俺の仲間が残されているんだ」


「あら、それは好都合だわ。どっちにしろ、ここから逃げるには霧を出している元凶を叩かないと駄目そうだからね。」


 少しだけ下を向いて、美紅はにやりと笑って見せる。彼女の視線が落ちたことで、宗助も美紅が何を言わんとしているのかを理解した。


 今回の事件の元凶は、まだ船の中に潜んでいる。それは、あの鉈男なのか、それとも全く別の恐ろしい存在なのか。


 答えは宗助にも分からない。だが、美紅はそれを知っている。


 反撃の準備は整った。美紅の持ってきたトランクから銃を取り出し、宗助は軽く握って感触を確かめた。


 霊撃銃れいげきじゅう。霊的な存在を撃ち抜くためにだけ作られた、鳴澤達樹の作る特殊武器の一つ。


 術者の霊力を弾に変えるタイプと、水晶板の霊力を借りて発射するタイプの二種類があるが、使い勝手はどちらも同じだ。違うのは、使用する毎に術者の力を消耗するか否かと、威力の調整が可能かどうかという点だけである。


 今、宗助の手に握られているのは、どうやら術者の力を弾に変えて撃ち出すタイプのようだった。本格的に用いたことはないが、今の自分ならば、少なくとも弾切れの心配はない。力の制御はできずとも、高威力の光弾を撃ち出すだけなら十分に可能なはずだ。


(皆……待ってろよ!!)


 もう、あのときのような思いをするのは御免だ。一年前、陽明館で起きた事件の記憶が頭を掠め、宗助の手に力が入った。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 真弓は逃げていた。


 先ほど、船の出入り口付近で出会った謎の怪物。あれは、いったい何だったのか。


 見覚えのある髪の毛と、怪物が口にした者の名前。それからして、あれが晴美であることは疑いようのない事実である。


 では、なぜ晴美は人の姿を捨て、あのような化け物になってしまったのか。そして、一緒に行方をくらましていた、千晶はどこへ行ってしまったのか。


(そういえば……)


 混乱する頭を必死に抑え、真弓は走りながら考えた。


 この船に初めて乗り込んだとき、晴美は食堂にあった料理を口にした。あのときは、まだ特に何かが起きていたわけではない。


 問題なのは、その後だ。信吾を抱えて部屋に戻った後、晴美はしきりに体調の不良を訴えていた。そして、宗助や兄と再び部屋に戻ったとき、晴美は千晶と共に姿をくらましていた。重傷の信吾を一人置いて、誰にも何も告げることなしに。


 晴美の変貌。その答えは、あの料理が握っている。難しいことはわからないが、恐らくはあれが原因だ。それ以外に考えられない。


 鉈男が徘徊する無人船。その内部には信吾の足を奪ったような、恐ろしい罠も仕掛けられていた。では、その罠が階段や廊下だけに仕掛けられているものでないとしたら。罠の種類が、必ずしも人を殺傷するためのものだけでないとしたら、どうだろうか。


 間違いない。晴美が食したあの料理。手つかずの朝食もまた、他でもない罠だったのだ。晴美はそれを口にして……そして、人の姿を失ってしまった。


「もう嫌! なんで……なんで、こんな目に遭わなきゃいけないの! 宗助さんも、塚本さんも、晴美さんも……どうして、皆があんな目に!!」


 それは、叫んでいる真弓自身、誰に問うているのかさえわからない叫びであった。


 信吾は罠で死に、晴美は人間ではなくなった。一緒にいたであろう千晶もまた、姿が見えないことからして無事ではいまい。


 宗助に至っては、これはもう絶望的だ。怪物と化した晴美に遭遇したことで、逃げることを余儀なくされた。少なくとも生きてはいまいと、このときの真弓は思っていた。


 呼吸を荒げ、後ろを振り向く。気がつくと、外に出る扉からは随分と離れていた。晴美が追って来る気配がないことからして、どうやら上手く逃げ切れたようだ。


 ほっと安堵の溜息を吐き、真弓はその場にしゃがみ込んだ。


 もう、これ以上は走れない。いや、走る必要さえないのかもしれない。


 今、この船で生き残っているのは自分と兄だけだ。そう思うだけで、言い様のない絶望感が襲ってきた。運命の神がいるのなら、何故にこのような仕打ちをするのか。思わず叫びそうになったところで、真弓の耳に聞き覚えのある音が響いてきた。



――――ズルッ……。



 重たい金属の塊を引き摺るような音。その音に、弱っていた真弓の全神経が再び危険を告げて震え出す。



――――ズルッ……ズルッ……。



 音がだんだんと近付いてきた。忘れもしない、死へと誘う殺意の音色。宗助と探索をしている際に出会った、この船に救う恐るべき死刑執行人。


 処刑人の足音が、徐々にこちらに近づいてくる。このままではまずい。この場にいたら殺される。


 恐怖は彼女を奮い立たせ、真弓は立ち上がって走り出した。既に限界だと思っていたが、人間、危険が迫ると思わぬ力が出せるものなのだろうか。膝が笑っているにも関わらず、普段よりも速く走れているような気がして不思議だった。


(逃げなきゃ……。今は、とにかく逃げなきゃ……)


 遠くから聞こえる足音と、巨大な鉈を引き摺る音。その二つから逃れるようにして、真弓は船内をひた走る。


 上と下では、果たしてどちらの階が安全か。廊下に罠のある可能性や、再び晴美と遭遇する可能性はないのか。その全てが、既に頭から吹き飛んでいた。


 階段を駆け下り、真弓は薄暗い廊下を奥に向かって駆けた。幸い、罠の類はない。このまま走れば逃げ切れる。そう思った矢先、今度は前方から別の音が聞こえてきた。



――――ヒタ……ヒタ……ヒタ……。



 鉈男のものとは違う、妙にしっかりとした足音だ。晴美の変貌した怪物とも違う。


「お、お兄ちゃん?」


 震える声で、真弓は闇の奥で蠢く誰かに向って訪ねてみた。もしかすると、あの足音は兄のものかもしれない。不逞の兄だが、それでも怪物や殺人鬼よりはマシだと、そう考えて足音に近づいた。



――――ヒタ……ヒタ……ヒタ……ヒタ……。



 だんだんと、足音が近くなる。それに合わせて、こちらに向かってくる者の姿もまた鮮明になってくる。


「えっ……!?」


 次の瞬間、真弓は思わず声を飲んで立ち止まった。


 見覚えのある衣服と背丈。あれは間違いなく、兄である徹のものだ。が、しかし、その頭は鉈男と同じように、巨大な麻袋ですっぽりと覆われている。ズボンは太腿の辺りから破れ、身体のあちこちに血が付いていた。


「ちょっと、お兄ちゃん! こんなときに、ふざけてる場合じゃないでしょ!?」


 そう、叫んでみるが、兄からの返事はない。右手に棍棒のようなものを握ったまま、麻袋の男はじりじりと真弓に近づいてくる。


「や、やだ……。なんのつもりよ、お兄ちゃん!」


 やはり、返事はない。代わりに飛んできたのは徹の声ではなく、唸りを上げて風を切る棍棒の一撃だった。


 重たい衝撃が頭に響き、真弓の身体が崩れ落ちる。朦朧とする意識の中、真弓は一瞬、自分に何が起きたのかわからなかった。


 徹は確かに不逞の兄だ。喧嘩もたくさんしたし、今でも好きになれない部分は数多い。


 だが、それでも実の妹を手に掛けるような、そんな真似はするはずないと。いくら粗暴な兄であっても、怪物や殺人鬼の仲間になるはずはないと。その淡い期待が、今この瞬間に打ち砕かれた。


 頭から流れ出る生暖かい液体が、首を伝って真弓の身体を染めてゆく。再び耳元に衝撃が走り、真弓は声にならない悲鳴を上げて低く呻いた。


(ごめんなさい……宗助さん……)


 薄れ行く意識の中、最後に真弓は心の中で呟いた。


 謝罪の言葉。それは果たして、兄が宗助を犠牲にしたことに対するものだったのか。それとも、己の想いも告げられぬまま、最後を迎えようとする自分へのけじめだったのか。その答えを知る者は、既に誰もいなかった。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 宗助と美紅が船内に足を踏み入れたとき、そこは相変わらずの静寂が漂っていた。


 あれから、徹と真弓はどうなったのか。未だ船内に鉈男がうろついていることを思うと、宗助としては気が気でない。


「なあ、美紅……。今回の事件の元凶を叩くって言っていたけど……それって、どんなやつなんだ?」


「そうねぇ……。しいて言えば、この船そのものかしら?」


「船そのものって……どういうことだ、それ!?」


 唐突に美紅の口から告げられた言葉に、宗助は思わず足を止めて叫んでいた。


 事件の元凶は、船そのもの。では、あのフナムシ達はおろか、船内に潜む鉈男もまた何者かの眷属に過ぎないというのだろうか。そして、自分達を乗せたこの船そのものが、巨大な悪霊だとでもいうのだろうか。


 だんだんと、訳がわからなくなってきた。美紅は答えを知っているのだろうが、何も知らずに逃げ回っていただけの身としては、あまりに急なことに頭の回転が追い付かない。


「ごめんなさい。もう少し詳しく説明すると、本当の敵は船と合体した何かってところね。この船は、普通の船じゃない。中を歩き回って見たんだったら、あなたも不自然に思う個所があったんじゃない?」


「不自然、か……。確かに、言われてみればそうだな。調査船にしては妙に部屋数が多かったり、やたら入り組んだ廊下の作りになっていたり……」


「やっぱりね。まあ、それもこれも、全てはこの船が海に救う妖怪変化の擬態に過ぎないからよ。あなた、海坊主の伝説ってやつは聞いたことあるかしら?」


 驚愕の結論をさらりと流し、美紅もまた足を止めて宗助に問うた。もっとも、そんな事実を流して済ませられるほど、宗助の方は気持ちの整理がついていたわけではなかった。


 この船が、妖怪変化の擬態。では、自分達のいるこの場所は、妖怪の腹の中ということか。


 あまりに荒唐無稽、あまりに想像を絶する答えに、宗助はしばし絶句して言葉を飲む。再び混乱し出した頭を落ちつけつつ、美紅の問いに答えを返すのが精一杯だった。


「海坊主か……。大した話は知らないけど、昔話に出てくる程度の話だったら知ってるさ。確か、海の中から突然巨大な塊が現れて、船を沈めてしまうってやつじゃなかったか?」


「正解よ。その海坊主なんだけど……今回の事件の元凶は、その突然変異したものとでも言えばいいのかしら? 随分と多くの霊魂を吸ったせいで、完全に本来の本能とはかけ離れた行動を取っているようね」


「本来の本能?」


「そうよ。海坊主に限らず、海の魔物の話は世界中にあるでしょ? 北欧のクラーケンとか、後は旧約聖書に登場するレヴィヤタンも有名ね。そういった海の怪物は、根本的に全て同じ。強大な霊力を持った、不定形の塊が姿を変えたものなのよ」


「不定形の塊……ってことは、まさかこの船も!?」


 宗助の言葉に、美紅は無言で頷いた。あまりにとんでもない話が飛び出し過ぎて、宗助自身もいつしか驚くのを忘れていた。


 古代より人々に語り継がれし海の魔物の伝説。それが、まさかこのような形で自分の目の前に現れようとは。


 美紅の宗助話を聞いて、の背筋を改めて冷たいものが走った。


 一年前、七人岬と相対した際にも、その恐るべき力の前に屈しそうになった。だが、美紅の話が正しければ、今回の敵はそれ以上。敵地アウェイなどという生易しいものではない。正に伝説の怪物に等しき存在の腹の中に、自分達はいることになる。


「海坊主に限らず、海の怪物の基本的な本能は『食らうこと』よ。その時々によって、獲物はサメだったりクジラだったりするけど……自分から進んで人間を襲うことはないわね。ただ、運悪く彼らに遭遇した船が、餌と間違って沈められたってだけよ」


 ただし、あくまでそれは、相手が普通の海坊主だったらの話だが。そう付け加え、美紅は感触を確かめるようにして壁に手をついた。


 金属の冷たさが、指先を通して伝わってくる。これは擬態だ。そう、頭では理解していても、見た目はおろか感触まで遜色はない。こちらの霊感を全開にして、辛うじて存在を感知できるくらいだ。やはり敵は、その辺の浮遊霊とは格が違う。


「この船は……たぶん、何らかの原因で海坊主に沈められたんでしょうね。昔だったら、そのまま乗員が餌にされて終わりだったんでしょうけど……近代の大型船が相手じゃ、さすがの海坊主も分が悪かったみたいね」


 掌に付いた埃を軽く吹き飛ばし、美紅は宗助に話を続けた。その言葉を耳にして、宗助の顔が怪訝そうな表情に変わる。


「分が悪かった?」


「ええ、そうよ。木造の帆船ならいざ知らず、今の船は巨大な金属の塊でしょ? 狙って襲えば簡単に沈められたんでしょうけど、正面から突撃を食らえばさすがに無傷ってわけにもいかないわ。互いに激突した結果、船だけじゃなく海坊主まで沈められて……最後は苦肉の策として、船ごと取り込んで一体化したのよ」


「なんだって!? それじゃあ、この船に乗っていた人間は……」


「当然、既に全員が亡くなっているでしょうね。しかも、単に海難事故で亡くなっただけじゃないわ。いくつかの魂は、そのまま海坊主に飲み込まれて、やつの一部と化しているみたいね。そうやって混ざり込んだ魂は、海坊主にとっても異物なのよ。それこそ、何十人もの魂と一度に融合して、既に元の精神は破壊されてしまったってところかしら?」


 あくまで軽く流すように、しかし見てきたようなことを美紅は述べる。果たして、どこまでが真実なのか。宗助に確かめる術はない。が、もしも彼女の言っていることが本当ならば、これはいよいよ恐ろしいことになってきた。


 この船は、いわば暴走する巨大な海の怪物だ。人を好んで襲い、食らうようになったのは、恐らくは味を占めたということなのだろう。もしくは、多くの人間を取り込んだ結果、より他の魂まで取り込もうと……ただ、それだけを目的に行動しているのかもしれなかった。


 人間は、本能的に孤独を恐れる生き物だ。ならば、深海の底に沈められ、魔物の一部と化してしまった者達が何を求めるか。答えは宗助にも容易に想像がつく。


 自分の寂しさを紛らわすため、自分の辛さを隠すため、この怪物は敢えて人だけに狙いを絞り食らうことを選択しているのだ。より多くの人間を闇に引き込めば、それで自分が癒されるのだと信じて。あるいは、多くの者を道連れにすることで、せめてもの気休めにしようと画策して。


 全てを食らう海の怪物の本能。そして、人間の心の弱く脆い部分。それらが複雑に重なり合った結果、この船は新たな怪物として新生したのだ。そこには既に感情などない。ただ、本能に突き動かされるままに食らい、飲み込み、同化する。そのためだけに、この船は存在していると言っても過言ではない。


 船内を徘徊する鉈男。各所に仕掛けられた狡猾な罠に、甲板で襲ってきたフナムシの群れ。これらは全て、動けない本体に代わり獲物を仕留めるための代理人。船の中に誘い込まれた人間を、確実に殺し、同化するためのものなのだろう。


「幸いだったのは、こいつが舟の形を維持するだけで精一杯で、自分から積極的に仕掛けて来れないってことかしら? 霧で人を惑わせることはできても、せいぜいその程度ね。後は、さっきのフナムシみたいな眷族を操るくらいかしら? だからこそ……そこに付け入る隙があるのよ」


「なるほどな。それで……いったい、どうするつもりなんだ、美紅? まさか、こいつの腹の中から、反対にぶち破るなんて言い出さないよな?」


「実際、それに近いこと考えてたんだけど……続きは、お客さんの相手をした後になりそうね」


 最後の方は、今までとは違って真剣な口調に変わっていた。


 トランクの中から、美紅は一振りの木刀を選んで取り出した。短刀程度の大きさしかないが、この狭い船内では長刀はむしろ不利だ。


 霊撃銃を構える宗助の傍らで、美紅の影が音もなく伸びる。流動的な不定形の塊を経て、影が犬の姿へと形を変えた。


「行くわよ、黒影……」


 呟くように、使役する犬神の名を呼んだ。口から青白い炎の吐息を溢れさせつつ、影の犬もまた前に出る。


(この感覚……なんだ?)


 呼吸をすると、それだけで生臭い香りが鼻につくようだった。


 油断なく銃を構えつつ、宗助もまた辺りに意識を集中させる。美紅ほどの力はないにしろ、仮にも霊感の類を持ってはいるのだ。その感覚が、自分の中にある力の一端が、妙なものを捉えていた。


 向こう側の世界・・・・・・・の住人が放つ陰鬱な気。だが、あの鉈男から感じたものとは違う。無論、甲板で遭遇したフナムシ達のものとも違っている。


 新手の刺客か。そう考えるのが、一番自然だった。


 この船の擬態は、一見して完ぺきである。それこそ、美紅ほどの霊能者にでもならなければ、擬態であるとは見抜けない。ならば、今の自分が感じているのは、船そのものではない何か。鉈男ともフナムシとも違う、まったく別の存在である可能性が高かった。


 ピチャ、ピチャ、という何かの垂れる音がした。一瞬でも気を抜けば聞き逃してしまいそうな音だったが、それでも美紅は逃さなかった。


「そこね!!」


 そう叫ぶが早いか、隣にいた黒影が青白い火を吐いた。ボール大の火球が天井に向かって飛び、そこにいた何かに直撃した。


「うぅ……あ……あぁ……」


 腐肉の焦げるような臭いと共に、それは床へと転がり落ちた。


 黒影の炎は魂を焼くが、しかし決して現世を生きる人の肉を焦がしはしない。焼き尽くすのは、実態の有無に限らず霊的な存在のみ。だとすれば、目の前で焼かれる醜い塊は、魑魅魍魎の類ということになるのだろうか。


「あぅ……うぅ……」


 茶色の毛髪を振り乱し、それはずるずると立ち上がった。その姿に、見覚えのある面影に、宗助は思わず絶句した。


「晴美……なのか……?」


 気がつくと、思わず彼女の名を口にしていた。


 目の前に現れし異形の存在は、しかし確かに人間としての面影も残している。フジツボのような突起に全身を覆われ、その瞳は魚のように変貌していたが、髪の色だけは以前のままだ。


 だが、それでもやはり、目の前にいるのは宗助の知る晴美とはかけ離れた存在であることも確かだった。


 潰れたヒキガエルのように変貌した声と、口内に生える無数の牙。獰猛なサメを思わせるその様は、既に彼女がこの世の摂理から外れた存在になってしまったことを意味していた。


 いったい、彼女に何があったのか。なぜ、晴美は変貌してしまったのか。その答えは、宗助にも予想はついている。が、それ以上に確かなことは、彼女がもう二度と元の姿に戻れないということ。人間でも幽霊でもない、醜悪な化け物に成り果てたという現実だけだった。


「美紅……。彼女は……」


「言わないで。それ聞いたら、戦い難くなりそうだから」


 それだけ言って、美紅は宗助を制し前に出た。僅かな言葉ではあったものの、宗助はそれから全てを理解した。


 晴美を救うためには、彼女の命を断つしかない。今、この場で楽にしてやることこそが、彼女にとって救いとなる。


「うぁぁ……。お……いて……」


 梵字の刻まれし木刀。それを片手に、美紅は徐々に晴美との距離を詰めて行く。それを見た晴美もまた、縋るようにして片手を伸ばした。救いを求め、懸命に抗う。何も知らない者が見れば、間違いなくそう思えただろう。


「お……いて……いか……ない……でぇぇぇぇっ!!」


 だが、美紅が間合いに入った瞬間、晴美は唐突に豹変した。銀色の牙を剥き出しにし、その口から大量の涎を滴り落とし、両手の爪を大きく開いて飛び掛かった。


「美紅!!」


 慌てて援護しようとする宗助だったが、それよりも美紅の一撃の方が早かった。


 木刀に刻まれた梵字が赤く輝き、彼女の力を乗せて敵を薙ぐ。風船の割れたような音がして、異形と化した晴美の腕は容易く払われた。


「悪いけど、遊んでいる暇はないのよね。邪魔するなら、私は容赦しないけど……覚悟はできてるかしら?」


 問い掛けなど無意味だ。しかし、それでも美紅は問う。それが、どれだけ意志の疎通が不可能な相手であったとしても。既に話すための舌も、心さえ失った存在だったとしても。


 気取っているわけではない。増してや、戦いを楽しんでいるわけでもない。ただ、そうすることで自分の心を、少しでも誤魔化すことができるなら。闇を用いて闇を祓う、己の業の重さを隠せるのなら。


(私は……私のやり方で戦う!!)


 心の中で叫び、渾身の一撃を敵の脳天に叩き込んだ。


 自ら戦う道を選んだ以上、弱みを見せることはしたくない。敵だけではなく、それは味方に対しても同じこと。だからこそ、美紅は時に冗談を絡めて敵と対峙する。自分の心を守るためだけでなく、周りにいる者達への気配りとして。


 それは、誤解を生む行いだったかもしれない。本当の自分など、誰からも理解してくれなくなる道だったかもしれない。


 だが、それでも、と美紅は思う。


 こう見えても、自分はやりたいようにやっている。大層な御託も、絵に描いたような正義も並べるつもりはない。


「次で決めるわ! 黒影、援護を!!」


 首筋を狙って放たれた爪の一撃をかわし、お返しとばかりに蹴り返す。青白い炎が暗闇を照らしながら走り抜け、顔面を焼かれた晴美が両手で顔を覆った。


「今、苦しみから解放してあげるわ。……お休みなさい」


 既に、晴美には人の言葉など聞こえていない。それは美紅にもわかっていた。


 両手の隙間から、捻り込むようにして木刀を突き刺す。口をこじ開け、喉の奥へと突き刺したところで、全身の意識を刀身へと集中させた。


「あぐっ……あぁぁぁぁあぁぁぁっ!!」


 閃光が辺りを包む。晴美が叫び、全身を覆うフジツボの穴から不快な臭いのする液体をまき散らす。


 美紅の髪の毛が、白金色のそれが逆立って、彼女の身体から物凄い力が放たれているのが宗助にもわかった。


 これで終わりだ。軽く木刀を捻ったところで、果たしてそれが晴美に対する最後の一撃となった。


「あ……あぁ……」


 泥人形が溶けるようにして、晴美の身体が文字通り崩れていった。どろどろに溶け、生臭い液体と化したその中には、茶色い髪の毛だけが生前のままに残されていた。


「晴美……。くそっ!!」


 霊撃銃の銃身で、宗助は力任せに壁を叩いた。八つ当たりだった。


 陽明館事件でも、七人岬と化した仲間達を救うことはできなかった。そして今、目の前で再び仲間を失った。あのときと同じように、異形と化した仲間を殺すことで、永遠の苦痛から解き放つために。


 いったい、自分はここで何をしているのだろう。信吾を死なせ、晴美も死なせた。そうまでして生き残る価値が、果たして自分にはあるのだろうか。


 重苦しい表情のまま、宗助は力なく腕を降ろした。溶け落ちた晴美は、既に何も言ってはくれない。そのことが、余計に宗助の胸を締め付けていた。


「行きましょう……」


 こうしていても、仕方がない。


 霊撃銃を握る宗助の手に、美紅はそっと手を重ねて促した。白く、美しい指先は、しかし見た目とは違い暖かかった。


「ああ……そうだな……」


 立ち止っている場合ではない。今は生き残ることだけを考えて、真っ直ぐに進まねばならないのだから。


 廊下の端から、生暖かい空気が流れてきた。込み上げてくる感情を飲み込み、宗助は深く息を吸い込んで歩き出した。

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