表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
11/16

~ 申ノ刻   異形 ~

 船室の中に戻ると、そこにはガランとした空間が広がっていた。


 ベッドはおろか、およそ生活に必要な道具と呼べるものが何もない。他の部屋とは違い、ここは使われていない部屋だったのだろうか。壁を伝わる剥き出しのパイプを見る限り、空き部屋であることは間違いなさそうだが。


「どうやら……振り切ったみてぇだな……」


 呼吸を荒げ、徹は水中銃スピアガンを片手に真弓を見た。初めは自分と同じく息が苦しいのかと思っていたが、よくよく見ると、どうもそれだけではないようだった。


「うっ……くっ……宗助……さん……」


 真弓は泣いていた。宗助は、恐らくはフナムシの餌となって死んでいるだろう。そのことに涙しているというのは、徹にもなんとなく判っていた。


「ったく、いつまでも泣いてんじゃねえよ! 宗助の野郎は、もうバラバラになってフナムシどもの腹の中さ」


「……そんな言い方ってないじゃない! 元はと言えば、お兄ちゃんが宗助さんを見殺しにしたから……!!」


「うるせえ! ああでもしなきゃ、今頃は俺達まで食い尽くされてたかもしれねぇんだぞ!」


「でも……だったら、なんで三人で一緒に逃げなかったのよ! どうして、宗助さんだけ……」


「知るか! たまたま、あそこにあいつがいた。だから、俺達の代わりに死んだ。それだけだろうが!」


「そんな……」


 あまりに冷たい兄の態度に、真弓は力なく項垂れた。


 二人の命を救うために、一人の人間を犠牲にする。確かに、計算としては間違ってはいないのかもしれない。全員が助かろうとして全滅するくらいなら、場合によっては救えない命があるのも仕方ないのかもしれない。


 だが、それでも、真由美はやはり兄の行動を許すことはできなかった。


 あのときは、逃げようと思えば全員で逃げることも可能だった。多少、フナムシに追いつかれそうになったとしても、三人揃って船の中に逃げ込む余裕は十分にあった。


 それなのに、徹は敢えて宗助を倒し、フナムシ達への生贄にした。自分だけが、より確実に助かるために。自分だけが、より傷つかずに済むようにするために。


 最低だ。我が兄ながら、さすがに真弓も愛想が尽きた。武器を手にして強がったところで、所詮は他人を脅して自分だけ逃げることしか頭にない。そんな人間が兄であることが、そんな兄と一緒にいることが、ほとほと嫌になっていた。


「私……戻る!」


 嗚咽を飲み込み、真弓は拳を握り締めて立ち上がった。


「おい、どこ行くつもりだ、真弓!」


 後ろで兄の叫ぶ声がする。しかし、真弓は振り向かない。あんな兄の言葉に耳を貸す時間さえ、既に惜しく思われた。


 乱暴に扉を開け放ち、真弓は再び甲板に続く扉へ向かって走り出した。


 今の自分に何ができるか。もしかすると、宗助は既に死んでいるかもしれない。そう、頭の中で解っていても、これ以上は我慢の限界だった。


 間に合う、間に合わないは関係ない。自分の力で宗助を救えるか否かも関係ない。ただ、己の中にある良心に背いて行動するのに耐えられないと。その想いだけが、今の真弓を突き動かしていた。


 靴底が床を叩く音がする。鼓動が早くなるのは、走っているからだけではないはずだ。


 拳を固く握り締め、真弓の姿が廊下の奥へと消えて行った。たとえ、ここで死ぬことになろうとも、最後に一言だけ、宗助に伝えたいことがある。その言葉を胸に、真弓は魔蟲の跋扈する甲板へと足を急がせた。


(待ってて、宗助さん……! 私……あなたのこと……)



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 霧に覆われた甲板の上に、乾いた音が響き渡る。


 獲物を求め、執拗に動き回る魔蟲の足音。じわじわと、己の餌を追い詰めるようにして迫る死の行軍。


「くそっ……。こいつら……」


 何があっても、こちらを逃がさないつもりか。その言葉を、宗助は太腿に走る鈍い痛みを堪えようとして飲み込んだ。


 船の舳先に追い詰められ、宗助は改めて敵を見据える。霧の中に光る無数の目。不気味な触角を蠢かして、それらはじっと宗助に狙いを定めたまま動かない。


 甲板を覆う巨大なフナムシの群れ。連中が舟傀儡の一種であること。それは間違いないだろう。以前に遭遇したものとの違いといえば、その大きさと目的くらいか。とにかく、こちらを逃がさないことを第一としているのか、体内に入り込んで操ろうという気配はない。


 だが、それでも、辺り一面を覆いつくしたフナムシの前に、成す術もないのは事実であった。とにかく、こちらを逃がすまい。それだけを目的に動くフナムシの群れは、宗助が少しでも妙な動きを見せれば一斉に飛び掛かって来るに違いない。


 太腿が再び悲鳴を上げていた。衣服ごと肉を食い千切られた傷口から、鮮血が帯のように脚を伝わり、遥か下の海面へと滴り落ちていた。


 このままでは、いずれ殺される。フナムシに食われて死ぬか、それとも連中を操っている者に身も心も滅ぼされてしまうのか、果ては海に落ちてそのまま藻屑と化してしまうのか。


 どちらにせよ、明るい未来はなさそうだ。しかし、ここで諦めるわけにはいかない。諦めてしまったら、全てが終わりだ。


 痛みを堪え、宗助は腰に力を入れて歩き出した。一歩、また一歩と、フナムシの群れに近づいてゆく。その度にフナムシの瞳が不気味に輝き、触角が何かを探るようにして揺れた。


 間合いに入った瞬間、一斉に襲い掛かるつもりなのだろう。乾いた唾を飲み込むと、自分で思っていたよりも大きな音がした。


 このまま死ねるか。そう思っていても、身体は正直だ。本能的に危険を察知し、徐々に足が動かなくなってゆく。身体が強張り、握り締めた拳の中が汗で濡れてゆくのが自分でもわかる。


 怖い。これだけ恐怖を感じたのは、実に一年ぶりだろうか。陽明館事件のときと同じ、否、もしかするとそれ以上の恐怖に包まれているのかもしれない。


 あのときは、自分の傍らに常に美紅がいてくれた。しかし、今は誰もいない。中途半端な力を持った自分だけ。たった一人の力で、怒涛のように襲いかかる悪意から身を守らねばならないのだ。


「やってやるさ……。生きることは、戦うこと。そうだったよな、美紅……」


 自分に言い聞かせるように口にして、深く息を吸い込んだ。そのまま上着を脱いで頭から被り、宗助はフナムシ達の群れに向かって突撃した。


 甲板を蹴る甲高い音。次の瞬間、宗助が走り出すと同時に、一斉にフナムシ達が飛び掛かってきた。


 上着を盾に、時に振り払うようにして身体を捻り、宗助は邪悪な魔蟲の群れの中を走り抜けた。途中、何かを踏み潰したような感触が足の裏から伝わったが、今は気にしている場合ではない。このまま食われてたまるものかと、船内に続く扉を目掛けて走り続けた。


 扉までは、距離にして数十メートル。走って辿り着けない距離ではないが、しかしフナムシの群れは執拗に宗助を狙って攻撃を繰り返す。


 盾として用いた上着は、瞬く間に食らい尽されて穴だらけとなった。途中、腕に食らいついてくるものは、そのまま腕を振って叩き落とした。


「退け! お前達なんかに食われてたまるか!!」


 足元にいた数匹を蹴り飛ばし、宗助は目の前にある水密扉へと手を伸ばす。もう少しだ。もう少しで、この悪魔達の群れから逃げられる。その思いが、一瞬の油断を生んだのだろうか。


 突然、背中に鋭い痛みを覚え、宗助は思わず悲鳴を上げた。背中に走る不快な感触。どうやら後ろから食らいつかれたらしい。


 足を止めた宗助に、辺りにいたフナムシ達が一斉に襲い掛かる。そのまま全身を覆い尽くすようにして、宗助の上を無数のフナムシが這い上って来る。


 このままでは食われる。そう思い払い落そうとするも、フナムシ達は次から次へと昇って来る。自分はこんな場所で朽ちるのか。身体のあちこちに痛みを覚える中、やるせない想いが頭を掠めた。


(俺は……死ぬのか……)


 ふと、そんな言葉が頭をよぎる。


 霊感という、死者に近しい力。そんなものを持っていても、やはり死を恐れる本能は変わらない。


 全身が震え、恐怖が精神を侵食する。声にならない悲鳴を上げて、心が必死に抵抗する。


(嫌だ……。俺は……死にたくない!!)


 それは、ほとんど神に祈るのに等しい行為だった。どんな神に祈ったのか、それでさえ定かではない。が、それでも、やはり運命の女神という者は存在するのだろうか。


 霧の中を貫いて、閃光が辺りに炸裂する。光に包まれたフナムシ達は、憑き物が取れたようにして宗助の身体から剥がれ落ちてゆく。


「あれ……は……」


 身体が重い。そのまま力なく倒れつつも、宗助は霧の中に誰かの影を見た。


 一面を白で覆われた世界。その中で黒く揺らめく不思議な影と、赤い二つの瞳が輝いている。青白い炎が瞬いて、その度にフナムシ達が蹴散らされる。


 足音が、だんだんとこちらに近づいてきた。果たして、それは誰のものだったのか。答えが見えていながらも、宗助はそれを確かめる前に、静かに意識を失った。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



「ったく……真弓の野郎。いったい、誰があのフナムシどもの群れから助けてやったと思ってんだよ!!」


 誰もいない船室で、徹は独り毒づきながら壁を蹴って叫んでいた。


 パイプが蹴られ、その度に鈍い金属音が部屋に響く。面白くない。まったくもって、不愉快だ。そんな感情を隠すことなく、徹は本能のままに部屋の中の物に当たり散らしていた。


 信吾が死んだとき、真弓も宗助も躍起になって彼の遺体を運ぼうとしていた。しかし、こんな状況で遺体など背負えば、それだけでお荷物になるではないか。


 宗助をフナムシ達の囮にしたときも、真弓は執拗にこちらを責めて来た。だが、あそこで誰かが犠牲にならねば、いずれ全員が食われていたかもしれないのだ。


 気に入らない。自分の妹でありながら、何故こうも兄に刃向うのか。


 こちとら、生き延びるために必死なのだ。下らない感傷によって迂闊な行動に出れば、即座に死が待っているかもしれない。そのことを、真弓はこれっぽっちも解っていない。


 仲間を見捨てて逃げること。真弓はそれが嫌なのだろう。だが、逃げたと言えば、晴美や千晶とて同じではないか。もともと、重傷の信吾を放置して部屋を離れたのは、他でもないあの二人ではなかったか。


 それなのに、何故か自分だけが責められる。そのことが、徹はとにかく無性に腹が立って仕方がなかった。


「ええい! 畜生、畜生、畜生め!!」


 壁を蹴る度に、天井から埃のようなものがパラパラと落ちる。それだけで、誰かが彼の問いに、叫びに答えてくれるわけでもない。


 肩で呼吸をしつつ、徹は最後に一際強烈な一撃をパイプにお見舞いして腰を降ろした。


 こうしていても、仕方がない。宗助が食われたとして、あれでフナムシどもが引くとも思えない。信吾のヨットにさえ戻れれば逃げることも可能だが、それまでに連中に全身を齧られて終わりだろう。


 こちらの武器は、水中銃スピアガンのみ。確かに強力な武器なのだが、あの数を相手にするには心もとない。もっと、何か強力な、敵を一網打尽にできるような武器があれば。それこそ、爆弾のように燃え広がり、全てを吹き飛ばすような強力な武器が。


(そうだ……。全部吹っ飛ばす……その手があったか!)


 突然、何かを閃いたのか、徹がスッと立ち上がった。


「へっ……。そうだよ、火だよ。あんな化け物ども、全部燃やしちまえばいいんじゃねぇか!!」


 敵が集団で攻めて来るなら、こちらもまとめて燃やし尽くす。何を燃やすのかと訊かれれば、それはまだわからないが……とにかく、ここはただの客船ではない。発火性の高い液体の一つや二つくらい、下の階を探せば見つかるかもしれない。


 思い立ったが吉日だ。水中銃スピアガンを片手に、徹は興奮を隠しきれない様子で部屋を出た。念のため、辺りの様子を見回してみたが、そこに真弓の姿はない。もう、宗助を助けるために、船の外に出てしまったのだろうか。


 馬鹿な奴だ。心の中で、徹はそう呟いて鼻で笑った。


 宗助は、今頃はフナムシに食われて骨になっていることだろう。あの状況で、助かる術など万に一つも有りはしない。そんなところに、何の武器も策もなく飛び込んだところで、真弓に何ができるだろう。


 何もできるはずはない。そのまま二人、仲良くフナムシの餌になってお陀仏だ。


「馬鹿どもが……。俺は生きる……生き残って見せる! 俺は、他の連中とは違うからな!!」


 声に出せば出すほど、徹の中で自信の二文字が大きく膨らんでいった。自分は他の連中とは違う。その考えが、彼自身に普段の何倍もの力を持っているような錯覚へと誘っていた。


 可燃性の高い液体を探し、それでフナムシを焼き払う。まともな思考が残っていれば、絶対に行きつくことのない考えだ。下手をすれば自分も炎に撒かれてしまうし、そもそもガソリンやら灯油やらが、早々都合よく見つかるはずもない。石油タンカーならばいざ知らず、ここはあくまで民間の調査船か貨物船だ。


 驕りは思考を鈍らせる。その言葉通り、徹は既に誰の話にも耳を貸そうとはしなかった。もっとも、既に彼の周りには誰もいない。自分の声に素直に従えるのは幸せだったかもしれないが、時に暴走を止める者がいないことは、彼にとって果たして幸福と言えたのか。


 廊下を抜け、徹は武器を片手に舟底へと続く階段を下りて行った。罠と、それから謎の襲撃者の姿に注意しつつも、心は既に勝者の気分だ。


 足下に張られた鋼線に気をつけつつ、徹はそっと足を降ろした。ここは、信吾が脚を奪われた場所。未だに残る血の臭いが、あの惨劇を如実に物語っている。


 あそこで信吾が罠にかからねば、代わりに脚を奪われていたのは、他でもない自分かもしれないのだ。そういう意味では、信吾の死は尊い犠牲だったはず。いや、彼だけでなく宗助もまた、フナムシを避けるための尊い犠牲になってくれた。


 そう、彼らは犠牲なのだ。こちらが生き延びるため、仕方なく死んでくれたのだ。


 自分に言い聞かせるようにして、徹は何度も心の中で呟いた。罪悪感からではない。彼の中にある本能が、自然にそうさせていたのだ。彼の行いを糾弾する者達の言葉が、彼に与えた不快感。それを払拭するために。


「見てろよ、化け物どもが! 人間様の力ってのがどんなもんか、今に教えてやっからよ!」


 目の前で拳を握り締め、徹は密かに呟いた。誰にも聞こえない程度の声で、しかし強気な口調は変わらずに。それが、何かに呼応したのだろうか。



――――ズルッ……。



 聞き覚えのある音が耳に入り、徹は思わず水中銃スピアガンを片手に立ち上がった。



――――ズルッ……ズルッ……。



 まただ。これは空耳などではない。明らかに、誰かがこちらに近づいてきている。金属が床を擦るような音と共に、しかしはっきりとした足取りで。



――――ズルッ……ズルッ……。



 間違いない。あの音は、自分と信吾が最初に船の中で出会った鉈男のものだ。巨大な鉈を引き摺り回し、何故か殴れども蹴れどもまったく効かず、しかし明確な殺意を持って迫る謎の怪人。この船の中を徘徊し、哀れな獲物を待ち続け、時に罠を使って獲物を殺す闇の狩人。


 少し前であれば、あの男と再び遭遇した瞬間に逃げ出していただろう。だが、今は違う。あのときは丸腰だったが、今のこちらには武器もある。勝てない理由はないと踏んで、徹は敢えて音のする方へと身を躍らせた。


「出やがったな、化け物!!」


 そう叫ぶが早いが、水中銃スピアガンの銃口を出会い頭に向けた。


 果たして、そこにいたのは予想通り、巨大な鉈を持った例の男であった。徹は躊躇うことなく引き金を引き、発射された銛が男の頭に突き刺さる。麻袋を貫通し、それは額を一直線に貫いて、男の身体がぐらりと揺れた。


「やっ……やったか!?」


 鮮血を吹き出し、男の身体が音を立てて倒れた。自慢の鉈を振るう暇もなく、男の身体は仰向けになって床に転がった。


 両手の指を痙攣させつつ、男が何事か袋の中で呻いた。が、徹は気にするまでもなく、男の手を踏み付けて蹴りを入れた。


「糞野郎が! テメェみたいな化け物は、俺がぶっ殺してやるぜ!!」


 水ぶくれのスポンジを蹴ったような不快な感触。男の脇腹を蹴り飛ばした途端、徹の爪先を通してそれが伝わった。


 最後の最後まで、薄気味悪く得体の知れない男だ。苦々しい表情になって舌打ちしつつ、徹は男の手から離れた鉈を拾い上げた。


 ずしりとした金属の重みが、徹の腕全体にのしかかる。見た目以上に、この鉈は重い。これでは男が鉈を引き摺って歩いていたのも頷ける。


 手の中に握られた小型の断頭台。そう形容するに相応しい武器だった。これなら一撃で脚も斬れる。いや、脚はおろか、首さえ落とせる。


 残酷な獣の本能が、徹の中でふつふつと音を立てて湧いて来た。


 こいつは自分達を襲い、あまつさえ船内に罠を仕掛けて信吾を死に至らしめた。ならば、そんな男を殺したところで、自分が糾弾されることはあるだろうか。


「へっ……。こいつは正当防衛だよな。だから、俺は悪くねぇ。悪ぃのは……全部テメェだ、袋男!!」


 既に、誰に向かって叫んでいるのかさえ判らなかった。


 徹は手にした鉈を精一杯の力で持ち上げると、そのまま男の首下目掛け、何の躊躇いもなく振り下ろした。


 肉に刃が食い込む鈍い音。鈍重な一撃は男の首へと食い込んで、大量の血が溢れ出した。切断された頭が袋ごと、ゴロゴロと音を立てて転がった。


 これで終わりだ。もう、恐れるものなど何もない。後は船の中で何か燃やせる物を見つけ出し、外にいるフナムシどもを焼き払えばいい。


「は……ははは……。ざまあみろ! 俺は……俺は勝ったぞ! 勝ったんだ!」


 鉈を片手に、徹は震える声で叫んでいた。その瞳に、既に光はない。内なる衝動に完全に毒され、獣と化した男がそこにいた。


「俺は勝った! 俺は無敵だ! 俺は……生き残ったんだぞ!」


 乾いた笑いを交えながら、徹は誰もいない船内で叫び続けた。が、その喜びも束の間、脚に冷たい感触を覚えたところで、それは唐突に終わりを告げた。


「ひっ……!?」


 気がつくと、男の手がしっかりと徹の足首を握っていた。


 そんな馬鹿な。この男は死んだはず。頭を銛で貫かれ、首を切断され、あれだけの血を流したはず。それなのに……動けるはずなどないのに。


 あまりのことに、何が起きているのか徹は理解できなかった。


 首を落とされて生きられる生物など、果たして存在するのだろうか。否、それ以前に、これは本当に生物なのだろうか。


「この野郎! は、離しやがれ!!」


 先程とは違う意味で、徹の声が震えていた。恐怖に打ち勝ったが故に、興奮して震えているのとは訳が違う。再び膨れ上がってきた恐怖心を、隠すことで精一杯だった。


 瞬間、徹は自分の身体が急に軽くなったように感じていた。世界が回り、全身を軽い滑落感が襲う。そのまま床に叩きつけられ、腹から痛みが伝わってきた。


 自分はいったい何をされたのか。答えは直ぐに理解できた。


 起き上がろうとした徹よりも先に、その目の前で首を落とされた鉈男が起き上がっていた。相変わらず首から上はないが、しかしそこには頭の代わりをするようにして、醜い瘤が盛り上がっている。


 先程の浮遊感は、恐らく男がこちらを放り投げたことによるものだろう。寝ながら、それも片手で人間を放り投げるとは、それだけでも恐ろしいまでの腕力だ。が、それ以上に信じられないのは、首を失ってもなお動くことのできる男の生命力だ。


 ゴキブリは、頭を失っても胴体だけで半年近く生きられるという。半年絶たずに寿命が尽きるのは、単に水を飲むための口を失ったからに過ぎない。適切な処置を施して養分と水分を与え続ければ、細胞組織は平気な顔をして生き長らえるだけの強靭さを持ち合わせている。


 科学的な話は、徹にはわからない。だが、目の前にいる男の生命力が、ゴキブリ並だということくらいは理解できた。それが普通のことなのか、それとも異常なことなのか。残念ながら、そこまでの答えを得るためには、今の徹にはなにより時間が足りなかった。


 男の首の付け根にある瘤が、肉の千切れる不愉快な音と共に血飛沫を上げた。その中から顔を覗かせているのは、男の新たな頭だった。鼻から上しか再生はしていなかったが、それでも表情くらいは判別できる。未だ再生を追えない部分を持ちながらも、徹は男がにやりと笑ったような気がした。


「なんだってんだよ、こいつは……。いったい、何がどうなって……!?」


 そこまで言ったとき、徹の言葉は空気を切り裂く鋭い、しかし重たい音と共にかき消された。


「うっ……がぁあぁぁあぁぁっ!!!!!!」


 悪態が悲鳴に変わる。


 徹の手から落ちた鉈は、再び男の手に収まっていた。その鉈を、人の首さえ一撃で斬り落とす凶器を、男はお返しとばかりに徹の脚に振り下ろしたのだ。


 これが頭だったなら、どんなに楽だっただろうか。両脚を斬り落とされ、徹は成す術もなく叫び、呻いた。


 殺すなら一撃で殺せ。そんな彼の願いも虚しく、男は徹の腕に手を掛けた。叩き、引っ掻き、最後は噛みついて抗ったが、それでも男は何ら意に介さない様子で徹の身体を引いて行った。


 脚から流れる鮮血が、船内に太く赤い道を作って行く。


 ああ、そう言えば、この男に初めて出会ったときも、こんな赤い血の道を見たはずだ。あれは、こうして作られた物だったのか。そんなことを思い出しつつ、徹の意識は深い闇の中へと落ち込んで行った。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 無人の廊下に足音が響く。


 真弓は焦っていた。兄を振り切り、ただ無心に走ってはいたものの、それ以上は何も考えることができなかった。


 宗助を助けたい。その想いは本物だ。しかし、実際に助けるとして、自分に何ができるだろう。あの巨大なフナムシ達の群れを前に、戦う力など自分にはない。


 だが、それでも行かねばならないと真弓は思った。兄の身勝手で宗助に犠牲を強いたこと。それは、もちろん謝罪せねばならない。だが、それ以上に真弓には、宗助に伝えたい言葉があった。


(無事でいてください、宗助さん……)


 胸の前に手を添えて、走りながらただそれだけを祈る。真弓にとって宗助は、単なる顔見知りの幼馴染などではない。


 彼には秘密にしていたが、ずっと以前から宗助に惹かれていたことは確かだった。中学時代、美術部で一緒になってから、真弓は宗助のことが好きだった。


 兄の徹の素行は当時から悪く、常に肩身の狭い思いをしていた自分。そんな自分に、色眼鏡なしに声をかけてくれたのが宗助だった。その優しさに居心地の良さを覚え、気がつけば隣に宗助がいることが当たり前になっていた。


 宗助の絵画の腕は、正直なところいま一つだった。本人もそれを自覚しているようで、むしろ絵画を通してその裏に隠された歴史を探るのが好きだったような気がする。


 鑑賞はしても製作はしない変人。そんなレッテルを貼られることもある宗助だったが、真弓は気にならなかった。彼が卒業し、その後大学で民俗学を専攻したと耳にして、妙に納得したのを覚えている。


 思い出が、次々に頭の中で通り過ぎて行った。


 真弓にとって、宗助は初恋の相手だった。その想いは今も変わらず、故に高校時代はまともな恋愛もしなかった。美術の道からも足を引き、まったく別の看護師という道を選択していた。


 そもそも、今回の発端となったクルージングも、実は真弓が信吾に強くお願いしたから実現したようなものだ。


 大学生になった今、宗助ともう一度会って話がしたい。そのきっかけが欲しいが、繋がりのない今となっては宴会に顔を出すのも露骨過ぎる。そう思って、信吾に宗助を誘ってもらったのだ。


 そのクルージングが発端で、まさかこんなことになろうとは。それもこれも、全ては兄による横槍が原因か。ふと、そんな考えも頭に浮かんだ。


 不逞の兄。徹の存在が、その全てを滅茶苦茶にしてしまったのか。思わず兄に対して本気で憎しみの念を抱いたが、直ぐに首を横に振って今しがた湧いた思いを否定した。


 ここで兄を憎んだとて、それは八つ当たりというものだ。確かに、宗助を犠牲にしたことは許せないが、霧に包まれたのは兄のせいではない。


 謎の霧と、殺人鬼の徘徊する幽霊船。これは事故なのか、それとも何者かの意思によるものなのか。そのことは真弓にも判らない。


 だが、それでも、と真弓は思う。


 もし、自分が信吾に無理を言わなければ。クルージングなどに宗助を呼び出してもらわなければ、こんなことにはならなかったのではあるまいかと。全ての発端を作ったのは自分であり、それに皆を巻き込んで、危険に晒してしまったのではないかと。


 我ながら、自意識過剰な考えだと真弓は思った。


 とにかく、今は宗助を助けねばならない。余計なことを考えるのは後回しだ。そう思い、目の前に見えてきた水密扉に目を向ける。ここまで来れば、外への道は目と鼻の先だ。


「逃げちゃだめよ……逃げちゃ……」


 深く息を吸い込んで、自分に何度も言い聞かせる。頭では分かっていても、恐怖を感じる本能を抑えるのは容易ではない。


 この先に出れば、待っているのはフナムシの群れ。飛び出したら直ぐに走り、宗助の下に向かおうと。そう、真弓が思ったときだった。


「うぅ……あぁぁぁ……」


 どこかで呻くような声がした。低く掠れた、およそ人のものとは思えない声だ。


「う……あぅぅ……」


 また、声が聞こえた。その上、今度は声だけでなく、水の滴るような音までする。


「だ……誰!?」


 自分の他に誰かがいる。フナムシとは別の何かが現れたことで、真弓の顔に少しばかりの動揺が見られた。


 声と、それから水の音。その双方に耳を澄ませ、真弓はそっと顔を上げる。その瞬間、彼女は両手で口を押さえ、飛び出そうになる悲鳴を慌てて呑み込んだ。


「ひっ……!?」


 天井に、一人の女が張り付いていた。否、人間の女というにしては、その外観は酷く醜く崩壊していた。


 魚のような漆黒の瞳は、人間のような白目がない。黒眼だけがぐりぐりと動き、闇の中で不気味に光っている。


 全身の皮膚は、これはフジツボか何かだろうか。得体の知れない海洋生物でびっしりと覆われており、これが人間でないのは明らかだった。


「あ……あぁ……」


 天井を逆様に這いながら、女の口が静かに開く。開かれた口にはびっしりと銀色の牙が生え、生臭い息を吐きながら粘性の高そうな涎を垂らしている。


「ち……あ……き……」


 二つの目玉が真弓を捉えた途端、女の口から放たれた言葉。それを聞いたとき、真弓は自分の精神が急速に崩壊してゆくのを感じていた。


「嘘……。晴美……さん……?」


 間違えるはずがない。声は変わり、既に人の姿は捨てていたものの、その身体と顔にはどこか晴美の面影がある。磯臭い臭気を漂わせながらも、奇麗に染められた茶色の髪だけは元のままだ。


「お……いて……」


 今や完全に一体の異形と化した晴美が、天井からぶら下がったまま手を伸ばした。そのままじりじりと真弓に迫るが、真弓もまた少しずつ後ろに下がってゆく。


「お……いて……いか……ない……で……」


 そう口にして、異形が天井から降りて来たときが限界だった。


「い、いやぁぁぁぁっ!!」


 両手で耳を塞ぎ、真弓は今しがた自分が走って来た道を駆け戻った。


 自分の前に、かつての知り合いが異形として現れる。その現実を飲み込めるほど、彼女とて気丈な訳ではない。


 廊下に降り立った異形の女が、四つん這いの姿勢で身体を曲げる。まるで、蛙かイモリが這うような恰好で、ベタベタと手をつきながら真弓の後を追ってきた。


「お……いて……いか……ないでぇぇぇぇぇっ!!」


 奇声と共に口を開き、異形と化した晴美が雄叫びを上げる。果たしてそこに、人の理性は残っているのか。残念ながら、それを知る者はいなかった。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 傷口を撫でるような痛みに、宗助は呻きつつも目を覚ました。


 ぼやける視界の向こう側に、見覚えのある顔が浮かんでいる。目を凝らして見ることで、だんだんと意識もはっきりとしてきた。


「……美紅?」


「あら、お目覚めかしら?」


 そこにいたのは美紅だった。気がつくと、手足には丁寧に包帯のようなものを巻かれている。どうやら気を失っている間に、彼女が手当てを済ませてくれたようだった。


「どうして、ここに……」


 その続きを訪ねようとした途端、宗助の足を鈍い痛みが襲った。


「駄目よ、まだ動いちゃ。ここだけは、随分酷く噛まれたわね」


 そう言って、美紅は起き上がろうとした宗助を制した。穴のあいたジーンズから覗く傷口から、赤黒い血が流れている。


 徹に突き飛ばされた際、最初にフナムシに噛まれた場所だ。傷はそこまで大きくないが、少しだけ肉を持って行かれている可能性が高かった。


「このまま放っておくと、化膿するかもしれないわね。ちょっと、立ってもらってもいいかしら?」


 質問する形になってはいたが、美紅は宗助の答えなど聞いてはいなかった。


 肩を貸すようにして腕をまわし、そのまま一気に立ち上がる。宗助が完全に立ち上がったところで、再び身体を放して身を屈めた。


「動かないでね」


「えっ……? お、おい!?」


 気づいたときには、既に美紅の白く細い指先が、宗助のベルトに伸びていた。手慣れた様子で枷を外すと、美紅は宗助のジーンズを一気に下へと引き摺り下ろした。


「止血するには、ちょっと服が邪魔なのよ。悪いけど、もう少しだけ我慢してくれるかしら?」


 それならそうと、早く言え。思わず口にしそうになったが、宗助は慌ててその言葉を飲み込んだ。


 自分はいったい、何を期待しているのだ。馬鹿馬鹿しい。美紅はそんなに軽い女ではない。そう、知っているはずなのに、一瞬でも妙なことを考えた自分が恥ずかしかった。


「……終ったわ」


 最後に軽く結び目を作り、美紅は宗助の傷口を白布で覆っていた。これ以上は下着姿を晒していることに耐えられず、宗助はそそくさと破れたジーンズを穿き直した。


「さて……。それじゃ、行きましょうか。怪我人のところ悪いけど、まだ少しだけ付き合ってもらわないと駄目なことがあるからね」


「行くって……どこへだよ? いや、それ以前に、何で君がここにいるんだ?」


「なんでって言われても……。説明すると、ちょっと長くなるんだけど構わないかしら?」


 悪戯っぽい笑みを浮かべ、美紅がにやりと笑う。その表情を目の前にして、宗助は彼女の言わんとしていることが解ったような気がした。


 美紅は全てを知っている。この霧の原因、船の中に潜む怪人の正体、そしてフナムシの群れを操っていた者の存在を。確証はなかったが、それ以外に説明がつかない。そうでなければ、こうも都合良く自分の前に、彼女が現れたことの説明にならない。


「なるべく、手短に頼むよ」


 そう言って、宗助は甲板にそっと腰を降ろした。多少、あちこちの傷が痛んだが、美紅の手当てがよかったのだろうか。未だ太腿に鈍痛は残っていたが、我慢できないほどの痛みではなくなっていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ