表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
10/16

~ 未ノ刻   船蟲 ~

 上の階に出ると、そこには相変わらずの静寂が広がっていた。


「思ったより狭いな……。これなら、そう苦労せずにあいつを探せるか?」


 誰に告げるともなく、宗助は独り言のようにして呟いた。


 隣にいる真弓の顔は、敢えて見ない。目を見て話せば、こちらの考えていることを読まれそうで怖かった。兄を探すと口では言いつつ、真弓を危険から遠ざけようとしているだけという浅知恵を。


 無人の廊下に、自分達の足音だけが響き渡る。下で感じていた陰鬱な空気は、上に出ることでいささか緩和されたように思われた。宗助自身、まだ己の中に秘めたる霊感を使いこなせるわけではない。が、それでもあの怪人、鉈男がうろついているような感じはしない。


 まさかとは思うが、上の階にも罠など張られていないだろうか。そう思って注意深く辺りを見回すと、いくつかの扉が目に入った。


 下の階には船員の部屋と思しき船室が多かったが、これは違う。扉の間隔から間取りを考えても、船員のために提供される部屋としては、やや広過ぎる感がある。


 とりあえず、手近な場所から調べるか。そう思い、近くの扉に手をかけるものの、残念ながら中から鍵がかかっているようだった。


「開かないんですか?」


「ああ、駄目だ」


 念のため、扉を叩いて徹の名前を呼んでみる。当然、返事は返ってこない。仕方なく別の部屋の前でも試してみるが、結果はどれも同じだった。


 ここにはいないのか。失意の念と、それから不安が再び頭をもたげてきた。あの陰鬱な空気が漂う下層へ足を運ぶことを考えると、正直なところ気が重い。


 いや、もしかすると、徹は既に死んでいるのかもしれない。船内に仕掛けられた罠か、もしくは鉈男の餌食となって、帰らぬ人になってしまったのかもしれない。


 できることなら、そうあってくれた方がいいと。ふと、僅かでもそんなことを考えてしまい、宗助は自分で自分が嫌になった。


(とんだ偽善者だな、俺は……)


 心の声は隠せない。自分の考えていることが、決して他人から誉められるようなことではないという事実。そのことは、宗助自身が最もよくわかっている。


 陽明館事件で仲間を失い、自らも生死の狭間を彷徨ってもなお、人は自分勝手にしか生きることができないのだろうか。言葉では全員で助かりたいと口にしつつ、本当は徹のことを放り出して逃げ出したいとも考えている。真弓を危険から遠ざけることができるなら、徹が死んでも仕方ないと……そう思っている自分がいる。


 まったくもって、最悪だ。思わず溜息を吐きそうになったが、それはなんとか思いとどまった。


 生きることは戦うこと。一年前、初めて出会ったときに、美紅はそう言っていた。だが、やはり自分は美紅のようには生きられない。ほとほと弱い人間なのだと、この状況に置かれて改めて実感する。


 人間は弱い。極限の状況になれば、今まで抱いていた想いや信念など簡単に揺らぐ。もし、再びあの鉈男が目の前に現れたとき、自分は真弓を本当に守り通せるだろうか。信吾を置いて独り消えた徹のことを、面と向かって非難する資格があるだろうか。


 冷たいドアノブに手を伸ばし、宗助はそっと回してみた。今は何も考えない方がいい。余計なことを考えていると、それだけで思考が悪い方へと向かって行ってしまう。


 カチッ、という音がして、今までとは違った感触が宗助の手に伝わった。


「開いた……」


 扉には、鍵がかかっていなかった。そっと前へ押して見ると、いとも容易く宗助達を受け入れた。どうやら鍵が壊れているらしく、そもそも内側から閉めることも不可能なようだった。


 部屋の中は薄暗い。窓からの明かりがあるとはいえ、それでも外は一面の霧だ。特徴的な丸窓へと目を向けてみるものの、やはり外の様子はわからない。


 真弓を後ろに下がらせ、宗助は油断なく部屋の中へと足を踏み入れた。まさかとは思うが、待ち伏せなどされていてはたまらない。鉈男と初めて出会ったときの感覚、あの背筋に虫が走るような不快な気が漂っていないので、大丈夫だとは思うのだが。


 部屋の中には、いくつかの棚とカーテンに仕切られた場所がある。思い切ってカーテンを退けてみると、そこには今しがた整えられたばかりのような、白いシーツの敷かれたベッドが置かれていた。


「宗助さん、ここって……」


「ああ。どうやら、医務室みたいだな」


「医務室? そ、それじゃあ……!?」


 そこから先は、口に出して言わずともわかっていた。


 ここが医務室なら、消毒や包帯の類があるかもしれない。薬には期待できないが、それでも何も無いよりはマシだ。足を奪われた信吾を助けるのに必要な道具が、いくつか手に入るかもしれないのだ。


 善は急げ。その言葉通り、宗助と真弓はしばし無心で部屋の中を物色した。薬品の類は、宗助は知識がない。そこは真弓に任せ、とりあえず包帯やガーゼなどを探してみる。古ぼけた棚を開いてあさってみると、意外と簡単に目的のものは見つかった。


「えっと……とりあえず、使えそうな物を並べてみようか」


 今しがた取り出したばかりのものを、宗助は無造作にベッドの上に放り投げた。真弓の見つけ出した薬と合わせると、そこそこの分量にはなっていた。


 包帯とガーゼと、それから消毒薬。止血に使えそうな道具や輸血器具がないのが残念だが、贅沢を言っても仕方がない。こんな無人の船で、ここまで色々と集められたのだから、それだけでも儲けものだ。それに、いくら真弓が看護師になる勉強をしているからといって、彼女に現役の医師と同じ手当てを期待するのは酷というものだ。


 これで信吾は助かる。気休めかもしれないが、宗助は安堵の溜息を吐いていた。いや、そう思わなければやっていられない。そう思いたいという気持ちの方が、もしかすると強かったのかもしれない。


 ベッドのシーツを剥がし、宗助はそれで集めた薬や道具を包んで真弓に手渡した。最後に、何か武器になりそうなものはないかと物色してみたが、残念ながらそれらしいものは見当たらなかった。


「せめて、槍とか棍棒みたいなものがあればな……」 


 古びた鋏を見つけ、宗助はそれをポケットにねじ込みつつ呟いた。さすがにこれでは、あの鉈男と対峙するには不安が残る。こんな道具では、牽制程度にさえ使えないだろう。


 ナイフもそうだが、リーチの短い武器というものは、基本的に玄人向けの武器なのだ。使い慣れた者が適切な間合いで用いれば、下手な拳銃より強力である。が、素人が中途半端に用いたところで、間合いに入る前に返り討ちにされることがオチだろう。


 仕方ない。これ以上は、この部屋に使える物はなさそうだ。それに、あまり信吾達を待たせては気の毒だし――――あまり気は進まないが――――徹も引き続き探さねばならない。


「それじゃ、そろそろ行こうか。まだ、どこかに回ってない部屋があるかもしれないし」


 そう言って扉に手を掛けた瞬間、廊下側から誰かの足音が聞こえて来るのに気がついた。


 規則正しく、廊下を叩く音がする。引き摺るような音がしないのは、音の主があの鉈男とは別な誰かということだろうか。


「下がってて、真弓ちゃん……」


 そっとポケットに手を忍ばせ、先程見つけた鋏を握る。もし、扉の外にいるのが自分達の敵だったら。こんな物でどこまで戦えるかは不明だが、それでも万が一の時には自分が戦わねばならない。


 緊張から自然と呼吸が早くなり、鋏を持つ手が汗ばんだ。その間にも足音は、徐々にこちらへと近づいて来る。


 このままやり過ごすか。そんなことも考えたが、直ぐに頭を振ってそれを打ち消した。


 この部屋の鍵は壊れている。相手に気づかれ追い込まれれば、逃げ道は完全に失われてしまう。最悪、自分一人なら逃げられるだろうが……それは即ち、後ろに控える真弓を見捨てることを意味している。


 誰かを見捨て、自分が生き残る。そんな体験は、もうたくさんだ。陽明館事件の際、自分は誰も助けられなかった。仲間が次々と化け物に変わる中、そんな彼らを美紅と共に打ち倒すことでしか生き残る術を見つけられなかった。


 あんな思いはしたくない。誰かのためというよりも、それは自分の心を守るためと言った方が正しいのだろう。自分の心が良心の呵責に押し潰されないようにするために。こうして戦うことで陽明館事件の償いとし、自分の心を軽くするために。


 結局、これもまた一つの偽善なのかもしれない。真弓を守るためと言い聞かせつつ、本当に守りたいのは自分自身だ。


(人間ってやつは、本質的に自分勝手な生き物なのかもしれないな。それでも……)


 そこから先は、心の奥で言葉を飲み込む。偽善であっても、結果として真弓や信吾を救うことになれば、それはそれでいいのではないかと。御託を並べている内に皆殺しにされるくらいなら、最後まで自分の心に正直に動き、目の前の敵に抗うことの方が大事であると言い聞かせて。


 足音が扉の直ぐ反対側で聞こえた。チャンスは未だ。


 先手必勝とばかりに、宗助は扉を勢いよく開け放って飛び出した。奇襲を受ける前に、こちらから仕掛ける。その一心で目の前に鋏を突き出して構えたが、果たしてそこにいたのは、宗助の思い描いていたような化け物ではなかった。


「田宮……」


「んだよ、宗助か。脅かすんじゃねえぜ……」


 そこにいたのは徹だった。なるほど、下の階を探しても見つからないはずだ。こちらが信吾の手当てをしたり、鉈の男に追われていたりする間、彼は上の階をうろついていたのだから。


「もしかして、お兄ちゃん? 無事だったのね」


 徹の姿に気づき、真弓も部屋から顔を覗かせた。あれだけ色々と探し回っていたのに、こうして再び出会ってしまうと、なんというか今までの苦労が随分と無駄に思えてならない。


 もっとも、偶然であろうと必然であろうと、目的を達せたことに変わりはない。ならば一刻も早く信吾のところへ戻ろうと、宗助が鋏を下に降ろしたときだった。


「おい、宗助。お前、もしかして……そんなちっぽけな鋏なんかで、この船の中をうろついてる野郎と殺り合うつもりかよ?」


 なにやら意味深な笑みを浮かべ、徹が宗助に言った。彼の言葉から察するに、どうやら鉈男のことは知っているらしい。


「別に、そんなんじゃないさ。こいつは元々、塚本の手当てをするために見つけたものだしな」


「手当て? ああ、そういやあいつ、廊下で脚を切られてたな。てっきり死んだと思ってたけど、まだ生きてたんだな」


 元はと言えば、お前が見捨てたせいだろう。自分の行為を棚に上げて語る徹に、宗助は酷い不快感を覚えた。やはり、こいつとは分かり合えない。こいつの感覚は理解できないと。


「まあ、それはそうとさ……」


 自分に向けられた冷たい視線。それにまったく気づかない様子で、徹は手に持っていた物を宗助達に見せつけた。何やらバレルの長い銃のような形をしており、先端から銛の頭が覗いているような物だった。


「こいつは……」


「ああ、水中銃スピアガンだ。カッコイイだろ? こいつがありゃ、あの鉈持った野郎が襲ってきても、返り討ちにしてやれるってわけだぜ」


 どこか楽しげに語りつつ、徹は銃を構えて見せる。


 水中銃スピアガン。バネやゴム、もしくは圧縮空気を用いて銛を発射する、主に水中での狩猟に使われる道具だ。どこでこんな物を拾って来たのかは不明だが、徹は随分とお気に入りのようだった。


「ちょっと、お兄ちゃん! こんなときに、なに物騒なもの構えてるのよ!!」


 武器を手に入れて御満悦。そんな兄の様子を見て、真弓が辟易した様子で叫んでいた。口には出していないものの、宗助もそれは同じ気持ちだった。


 あの鉈男は、こちら側の世界の住人ではない。幽霊とは違うのだろうが、それに近い禍々しい何かだ。少なくとも、普通の攻撃では……人間が用いる道具では倒せない。それだけは、なんとなくだが宗助にもわかる。


 あれが普通の人間であれば、徹の見つけた水中銃スピアガンも十分な武器となっただろう。だが、相手が霊的な力を持った存在であれば、人間の使う道具など欠片の役にも立たないことを知っている。少なくとも、こちらも何らかの霊的な力を持った武器か、もしくは霊的な力を伝えやすい武器を用いなければ。


「おい、田宮。取り込み中のところ悪いが……俺達は戻るぜ。下の部屋に、信吾や千晶達を待たせてるんだ」


 これ以上は待っていられない。徹の答えを聞くよりも早く、宗助は真弓の手を引いて歩き出した。


 あまり言いたくはないが、やはりというか、こいつとは顔を合わせたくなかった。その気持ちを悟られないように、敢えて視線も合わせない。真弓もそれがわかっているのか、黙って宗助に着いて来るだけだ。


(待ってろよ、塚本……。今度こそ、全員で生き残る……全員でだ!!)


 自分の中に刻まれし忌むべき記憶。それを振り払うようにして、宗助は足早に階下の部屋を目指す。その後ろでは未だ興奮冷めやらぬ徹が、水中銃スピアガンを片手に強気な台詞を口にしていた。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 再び下の部屋に戻ると、そこには誰もいなかった。ベッドに寝かされている信吾は別として、晴美も、それに千晶の姿もない。


「んだよ、宗助。誰もいねえじゃんか!」


 無駄足を運ばされた。そんな言葉が徹の口から零れ出る。


「おかしいな……。千晶達のやつ、いったいどこに……?」


 まさか、あの鉈男に襲われたのか。いや、だとすれば部屋が綺麗過ぎる。争った跡もなければ、そもそも襲撃された様子もない。それこそ、この場にいた痕跡さえ残さずに、二人の姿は忽然と消えていた。


 まさか、この船では本当に人が消えるのではあるまいか。今までは、あの鉈男に乗員が皆殺しにされたと思っていたが……もっと別の理由で、煙のように人が消えることがあるのではないか。それこそ、あの都市伝説、千晶が語っていたメアリー・セレスト号の話のように。


 徹を見つけた矢先に、今度は晴美と千晶が行方不明。これではいつまで経っても船から出られない。が、それでも今は、とりあえずやらねばならないことがある。脚を失った信吾への応急措置だ。


「おい、塚本! 包帯とガーゼと……それから、薬も持って来たぜ」


 返事はない。瞬間、嫌な予感が宗助の全身を駆け抜ける。


「どうしたんだよ、塚本! まさか、気絶してんのか?」


 やはり返事はない。まさかと思い、慌てて信吾の腕を取る。その途端、彼の肌を通して伝わった感触に、宗助の顔が一変した。


「つ、塚本……。お前……」


 それ以上は、言葉が出なかった。


 指先に伝わる冷たく固い感触。人の温かさは既に無い。血の通わなくなった肉の塊。そう形容するに相応しい物体が転がっていた。


「塚本……さん?」


 ただならぬ宗助の様子に、真弓も信吾の顔を後ろから覗き込む。が、直ぐに何が起きているのかを察し、その顔が見る間に青冷めてゆく。


「塚本! おい、塚本! 返事しろ!!」


「い、いやぁぁぁぁっ!!」


 宗助が怒鳴り、真弓が悲鳴を上げる。包帯やガーゼを包んでいたシーツが腕から落ちて、辺りに中身が転がった。


 信吾は既に事切れていた。苦悶の表情を浮かべたまま、片足の太腿を覆う布を真っ赤に染めて。


 間に合わなかった。自分はまた救えなかった。その罪悪感だけが、宗助の中で大きくなってゆく。


「なんでだよ……。なんで……塚本が……こいつが死ななきゃならないんだよ!!」


 それは、誰に向けられた叫びだったのか。人の運命を悪戯に弄ぶ邪悪な存在に対してか。それとも、彼を救うことができなかった自分自身に対してか。今となっては、それさえもわからない。


「そんな……。塚本さん……」


 冷たくなった信吾の手を握り、真弓が声を殺して泣いていた。自分の目の前で人が死ぬ。それも、赤の他人などではなく、以前から顔を知っている者が。


 いかに真弓の芯が強かろうと、この現実はあまりにも悲惨過ぎた。受け入れられない、受け入れたくない最悪の事態。自分のしてきたことは何だったのか。絶望の二文字が頭を掠め、猛烈な虚無感が襲ってくる。


「おい……。さっさと行こうぜ」


 後ろから、どこか冷めた声がした。振り返ると、そこには顔色一つ変えないまま立ち尽くす徹の姿が合った。


「行くって……お前、こんなときに、なに言ってやがる!!」


 級友の死を前にしてなお態度を変えない徹に、さすがの宗助も声を荒げて叫んでいた。それでも徹は何ら意に介することもなく、面倒臭そうに鼻の頭を擦っていた。


「決まってんだろ。俺はもう、こんな船からさっさとオサラバしてぇんだよ」


「だからって、塚本をこのまま置いて行くのか!? それに、晴美や千晶はどうするんだ!!」


「俺が知るか、そんなこと。大方、塚本の死体見て、ビビって逃げ出したってとこじゃねぇのか? 姿を見せねえってことは、今頃こいつと同じ目に遭ってんじゃねぇの?」


 なんというやつだ。宗助の顔に、怒りの色が溢れ出た。


 拳を握る手に力が入り、爪が掌に食い込むのがわかる。今にも殴り飛ばしたいという感情を、妹の真弓がいる手前、辛うじて抑えるのが精一杯だった。


 信吾を見捨てて姿をくらましたのは、そもそも徹なのだ。それなのに、自分が仲間と合流出来たら、後は消えた仲間も死んだ仲間もお構いなしか。結局、こいつは自分のことしか考えていない。助けるべきではなかったと、途端に後悔の念が湧いてきた。


「わかったら、さっさと仕度しろよな。あいつら探して自分が死ぬなんざ、俺はごめんだからよ」


 自分が助かれば、それでいい。こんな身勝手を許しておけるか。それは妹の真弓から見ても、許せない行為だったのだろうか。


「お兄ちゃん……最低! こっちが心配して船の中探して回ってたのに、自分が助かったらこれなの!?」


 先程の涙は、既に頬を伝い乾いていた。信吾が死んだこと以上に、今の真弓にとっては兄の暴挙がなによりも許せなかったに違いない。が、そんな妹の声を耳にしてもなお、徹は何ら態度を改めることなく言い返した。


「うるせぇ! だいたい、誰が助けてくれって頼んだよ!丸腰のお前らと違って、こっちにゃ武器だってあるんだ。それとも……お前らこそ、今ここで死んでみるか? そのベッドに転がってる大ドジ踏んだ野郎みたいにな」


「貴様……」


 水中銃スピアガンの先端をこちらに向け、徹はにやりと笑っていた。これは脅しではない。そう、目で訴えている。


「ちょっと……。なに考えてるのよ、お兄ちゃん!?」


「黙ってろ! これ以上ガタガタぬかしやがると、お前の頭に銛をブチ込むぞ!」


 もはや、実の妹でも関係なかった。解き放たれた狂犬。今の徹には、その言葉こそ相応しい。なんとかに刃物の言葉通り、武器を手にして過分な自信を抱いたことで、完全に目の前が見えなくなっていた。


「行こう……真弓ちゃん……」


 このままでは、徹が怒りに任せて何をしでかすかわからない。塚本の遺体を放置して去ることに引け目は感じたが、今の宗助にできることは、徹に従い真弓を彼の手に握られた凶器から守ることだけだった。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 船内から甲板に出ると、そこは相変わらず深い霧に覆われていた。


 途端に肌寒さを覚え、宗助は思わず身体を震わせた。霧に触れるたび、その体温が急激に奪われてゆくのが自分でもわかる。真冬の夜露を思わせるような、骨の芯にまで響く冷たさだ。


 これは普通の霧ではない。自分の中に眠る霊的な感性が、それを宗助に告げていた。が、何の力もない徹と真弓には、ただの霧としか思えていないのかもしれない。


「おら、早く歩けよ。さっさと俺達の船に戻って、こんな場所からはオサラバしようぜ」


「船に戻るって……お前、操縦できるのか?」


「そんなもん、適当に動かしゃなんとかなんだろ。無駄口叩いてんじゃねぇよ」


 背中に固い物を突きつけられ、宗助はそれ以上何も言わずに口を噤んだ。


 こいつは普通じゃない。そう、頭では思っていても、下手に口に出せば命取りだ。相手は水中銃スピアガンを持っている。あんなものを至近距離で撃ち込まれたら、それこそ致命傷を受けても不思議ではない。


 結局、この世で一番恐ろしいのは、幽霊でも妖怪でもなく人間なのかもしれない。そんな考えが、ふっと宗助の頭の中に浮かんで来た。


 自分が助かるためならば、友人だろうと平気で見捨てて逃げ出してしまう。自分が優位に立つためならば、肉親でさえ武器を使って脅す。全てが全てそんな人間ばかりではないのだろうが、今の徹を見ていると、これが人の本性なのかとも思えて来る。


 そういう自分自身、結局は偽善でしか行動していない。それを知っているからこそ、宗助は敢えて何も言い返さない。いや、言い返せなかった。


 人を守ると言いながら、結局は自分の心が傷つかないように逃げ回っていただけだ。徹は下衆なのかもしれないが、それなら自分は卑怯者だ。果たしてどちらがマシなのか。恐らく五十歩百歩なのだと宗助は思った。


「ねえ……あれ、何の音かしら?」


 突然、真弓が足を止めた。


「なんだよ。何も聞こえねえぞ?」


「待って……。ほら、やっぱり聞こえる。何かが……たくさん動いてる?」


 霧の中、真弓は耳を澄ませながら口にした。そう言われてみると、確かに何かの音がする。ガサガサという、固く乾いたような音が。


「これは……まずいぞ! 早く船の中に戻るんだ!!」


 あの音には聞き覚えがある。かつての事件の記憶が頭をもたげ、宗助はハッと顔を上げて叫んでいた。


「お前、馬鹿か!? 今更船に戻ったところで、何かいいことあんのかよ!!」


「いいから戻れ! 俺の勘違いじゃなけりゃ、あの音は……」


 そう言って、宗助が徹の言葉を遮ったときだった。


「お兄ちゃん! 宗助さん! あ、あれ……」


 霧の向こう側から、何やら灰色をした無数の塊が向かってくる。薄く平べったい皿のような物体。それらが大群となって、こちらへ押し寄せようとしているのだ。


「うげっ! な、なんだよ、ありゃ!?」


 霧の中から現れたもの。その姿を見た途端、さすがの徹も言葉を失ってしまった。


 そこにいたのは、無数の巨大なフナムシだった。大きさは、三十センチほどあるだろうか。磯で見かけた際はバラバラに逃げ出すフナムシ達だったが、その動きは妙に統制が取れている。


 あれはただのフナムシではない。連中の動きと全身から発せられる陰鬱な気。それらのことから、宗助はあれが海の魔物によって操られる眷属の一種であると感づいていた。


 船傀儡。かつて陽明館事件で戦った、七人岬が使役していた海洋生物。あのときは、主に人間を操る目的で用いられていたが、中には集結して一つの群体を形成し、こちらに直接襲いかかってくるものもあった。


 今回のフナムシも、恐らくはそれだ。操っているのが何者なのかは知らないが、力の与え方次第では生物を異常成長させることも可能なのだろう。


「くそっ! 気味のワリィ虫どもめ!!」


「俺達を逃がさないつもりなんだ。このままだと、あいつらに食われるぞ!!」


「野郎……。ふざけやがって!!」


 押し寄せるフナムシの群れに、徹は水中銃スピアガンを構えつつ悪態を吐いている。が、それでも相手の数が数だ。少しばかり退治したところで、あの群れの前には焼け石に水だ。


 船の胴体を這うようにして、続々とフナムシ達が甲板へと上がって来る。連中の動きは思いの他に早く、瞬く間に甲板がフナムシで溢れ返った。


 このままでは、本当にこちらが食らい尽くされる。油断なく相手の動きを見定めつつ、宗助はじりじりと下がって行った。後ろに控えているであろう真弓に、フナムシの毒牙が及ばないように。そう思い、後ろを振り返ろうとした瞬間、背中に走る鈍い痛みと共に、宗助は甲板の上に転がった。


「田宮! な、なにを……!?」


「悪いな、宗助。俺はまだ、あんな虫野郎に食われて死にたくねえんだよ。だから……お前が代わりに食われてくれ。俺と、それから真弓のためになぁ!!」


「き、貴様……」


 そこから先は、言葉にならなかった。


 宗助が何かを言うよりも先に、徹の足が腹を蹴り飛ばしていた。再び鈍痛が走り、思わず身体を丸める。不意打ちに近い状態で二度も蹴られ、ほとんど受け身を取ることもできなかった。


「アバヨ、宗助! お前の犠牲は無駄にしねえぜ! その分、俺が生きてやるから感謝しな!!」


 そう言って、真弓の手を引き走り出す徹。遠くから真弓の叫び声が聞こえてくる。兄の暴挙に怒り、悲しみ、しかし何もできないことに対する絶望の悲鳴が。


「いやぁ! そ、宗助さぁん!!」


「ま……真弓ちゃ……!?」


 霧の中、消え行く二人の姿に手を伸ばした瞬間、宗助は自分の太腿に鋭い痛みを感じて言葉を切った。


「くっ……!? こ、こいつ……!!」


 気がつくと、そこには一匹の巨大なフナムシが食らいついていた。慌てて振り払い立ち上がったが、脚の痛みに思わず膝をついてしまった。


 太腿から流れ出る赤黒い血が、甲板の上を染めて行く。どうやら穿いていたジーンズの布地だけでなく、肉まで齧り取られたようだった。


 このままでは、本当に骨の髄までフナムシに食いつくされてしまう。未だ痛みの残る足を押さえつつも、宗助はなんとか気力を振り絞って走り出した。


 甲板を足が蹴る度に、激しい痛みが太腿を襲う。だが、ここで立ち止まるわけにはいかない。ここで立ち止まってしまえば、それは即ち自身の死を意味することになるのだから。


 ガサガサというフナムシの這う音が、徐々に後ろから迫って来る。逃げ場を失った宗助にとって、それは絶望へ誘う死神の行進のように感じられた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ