予兆 -1-
サーカス団一の歌姫へ
――ありがとう、笑顔のすてきなピエロさん
++++++
窟の扉を開くと、そこはただ青白い壁に囲まれた空間だった。『巨人の間』であの結晶を手に入れたときと同じだ。
無事にそこから出たところで、セイジが盛大にくしゃみをした。
「寒っ……!」
『大丈夫? このままだと風邪ひいちゃいそうだね……』
サトルの腕の中から、アンティークはセイジを気遣った。いまだ預けられているのはセイジがずぶ濡れのままだからだ。アンティークは気にしないと言ったのだが、セイジの返答は「濡れるとお前の肌が傷むだろ」だった。
「あー。冷蔵庫の中から出てきた気分だ……」
「まさか水槽に飛び込むとは思いませんでした。どこかで服を替えるべきでしょうが……」
「ほんと無茶苦茶するんだから」
セイジは手に息を吐きかけながら顔をしかめた。
「しょうがないだろ。ああでもしなきゃ話も聞いてくれそうになかったし。それにしてもあいつ、よくあんな冷たい水の中に、ずっと……1人で……」
『……』
またセイジが怒っているのがわかった。勝手気ままなところはあるが、他人のことを他人事と思えないセイジの性分を、アンティークはよく知っている。
「足のない人魚……誰も悪くないのに災難でしたね」
ふとサトルが言いだして、セイジがぴくりと反応した。アンティークも心の中で首をかしげる。
『誰も悪くない?』
「父親に自慢に思ってもらえるようにひたすら頑張っていた娘。頑張りすぎた娘を一番心配していた父親。娘が頑張るのを応援した団長。……誰も悪くないでしょう?」
「誰も悪くないのにこんなことになるかよ。みんな悪いに決まってる。周りが見えなくなった娘も、どんな理由だろうと足斬った父親も、それを促した団長もな!」
「考え方の違いですね」
「てかさ――何か、おかしくないか?」
セイジの声は、不機嫌に低かった。
「『5つの間』ってのは個人訓練場のはずだろ? 『巨人』といい『水槽』といい……あれじゃ、まるで牢獄だ! 団長ってのは一体何考えてんだよ……!」
アンティークも同感だった。
しかし、それをゆっくり議論している場合でもなかった。
『ねえ、そろそろ館が開く時間じゃない? 団員の人達が来ちゃうよ』
「! 確かにそうです」
『サトルさん、とりあえずこの近くに、服を貸してくれそうな場所ってないのかな?』
「……。すぐ近くに医務室があります。サーカス団の専属医師が常駐しているはずなので、彼に頼んでみましょうか」
セイジがだるそうにうなずいた。カナは何も言わなければ“同意”だ。
4人は近くの小部屋を訪ねた。セイジが控えめにドアをノックすると、「入んなさい」と返答があった。
「……朝もはよからなんじゃ小僧、何か用か?」
医務室には灰色のひげと髪をした医師が1人、ナースが1人、すでに詰めていた。
書類を書いていた医師は、顔を上げてセイジを見るなり眉をひそめた。
「いい年をして水遊びでもしたのか」
「すみませんドクター。いろいろと事情がありまして……着替えがあればお借りしたいのですが」
「その前に身体を暖めにゃいかんぞ。そっちがシャワー室になっとる。湯も出るからとっとと浴びてこい」
ナースがすかさずセイジにバスタオルを渡して、ものも言わずにドアを開けた。
「あー、すんませ」
「礼はいいから早よせんかい」
少しぼうっとした様子のセイジがシャワー室に追いやられ、ナースが迅速な動きでポットに湯を沸かし始めた。
アンティークはカナに意識を向ける。カナは、水音の聞こえるドアをじっと見ていた。
『……カナちゃん、この後でシャワー、使わせてもらったら?』
「!」
「かまわんぞ。ちゃんと鍵しとけよ嬢ちゃん」
「……ありがと」
『サトルさんは?』
「私は大丈夫ですよ」
「サトルよ。お前さんがここへ来ることがあるとは思わんかったぞ。何せ医者いらずじゃからな」
「恐縮です」
丁寧に頭を下げるサトルを見て、医師はふんと鼻を鳴らした。
「お前に限らず、この館の連中、特に上のほうの奴らはどうも無茶をしよる。『5つの間』の奴らに至ってはわしの手には負えんわ。あの赤い小僧は言うに及ばず、この前もどいつじゃったか……全身にえらい怪我をした奴がいたな。さすがのわしもサジを投げたが、“誰か”に身体を改造してもらって、今はブリキの身体で生きてるって話じゃ……まったく、常識では有り得んな」
医師がぶつぶつと話している間に、セイジが出てきた。白いシャツ姿だった。
「そこにあったの、勝手に着ちまったけど」
「服が乾くまではそれ着ておとなしく座っとれ」
すかさずナースがセイジにコーヒーカップを持たせて椅子に座らせ、中から濡れた服を持って出て、カナには新しいタオルを渡した。手際の良さと素早さにアンティークは感心してしまった。
「さて、『セイジ』じゃな。話には聞いとるよ。……疲れが出てきとるぞ」
「確かにそーかも……」
「次に何をするつもりか知らんが、その前に倒れてしまってはどうにもならん。一度ゆっくり休んでおくことじゃな。ただしここは貸してやれんぞ。昼にもなればひっきりなしに団員が出入りするからな」
「いや、充分助かったよ」
「セイジ」
サトルがセイジに歩み寄り、アンティークはそっと机に置かれた。
「悪かったなサトル。アンティーク任せちまって」
「とんでもないです」
セイジよりも少し大きな手が身体から離れた。
アンティークはわずかに名残惜しさを感じ、そんな自分に、驚いた。
セイジとセイジの祖父以外の人間に抱かれた経験自体、あまり多くない。そしてそんな時はいつも、無機的な“人形”としてしか扱ってもらえなかった。自分でもそれは仕方ないことだと思っていた。
しかしサトルの抱き方はそれとは違って、とても優しい。
「ん? どうしたアンティーク?」
『……ううん、なんでもない』
「そうか?」
「ところでセイジ、この後はどこへ行きましょう。休める場所というと限られますが」
「そうだなあ……」
なんとか人心地ついたらしいセイジが、いつものようにアンティークを膝に乗せてくれる。さまよった視線は、ふと医務室のパソコンに留まった。




