【短編】虐げられた真珠乙女の逆転婚~冷徹な青年実業家の夫が探し求めた初恋の人は、身代わりで嫁いだ私でした〜
その奇跡を成すための条件は、あまりに苛烈で孤独な作業だった。
満月の夜、深夜0時から1時の間のみ。
月光を遮る雲の影は許されず、完成の瞬間まで剥き出しの肌に月光を浴び続けなければならない。
儀式の間は一切の「声」を禁じられ、外界を映す「瞳」を閉ざす。
指先を銀の針で突き、一滴の鮮血を月光に捧げ、己の命を削りながら霊力を練り上げること。
それが、服用すれば万病を払い、持てばあらゆる魔を退けると言われている『特殊真珠』を産む唯一の方法だ。
「……っ」
冷え切った別邸の寝室で、静香は溢れそうになる悲鳴を喉の奥で押し殺した。
心臓が悲鳴を上げ、霊力を吸い取られた指先がだんだん感覚を失っていく。
こんな真冬に窓を全開にして月光を浴び続けるのは、死に等しい所業だ。
それでもこの真珠があれば、一人で生活していく資金にできるだろう。
「お飾り花嫁」として蔑まれ、冷え切った食事を与えられるだけの日々。
姉の身代わりで嫁がされ、夫となった公爵、嵯峨征一郎からは一度もまともに顔を見られたことさえない。
彼にとって私は、屋敷の隅に置いておく「不必要な調度品」に過ぎないのだ。
何粒あれば、私は自由になれるだろうか。
誰に売れば、利用されずに正規のお金が手に入るだろうか。
手のひらの上で転がる真珠は、持ち主の血と涙を吸ったとは思えないほど冷たく残酷なまでに美しい。
静香は感覚が失せた指先で、温もりを求めるように自らの肩を抱きしめた。
◇
本邸から少し離れた場所に建てられた別邸は、うっそうとした森の中にあった。
「いいご身分ですこと」
乱暴にガチャンと床へ置かれた食器の音で、静香はゆっくりと目を開ける。
扉の前に仁王立ちで立っているのは、本邸から食事を運んでくる女中の菊乃だ。
菊乃はわざとらしく鼻を鳴らすと、埃の舞う冷たい床に置いた盆をつま先で静香の方へ押しやった。
「こんな『お荷物』にも食べ物を与えてくださるなんて、本当に旦那様は優しすぎますね」
盆に乗っているのは、固そうなパンと具がほとんど入っていないスープ。
「ありがとう、ございます」
静香が震える声で礼を言うと、菊乃は面白くなさそうに顔を歪めた。
昨晩、銀の針で突いた傷跡は赤紫色に腫れ上がり、霊力を使い果たしたせいで身体に力も入らない。
静香はやっとの想いでベッドから立ち上がったが、すでに菊乃の姿はどこにもなかった。
静香がこの嵯峨家に嫁いできたのは2ヶ月前。
元々、この縁談は「薔薇の妖精」と謳われるほど美しい姉・麗華に持ち込まれたものだった。
事業に失敗した間宮家にとって、名門・嵯峨家との縁組みは唯一の救い。
当主である征一郎は、結婚の条件として間宮家が抱えていた莫大な負債の肩代わりと、事業再建のための多額の資金援助を約束してくれた。
それなのに。
「お姉様が逃げなければ……」
そうすれば姉の代わりに嫁ぐことも、別邸に閉じ込められることも、女中たちから嫌がらせされることもなく、今もまだ実家で空気のような存在で過ごしていたはずだ。
よりにもよって、結婚式の当日に姿を消すなんて。
絶望した両親が姉の身代わりに差し出したのが、地味で美しくもない妹の私だった。
「冷たくて、味もないわね」
静香は震える手で、冷めきったスープを口に運ぶ。
パンはとても固く、まるで数日経ったパンのようだった。
『死なない程度にひっそりと暮らせ』
初夜はもちろんなかった。
結婚式で告げられた言葉と、征一郎の冷徹な瞳は今でも忘れられない。
「私だって好きでここに来たんじゃないわ」
今の自分にとって、命を削って生み出した特殊真珠だけが唯一の希望。
これを売り、自由を買えるだけのお金を手にするまでは、どんなに惨めな食事でも食べて生き延びなければならない。
静香は固くなったパンを小さくちぎり、必死に喉の奥へと押し込んだ。
穏やかな日差しが降り注ぐ本邸のリビングで、この屋敷の主、征一郎は新聞を広げながら珈琲を手に取った。
「あの女は?」
「はい。毎日わがままで困っております」
こんな食事は口に合わない、豪華な着物を準備しろ、私は公爵夫人なのだと威張っていると、女中の菊乃は征一郎に答える。
「もういい」
征一郎は溜息をつくと、再び新聞を読み始めた。
ずっと探し求めていた女性と結婚するはずだった。
だが、結婚式に現れたのは別人。
それなのに、家同士の政略結婚だと押し通され、間宮家が抱えていた莫大な負債の肩代わりだけさせられた。
男は結婚して一人前。
とりあえずその土俵に立ったことだけでもよしとしなくては。
これで煩わしい縁談を持ちかけられることも、半人前だと陰口を叩かれることもない。
征一郎は折りたたんだ新聞をテーブルに無造作に置き、立ち上がる。
「出かける」
「かしこまりました。お車を回させます」
菊乃は深々と頭を下げながら、口角に冷酷な歪みを浮かべた。
◇
最初の2週間は1日3食。
次の2週間は1日2食。
だんだん品数が減り、固いパンとスープだけになったと思っていたら、とうとう1日1食になってしまった。
「さすがにお腹がすくわ」
あの男が言う『死なない程度』とは1日1食という意味だったのか。
いくら間宮家の負債を肩代わりしてくれたとはいえ、さすがに食事を減らしすぎだと静香は苦笑した。
「どこかで働けるかな……」
このままでは空腹で倒れてしまいそうだ。
贅沢だと、わがままだと言われるかもしれないが、私は肉が食べたい!
特殊真珠はこの屋敷を出るときの大事な資金。
普段の食事に使っていては命がいくつあっても足りなくなってしまう。
「とりあえず、街へ行こう」
静香は大事な特殊真珠を小さな巾着に入れて胸元に隠すと、質素な着物で別邸の裏口からこっそり抜け出した。
「こちらで働かせていただけないでしょうか。掃除でも、皿洗いでも何でもいたします」
「冷やかしはやめてくれ」
香ばしい匂いの漂う街角のパン屋で、静香は深々と頭を下げた。
だが、店主は静香の手を見るなり鼻で笑い、まったく相手にしてくれなかった。
仕立て屋も、宿屋も、食事処も。
何軒も回ったが、どこも静香を雇ってくれるような店はない。
私は自分の力で食べる物を手に入れることすらできないんだ……。
慣れない草履で歩き続けた足はもう限界。
絶望に暮れながら屋敷へと戻っていた静香の目にふと看板が飛び込んだ。
『過去も、名も問わず。ただ、病に苦しむ者のために動ける者を求む』
「名も問わず……?」
見上げた建物は石造りの古びた済生診療所。
おそらく華族などが慈善活動の一環として、経営している病院だ。
「ここなら雇ってもらえる……?」
わずかなお金でかまわない。
その日の夕食を食べることができるお金をもらえれば。
身分証も保証人もいらないという一筋の光に縋るように、静香は重い扉を押し開けた。
薄暗い診療所の一室に案内された静香は、ゴクリと唾を飲み込む。
目の前の初老の婦長は、今までの店と同じように静香の細くて白い手を見るなり肩をすくめた。
「ここが何をするところか知ってるのかい?」
「はい。病気や怪我をした人が来るところです」
いくら無知な自分でもそのくらいなら知っている。
「ここは地獄だよ。毎日、泥と血と排泄物の臭いにまみれる場所だ。あんたみたいなお嬢様には無理だよ」
さぁ、帰りなと言われた静香は、右手で自分の左手首をギュッと掴んだ。
「働かせてください。働かないと食事ができないのです」
「困っているような身なりには見えないけれど?」
「幸い、住むところはあります。物を売れば、しばらく食べ物は手に入るかもしれません。でも……」
いつかは食べ物が手に入らなくなる。
それでは一生ひとりで生きていくことなんてできない。
「お願いします。私、時々でいいので、お肉が食べたいんです」
「うちの給金は安いよ」
婦長はフンと鼻を鳴らしたあと、棚からエプロンを放り投げた。
「明日は9時に来な。あんたの仕事は洗濯だ」
「ありがとうございます」
翌日から、静香の壮絶な毎日が始まった。
毎朝8時に菊乃が持ってくるパンとスープを食べたら急いで出勤。
慣れない力仕事に腰は砕けそうになり、冬の冷たい水での洗濯は過酷だった。
なかなか落ちない包帯の血、汚れたシーツ。
だが、別邸ですることもなく、ただ死を待つように過ごしていた日々に比べれば、毎日が充実していた。
いただいた給金で帰りに温かい食事をして別邸に戻るなんて、少し前の自分では考えられないような行動だ。
「いただきます……っ」
出汁の香りが鼻をくすぐり、凍えた身体に染み渡る。
嵯峨邸の冷え切った食事とは比べものにならない、自分の労働の対価で得た「温もり」だった。
食べ終えた静香は夜道を急ぐ。
裏門から森を抜けて別邸に滑り込み、冷たい水で身体を洗って寝巻きに着替る。
『お飾り夫人』に戻った静香は、満月の日を待ちわびながらすぐに眠りについた。
だが、今月の満月はあいにくの雨だった。
天気ばかりは仕方がないが、資金を増やすことができなかった静香は落ち込んだ。
この能力は、間宮一族の女性にしか現れない特殊能力。
しかも全員に受け継がれるわけではなく、数代に1人しか現れない稀有な能力だ。
静香の前は曾祖母だったが、曾祖母は若くして亡くなってしまったらしい。
この特殊能力は己の命と引き換えだから、絶対に他人には教えないようにと祖母に教えられた。
両親は見目麗しい姉にその能力があると信じ、幼いころから姉だけに最高の教育を施し、蝶よ花よと愛でてきた。
だが、姉に能力の片鱗はなく、事業にも失敗し、立ち行かなくなったところで嵯峨家からの縁談があったのだ。
甘やかされて育った姉が、他家に嫁ぐなどできるはずもなく、結局直前で逃げ出してしまったが。
子どもの頃から能力がないと決めつけられ、姉の影に隠れていた私の方にまさか能力があるなんて、誰も思わなかったのだろう。
あっさり姉の身代わりで嫁入りが決まり、両親からは嫁いでから一度も手紙はない。
もちろん書類上の夫もこの別邸に現れることはなく、本当にお金のためだけの政略結婚だったとよくわかる。
誰にも必要とされない人生だったが、診療所でようやく一人の洗濯係として認めてもらえたような気がした。
「頼む、助けてくれ! 息子が、息子が……!」
いつものように洗濯をしていた診療所に、突然激しい足音と悲鳴が響き渡った。
運び込まれたのは、建築現場で足場の下敷きになったという十歳の少年。
ぐったりとした身体は土埃と血にまみれ、顔色は真っ青だ。
「……ひどい。内臓をやられているじゃないか」
駆け寄った婦長が苦渋に満ちた声を漏らす。
この診療所には、高度な外科手術を行う設備も、高価な薬もない。
もちろん優秀な医者もいない。
「うちでは……」
華族が利用する病院であれば、もしかしたら助かるかもしれないが、こんな小さな診療所では何もしてあげられないと婦長は目を伏せた。
「頼む、頼むよ」
周囲の看護婦たちが絶望に顔を伏せる中、少年の呼吸は浅くなっていく。
「シズ! 包帯、ありったけ!」
「はい!」
静香は乾いたばかりの包帯をあるだけ箱に入れ、急いで運ぶ。
刻一刻と死が迫る少年を目の前にした静香の手は恐怖で震えた。
「すぐ治してくれるからな」
少年の父親は泣きながら意識がもうろうとしている少年に話しかける。
もう返事をすることもできない少年の姿に、静香は涙が止まらなかった。
この子はまだ生きようとしているのに、ここの設備では救えない。
静香は、震える手で懐に隠した『特殊真珠』の場所に触れた。
これは自分の自由を買うためのもの。
だが、今、目の前の命を救えるのはこの真珠だけだ。
また作ればいいと思えるほど簡単な作業でもなく、苦しみも痛みもある。
それに今月のように雨だったら作ることができない。
私が真珠を持っていると、作れるのだとバレたら、一生奴隷のように働かされるかもしれない。
「頼む、目を閉じるな。おい、がんばれ」
自分の未来、自由、そして平穏。
人の命と天秤にかけること自体、間違っているのかもしれない。
でも、自分の幸せも諦めきれない。
だが、少年の父親の血を吐くような慟哭を無視できるほど、静香の心は枯れ果てていなかった。
「婦長! すり鉢はどこですか?」
このまま飲ませたら効果が出るまで時間がかかってしまう。
割って少年の口に含ませなければ。
「早く貸してください!」
すり鉢とすりこぎ棒を借りた静香は胸元から5㎜程度の小さな特殊真珠を取り出す。
ひと思いに真珠を砕くと、欠片を手に取った。
「これを口に」
「お、おう。薬か? すまない」
少年の父親は急いで口に突っ込み、水を飲ませる。
「うそ……」
「奇跡だ……」
どす黒かった傷口がみるみるうちに塞がり、止まらなかった出血が嘘のように引いていく。
死の淵にいたはずの少年の頬にうっすらと赤みが差し、すぐに呼吸が安定した。
「……父ちゃん……?」
少年の掠れた声が、静まり返った室内を震わせる。
父親は声を上げて泣き崩れ、奇跡を目の当たりにしたスタッフたちは言葉を失って立ち尽くした。
「……よかった」
力が抜けた静香はその場にへたり込む。
「……あんた、何を飲ませたんだい……?」
「以前、えっと、お医者様にいただいた、秘薬? です。これ一個しかなくて……」
婦長に聞かれた静香はとっさに嘘をつく。
私も驚きましたと静香は目を泳がせながらぎこちなく答えた。
「ありがとうございます、ありがとうございます!」
助かった少年の父親が静香の手を握りしめて号泣する。
真珠はまた作り直せばいい。
でも、どうしよう。
もうここにはいられないかもしれない。
せっかく居場所ができたのに。
これからここに来る人たち全員を治すことはできない。
でも一度治してしまったからには、また期待されるはずだ。
少年が無事でよかったが、静香は絶望の淵に追い込まれた。
「……随分な騒ぎだな、何事だ?」
低く、よく通る声を聞いた瞬間、静香の背筋に戦慄が走った。
「嵯峨閣下! 申し訳ございません、今しがた急患が……」
婦長が慌てて駆け寄り説明を始める。
静香はへたり込んだまま顔を上げることができなかった。
診療所は華族が慈善事業のために経営していることが多い。
でもまさか、ここが静香の書類上の夫である嵯峨征一郎が経営している診療所だなんて。
顔は煤と埃で汚れ、髪も乱れている。
質素な着物に継ぎ接ぎだらけのエプロン姿だ。
気づかれるはずがない。
気づかれてはならない。
別邸を抜け出して、こんなところにいるだなんて、決してバレてはいけない。
だが、征一郎は一歩、また一歩と、軍靴の音を響かせて静香に近づいてくる。
「秘薬と言ったか。そんな得体の知れないものを我が病院で使わせるとは、随分と管理が甘いようだな」
征一郎は静香の目の前で足を止め、すり鉢を手に取る。
砕ききれなかった真珠の欠片を目にした征一郎は、目を見開いた。
「……顔を上げろ」
気づかないで。
どうか、別人だと思って……。
私の顔なんて結婚式の日以来、ううん、結婚式の最中だって一度も見たことないはずだ。
一瞬見たとしても、こんな平凡な顔を憶えているはずがない。
静香は壊れそうなほど激しく脈打つ心臓を押さえながら、ゆっくりと顔を上げた。
「……静香?」
地を這うような低い声が、診察室の空気を凍らせる。
征一郎の整った顔が、見たこともないほど険しく歪んだ。
「閣下……? お知り合いでございますか?」
婦長が問いかけても征一郎は答えず、すり鉢の中に残った銀色の燐光を放つ真珠の欠片を凝視している。
「……お前に宿っていたのか」
その言葉に、静香は息を呑んだ。
この男は知っていたのだ。
間宮家に伝わる伝説の能力のことを。
だから縁談を持ちかけたんだ。
もし姉が能力を持っていなくても、子どもが続く限りいつかは能力を持った子が生まれるかもしれないから。
いくら姉が美人だからといっても、莫大な負債の肩代わりと、事業再建のための多額の資金援助なんて話がうますぎると思った。
征一郎は真珠の欠片をすり鉢から拾い、静香の腕を折れんばかりの力で掴み上げた。
そのまま無理やり立ち上がらせると、泥だらけの身体など気にする様子もなく己の胸元へと引き寄せる。
「この女は連れて行く。今日のことは他言無用だ」
征一郎は静香を拘束すると、周囲のスタッフを射抜くような鋭い視線で一喝した。
征一郎は、力なく項垂れる静香を半ば担ぐようにして、黒塗りの自動車へと歩き出した。
車内に放り込まれ、乱暴に扉が閉められる。
隣に座った征一郎から放たれる威圧感に、静香は奥歯をガチガチと鳴らした。
「……お前という女は」
征一郎は、手の中にあった真珠の欠片を、静香の目の前に突きつけた。
「これを産むために、どれほどの血を流した!」
走行する車内、征一郎の低く鋭い声が狭い空間に反響した。
静香は、隣に座る夫の放つ圧倒的な熱量と、凍りつくような怒りに身を縮める。
「答えろ」
「……答えて、どう、なさるというのですか……?」
静香は震える声で、ようやくそれだけを返した。
顔を伏せ、膝の上で握りしめた手。
泥と血にまみれ、あかぎれが裂けたその指先を、征一郎の視線が逃さず捉えている。
「『死なない程度にひっそりと暮らせ』という言いつけは守っております」
責められる理由など、どこにもない。
1日1食のパンとスープしか与えないこの男に、私を責める権利などないだろう。
「……『お荷物』で申し訳ありません」
最悪のバレ方だ。
こんなことなら、真珠1粒でもいいから握りしめて、さっさと逃げればよかった。
真珠が出ると分かった途端に、こんなに恐ろしい声で問い詰めるなんて。
結局、この人も私の命より真珠の輝きの方が大切なのだ。
静香の煤で汚れた顔に、涙が白い筋を作る。
口答えしてしまったから怒っているのだろう。
征一郎はそれ以上車の中で言葉を発することはなかった。
車が本邸の前に停車すると、驚愕の表情で出迎える使用人たちを無視し、征一郎は静香を抱き上げたまま、別邸ではなく本邸の自身の居室へと足を進めた。
「旦那様? そちらの薄汚れた女は一体……」
廊下で立ち塞がったのは、女中の菊乃だった。
「……まさか」
「菊乃、お前には後で聞きたいことがある」
「あ、あの、私は……」
征一郎の氷のような一瞥に、菊乃はその場にへたり込んだ。
征一郎はそのまま寝室へと入り、静香を贅沢な長椅子へと座らせた。
上着を脱ぎ捨て、自ら湯を張った金だらいを持ってくると、静香の前に跪く。
「自分でいたしますから……」
「黙っていろ。お前が動くと、余計に部屋が汚れる」
突き放すような物言いとは裏腹に、征一郎は静香のボロボロになった手を壊れ物を扱うかのような手つきでそっと湯に浸す。
温かい湯が冷え切った指先にじゅわっと染み渡り、すぐにジンジンと指先が熱くなった。
征一郎は石鹸を泡立て、静香の手の甲から指の一本一本まで、丁寧に執拗なほど洗い清めていく。
泥が落ち、白く透き通るような本来の肌が見えてくるたびに、征一郎の瞳には暗い光が宿った。
「……もう二度と、この手を土にまみれさせることはさせん」
征一郎は洗い終えた静香の手の甲に誓いを立てるように唇を寄せる。
「これからは俺の目の届くこの部屋で過ごせ」
「……え?」
その瞳に宿っているのは、冷徹な「夫」の義務感ではなく、獲物を檻に閉じ込めた「男」の執着のようだった。
「所用をすませてくる。……逃げ出そうなどと思うなよ」
パタンと閉じた扉を見た静香はふかふかな布団に横になりながら、自分の運の悪さを呪った。
完全に失敗した。
真珠を使い、あの少年が助かったことは後悔していない。
でも、私が特殊真珠を作れることが、あろうことか冷徹な書類だけの夫にバレてしまった。
そして、おそらくもうあの診療所へ行くことはできない。
やりがいも失い、居場所も失い、逃げ場も失い、散々だ。
静香は自分の手を見た。
泥や血は綺麗に拭い去られ、丁寧に包帯が巻かれている。
「洗ってくれた……のよね」
冷徹な夫に目の前で洗われたことが、今でも信じられない。
「さすが特殊真珠……」
奇跡の真珠が手に入るのなら、どんなみすぼらしい相手にだって優しくするに決まっている。
静香は盛大な溜息をつきながら、包帯だらけの手を眺めた。
◇
金たらいを手にしたまま広い廊下に出た征一郎は、あまりにも汚れた水に眉間に皺を寄せた。
手はあかぎれや傷でボロボロ、爪も割れ、働く者の手をしていた。
別邸に住まわせてはいたが『お荷物』とはどういうことだ?
確かに『ひっそりと暮らせ』とは言ったが、散財や豪遊せずに暮らせという意味で、あんな身なりで働きに行く理由がわからない。
「菊乃を執務室に呼べ」
金たらいを使用人に渡しながら征一郎は命令する。
執務室へ行き、棚から帳簿を取り出した征一郎は、目当てのページを探し出した。
連行されてきた菊乃は、こちらが問う前に必死に弁解を始める。
「奥様は勝手に外へ……! まさか逃げ出すなんて」
あんなにお世話してあげたのに。
私は何も知りませんと菊乃は涙ながらに訴える。
征一郎はゆっくりと振り返ると、帳簿を机に叩きつけた。
「これは、俺が別邸へ回すように指示していた食材と炭の管理表だ。だが、実際に運ばれていたのは、家畜も食わんような乾いたパンと、具のないスープだったそうだな」
「そ、そんなことは……」
征一郎はの威圧感に耐えきれず、菊乃は床に膝をつく。
「真冬の離れに暖房も入れず、食事も与えず。俺が守るべきものを、お前が弄んでいたとはな」
「も、申し訳ございません! でも、あの方は身代わりの、偽物の奥様で……! 旦那様も興味がないと……!」
征一郎は、菊乃をジロッと睨みつける。
「確かに蔑ろにしていた。その点では、俺にも責任があるだろう。だが食事を与えないとはどういうことだ」
「そ、それは、あの方が質素でいいと……」
「……本当に本人がそう言ったのか?」
征一郎は静かな殺意に満ちた声で菊乃を責めた。
「菊乃。お前は今日限りで解雇だ」
「そ、そんな……旦那様、お許しを! 奥様に謝ります、何でもしますから!」
「連れて行け。二度と静香の視界に入れるな」
泣き叫びながら床に縋り付いた菊乃は、屈強な男たちによって引きずり出されていく。
静まり返った執務室で、征一郎は先ほどまで静香の手に触れていた自分の手を見つめた。
「あいつは食事も与えられなかったから、あんなに細かったのか……?」
あんなに細く折れそうな手で、過酷な労働環境の診療所で働かなくてはならないほど空腹だったとは。
すべては菊乃の報告を鵜呑みにし、一度として様子を見に行かなかった己の落ち度だ。
いや、落ち度などという生易しいものではない。
己の立場に慢心し、他者の痛みに無頓着であった傲慢さゆえの過失だ。
親の言いなりで動く感情を失った人形のような女。そう決めつけていた。
だが、あいつは少年の命が助かった時には聖母のような慈しみで微笑み、俺に見つかった瞬間、絶望に塗りつぶされた瞳で俺を射抜いた。
そして、ついには牙を剥いたのだ。
自分を拒絶し怯えきったあの小鳥を、どうすれば二度と空へ逃さぬよう籠に縛り付けておけるか。
……どうすれば幼き日の記憶にある、あの無垢な笑顔を俺に向けてくれるのか。
「……どうかしている。こんな仕打ちをした俺が許されるはずがないのに」
長年探し求めていた恩人は、姉ではなく妹のあいつだった。
あろうことか命を救ってくれたかけがえのない女性を、自らの手で地獄へ叩き落としていたのだ。
征一郎は自分の無能を後悔しながらネクタイを緩め、どうしたら償えるか頭を悩ませた。
◇
それから静香の生活は劇的に変化した。
うっそうとした森の中にある別邸ではなく、本邸にある征一郎の寝室の隣、日当たりの良い、柔らかな陽光が差し込む一室が静香の新しい居場所となった。
征一郎から贈られた美しい着物におしゃれな袴、流行りの編み上げブーツ、髪飾り。
専属女中は3人に。
本邸の書籍は読み放題。
庭の散策は自由、生け花も刺繍も思うがままに。
ただし、屋敷の敷地外へ出ることだけは禁止だ。
食事は1日3食、征一郎と一緒に同じ料理を。
さらに。
「……これは多すぎます」
テーブルの上に並べられた色とりどりの菓子を前に、静香は困惑の声を上げた。
最高級の砂糖をふんだんに使った金平糖、モダンな帝都で流行りだしたというチョコレート、そして宝石のように輝く生菓子。
「菊乃が報告していた『贅沢三昧の強欲な女』とは、随分と勝手が違うな」
書類に目を通していた征一郎がふっと口角を上げる。
その眼差しは、以前のような冷たい視線ではなかった。
急に優しくしたって、真珠は満月の日にしかできないのに。
だが、真珠さえできれば、自由を勝ち取るための交渉の材料になるかもしれない。
「何が食べたい?」
「いえ、特には」
いつも姉優先で食べる物が決まり、姉が気に入らなかった物が私の口に入っていた。
着物も姉が着なくなったおさがり、日用品も。
だから、自分のために用意されたものだということだけで贅沢だ。
「ドレスを着たことはあるか?」
「……いいえ」
静香の戸惑う声に、征一郎は満足そうに頷く。
征一郎が部屋の隅に控えていた女中に合図を送ると、大きな姿見と山のように積まれた絹織物、そして見慣れない「型紙」を手にした仕立屋たちが次々と入ってきた。
「静香に似合う最高級のドレスを頼む」
「私のような者にドレスなど」
ドレスは夜会に出るような、華やかな人が着るものだ。
姉の麗華のように美しい女性しか似合わないことくらいわかっている。
「着物も似合うが、洋装はより個性を際立たせる」
終わったら呼べと征一郎が出て行った瞬間、手際よく袴の紐が解かれ、着物の合わせは緩められた。
幾重にも重なっていた布の重みが消え薄い肌着一枚になった瞬間、冷ややかな空気が静香の白い肌を撫でる。
「なんて細い腰」
「きめ細い肌にサテン生地がお似合いですわ」
差し出された布地に触れた静香は、滑らかで軽い生地に驚いた。
重い帯で締め付けられる日常とは違う、自由でどこか心許ない新しい感触だ。
背中から胸元へ、そして腰から足首へ。
銀色のテープが肌に触れるたび、静香はビクンと肩を揺らす。
「愛されておいでで、素敵ですわね」
「そう……でしょうか」
あの人が愛しているのは特殊真珠だろう。
「こちらの『勿忘草色』のシルクは、嵯峨様がお選びになったのですよ」
「これほど繊細な色味を指定される殿方は、滅多にいらっしゃいませんよ」
仕立て屋たちが、うっとりとした手つきで淡い青色の布を静香の肩に当てる。
鏡の中に映る自分は、信じられないほど顔色が明るく華やいで見えた。
姉の麗華ならもっと鮮やかな、誰の目にも留まるような緋色や黄金色を選んだだろう。
だが征一郎が選んだのは、静かでありながらも芯の強さを感じさせる、清潔感と上品な優しさを兼ね備えた色。
「私にこの色を……?」
なぜ仕立て屋にまかせずに、わざわざ選んだの?
書類上の夫で、冷徹な実業家。
そんな男が自分のために色を選んだという事実に、静香の胸の奥がざわつく。
「シルク特有の乱反射で、淡い水色から銀色に変化するのですよ」
「ドレープを作ると影の部分に深い青が溜まって、明るい部分の透き通るような青がまた映えるのです」
仕立て屋は慣れた手つきでスッとドレープを作り、鏡越しに静香に見せる。
「綺麗……」
静香が思わず呟くと、仕立て屋の二人は嬉しそうに微笑んだ。
「初恋相手と結婚できるなんて素敵ですわね」
「……初恋?」
あぁ、そういうことか。
征一郎はどこかの夜会で姉に一目惚れし、身辺調査しているうちに特殊真珠にたどり着いたのだ。
特殊真珠は秘匿。
使用人でも知っているのはごく僅かだが、お金を積まれた誰かがしゃべったのだろう。
初恋相手と結婚できると思ったら、パッとしない妹をおしつけられ、別邸に追いやった。
征一郎からすれば、当然かもしれない。
私にはなんの非もないけれど。
一目惚れした姉ではない以上、あの人にとって私は真珠を出すための道具に過ぎない。
それならば、その役割を完璧に演じて、いつか隙を見て逃げ出そう。
「奥様も嵯峨様が初恋ですか?」
「私は……」
私に初恋はあっただろうか?
姉の後ろに控え、姉に夢中な男性たちを眺めるだけだったが。
……あぁ、そういえばあの男の子は元気だろうか?
静香はふと、子どもの頃に祖母の別荘近くの湖で会った名前も知らない男の子を思い出した。
顔は覚えていない。
あの子は喘息だったのだろうか。
ヒューヒューと息をする男の子が苦しそうで、初めて作った2ミリもない小さな特殊真珠を思わずあげてしまったのだ。
あの時、祖母にものすごく怒られたことは覚えている。
あれから祖母の言いつけ通り、特殊真珠のことは誰にも言わず、嫁ぐまで一度も作ったことはなかった。
もちろん両親も姉も、私が真珠を作れることは知らない。
祖母が教えない方がいいと言ったからだ。
あの時は理由がわからなかったが、祖母は私を心配してそう言ってくれていたのだと、祖母が亡くなった後にようやく気付いた。
「初恋は、……秘密です」
「あらまぁ。嵯峨様には内緒にしておきますね」
「お願いします」
静香は冗談めかして、ふふっと笑っておく。
仕立て屋も突っ込むことなく、順調に採寸を終えた。
「奥様、このカタログの中にお好きなデザインがあったら教えてください」
見せられたカタログには多くの種類のドレスのデッサンが描かれている。
袖だけでも、丸くなっているもの、ひらひら、手首で絞られているものと多種多様だ。
「私は流行りもわからないので、おまかせしてもいいでしょうか?」
どうせ着ないという選択肢は私にはないのだ。
征一郎の好きにすればいい。
静香はカタログをパタンと閉じながら、よそ行きの顔で微笑んだ。
◇
ようやく今月の満月の日が訪れた。
雲がやや多く、0時の天気は心配だが、とりあえず起きているしかない。
静香は女中に濃いめの紅茶を頼み、読書をしながら0時を待つことにした。
初めて特殊真珠を作ったのは5歳の時。
あのときは2ミリもない小さなものが限界で、しかも作った翌日から1週間ほど寝込み、祖母だけが心配してくれた。
それなのに見ず知らずの男の子にあげてしまい、迎えに来た祖母にこっぴどく怒られたのだ。
そして2個目の真珠は診療所にきた少年にあげてしまった。
先月は雨。
だから今月こそは作りたいのに、空はだんだん曇ってきている気がする。
「今月も無理なのかな……」
静香は窓から月を眺めながら思わず呟いた。
突然聞こえた扉が開く音に、静香の心臓が跳ねる。
静香は慌てて座り直し、乱れた裾を整えた。
「こんな時間まで何をしている?」
「……読書です」
静香は開いたままの本にそっと手を置きながら誤魔化す。
夜着に着替えた征一郎は襟元まできっちりしている普段とは違い、ラフな着物姿。
静香は見慣れない征一郎の姿に戸惑った。
「何を読んでいた?」
「え……あ、その……」
横に座った征一郎が静香の本に手を伸ばす。
頭を使っていないと眠ってしまうと思い、西洋の詩集を選んでしまったことを静香は今更ながら後悔した。
「随分と難しいものを読んでいるのだな」
征一郎は本を奪い取るのではなく、静香の指が触れているページを覗き込むように顔を近づけてくる。
「『今月も無理』は、この詩の一節にでも書いてあったのか?」
しっかり独り言を聞かれてしまっていた静香の心臓がドクドクと脈打つ。
この人は真珠を取りに来たのだろうか?
それとも作り方を見ようと思ったのだろうか?
どちらにしてもこんな時間に来るのはおかしい。
静香は返答に困り、口をつぐんだ。
「これ以上、文字を追う必要はない。寝るぞ」
征一郎に立たせられた静香は、そのまま流れるような動作で寝所の布団へ導かれる。
書類上の夫。
その彼が、今、自分と同じ寝所へ入ろうとしているのはなぜ?
しかも今日は満月だ。
月に1回しかない特殊真珠を作るチャンスなのに。
「あの、今日は」
「何を怯えている?」
征一郎は静かに有無を言わせぬ響きで告げると、静香を抱きかかえるようにして布団に入った。
これはどういうこと?
なんなの?
背中から回された征一郎の腕はびくともしない。
むしろ、その太い腕の重みが静香を逃がさないという確固たる意志のように感じられた。
「まだやることが」
「早く寝ろ」
征一郎の静香の肩を抱き寄せる力がわずかに強くなる。
書類上の冷徹な夫。
そんな彼がなぜ特殊真珠が作れるかもしれない今日に限って、これほどまでに執拗に眠らせようとするのか。
静香は窓の外で輝く満月を見つめながら、逃げられない腕の中でじっと固まるしかなかった。
やがて、温かな体温に包まれた安心感のせいなのか、静香の意識は深い闇へと落ちそうになる。
0時まで起きていなくてはならないのに。
抗うことができないまま、静香は結局意識を手放した。
腕の中の身体が緊張を解き、静かな寝息を立て始めた頃、征一郎は閉じていた瞼をゆっくりと開けた。
「莫迦な女だ。自分の命を何だと思っている」
征一郎は腕の中の細い肩が冷えないようにそっと布団をかけ直す。
静香の白く透き通るような指先に、征一郎は指を絡めながら溜息をついた。
かつて自分を救ったあの小さな真珠が、彼女のどれほどの「命」を削って生み出されたものか。
それを聞かされたとき、幼いながらも征一郎は自分自身の血が凍りつくような心地がした。
「俺が生きている限り、二度とお前に作らせたりしない」
幼い頃、喘息で息をするのもままならず、空気が良い別荘で過ごしていた俺の命を救ってくれたのは、他でもない静香の特殊真珠だ。
あの日から俺の命は、お前の犠牲の上に成り立っていると言っても過言ではない。
「……お前はもう覚えていないだろうな」
特殊真珠の存在は絶対にバレてはいけない。
世間にも、静香の実家にも。
診療所とあの親子には口止めをしたが、果たして彼らは約束を守るかどうか。
「守らせてくれ」
あの日、診療所で絶望に満ちた瞳を見せた静香を縛り付けているのは、他でもない「特殊真珠」という呪いだ。
ならば、その呪いごと、自分が静香を檻に閉じ込めて守り抜くしかない。
征一郎は静香を逃がさないように、その細い身体を強く引き寄せた。
翌朝、静香が目を覚ました時には征一郎の姿はなかった。
昨夜は天気が微妙だったが、満月の光を浴びて真珠を練るはずだったのに。
なぜ突然やってきたのだろうか?
なぜ同じ布団に入ったのだろうか?
だが、その疑問はすぐに解決した。
征一郎は満月の日だけではなく毎日、静香が眠った後にこの部屋にやってきて、早朝に自分の部屋に戻るそうだ。
この本邸に移ってからずっとなのだと専属女中のひとりが教えてくれた。
だが、ますます理由がわからない。
女中には「愛されていますね」と揶揄われたが、真珠が目的のはずなのに満月の日に邪魔をしてきた理由がわからない。
もしかして征一郎は満月という条件までは知らないのだろうか?
いつでも作れるものだと思われていたら厄介だ。
静香はどこまで打ち明けるべきか悩みながら、今日もルイ・ヒールのストラップシューズで歩く練習に勤しんだ。
◇
夜会の会場は、大正ロマンを象徴するような煌びやかなシャンデリアの光に包まれていた。
静香のドレスは先日仕立てた『勿忘草色』のシルク。
着物しか着たことがない静香は、軽くてふわふわとした心許ない生地が風で揺れるたびに不安を感じた。
草履ではない履物も歩く練習をしたが、まだ慣れない。
このような豪華な場所に自分なんかがいていいのかと、場違いにも程があると静香は困り果てた。
「顔を上げろ、静香」
静香の隣には、寡黙で冷徹な男。
征一郎の隙のない立ち姿と彫刻のような美貌が会場中の令嬢たちの視線を釘付けにしていることくらいは、いくら鈍感な静香でもわかる。
姉とだったら美男美女でお似合いだったのだろうなと、静香は自分を消してしまいたくなった。
「姉でなくて、申し訳ございません」
消え入りそうな声で呟いた言葉は、喧騒にかき消されるはずだった。
いくら隣にいても、優雅なワルツの響く中で、征一郎に自分の声が聞こえるはずはないと。
「静香」
名前を呼ばれ、強引に顎を掬い上げられる。
至近距離で見つめる征一郎の瞳は、冬の星空のように冷たく、けれどどこか熱を帯びていた。
「おまえがいい」
征一郎の手袋越しに伝わる手の熱に、静香の心臓が跳ねる。
この言葉は『真珠がいい』だとわかっているのに、自分自身を選んでもらったかのような錯覚に陥りそうになってしまう。
そうだったらいいのにと、ありえない期待をしてしまう自分が虚しかった。
「嵯峨くん」
「大隈会長、先日はありがとうございました」
征一郎が仕事の話で引き止められた隙に、静香は一人で夜のバルコニーへと逃げ出す。
やはり自分に華やかな場所は似合わない。
薄暗い誰もいないバルコニーの冷たい風が、静香をホッとさせた。
鋭い三日月の冷ややかな光が自分の境遇をあざ笑っているように思えた静香は小さく溜息をつく。
「……やはり、私はあの方の隣にふさわしくないわ」
征一郎の放つ圧倒的な存在感。
それに見合うのは、夜会の花として咲き誇る令嬢たちで、自分のような影の薄い女ではない。
そう再確認した瞬間、背後の重厚な扉が開いた。
「相変わらず陰気な子」
「お姉様!? 今までどこに」
会場の誰よりも鮮やかなドレスを纏った姉、麗華の姿に静香は目を見開く。
「まさか嵯峨様があんな素敵な殿方だったなんて」
夜会にも現れない冷徹な男なんて、よほどの不細工なのか偏屈じじいだと思っていたと、麗華は歩きながら肩をすくめた。
「ごくろうさま。もう実家に帰っていいわ」
「……え?」
「相変わらず勘の悪い子ね。あんたはもう用済みだって言ってるのよ」
麗華はツカツカと静香の隣まで歩き、肩をドンッと突き飛ばす。
「身代わりは終わり。私が嵯峨夫人よ」
さっさと消えなさいと命令された静香は、身体の横でギュッと拳を握った。
かつての自分なら震えて俯いていただろう。
だが、似合うかは別として今着ているドレスは征一郎が選んでくれた『勿忘草色』だ。
このドレスを着ている限り、この色にふさわしい芯の強さを持っていたい。
「わかりました、お姉様。私は出ていきます」
姉のためなんかじゃない。
姉の『身代わり』を、私自身がもう終わりにしたいからだ。
華やかな会場を後にした静香は、当然だが乗って帰る馬車も車もお金もなく、徒歩で実家を目指すしかなかった。
だが、歩き始めた静香はふと思った。
このまま実家にも帰らなかったら……?
誰からも必要とされていないのに、戻る必要があるのだろうか?
「この素敵なドレスだけは、あとでお返ししないとね」
静香は踵を返し、暗い夜道の中に消えた。
煌びやかな会場の中、ようやく知人から解放された征一郎は辺りを見渡した。
壁際、軽食コーナー、もちろんダンスフロアにも妻、静香の姿が見当たらない。
「静香……?」
胸の奥をざわつかせる嫌な予感が、征一郎の足を速めた。
「嵯峨様」
麗華は征一郎に近づくと、淑女の微笑みを浮かべる。
「静香なら気分が悪いと言って帰りましたわ」
麗華はわざとらしく溜息をつくと、征一郎の腕に手を伸ばした。
「静香が俺に黙って帰るはずがない」
麗華の手を無造作に振り払うと、征一郎は鋭い視線で麗華を射抜く。
「あら、怖いお顔ですこと。出来損ないの妹に代わって、私が貴方の『妻』になるので、優しくしてくださいませ」
「妹……? おまえが逃げ出した姉か。静香に何を吹き込んだ?」
「私はただ、身の程を教えただけですわ」
野暮ったい妹にあんな高級ドレスは似合わないと笑う麗華の姿に、征一郎は眉間に皺を寄せた。
「身の程だと?」
征一郎の周囲に、凄まじい圧力が立ち込める。
「俺は静香しかいらん。もしあいつの身に何かあれば、お前の実家ごと、この帝都から消してやる」
征一郎は麗華に一歩詰め寄ると、地を這うような低い声で囁いた。
会場を飛び出した征一郎は、門番や御者、車の運転手に静香の容姿を伝え行き先を尋ねる。
歩いて門から出て行ったこと、左の方へ向かったことしか彼らは知らなかった。
「……くそっ」
ようやく手に入れたのに、小鳥のように飛んで行ってしまった妻、静香。
征一郎は車を走らせ、嵯峨邸そして静香の実家へと向かったが、静香を見つけることはできなかった。
◇
夜会から5日。
静香は実家には帰らず、今は誰も住んでいない別荘に移り住んだ。
ここはかつて祖母が住み、静香も幼少期に数年だけ住んでいた場所だ。
ここまでの旅費と着替えは、診療所の婦長に借りた。
征一郎の耳に入ってしまうのではないかと不安だったが、他に頼れる人もなく、ダメ元で頼んだら快く貸してくれたのだ。
必ず返しますと約束したが、婦長はいつでもいいと。
わずかな間しか働けず、そして厳しい職場だったが、あの診療所で働くことができて本当によかったと心から思えた。
「早く働くところを見つけないと」
数件の店で雇ってほしいと頼んだが、やはり帝都と同じように、静香の手を見るなり冗談はやめてくれと追い返されてしまった。
ここは華族の別荘が集まる地域で店も少なく、診療所もない。
どんな仕事ならできるのだろうかと、静香は湖の畔を歩きながら溜息をついた。
「あ、この木……」
そういえば、この大きな桜の木の下で男の子に出会ったのだ。
苦しそうに胸を押さえ、真っ青な顔でヒューヒューと喉を鳴らしている姿が可哀想で、元気になってほしいと思い、真珠をあげてしまった。
私を探しにきた祖母に「真珠をあげたら元気になった」と話したら、酷く叱られ、それきりここに来ることを禁じられてしまったのだ。
「もう苦しんでいないかしら……」
静香は、ごつごつとした桜の幹にそっと手を触れながら、大きな桜の木を見上げる。
「……あぁ。苦しくない」
不意に聞こえた低い声に驚いた静香が振り返ると、鋭い眼差し、彫刻のような顔の征一郎が荒い息を整えながら静香に歩み寄った。
「俺が命を救われたこの場所に戻っているとはな」
帝都中の人力車を止め、鉄道の記録をすべて洗わせ、ようやく向かった方向がわかり、もしかしてここではないかと思ったと征一郎は切なそうに微笑む。
「喘息で呼吸もままならなかった俺に、小さな真珠を飲めと言った少女をずっと探していた」
喘息……?
それに真珠って……。
静香の脳裏に、桜の下で苦しそうにしていた少年の面影が今の征一郎の姿と重なり合う。
「あの時の男の子が……征一郎様だったのですか?」
「そうだ。俺はお前がくれた命で、お前を追い詰めていた……」
征一郎は苦悶の表情を浮かべながら、静香の手に触れた。
「おまえは俺が探し求めていた唯一の女だ」
征一郎は静香を逃がさないように強く抱き寄せ、耳元で甘く独占欲に満ちた声で囁く。
「……では、なぜ姉と縁談を?」
「俺の慢心のせいだ。俺は一番守りたかったお前を傷つけてしまった」
自分の目が節穴だったことが許せないと、すまなかったと謝罪した征一郎は、結婚に至った経緯について教えてくれた。
「この近くに別荘または住処があり、年齢が同じか少し下の女の子という条件だけで探し、ようやく間宮家にたどり着いた」
令嬢に会わせてくれと頼んだら、借金返済と融資を条件に結婚させてやると間宮家の当主に言われ、娘が二人いることも知らされないまま、結婚することに。
「娘は器量も良く、教養もあり、人には言えない特殊能力を持つ可能性があると言われ、俺はすっかり結婚相手があの少女だと思い込んでしまった」
「……そして、姉が当日に逃げたのですね……」
期待していた相手ではない「妹」の方を押し付けられ、征一郎は借金返済と融資だけさせられてしまったのだ。
父と姉が征一郎にしたことを思えば、顔も見たくないと思われるのも当然のことだろう。
「診療所で真珠を見た時は驚いた。同時に自分がとんでもない勘違いをしていたことに気が付いた」
思い焦がれていた女性が妻になったのに、確認もせず別邸に住まわせ、さらに苦しめていたことは謝っても許されることではないと征一郎は目を伏せる。
「言い訳になるが、菊乃の行動は予想外だった。本当にすまなかった」
征一郎は私を苦しめるつもりはなく、ただ会いたくなかっただけなのだ。
別邸は綺麗だったし、もし女中が菊乃ではなかったら、何不自由なく暮らせたのだろう。
征一郎は静香の手を握るとスッと跪く。
「お前を探すために手に入れた権力も富も、お前を傷つけるために使ってしまった。静香、俺を一生許さなくていい。だが、償う機会をくれないか」
冷徹で、圧倒的な存在感を持つ征一郎が見せた初めての姿に、静香は戸惑いながらも小さく頷く。
「実は働ける場所がなくて困っていたのです」
静香はお世話になりますと深々と頭を下げた。
そのあまりに謙虚でどこかズレた静香の返答に、征一郎は耐えきれずに低く笑い声を漏らす。
「帝都一の権力者の妻が、食い扶持を心配しながら湖畔を彷徨っていたとは。俺の不徳の致すところだ」
征一郎は立ち上がると、静香の華奢な身体を再び大きな腕の中に閉じ込めた。
帝都の嵯峨邸に戻った静香は征一郎に頼み、診療所の婦長に借りたお金と服を返しに行った。
「妻が世話になった」
「嵯峨閣下の奥方とは知らず、あんなツラい仕事を! 働かせて申し訳ありません!」
婦長は目を白黒させながら、ペコペコと謝罪する。
「婦長が働かせてくださらなかったら、私は今頃どうなっていたか。本当にありがとうございました」
食べ物を買えたことも、お金と服を貸してくれたこともすべて感謝していると、静香は婦長の手を取りながら微笑んだ。
「この診療所を建て替えようと思う。もう少し医療設備も増やし、包帯や薬も増やす予定だ」
征一郎は良い案だろう? と静香に尋ねる。
「診療所の管理は静香、おまえに任せる」
「……私、ですか?」
「慣れない仕事も嫌な顔ひとつせず働いていたそうじゃないか。上辺だけの帳簿の数字を追う人間ならいくらでもいるが、現場の痛みがわかる人間はそういない」
征一郎は静香の肩を抱き寄せ、その頼りなげな瞳を真っ直ぐに見つめた。
「嵯峨静香として、この場所をお前が守り、育ててみないか?」
姉の「身代わり」ではなく、誰かの「道具」でもなく、静香として与えられた役割に胸が熱くなる。
「精一杯、努めさせていただきます」
「だが、洗濯は禁止だ」
「では包帯の巻き方を教わるのは構いませんか?」
困った顔をする征一郎に、静香はダメですか? と笑った。
◇
新しい診療所の間取り図を広げながら配置を相談する時間は、静香にとって夢のような時間だった。
初めて自分が必要とされ、不足する知識は征一郎がすべて補ってくれる。
少し近すぎる距離がドキドキしすぎて困るけれど。
「友禅の仕立てが届いたな。夜会に間に合ってよかった」
「先日もドレスを買っていただいたのに」
「次は着物の方がいい」
夜会の主催者が友禅を好んでいると言われた静香は、社交界は大変なのだとしみじみ感じた。
征一郎が仕立ててくれた友禅は金彩や刺繍が一切なく、渋めの色彩と繊細な写実表現だけで勝負されたとても美しい着物だった。
「遠目には落ち着いた色無地に見えるのに、こんなに繊細な模様が」
「外側から内側へ向かうボカシの美しさが粋だろう?」
全ての工程を一人で仕上げる一貫作業で作られたこの着物は、派手な色彩や金箔を使わず、職人が技巧を凝縮した作品なのだと征一郎は静香に教えてくれる。
「私に着こなせるでしょうか……?」
「もちろんだ。静香に似合うものを選んだ俺の目を信じろ」
征一郎の過剰な愛に包まれた静香は、頬を林檎のように赤く染める。
以前は深夜にしか訪れなかった征一郎は、湖から帰って来た日から早めに静香の部屋へ来るようになった。
朝まで征一郎に抱きかかえられながら眠るのは恥ずかしかったが、何度頼んでも離してもらえない。
満月の日も、真珠は作らなくていいとハッキリと言われた。
征一郎は静香の祖母から言われた「この子の命と引き換えに生まれる真珠のことは誰にも言わないで欲しい」という言葉をずっと守ってくれていたそうだ。
充実した日々、甘い旦那様、やりがいのある仕事。
すべて順調だと思っていたのに――。
「相変わらず地味な格好をして、恥ずかしいわ」
金銀を散りばめた華美なドレスや豪華な振袖がひしめく夜会の会場で、先日誂えてもらった友禅を着た静香は、姉である麗華に大きな声で笑われた。
「そんな身なりで嵯峨様の隣に立とうだなんて」
不快な高笑いと共に、極彩色のドレスに身を包んだ麗華と不遜な笑みを浮かべた父が、静香と征一郎の前に立ちふさがる。
「嵯峨様、その女は我が家の恥。ただの『身代わり』ですのよ!」
私の方が美しい。私の方がふさわしいと大きな声でアピールする麗華に、征一郎は呆れた。
「婚姻の契約は麗華とです。どうぞ麗華を連れて行ってください」
その地味な身代わりはこちらで引き取りますと、まるで物の売買かのように父が話す。
どうせ姉が征一郎と結婚したいと言い出したのだろう。
先日の夜会でも、征一郎が素敵だと言っていたから。
父は昔から姉に甘い。
姉だけを大切にし、私はいつも姉の影に隠れるおまけだった。
だから祖母は私だけ別荘に呼び、数年間、可愛がってくれていたのだ。
「皆様、聞いてちょうだい! 嵯峨様の婚約者はこの私だったのに! 妹は泥棒猫なんです!」
周囲の視線が突き刺さる中、静香は凛と顔を上げた。
以前の自分だったら、震えて逃げ出し、家で泣き寝入りだっただろう。
でも今は隣に世界で一番信頼できる人がいる。
「征一郎様の妻は私です」
「あんたは私が妻になるまでの身代わりでしょ!」
地味な着物しか似合わないくせに、そんな姿で夜会に来るなんてと麗華は嘲笑った。
「身代わりではない。俺がずっと探し求めていた女性は静香だ」
征一郎は静香の肩を抱き寄せ、静香の顔を覗き込む。
「いやいや、嵯峨様。麗華の方が器量も良く夜会で映えますし、地味で取柄もない静香なんて何の役にも……」
私は私なりに努力はしてきたつもりだし、むしろ姉の代わりに刺繍や手紙だって代筆していた。
姉の女学校の課題もやっていたのは私。
完成品だけ持って行った姉につけられた評価は、実質私への評価なのに。
「お言葉ですが、お父様。お姉様が優秀と認められた習字や刺繍、絵画などの作品展はすべて私が代理で制作したものです」
「嘘をつくな。おまえに麗華のような才能があるわけがないだろう」
父は麗華だからこそ表彰されたのだと、姉を褒めたたえた。
「あらあら、なんの騒ぎかしら?」
「これはこれは、黒川夫人。今日はお招きありがとうございます」
細かい斑点模様に小さくワンポイントだけ柄が入った友禅の着物に身を包んだ初老の女性の登場に、父はペコペコと頭を下げる。
麗華も豪華なドレスを持ち上げ、これ以上ないほど優雅にお辞儀をしたあとニコッと微笑んだ。
「嵯峨閣下。やっと夜会に来たと思ったら、どうなさったの?」
「お騒がせしてすみません。黒川夫人、妻の静香を紹介させてください」
「まあまあ! 結婚したというのは本当だったのね!」
黒川夫人は瞳を爛々と輝かせながら、静香の元へ歩み寄る。
その視線は、静香が纏う「究極の引き算」で作られた友禅の着物に注がれているようだった。
「素敵な友禅ね」
「ありがとうございます」
静香は征一郎に教わった通り、指先まで神経を尖らせて優雅な一礼を返す。
「黒川夫人のたたき染めの友禅もお美しくて、思わず見惚れてしまいます」
「まあ! お若いのに、これがお分かりに?」
黒川夫人は嬉しそうに顔をほころばせ、袖を持ち上げながら静かに袖を見せてくれた。
夫人の着物は一見すると控えめな斑点模様。
だが、それは職人が竹の棒で染料を細かく叩き落として作る気の遠くなるような手仕事の結晶だ。
「絵でしか拝見したことがなかったので、実物にお目にかかれて光栄です」
友禅の着物を仕立てる時、静香は呉服屋で友禅について学ばせてもらった。
金糸の華やかな友禅だけではなく、職人の手描き友禅の特徴や武家文化を背景とした渋みの着物まで。
呉服屋に見せてもらった絵では素晴らしさがよくわからなかったが、実物を見た瞬間、芸術作品のようだと思った。
「最近のお嬢様方は派手な金糸や刺繍ばかりに目を奪われて、こうした『職人の呼吸』を感じる意匠を蔑ろになさるのに……」
夫人は鋭い視線を麗華へと向ける。
「貴女が先ほど『地味』と嘲笑った友禅、そして私が纏うこのたたき染め。これらがいかに高潔な精神で貫かれているか、貴女には一生理解できないのでしょうね」
「そ、そんな……! 私はただ……!」
麗華は顔を真っ赤にし、助けを求めるように父を見る。
だが父は黒川夫人の威厳に硬直したまま動かなかった。
「黒川夫人に妻の審美眼を褒めていただくとは。夫としてこれ以上の喜びはありません」
征一郎は静香の腰に手を添え、守るように引き寄せる。
静香に微笑んだ後、征一郎は静香の父を睨んだ。
「さて、間宮当主。あなたには聞きたいことがある」
征一郎は胸ポケットから数枚の書類を取り出し、父と麗華の前に出した。
「負債の肩代わりと、事業再建のための資金援助は確かに約束した。だが、その娘のドレス代や新たな賭博の借金の請求書がこちらに回ってくるのはどういうことか」
「……え? 賭博?」
驚いた静香は征一郎から奪うように書類を受け取ると、上から何枚も書類を見ていく。
それは確かに賭博場、ドレス店、呉服屋、装飾品からの請求書の束だった。
「こんなに……?」
日付は静香が征一郎に嫁いだ後のものばかり。
借金の清算をしてもらったばかりだというのに、贅沢三昧だった実家の行動に静香の血の気が引いた。
「まさか今までの負債も事業に失敗したのではなく、賭博やお姉様の贅沢品だったということですか?」
「私が美しければ美しいほど、いいところにお嫁に行けるのよ」
何が悪いのよと開き直る姉の麗華を、静香は真っすぐに見つめた。
「……逃げ出しておきながら、自分の行いを正当化するなんて」
「うるさいわね、静香のくせに」
「娘を売っておきながら、まだ賭博場に出入りするなんて」
「今度こそ儲かると思ったんだ」
「観察眼も洞察力もない人に賭博は向いておりません」
「なんだと!」
拳を振り上げた父の手を征一郎はパンと弾く。
「嵯峨の名を勝手に出し金品を受けとった詐欺の疑いで、出頭願おうか」
征一郎が短く合図をすると、会場の隅に控えていた憲兵たちが一斉に足音を鳴らして近づいた。
「嫌! 離して! 私が嵯峨夫人になるはずだったのに。静香、あんたのせいよ。あんたが……!」
麗華は、自慢のドレスが床に擦れるのも構わず、醜く喚き散らしながら引きずられていく。
「静香、おまえがうまく立ち回らないからだろ! 今から頼め!」
「何を頼むのでしょうか?」
「そんなこともわからんのか! だからおまえは……」
父は大きな声で騒ぎながら、憲兵に必死で抵抗した。
「嵯峨様、誤解があるようです。もう一度話す機会を!」
往生際が悪い父を連れて行こうとする憲兵に、征一郎が少しだけ待つように指示をすると父の顔は期待で満ち溢れる。
征一郎は静香からそっと手を離すと、コツコツと靴音を鳴らしながら父に近づいた。
「間宮家の秘宝は大切にしますので、ご安心を」
征一郎は父の耳元で囁く。
「秘宝……?」
「えぇ。数代に1人の」
征一郎は口の端を上げると静香に視線を送った。
「……まさか」
父は震える声で呟きながら静香を見つめる。
「さようなら、お父様」
静香はこれ以上ないほど笑顔で父に別れの言葉を告げた。
もう二度と会いたくない、私の過去の家族。
もう身代わりにはならない。
もう利用されない。
私は新しい家族と、私を必要としてくれる人と幸せになりたい。
父が扉から出た瞬間、会場は静まり返る。
「さぁ、夜会は仕切り直しよ。その美しい友禅をダンスフロアの真ん中で見せてくださる?」
「はい、黒川夫人」
「一生、静香を独占する栄誉を」
征一郎は静香の指先に唇を落とすと、優雅なエスコートでダンスフロアの真ん中まで連れて行ってくれた。
ガス燈の光を浴びた静香の友禅が気高く輝く。
身代わりで結婚した静香は、今、本物の愛と誇りを胸に、新しい時代の主役として歩み出した――。
数ヶ月後、静香の実家である間宮家が没落したと新聞に見出しが載った。
新聞によると、父は帝都の本邸と家財を売り、借金の返済に充てたそうだ。
真珠があれば再建できると父は何度も征一郎に頼んだそうだが、もちろん征一郎は拒否。
静香への接近禁止命令を出してくれた。
征一郎と話し合い、静香は後世に真珠の作り方を伝承するのはやめると決めた。
あの苦しい儀式を子孫の誰にも味わわせたくなかったからだ。
「かあさま、これはなあに?」
征一郎にそっくりな5歳の長男が、小さな瓶に入った真珠の欠片を手に走ってくる。
「これはね、とっても大事なものなの。ととさまと仲良くなるきっかけをくれた宝物なのよ」
「じゃあ、いつかぼくもキラキラした石をかあさまにあげるね」
もっと大きな石にしたら、ととさまに勝てると長男は笑った。
「……ダメだぞ。静香は俺のだ」
後ろから急に抱き寄せられた静香は、声の主である征一郎に微笑む。
「ずるい~。ぼくも」
足元にくっつく息子と、背中から包み込んでくれる旦那様。
静香は目を細めながら、幸せな毎日に感謝した。
END
多くの作品の中から見つけてくださってありがとうございます。
ブクマ・リアクション・評価、執筆の励みになっております。いつも応援ありがとうございます。
血が真珠になるなんて、色も違うじゃないか!というツッコミがあるかと思いますが、ビジュアル的に血を固めたような赤い石だったら飲みたくないなと(笑)
霊力を込めて練り上げていますので、色も変わってしまうのはファンタジー要素として受け流していただければ嬉しいです(逃)
最後までご愛読ありがとうございました。




