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虚構の才能、虚飾の友情

作者: 紫葵

 王立魔法学院の大広間。華やかな宴で、多くの貴族や有力者たちが思い思いに語り合う。その中心にいるのは、公爵家の嫡男レオン・エルデンヴァールだ。


 彼は目の前の人々に優雅に微笑みかけ、身分に関係なく誰に対しても礼儀正しい振る舞いを見せる。無駄のない動きでワイングラスを傾け、相手が言葉に詰まると自然に話題を変えて場を和ませる。老練な貴族から若い侍女まで、彼と会話を交わす誰もが、彼の優雅な気遣いに心を奪われていた。


「さすがはエルデンヴァール公爵家の嫡男。あの若さであそこまでの教養と才覚を持っているとは!」

「まさに理想の貴族だな。あれこそノブレス・オブリージュを体現する男だ」


 噂話が後ろから聞こえてくるが、レオンは何もなかったかのように笑顔を浮かべ、別の貴族に優雅な挨拶を続ける。彼は誰に対しても偏見を持たず、貴族・平民関係なく同じ態度で接する。そのため、王国中で絶大な人望を誇っていた。


 学院の教師たちも彼を口々に称える。

「火、水、風、土、どの属性も極めてバランスが良く、魔法の制御も見事だ。戦闘においても儀礼においても、あの若さで非の打ち所がない」

「剣術や政治にも通じており、さらには音楽の才能まで備えている。あれほどの万能の天才は、百年に一人の逸材だ」


 だが、誰も知らない。表向きの天才児の仮面の裏で、彼がどれだけの犠牲を払っているかを。


 夜の公爵邸。煌々とした月明かりが差し込む自室の隅で、レオンは膝を抱えて呼吸を整えていた。彼の額には汗が滲み、机の上には無数の魔法書が開かれている。どの書物も何度も読み込まれ、ところどころに赤いインクでメモが走っている。


 彼は一息つく間も惜しんで、魔法の陣を描き直し、呪文の詠唱を繰り返す。すでに習得済みの魔法を何度も何度も磨き直すように。少しでも精度を高め、わずかな成長でも見逃さないように――それが、彼の「万能さ」の正体だった。


「こんなはずじゃない……もっと、もっと完璧にできるはずだ……」


 己に言い聞かせるようにレオンは魔法を繰り返す。手を動かし続けないと、心が軋む音を立てて崩れてしまいそうだった。彼は自らに宿らない“本物の才能”に焦がれていた。たとえ周囲から「万能の天才」と称えられても、心の奥ではそれが虚構に過ぎないことを知っている。


 彼の多才さは、ただの器用さの延長であり、圧倒的な天才性には程遠い。どれだけの努力を積み重ねても、「天賦の才」というものにはどうしても届かない。


 彼が眠りにつくのはいつも深夜を過ぎてからだった。それでも、翌朝には何事もなかったように貴族らしい優雅さで振る舞い、人々の前で完璧な笑顔を見せる。



 そんなある日、王都で不思議な噂が耳に届く。


「聞いたか? スラム出身の少年が王立学院で異様な才能を見せているそうだ」

「名は……確かカイル・ヴェスターだったな。火の魔法の扱いが異次元らしいぞ。教えたばかりの呪文を、あっという間に習得してみせたらしい」


 レオンはその話に耳を傾けながら、胸の奥に鈍い痛みを覚えた。

「異様な速さで魔法を極めつつある……」


 その言葉が、鋭い棘となって心に突き刺さる。自分が血反吐を吐く思いで積み重ねてきた努力が、カイルという少年にはまるで無意味なものに思えた。


「本物の才能、か……」


 心の中で何度も反芻する。彼が渇望してやまないそれを、カイルはどんな思いもなく簡単に手にしている。何の苦労もなしに、ただ才能に愛される存在――そんな相手にレオンの胸は苛立ちで満たされていく。


「一度、あの少年を見てみるか……」


 レオンはそう呟きながら、次第にカイルへの興味と焦燥を募らせていった。彼はまだ気づいていなかった。カイルとの出会いが、自らの虚構の仮面を崩していく始まりとなることを――。



 王都の中央広場に面する壮麗な宮殿で、貴族たちが集う盛大な宴が催されていた。燭台の光が煌めく大広間では、貴族や上流階級の若者たちが美しい衣装をまとい、音楽に合わせて優雅に踊っている。彼らの会話は洗練され、笑い声は音楽の一部のように響く。


 レオンもその中にいた。完璧な立ち振る舞いで誰もが一目置く存在として、次々に寄ってくる貴族たちに笑顔で応じていた。だが、その内心はいつも通り冷めていた。会話の言葉選びも、相手の表情を見て笑顔を繕うことも、すべて習慣のようなものだった。


 ふと、人の輪の向こう側から、見慣れない少年がこちらに歩いてくるのが目に入った。貴族らしからぬ、素朴で人懐っこい笑顔を浮かべている。


「君がレオン・エルデンヴァールだろ?」


 その少年は、周囲の貴族たちから少し浮いて見えた。豪華な衣装を身に着けてはいるものの、どこか着慣れない様子があり、立ち居振る舞いも型にはまらない。それがかえって、彼の無垢さを強調していた。


 レオンは眉をひそめることなく、いつものように穏やかな微笑みを浮かべて答えた。

「そうだが、君は?」


「僕はカイル・ヴェスター。よろしくな!」


 無邪気な笑顔で差し出された手に、レオンは一瞬ためらった。スラム出身だと聞いていたこの少年が、なぜこんなに物怖じせず自分に話しかけられるのか、不思議だった。そして、ほんの一瞬だけ、彼の無遠慮な態度に苛立ちを覚えた。


 だが、すぐにその手を取る。貴族としての礼儀は忘れない。


「君がカイルか。王立学院の噂は聞いているよ。素晴らしい才能だそうだな」


「才能? いやいや、僕なんかまだまだだよ!」


 カイルは照れ笑いを浮かべ、頭を掻いた。その仕草はまるで貴族の宴にいることが信じられないような、飾り気のない少年のものだった。


「でも、僕には夢みたいなんだ。君みたいな人と同じ場に立てるなんて」


 レオンは微かに目を細めた。その言葉が胸の奥に何かを刺したように感じたからだ。


「僕、君のことを本当に尊敬してるんだ。『貴族の中の貴族』だよね。どんな場でも完璧で、誰に対しても優しくて、いつもみんなの期待に応えてる。僕みたいなスラム出身の人間には絶対できないことだ」


 カイルの声には一切の偽りがなかった。それどころか、心の底からの感謝と憧れが滲んでいた。まるで、レオンの存在が彼にとっての光であるかのように。


「君は僕にとって、手の届かない高嶺の花みたいな存在なんだ」


 その言葉を聞いた瞬間、レオンは不快感に襲われた。心臓を掴まれるような、何とも言えない感覚だ。


 なぜ、この少年が俺を羨む?


 憧れられるべきはカイルの方ではないのか? 血の滲むような努力をせずとも魔法に愛される天賦の才。それがレオンにはないものだった。自分が一生追い求めても届かない「本物の才能」――それを持つ彼が、なぜこちらを羨ましがるのか。


 カイルは、まるでそれに気づいていないかのように微笑み続ける。

「君が羨ましいよ、レオン。僕は努力なんてほとんどしたことがないから、君みたいに努力できる人を本当に尊敬してるんだ」


 レオンの胸の奥に、じわじわと苛立ちが植え付けられていく。それは、嫉妬でも敵意でもない。純粋な才能に愛される存在から尊敬を向けられることへの、言いようのない違和感と屈辱だった。


「……そうか」


 レオンは笑顔を浮かべたまま短く答えた。だがその笑顔は、いつものように余裕のあるものではなく、微かにひび割れているようだった。


 会話を終えても、レオンの心は静まらなかった。なぜカイルの無邪気な言葉が、これほどまでに自分を苛立たせるのか――その理由が、自分でもわからなかったからだ。


 だが、彼の中にはもう一つの感情もあった。


 引き寄せられるような感覚。


 レオンは理解していた。自分が求めてやまない「本物の才能」を、カイルという少年が体現していることを。そして、彼のその才能はどこまでも純粋で、どれだけ望んでも自分には手に入らないものだということも。


 それなのに、カイルは無邪気に、そして心からの敬意をもって自分に憧れを語る。そのことが、レオンの心を深くえぐっていった。


「どうして君が、俺を羨むんだ……?」


 その問いに、答えはなかった。カイルはただ素直に尊敬を表し、感謝の気持ちを伝えただけだった。


 そして、レオンは知ることになる。自分が何を持っていても、本当に欲しいものは手に入らないということを。



 レオンの日常は、以前と変わらず完璧だった。朝には馬上での鍛錬、昼には宮廷での会議や人付き合い、夜には音楽や舞踏の稽古。それらすべてを難なくこなして見せる。貴族たちからの賛辞も、使用人たちの崇拝も、当たり前のように彼に注がれる。


 しかし、その完璧な仮面の裏で、彼の心は次第に不安定になっていった。


 その日もレオンは学院の魔術訓練場で汗を流していた。目の前に広がる荒れ地のようなフィールドに立ち、彼は集中して呪文を唱えた。


「――《炎の螺旋》!」


 彼の周囲に小さな火柱が立ち上がり、それが螺旋を描くように絡み合いながら燃え上がる。独自に工夫を凝らした複雑な術で、周囲にいた訓練生たちから「さすがレオン様」と歓声が上がった。


 だが、その歓声に浸る暇もなく、カイル・ヴェスターが何の前触れもなく彼の隣に立った。


「へぇ、その魔法、面白いね!」


 カイルは目を輝かせ、特に警戒することもなく軽やかに指を鳴らした。


「えっと、こうかな――《炎の螺旋》!」


 彼が唱えた瞬間、同じ螺旋の炎がレオンのものよりさらに高く、より美しく燃え上がった。軽い調子でやってのけたそれに、周囲の訓練生たちがさらに驚きの声を上げる。


「すごい! 本当に一瞬で再現した!」

「カイル君、天才だ!」


 歓声がカイルに向けられ、彼は照れ臭そうに笑った。

「そんなに大したことないよ。レオンの魔法を真似しただけさ」


 一言で片付けられたその言葉が、レオンの胸にずしりと重くのしかかる。


「真似しただけ」――俺が何日も試行錯誤して編み出した魔法を、たった一度見ただけで?


 レオンは喉元に熱い何かが込み上げるのを感じたが、それを必死に飲み込んだ。表情を崩さず、優雅な微笑みを浮かべる。だが、その内心では怒りと焦燥が渦巻いていた。


 これが才能の差か。どれだけ努力しても、俺はカイルのようにはなれない。



 訓練が終わった後、カイルは何の気負いもなくレオンの肩を叩いた。

「今日は楽しかったな、ありがとう、レオン!」


 その笑顔には一切の悪意がなかった。まるでスラムの路地裏にいた頃と変わらない、あどけない笑顔だ。


「君が相手してくれるおかげで、僕も色々学べるよ。本当に感謝してるんだ」


 その言葉が胸の奥に突き刺さる。なぜ、才能に愛されるお前が、俺に感謝する必要がある?


 レオンは心の中で叫びたかった。だが、貴族の矜持がそれを許さない。彼は冷静さを保ちながら微笑みを浮かべ、言葉を返した。


「こちらこそ、君と訓練できて楽しかったよ」


 それが本音でないことなど、カイルは気づかない。ただ無邪気に笑いながら「また頼むよ!」と言って去っていった。


 レオンはその場に一人残され、虚しさと苛立ちを噛み締めていた。いくら努力を積み重ねても、どれだけ完璧な仮面を被っても、カイルの持つ「本物の才能」には及ばない。


 俺はもう、あの少年を友とは思えない……。彼は“敵”だ。


 だが、その敵とは戦うこともできない。才能の差という、目に見えない壁が二人の間に横たわっているからだ。


 レオンは気づいていた。カイルを敵として捉えたところで、結局自分の無力さに苦しむだけだということを。それでも、心のどこかで彼を目の敵にしなければ、自分の心が保てないのだ。


「才能のない俺には、せめて彼を憎む権利くらいあってもいいだろう?」


 そう思わなければ、自分の努力が無意味に思えてしまう。完璧であろうとする自分が、ただの空回りに過ぎないことを、認めたくなかった。



 王立魔法学院の催しは、一年に一度、貴族も平民も分け隔てなく参加できる大舞台だった。王族をはじめ、多くの高官や貴族が集まるこの場で才能を示すことは、将来の地位を築くための重要な機会とされている。


 広大な演舞場の中央では、カイル・ヴェスターが歓声を浴びながら魔法を披露していた。彼の周囲を舞う風が花びらを巻き上げ、まるで祝福のように宙を漂う。その風を纏ったカイルが空中に跳び上がると、会場の人々は一瞬息を呑んだ。


「――《焔舞の竜》!」


 彼の手から噴き出した炎は、竜の形を取り、優雅に宙を泳ぎながらフィールドを照らす。観客たちは一斉にどよめき、その場は拍手と喝采で埋め尽くされた。


「すごい!」「彼はまさに新しい天才だ!」

「将来、魔術界の頂点に立つだろうな!」


 周囲からは次々と称賛の声が上がり、人々はこぞってカイルのもとへ駆け寄り、彼を囲んで口々に賛辞を述べていた。


 その喧騒を、レオン・エルデンヴァールは少し離れた場所から黙って見つめていた。彼の心の中に、冷たい虚無感が広がっていく。


「新たな天才か……」


 その言葉を聞くたびに、胸が抉られるような痛みを覚える。彼自身もまた称賛され、周囲から「万能の天才」と呼ばれてきた。だが、それはカイルに向けられる「純粋な天才」とは違っていた。


 “万能”だが、“天才”ではない――。


 その認識が、レオンの心を静かに蝕んでいく。どれだけ努力を積み重ねても、レオンが成し遂げることは「すべてを平均以上にこなす」ことに過ぎなかった。誰からも文句を言われることはないが、称賛もまた空虚だった。


 レオンは拳を握りしめ、爪が掌に食い込むのも構わず立ち尽くしていた。

「俺は何のためにここにいる……?」


 これまで彼が積み重ねてきた血の滲む努力は、すべて空回りだったのか。カイルのような天才を前に、自分の努力は意味を持たないのではないか――そうした疑念が頭を巡り、心を黒く染めていく。


 嫉妬が胸を焦がし、自己嫌悪が心を締め付ける。カイルを憎みたい衝動に駆られながらも、それはできなかった。


 カイルには憎むべき理由などない。彼はただ、自分の才能に正直に生きているだけだ。


「レオン!」


 気がつくと、カイルが無邪気な笑顔を浮かべて自分に向かって手を振っていた。人混みをかき分け、こちらに駆け寄ってくる彼の姿は、まるで昔からの親友のように親しげだった。


「君が見てくれてたなんて嬉しいな!」


 カイルは悪びれることもなく、素朴な笑みを浮かべて言った。

「僕、いつか君のようになりたいんだ」


 その言葉を聞いた瞬間、レオンの胸が締め付けられるような痛みに襲われた。


 なぜ、お前がそんなことを言う? なぜ、天に選ばれたお前が、俺なんかに憧れる必要がある?


 レオンは心の中で、「もうやめてくれ……」と叫んでいた。カイルが屈託のない笑顔を浮かべるたびに、彼の中の無力感が深まっていく。


「お前が手を伸ばすたびに、俺がどれだけ無力かを思い知らされるんだ……」


 だが、レオンはその言葉を口にすることはなかった。貴族としてのプライドが、それを許さなかったからだ。


 カイルは何も知らず、屈託なく感謝の言葉を続ける。

「本当にありがとう、レオン。君と知り合えてよかった。君は僕の理想なんだ」


 その言葉に、レオンの心はますます深い闇に沈んでいった。


 お前の才能が、俺の心を蝕んでいるとも知らずに……。


 二人の道は交わらない。どれだけ近くにいても、彼らの間には「才能」という絶対的な壁が横たわっている。カイルが手を伸ばせば伸ばすほど、レオンはその壁の高さを痛感し、絶望に沈んでいくのだった。



 夕暮れ時の街路。王都の石畳が橙色の光を受けて淡く輝く。仕事や学院の用事を終えた人々がそれぞれの家へ帰っていく中、レオンは一人で歩いていた。


 街の喧騒が遠のき、人通りの少ない道に差し掛かった頃、ふと足を止め、呟く。


「……どうして才能が俺のもとに降りなかったのだろう」


 その言葉は、誰にも届くことなく空に溶けていく。ただの独り言だ。それでも、長い間心の奥底に押し込めてきた思いが、ようやく形を持った瞬間だった。


「俺は何のためにこんなに努力をしてきた?」

 そんな問いが心をよぎるが、すぐに頭を振ってかき消した。


 彼には捨てられないものがあった――周囲からの期待と「万能の嫡男」という仮面。貴族として、人々の前では完璧な振る舞いを見せなければならない。もし一歩でも立ち止まれば、「期待に応えられない凡人」として周囲から見限られるのが分かっていた。


 だからこそ、努力をやめられない。血の滲むような鍛錬を続けても、いつか認められるかもしれない――そんな淡い希望を捨てられず、今日もまた仮面を被り続ける。


 一方で、カイル・ヴェスターはそんなレオンの葛藤に気づくことはなかった。彼はいつもと同じように無邪気で、気さくな笑顔を浮かべて接してくる。


「レオンがいてくれて、本当に良かった」


 カイルは何度もそう言って、屈託なく感謝の言葉を伝えてくる。彼にとってはただの素直な気持ちだったが、その言葉はレオンにとって耐えがたい重荷だった。


「俺が欲しかったのは、そういう言葉じゃない……!」


 心の中で叫んでも、それを口に出すことはできない。貴族としてのプライドと立場が、そうした本音を封じ込めていた。


 カイルが差し出す友情は、レオンにとって逃れようのない檻のようだった。努力しても届かない才能の持ち主が、何も知らずに自分に感謝する。それがどれほど残酷なことか、カイルは気づいていない。


 ある日、カイルがいつものように笑顔で話しかけてきたとき、レオンはわざとそっけない態度を取った。


「最近、学院の課題で忙しいんだ」


「そうか。無理はしないでくれよ、レオン」


 カイルは少し残念そうに微笑んだが、それでも変わらず温かい態度だった。その無邪気な姿に、レオンは胸の奥が軋むような痛みを覚えた。


 カイルとの距離を取らなければならない。 そうしなければ、自分が壊れてしまう――レオンはそう感じていた。だが、その一方で、カイルの純粋な笑顔を裏切るようなことはしたくなかった。


 レオンはカイルと距離を置こうとしながらも、その決断に罪悪感を抱いていた。


「俺は、どこまでこの仮面を被り続ければいいんだ……?」


 その問いの答えは見つからないまま、レオンは一人、仮面の裏で戦い続けるしかなかった。才能に恵まれなかった自分を責め、努力しても追いつけない現実に苛まれながら。


 カイルの「君がいて良かった」という言葉は、もはやレオンの心に届かない。二人の間には、もはや埋めようのない溝ができていた。



 王立魔法学院の卒業式を目前に控えた夜、静まり返った寮の部屋。レオンの心は重く、すでに決意を固めていた。カイル・ヴェスターとの縁を断つこと、それが唯一の解決策だと。


 その時、ドアがノックされ、カイルが現れた。彼はいつも通りの無邪気な笑顔を浮かべていたが、その目には少しの不安が宿っていた。


「レオン!お前に会いたかったんだ。これからも友人でいてほしい!」


 その言葉に、レオンの表情は一瞬固まった。微笑みを返すこともできず、心の中の葛藤が激しく渦巻く。


「……俺は、もう君の友人でいることはできない」


 レオンの声は無表情で、感情を押し殺した言葉だった。その瞬間、彼の目から一筋の涙が零れ落ちた。涙が頬を伝い、静かに床に落ちる。


「どうして、そんなことを言うんだ!僕は君が必要なんだ、レオン!」


 カイルは震える声で叫び、思わずレオンの手を掴んだ。その握力には必死さが込められ、彼の目には驚きと焦りが混ざり合っていた。


「僕たちの友情は何にも代えがたいものだろう!それを捨てるなんて、どうしても理解できない!」


 その言葉がカイルの心に突き刺さり、レオンの胸が締め付けられるような思いで、さらに言葉を続けた。


「才能を求めても、得られない人間に、君のような友人は重すぎる。俺は、もう苦しみたくないんだ」


 レオンの目には、強い決意が浮かんでいたが、その裏に隠された無力感と絶望が、まるで深い闇のように彼を包んでいた。カイルの手を振り払うこともできず、ただその場で言葉を続けるしかなかった。彼は自分の思いを吐き出すことで、カイルとの距離を一層深めてしまうのを感じた。


 カイルはその言葉を聞いて目を見開いた。彼の顔には驚きと悲しみが混ざり合い、まるで一瞬で色あせたように見えた。彼の心の中に温かい感情が渦巻いていたが、それが一瞬にして凍りつくのを感じる。


「レオン、お願いだ。もう一度考え直してくれ……!」


 カイルの心の中で、友情が破壊される恐怖が広がっていく。しかし、レオンは目を逸らし、彼の心の叫びには応えられなかった。


「レオン……僕は、君のことが好きなんだ!君の存在が、僕にとってどれだけ大切か知ってるだろう!」


 その声は震え、カイルの胸の奥から溢れ出す感情が言葉になった。しかし、レオンの反応は冷たく、彼の心をさらなる苦痛へと引きずり込む。


「そんなことは、もう関係ないんだ。俺には才能がない。だから、友人でいる資格なんてないんだ!」


 カイルは、その言葉に絶望を感じた。涙を流すレオンを見つめると、心が折れるような思いが胸を締め付けた。彼は自分の言葉がどれほど重いかを理解しつつも、何かを伝えなければならないと感じた。


「君がいない世界なんて、考えられない!お願いだ、そんなことを言わないでくれ!」


 カイルは懇願するように、レオンの手を握りしめた。彼の手の温もりは、友情の証であり、彼にとっての希望でもあった。しかし、その希望はレオンの冷たい言葉によって崩れ去るのを感じ、彼の心は苦しみでいっぱいになった。


「どうして、こんなに簡単に離れてしまうんだ……!」


 カイルの心の中で叫びが響き、涙が頬を伝った。彼は、レオンの存在がどれほど彼自身を支えていたかを思い出し、その喪失がどれほどの痛みを伴うかを理解していた。


「お願い、レオン。僕たちの友情を守りたい。君のために、僕は努力するんだ!」


 その言葉にはカイルの必死の思いが詰まっていた。彼の目は真剣そのもので、心からの訴えがレオンに届くことを願っていた。しかし、レオンは無情にもその手をそっと解放した。


「もう、遅いんだ。二度と会うことはないと決めている。君との距離を置くことが、俺には必要なんだ」


 その言葉が静かに響いた瞬間、カイルは呆然とし、言葉を失った。彼の中で感情が渦巻き、胸が締め付けられるような痛みを感じる。目には涙が溢れ、声は震えていた。


「レオン……僕は、君を失いたくない。どうか、もう一度……もう一度……考え直してくれ……」


 カイルは心の底から叫んだ。彼の声には、切実な願いが込められていた。手を伸ばし、レオンに掴んでもらいたい、支えてもらいたいという思いが強くなり、彼の胸の奥で鼓動が高鳴る。しかし、レオンはその熱意を受け入れることはなかった。


 カイルの心に、絶望の影が忍び寄る。彼は自分の思いをどう伝えたらいいのか、何が足りないのかを考え続けたが、言葉が出てこない。彼の視線はレオンに向けられ、友を失うことへの恐れが彼を苦しめた。


 レオンは最後に、静かに空を見上げた。夜空には無数の星が瞬いており、その中には美しくも遠い「才能」という星が輝いていた。レオンの目はその光に引き寄せられ、何かを求めるように見つめ続ける。星たちの冷たい輝きは、彼の心の内に秘めた切なさを浮き彫りにした。


「ごめん、カイル……」


 その言葉が、静かな夜の中で静かに漏れ出た。謝罪は、友情への感謝と別れの悲しみが混ざった複雑な感情を抱えたものであった。レオンは自分の選んだ道を進む決意を固め、何度も心の中で繰り返した。


 もう、二度と交わることのない未来を思い描きながら、彼はゆっくりと足を踏み出した。心の奥に深い寂しさを感じつつも、自分自身に言い聞かせるように。未来の光景がぼやけて見える中で、レオンは孤独な決意を胸に秘めたまま、その一歩を踏み出した。



 歩みを進めるたびに、レオンは心の中に渦巻く感情を整理しようとした。カイルとの日々、彼の無邪気な笑顔、そして自分を支えようとしてくれた言葉の数々が、まるで一枚一枚の絵画のように浮かび上がる。だが、その一つ一つが今は重荷になってしまった。


 夜の冷たい空気が彼の頬を撫でる。孤独を感じながらも、どこか清々しさもあった。自分が選んだ道を歩くことは、もう逃れられない宿命のように思えた。


「これでいいんだ……」


 レオンは呟いた。その言葉は自分を納得させるためのものであり、同時にカイルとの別れを受け入れるための決意の証でもあった。心の中の葛藤を押し込め、彼は一歩一歩、自らの未来へと進んでいく。


 その瞬間、空を見上げた時に感じた無力感が、少しずつ薄れていく。星は変わらず輝いている。しかし、レオンにとってそれはもう、手の届かない光ではなかった。彼は新たな決意を胸に、才能を求めることをやめ、努力を続けることを選んだ。


「必ず、努力は報われるはずだ」


 自分に言い聞かせるように、そう呟く。彼の心に生まれた小さな希望が、やがて大きな光となって照らすことを信じて、レオンは闇の中に踏み出していった。今はまだ小さな一歩だが、確実に自分自身の道を歩み始めたのだ。

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