(下)
帰宅って、どこへだ?
熱を帯びていたボクの後頭部が、フルフェイスのヘルメットの中で急速に冷えた。現実的に、ごくシンプルに。ふっと、空白だったボクの頭の中に小さな閃きが灯った。
「ビクビクすることないよ」
どこからか、ささやきかける声が聴こえた。声も口調もベニカとよく似ていた。
「ダメもとで行ってみればいいじゃん」
ベニカのささやきに励まされて、ボクは行ってみた。
そうしたら、ボクらと母さんが住んだあの家に、父さんは新しい家族と住んでいた。行って家の周りを見ただけで、そのことはすぐにわかった。花の季節が終わった花壇はきれいに手入れされ、その前にサーモンピンクの軽自動車と青い子ども用チャリが並び、家族の存在を告げていた。
寮に入ったとき持ち出したキーホルダーに、裏口の合い鍵もついていた。ボクはそれを使って難なく家に入れた。表の玄関は最新式の立派なドアに新調されていたけど、裏口は昔のままだった。
母さんが花壇の手入れをするときや、ボクらが水遊びをするときに使った裏口だよ、覚えてるだろ?夏以外はだれも開かないドアの中に電動チャリを仕舞い込み、バッテリーは廊下のコンセントに挿し込んだ。
意外にも、ボクの部屋は昔のままだった。そりゃそうだ、まだ生きているボクは、突然自分の持ち物を取りに来るかも知れないからね。あいつらも、そう考えたんだろう。
死んでしまったベニカの部屋には段ボール箱が積んであり、チラッと中を見たら、ベニカの服と母さんの服がごちゃ混ぜに詰め込んであった。
懐かしい自分のベッドにもぐり込んで眠りたかった。けど、それをやってしまったら起きられなくなって、丸一日でも眠ってしまいそうだ。それは今じゃない、後でも出来ることだ。ボクはグッと堪えてベッドの誘惑を押しのけ、先送りにした。
屋根裏から地下室まで続く裏階段の入り口は、固く閉じてボクを撥ねつけた。さもありなん。何しろここは、この家で一番不吉な場所だ。父さんと母さんの可愛いベニカが、二階から地下まで続く長い階段を転がり落ち、たった六歳の短い人生を終えてしまった、悲しい事故現場だから。
だけど。
あれが事故ではなくてボクのしたことだと、父さんと母さんは初めから知っていたよね?それなのに見事な阿吽の呼吸で、ふたりとも気づかないふりをした。ボクを守るために。
それが言葉通りの真実だったら、ボクにとってこの世界はもう少しマシな場所になったかも知れない。本当にそれがボクのために、為されたことだったら。
だからこそ。
この不吉な場所にはだれも近づいて来ないだろうと、ボクは確信できた。取っ手にぶら下がった古い南京錠の鍵穴と、キーホルダーについているそれらしき鍵を合わせてみた。三個目で南京錠が開いた。
それでも。
正直言ってドアを開けるには、けっこうな勇気が要ったよ。
ひょっとしたら、そこにはベニカが待ち構えていて、ボクに文句をつけてくるかも知れない。あいつらしい破壊的な勢いと執拗さで。あるいは、死者らしい不穏な不気味さで。あたしが死んだのはセイヤのせいだと、金切り声で喚きながら迫って来るかも。
そっか。
そうしたらまた、突き落としてやればいいんだ、ねえ母さん?ボクはあれからだいぶデカくなったし、チビのままのあいつに負ける気はしない、たとえ悪霊化していても。
なんて、あれこれ考えあぐねて構えたんだけどね。
ベニカはいなかったし、その後もついに現れなかった。
細長く急勾配の階段室はあの家を貫く大動脈のような案配で、居心地は意外と悪くなかった。最上段の踊り場でコの字形に寝そべると、一階のリビングからあいつらの気配と話し声が、壁を伝って立ちのぼり、ボクの耳に届いた。
さっき母さんに話したことはほとんど全部、この階段室にいるとき盗み聞いたハナシなんだ。父さんが電話でだれかと喋る声、ハルカさんと交わすやりとり、ハヤトにかける言葉。中学生になる前にきちんとしよう云々、調子こいた大法螺のアレだ。あいつらにとってはいつもの会話だろうが、ボクには初めて知ったことばかり、心底魂消ることばかりだった。
ボクだけが、なんにも知らなかった。そのことを思い知った。
寮へ戻るのは面倒だった。けど、ボクが所在不明になったら、学校もあいつらも一応は捜すだろう。少なくとも意識して警戒する。そうしたらボクの行動は制限され、だいぶ不自由になりそうだ。すぐに見つかってしまうかも知れない。それはマズイ、そんなのはダメだ。
だからしょうがなく、一旦戻ることにした。
それでも土曜日の午後から日曜日の昼頃まで、ボクはずっと家の中にいたんだよ。なかなかスリリングで、面白い体験だった。あいつらの動きを読んで隙を伺い、階段室から出た。トイレを使ったついでに、冷蔵庫からザンギのパックとコーラをいただいた。無事に階段室へ戻れたら、興奮のあまり叫んでしまいそうだった。
戻ってから学校と寮で過ごす日々は長たらしくて退屈だった。ボクは焼けつくような激しさで、階段室へ帰りたいと欲した。そんな自分に驚きながら、次の金曜日には終業するなり即出発した。すっかり暗くなっていて寒かったけど、全然苦にもならなかった。
家の窓も暗かった。常夜灯が点いているだけ、クラウンはない。クソオヤジと婚外子とその母親は留守だった。口に出してあいつらをそう呼んだら、少しだけ溜飲が下がった。けど、こんなもんじゃ足りない。だから、留守は好都合だ。
ペン型ライトの灯りで廊下を進んだ。リビングに入ると、中央の壁一面に色とりどりの垂れ幕が飾りつけてあった。「ハッピーバースデーtoハヤト」、赤と緑とゴールドの派手な垂れ幕だった。日付はわからないが、ハヤトの誕生日が十月中であることは、これで確実だと思った。
誕生祝いといえば、ねえ、母さん。
思い出さずにはいられないよ、ボクたちの誕生日が近かったことを。ベニカのは九月の三連休初日で、ボクのは次の週だ。もちろん母さんは、ちゃんと覚えているよね。
あの頃は。
休日でも父さんが家にいられる日は、あまり多くなかった。母さんの健康状態はすでにイマイチで疲れやすく、家事の負担を最小限にしなくちゃならなかった。そもそもの理由だか事情だか、そんな御託を聴かされたことも、ボクはよく覚えているよ。
そして九月は、ベニカの月になったんだ。
三連休初日はハッピーバースデーdearベニカと歌うために、父さんは必ず家にいた。おまけのようにdearセイヤと付け足して歌い、ボクの誕生祝いもまとめて済ませた。そうしておけば翌週の予定をフリーにできるからだ。
母さんだって。
ベニカの好きな赤いイチゴと白いクリームのバースデーケーキを、ベニカのために準備したよね。ボクの分は何だったか覚えてる?「別の味」だったよ。チョコか抹茶かマロンか、とにかくイチゴ以外の「別の味」のケーキだ。本当はボクも、赤いイチゴで飾られた真っ白なクリームのケーキが欲しかったんだけどね。
母さんは一度も訊いてくれなかったよ、ボクはどの味が好きかなんて。
あれれ?
母さんの鼻の頭の縦の皺、二本どころじゃなくいっぱい寄ってるよ。泣いているの?母さん。どうしたの?どこか痛いの?看護師さんを呼ぼうか?
ねえ母さん、涙を拭きなよ。
ああ、そうだ。
その通りだよ。
ボクがあいつらをやった。バットを使ってやったんだ、ちょうどよく手近にあったしね。それと、ハヤトがもらったバースデイプレゼントだからさ。そこのところは、マジに外せないキーポイントだった。
忘れたふりしないでよ、母さん。
あの九月のバースデイプレゼントのことだ。
父さんと母さんはふたりとも、ベニカが欲しがったゲームソフトを買ってきた。ベニカには同じソフトがふたつ。でも、ボクが欲しかったソフトは、お互いに相手が買うはずと思い込んでいた。
売り切れていて買えなかった、予約したからもう少し待って。母さんの咄嗟のアドリブに免じて、ボクは納得したフリをした。
ドヤ顔のベニカが、ボクをバカにして嘲笑ったりしなければ。ボクだって、あいつを突き飛ばしたりなんかしなかったんだよ。
なんでわかっちゃったの、母さん?
ボクのパーカーの袖口に、赤い点々がこびりついてるから?黒地に赤は目立たないけど、ベッドに寝てる母さんの目線で下から見ると、乾いた血の飛沫だってことがわかったの?
ああ、これか。
けっこう派手に飛び散ったんだな。
最初にだれをやったのかって?もちろんクソオヤジだ。階段室のドアをいきなり開けやがったから、こっちもいきなり一発目を喰らわした。二発目は母親に、婚外子は三発目で階段の下に叩き落とした、親たちの目の前で。イケてるだろ。やつらが散々泣き喚いた後で、黙らせたんだ。
ねえ、ママ。
気に入ってくれたかい?きっと喜んでくれると思ったんだけどな。半分くらいは、ママのためにやったんだからさ。
引き出しの奥に花柄のポーチ?あったよ、開けていいの?ええと、札が三万円と小銭、それとキャッシュカードが入ってる。暗証番号はボクの誕生日だって?へえ、それマジで?
逃げなさいって言ったの、ねえママ?
どこまでも、逃げられるだけ逃げてみなさいって。
どうしようかな。ボクはママと一緒にいたかったんだけど、ダメなの?
間違えたって、思ってるんだね、ママは。
ボクを守ったつもりで、ベニカの死の責任から引き離したことを。水は低きに流れ落ちるものだけど、どの流れをどちらへいざなうべきだったかは、やってみた後になってようやくわかったと。
ボクみたいなダメな子は、刑務所だか鑑別所だか、そういうところへ閉じ込めてしまったほうがよかったと、思ってるの?
そうだね。
刑務所に入るのは怖かったよ。だからって、じゃあどこへ行きたいのかって考えたら、これといってどこも思いつかないんだ。
どこでも。
ここから行けるところへ、行けばいいと思うの?
もうじき冬が来て、また雪が積もる。なにもかも凍りつく前に。行けるだけ、遠くに。
そうだね。
でも、お金を全部ボクにくれたら、ママが困るんじゃないの?
じゃあ、困らないで済むように。
ママがもう、辛い呼吸をしないで済むように。
してあげようか。