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なんだ。
母さんは知っていたの?
父さんに新しい子どもがいるってことを。ハヤトっていう名前でね、九歳だってさ。それ聞いたときは、ぶん殴られて頭蓋骨が破裂したみたいにガーンとなった。だって九歳だよ、それじゃ、ベニカがいなくなってからたった一年後に、生まれたんじゃないか。そんなの早すぎるだろ、まったく信じられないよ。
母さんは、そのことも知っていたの?
へえ、そうなんだ。意外と冷静なんだね、母さんは。カッカしてるのはボクだけなのか。
ふうん。もう、どうでもいいと思ったの?ベニカがいなくなったら元気が出なくて、何もかもがどうでもよくなっちゃったの?
でも、父さんは違ったんだ。
ベニカがいなくなったら、すぐに会社の事務員だったハルカさんと、新しい子どもをつくった。父さんは言ってたよ、ハヤトが中学生になる前に母さんと離婚して、ハルカさんと再婚したいんだってさ。中学生になる前って、父さんはさも大事なことみたいに言ったけど、一体全体どういう基準でそうなるんだ?勝手につくった婚外子なんだから、勝手にそのままオトナになればいいじゃないか。
そんなの、ものすごく不公平で自己チューな言い分だと思う。
へえ。
父さんは元々そういう人だから、しょうがないと母さんは思ったの?ふうん。悲しい出来事を乗り越えようとするとき、悲しくないふりをして突っ走るのが、父さんという人のやり方だから?
そっか。
だけど母さんはもう、一緒について行くチカラも争うチカラも湧かなかった。じきに死ぬつもりでいたのに、意外となかなか死なないから、父さんは困ってるんじゃないかと思うの?
ねえ母さん。微笑んだりして、なんか可笑しいことあった?
ああ。
そうなんだよ、実はね。
ほんとのところは、ちょっとばかり違うんだ。けど、嘘ついたわけじゃない。ただ、母さんに聞かせていいこととそうじゃないこと、分けて省略しただけさ、重い病気の人なんだから。
けど、やっぱり母さんにはバレバレだったね。ハナシを分けるなんて、そんなことしても全然イミなかったんだね。
じゃあ。
なるべくわかりやすく、はじめから順を追って話すよ、全部。
最初は父さんのほうからボクのところに来たんだ。学校の三者面談てやつ、ボクの進路について担任と話し合うお決まりの行事だ。それが、大体ひと月くらい前の金曜日だった。
たしかに、ボクの成績はCランクだよ。それがなにより一番のダメ要素だってことは、自分でよくわかってる。国立大学を目指せるくらいの成績なら、父さんの態度もだいぶ違っただろうから。
私立大学の学費は出せないと、父さんはきっぱり言った。たとえAランクでも一流でも一切ナシだと。実はボクとしても、そこに異論はなかった、大学へ行って何者かになるための勉強をするなんて、考えただけでもウンザリだからさ。正直言って勉強なんかもう金輪際、やりたくないんだ。
父さんはボクに提案したよ、珍しくニコニコ笑いながら。
看護師とか介護士とか作業療法士とか、病院の医療スタッフを育成する大学ならOKだって。人材不足のせいで学費が免除になるからだと、そこのところは真顔で言った。
けど、学費免除だからって、ボクが医療スタッフなんてやれると思う?ハッキリ言っていいんだよ、思わないでしょ?母さんも。
ボクだけじゃない、同世代のやつらはだいたいみんなそうだ。だれかに世話してもらうのが当たり前の環境で育ったから、自分が他人の世話をするなんて、そもそも出来やしないのさ。必要な回路のスイッチがオンになっていないんで、仕事だからと割り切るのもムリだ。元々仕事するってこと自体、やりたくないんだし。
あれは、提案っていうより宣告だったな。
医療スタッフに興味がないなら、いっそ就職したらどうかと父さんは言い出した、あくまでも冗談っぽい調子で。自動車部品の工場なんかどうだ?一日中機械の相手をしていればいいんだから、セイヤにピッタリだろ。父さんは大口開けてガハハハッと笑った。それよりはいくぶん控えめに、担任も笑った。
学校の裏手の駐車場で、クルマに乗ろうとする父さんの姿が見えた。見送ったんじゃない、たまたま廊下の窓から見えたんだ。
父さんは昔からずっとクラウンに乗っていたよね?そのクルマもやっぱりクラウンだった。でも、ボクが知っている古い型のクルマじゃなかった。それはピカピカの最新型クラウンで、ブロンズ色のボディが眩しいくらいに光り輝いていた。
駐車場から出て行く父さんのクラウンを、ボクは茫然と眺めた。それでもナンバープレートの文字と数字はきっちり覚えた。忘れないように、口の中で復唱した。携帯にメモって、ようやくホッと息をついた。
そうしたらいろんな考えがドクドクと頭の中で噴き出し始めた。
ピカピカの最新型クラウンに乗っている父さんが、ボクには自動車部品工場で働けと言った。生まれてこの方〈社長の息子〉だった身分から、蹴り落とされたような気がした。その言葉が、耳にこびりついて離れなくなった。左右の耳の間で反響してガンガン鳴った。頭全体に増幅して、熱を帯びた。
その週末の二日間、ボクはひたすら歩いた。耳から後頭部にかけてこもった熱が一向に冷めやらず、じっとしていられなかった。寮から最寄り駅までの道のりを、何度も往復した。それだけで足りず、駅周辺の入り組んだ路地を闇雲に歩きまわった。
そうしたら奇跡のように、あの電動チャリと出会ったんだ。
やつはビルとビルとの狭い隙間に押し込まれて身じろぎも出来ず、目をとめたボクにひっそりと助けを求めた。本当にそんな気がした。
引き出してみると、なんの変哲もない黒一色で、わりと新しい電動チャリだった。ロックはないがこれといった故障もなさそうで、奇跡的にバッテリーがついていた。残量はゼロだったけど、ふつうに乗って漕いでみたら車輪は問題なく転がった。
ほら、いまそこのコンセントで充電してるだろ、それがやつのバッテリーだよ。きょうもずいぶん走ったのに、ボクが汗だくにならないですんだのは、この電動チャリのおかげだったのさ。
次の一週間は授業が終わった後、やつに乗って駅の周辺を走りまわった。そのチャリは自分のものだと、申し出た者はいなかった。たとえいたとしても、ボクはもうやつを手放すつもりはなかったけどね。
自転車屋で、必要なメンテナンスをしてもらった。フルフェイスのヘルメットも買った。父さんがくれた小遣いを使い果たしたけど、それだけの価値はあった。電動チャリは原付バイク並みに速く走った。
こんなふうにして、思いがけなく準備は調ったんだ。
雨が降ったら、やめておくつもりだった。父さんから散々言われたけど、たしかにボクはつらいことが大キライな根性ナシだからね。
だけど次の土曜日も、きょうみたいな晴天だった。賽は投げられたって気がした。ボクはフルフェイスのヘルメットを被り、バッテリーを満タンにした電動チャリに乗って、朝早く寮を出発した。
休み休みのんびり走って、海辺の街までの所要時間を測ってみようと、その程度の気持ちだった、始めたそのときには。
午前中に海辺の街の中心部に着いた。案外疲れもせずスムーズに行けたので、拍子抜けがした。駅前商店街のバーガーショップで腹ごしらえをしながら、向かい側のオフィスビルの駐車スペースに止まっている、父さんのブロンズ色のクラウンを眺めた。そこは父さんの会社が入っているビルだから、ブロンズ色のクラウンはあって当然だった。
この時点のボクは、まだなにも知らなかったんだ。
母さんが入院した後、単身生活になった父さんは、会社と同じビルのワンルームに住んでいると言った。いずれそうするつもりだと、言っただけかもしれない。あるいは、ボクが勝手にそう思い込んだのか。はっきりしないけど、とにかくボクはあのビルに行けば、休日でも父さんに会えると思ったんだ。
真相がどっちだったかなんて、最早どうでもいいことになったけど。
バーガーを食べ終えた頃、父さんが出て来た。ボクの知らない男の子と手をつないでいた。子どもはもう一方の手に、細長い包みを抱えている。後ろの女の人には見覚えがあった。会社の事務員のハルカさんだ。ハルカさんは父さんよりだいぶ若いはずだが、遠目にも三人は親子のように見えた。
ボクは後頭部に火がつき、ボッと燃え上がったみたいに熱くなった。耳と耳の間がグイっと締めつけられ、割れそうに痛んだ。それでも、歯を食いしばってフルフェイスのヘルメットを被り、バーガーショップを出て電動チャリに跨った。その間ボクの目は、ブロンズ色に光り輝く父さんのクラウンから一瞬も離れなかった。
クラウンが郊外のバッティングセンターへ入ったのを見届けたら、チャリではなくボク自身の電池が切れた。つまり、どうしていいかわからず、何も考えられない空白状態に落ち込んだ。
ボクは悄然と電柱に凭れ、目にしたばかりの光景や事物を痺れる頭の中でなぞった。何を探すというのでもなく、ただひたすら繰り返し反芻していた。
すると、さっきの子どもが抱えていた細長い包みに意識が留まった。キラキラ光る赤と緑のリボン模様がついたゴールドの包み紙。プレゼントカラーの赤と緑とゴールド。
昔、ボクとベニカがリクエストした誕生日のプレゼントを、父さんは当日の夜まで会社に隠しておいたものだった。ボクたちはそのことに気づいても、おとなしく待った。プレゼントをもらうに相応しい、そのときが来るまで待ったんだ。
だけどあの子どもは、待てなかったのだ。細長い包みの中身は野球のバットに違いない。そしてバッティングセンターへ。その後は休日の遅いランチか。ともかく、しばらくは三人とも、帰宅しないはずだ。