表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/3

(上)

 やあ、お母さん。

 久しぶりだね。

 そう、ボクだよ、セイヤが来たんだよ。あんまり久しぶり過ぎて、わからなかった?そうだね、この前来たときより身長は五センチくらい伸びたし、体重もそれなりに増えて、髭だってけっこう濃くなったから、見違えちゃったかも知れないね。

 でも。

 ほら、よく見てよ。間違いなく、ボクはお母さんの息子のセイヤでしょ。だからそんなにびっくりしないでよ。お母さんがあんまり動揺してると、ボクもなんだかドキドキして、心配になるじゃないか。


 ボクはずっと元気だったよ。

 お母さんも元気そうだね。この前会ったときよりは、ずいぶん具合が良さそうに見えるよ。そうか、きょうは土曜日だし、病室の窓から見てもこんなにいいお天気だから、お母さんの気分も晴れやかに上がってるんだね。


 きょうの空は本当に明るく清々しく、どこまでも晴れ渡っていたよ。だけどもう十月も半分過ぎたから、チャリで走って来たらちょっと寒かった。だからこの前来たときみたいに、ダラダラと汗をかいたりしてないでしょ、きょうのボクは。


 この夏の間は。

 月に一度くらい会いに来るつもりでいたんだ。結局一度も来られなくて、悪かったと思ってる。ごめんね、お母さん。だって高三の夏だから、ボクも人並みにいろいろと忙しかったし、それにほら、なんたって無闇矢鱈と暑い夏だったもんね。そのせいでつい、来そびれちゃったんだ。


 五月に来たときのボクは、ヨレヨレのTシャツと短パンが汗だくで、ずいぶん見苦しかったでしょ。あの日も五月にしては暑い日だった。いまさらだけどあのときの分も、ごめんねって言いたかったんだ。

 あの日のお母さんは具合が悪そうで、息をするのも辛そうだった。その上ボクの身なりを見たらもっと辛そうに、キュッと鼻の頭に縦の皺を寄せたんだった。まるで、怒ったネコみたいに。汗だくのみっともない恰好でのこのこやって来た、ボクのせいで。


 身体のどこかが痛むとか、とっても恥ずかしい思いをしたとか。そんなときのお母さんは、鼻の頭にくっきりと縦の皺が二本寄るってこと、知ってた?あれ、知らなかったの?なんだ、気づいていたのはボクだけだったのか。いまもほら、うっすらと縦の皺が二本、お母さんの鼻の頭に寄ってるのが見えるよ。


「どうも、こんにちわ。母がいつもお世話になっています」


 いまの人、新しい看護師さん?

 ああ。看護学校の生徒さんが実習に来てるんだ。ずいぶん若く見えたけど、何歳くらいかな、へえ、たったの十六歳なの?


 十六歳といえば。

 ベニカが元気でいたらあの人と同じ、十六歳だね。二つ違いのボクが十八歳になったから、ベニカは十六歳だ、そうでしょ?

 いいじゃないか、もう、ベニカのことを話したって。全然かまわないとボクは思うよ。お母さんだって本当は、ベニカの思い出話をしたいんじゃないの?ずっと前からそんな気がしていたよ。


 ボクはもう全然平気だよ。

 だってさ、ボクと話しているお母さんが、一度もベニカの名前を口にしないなんて、そのほうがよっぽど不自然でヘンな感じがして、落ち着かない気分になっちゃうよ。


 ベニカは名前の通りに、パッと目につく紅い花のような子だったね。たとえばボクたち家族の中で一輪だけ、鮮やかに咲き誇る紅いダリアの花だ。

 お母さんも花のように綺麗な人だと、ボクは思うよ。でも、どちらかと言えばお母さんは白い花だ。紅い花にそっと寄り添って引き立てる、控えめな白い花。寮の庭に白いカスミソウが咲いたのを見るたび、ボクはお母さんを思い出していた。ベニカの肩を抱いて微笑む、あのポートレートの中のお母さんだよ。


 どうしてかって、訊いたの?

 いまになって、どうしてベニカのことを言い出したのか。

 フォーシーズンズシアターのポスターを見たせいかな、お母さんとベニカの思い出話をしたくなったのは。あのポスターはボクにとって、突然すぎる不意打ちだった。ふだんはそういうものに目を向けないし、にぎやかな場所は避けて通っていたのに。


 ミュージカルスターが居並ぶポスターのど真ん中から、紅いドレスの幼い女の子がボクに微笑みかけてきた。ベニカそっくりというか、ベニカだと思ったよ、その一瞬は。写真見る?ほらこれ。スマホサイズの写真では、あんまりベニカっぽく見えないけど。


 そうだね。

 ベニカみたいなドレスを着た、六歳くらいのふつうに可愛い女の子だよね。ベニカほど可愛いくないって、きっとお母さんは言うだろうと思ったよ、ボクも。


 ベニカがオーディションを受けに行った日のこと、覚えてる?ベニカとボクが、お母さんの運転するワンボックスに乗って約一時間、フォーシーズンズシアターを目指してドライブした日だ。たった一時間、だけどやけに長く感じた一時間のドライブだった。


 どのオーディションのことか、わからないの?お母さん。ベニカはフォーシーズンズのオーディションを三回も受けたから?でも、ボクがあのワンボックスに乗って一緒に行ったのは、あのとき一回だけだよ。ほら、お父さんがさっさとゴルフかなんかに行ってしまって、ボクを預かってくれる人が見つからないから、仕方なく一緒に連れて行ったんじゃないか。


 ボクはつまらなくて退屈だったけど、ベニカもプンプンして不機嫌だった。お母さんと二人きりで出かけるつもりでいたのに、当てが外れてしまったから。オーディションが終わった後のショッピングのほうが、本当は楽しみだったから。お母さんの注意と関心を半分奪ってしまうボクは、いない方がよかったのさ。


 拗ねているんじゃないよ。

 一緒に行かない方がよかったと、ボクもつくづく思ったのさ、だいぶ後になってから。あの日ベニカと一緒に行かなければ、後々ボクはあんなことをしないで済んだと、気づいたんだ。


 どちらにしても、ベニカの運命は変わりようがないけどね。ベニカにとってはどちらがマシだったかなんて、言うまでもなく、虚しいどんぐりの背比べだ。

 でも、お父さんとお母さんとボク自身にとっては、その後の人生がだいぶ違ったかも知れないと思うようになった。


 とりわけお母さんにとっては。

 もしかしたら、こんなに重い病気にかかったりしなかったかも知れない。ボクはそう思ったんだけど、お母さんはどうかな?

どんな形だろうと、ベニカを失った悲しみの大きさは同じ、増えることはあっても減ったりはしないの?


 やっぱ、そうなのか。


 山の頂から溢れ出て四方八方へ流れ下る水が、やがて大河になるものと、次第に干上がってしまうものとに分岐する。その違いは何なのだろうと、考えずにいられないんだ。


 あれが、ボクにとっての分水嶺だったのだろうか。

 そしてボクは大河になれるわけもない、間違った流れのひと筋を選んでしまったのか。


 ねえ、お母さんはどう思う?


 オーディションを受けるベニカは、お気に入りの紅いドレスを着ていた。ベニカの可愛らしさを最大限に引き立てる、ひらひらした薄いドレスだ。よく似合っていたけどあの日は十一月の末、おまけにつめたい雨も降っていた。ワンボックスのヒーターがフル回転で温風を吹き出していても、広い車内は冷え冷えとしてうすら寒かった。


 ジャージのボクが寒かったんだから、薄着のベニカはもっと寒かったはずだ。それなのにあいつは、頑としてダウンコートを着なかった。皺にならないように紅いドレスのスカートをふわりと広げ、オーディション用のポートレートを撮ったときみたいに、背筋を伸ばして気取ったポーズを決めていた。


 駐車場に入ろうとするクルマが列を成していた。待ちきれずにベニカはさっさと降りた。トイレに行きたかったから、シアターまで二ブロックほどの道のりを、走るつもりだったんだ。雨が止まないのでさすがにダウンコートを羽織り、フードも被った。


 少し迷ったけど、ボクもベニカを追って走った。追いついたとき、ベニカは点滅している青信号の横断歩道へ飛び出す寸前だった。左折する大型トラックが迫っていた。ベニカもトラックも、止まる気配はまるでなかった。


 危うい近さに迫ったと感じたその一瞬に。


 ボクは咄嗟にベニカの腕をつかみ、力いっぱい引いた。ベニカはバランスを崩し、歩道と車道の境目をわからなくしている泥水溜まりの中に、尻もちをついた。ボクはもっと力を込めて引っぱり、ベニカをギリギリ歩道上に載せた。大型トラックは何ごともなかったかのように、ベニカの赤い靴をかすめて左折し、走り去った。


 思い出したかい、母さん?

 泥水溜まりで尻もちついたベニカが、ボクのせいで転んでしまったと、わんわん泣いたあのときのことだよ。すごく危なかったのも、それが自分の不注意からだったのも、よくわかっていたくせに、あいつは全部をボクのせいにした。先にわんわん泣いてしまえば、母さんに叱られないですむと知っていたんだ。


 あの一瞬、もしもボクの手がベニカの腕をつかみ損ねていたら。

 

 何度も思い返しては、その度にすごく不思議な気分になった。だってボクは、控えめに言ってもあいつが大キライだったのに、あのときは反射的に手が伸びた。考えるより先にベニカの腕をつかんで引いていた。

 どっちにしようか、選んだわけじゃなかった。そんな余裕はなくて、ただ夢中だった。気づいたら、いなくなればいいと毎日思っていたあいつを、助けてしまっていた。自分でもびっくり仰天だったよ。


 ボクの分水嶺とは、あの瞬間よりほかにないと思うんだ。


 いまさらだけど。

 母さんには知っておいてほしかった、ボクはベニカを助けたこともあったんだと。人間らしさとか良心とか、カケラも持たないモンスターみたいに、世界中の人々がボクを罵ったとしても。母さんだけにはそうじゃないってこと、知っておいてほしかったんだよ。


 だってさ。

 考えてもみてよ。もしもボクが助けなかったら。あいつは大好きなフォーシーズンズシアターまであと二ブロックの交差点で、横断歩道の上に自分の血や脳みそや何やかやをぶちまけ、おぞましいヒトガタを描いたはずだったんだ、母さんの可愛いベニカは。


 そんなの、見たくなかっただろ?

 ベニカのそんなひどい有り様を、母さんに見せないで済んだ。それだけでもボクのことを、褒めてくれてもいいんじゃないかな、ねえ母さん?


 返事をしてくれないんだね。じゃあ、ハナシを変えよう。


 ここへ来る前にボクは、どこへ行っていたと思う?母さんの具合がわるいようだったら、びっくりさせてはいけないから、黙っているつもりだったけど。


 でも、大丈夫そうだから言っちゃうね、父さんのところだよ。会社のワンルームじゃなくて、昔みんなで一緒に住んだあの家のことだ。そうだよ、海辺の街に残っているボクたちの家に帰って、昨夜は久しぶりに自分のベッドで寝たんだ。ぐっすり眠れたよ、夢も見ないで。







評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ