後日談1話 初めてのメイク
俺は今日もまた、なんとか美容院にセットしてもらった髪型に近づけるよう、朝に悪戦苦闘した末に「まあこんなもんか」くらいに揃えて洗面台の前を出た。
リビングに戻ってみると、さっき家に来て準備万端の琴美と、俺より遅く家を出るのに既にメイクを始めている母さんがいた。
「お待たせ」
「オッケー、じゃあ悠珠、行こっか!」
俺の声に軽やかな声で反応する琴美。
「それじゃ、二人とも行ってらっしゃい」
メイク中のため玄関まで母さんが来るわけではないが、ダイニングテーブルから元気に送り出してくれる。
その声に背中を押されるように、二人で学校に向け出発した。
琴美と並んで、手を繋いで駅まで向かう間、俺はふと、琴美の顔を見つめる。
琴美は小学生の頃から美人であったからメイクをしなくても美人だろうとは思うが、琴美も高校生になったのだ、何らかのメイクはしているのだろう。
その時、先ほどの母さんのメイクをする姿と、琴美の整った顔が頭の中で交差して、
「メイクって、大変なんだろうなあ……」
自然と、浮かんだ言葉を口にしていた。
その声に、琴美は目を輝かせた。
「えっ!? 悠珠、メイクに興味あるの!?」
そう言いながら、琴美の可愛い笑みが俺の目の前に来る。
さすがに眩しすぎて思わず目線を逸らしてしまう。
「えっ、いや、そういうわけでは……」
「えーっ、合うと思うけどなあ、悠珠とメイク」
琴美としては、自分が興味のある事柄について、俺も興味があったら話も弾むだろうな、という期待もあったのだろう。
アテが外れて、琴美は笑顔から拗ねた表情に変わった。
俺は恋人のお気に召す返しができなくて、バツが悪く周囲を見渡していると、そばにあったお店のガラスに写った自分の顔が見えた。
髪の毛は多少整えられるようになったが、それと同等にコンプレックスだった顔のそばかすが目についた。
「……このそばかす、メイクでどうにかなるかなあ」
俺はまたも、ふと浮かんだ言葉を口にしていた。
すると。
「なるなる! バッチリなるよ!」
琴美のテンションが一気に戻った声に、俺も思わず琴美の方を見る。
「ねえ、週末にでも練習してみようよ! きっとカッコよくなるよ!」
琴美の元気な声でそう聞かれては、俺も首を縦に振るしかないのだった。
******
そして、そんな会話をした週の土曜日。
ピンポーン。
ガチャ。
「悠珠、来たよー!」
琴美は満面の笑みと、鞄いっぱいのメイク道具を持って、俺の家にやってきた。
家に上がった琴美は、ダイニングテーブルの前で、いそいそと準備を始める。
そして、「どうぞどうぞ」と接客バイトのごとく俺をテーブルの前にエスコートする。
ここまで来てゴネても仕方がないので、大人しく指定された椅子に座る。
「まずは~、下準備として、化粧下地を……」
イキイキと説明を始めながら、俺へのメイクアップを始める。
一方の俺は、されるがままだ。
聞いてもあまり理解できていないというのもあるが、ずっと琴美の顔が近い状態が続いて、落ち着かないというのもある。
ただ、そんな状態だから、緊張していても嫌な感じはしないのだけれど。
******
「よーし、目元はこんな感じでいいかな?」
そんな、短いような、長いような時間も、どうやら終わりの方のようだ。
「ちょっと俯瞰で見てみて、と。……っ!?」
「ん? どうした?」
ちょっと息を飲むような声が聞こえた気がするけど、目元のメイクをしていた流れで俺は目をつぶっていたし、状況がよくわからない。
「ううん、何でもない! さて、仕上げはリップだね!」
よくわからないが、どうやら最後の工程らしい。
琴美の持っているリップが、俺の唇をなぞる感触を感じる。
「よし、完成! こちらが完成品になります!」
そう言って、琴美が俺の前に鏡を差し出してくる。
そこには、真っ赤な口紅を唇につけられた俺がいた。
「アハハハハッ」
「おいっ!」
「ごめんごめん、すぐ落とすから!」
琴美はひとしきり笑った後、すぐにコットンを取り出し、何らかの液体をしみこませて、俺の唇をなぞる。
そうして再び鏡を差し出されると、先ほどの赤い唇はきれいに落ちていた。
「ほんとのリップはこっち」
そう言って今度は無色のリップを俺の唇に塗る。
塗った後、鏡で確認したから間違いない。
そこには俺の仏頂面が写っていたけど。
「ごめんって。他のところは真面目にやったからさ」
そう言われて改めて見てみると、確かに俺のそばかすは目立たなくなっているように見えるし、なんとなく目元がはっきりして見えるように思える。
まあ、自分にとっては結局自分の顔だから、自分の顔だなあといった感想になってしまうのだけれど。
「……なんでからかったのさ」
最初からふざけてるんならともかく、ここまでちゃんとやるんだったら、最後まで普通にやったらいいのに。
そんな当然の疑問が口から出たとき、琴美はちょっと俯きがちに目を背ける。
「……?」
俺が頭の中に疑問符を浮かべている数秒後。
「だって、メイクできた時の悠珠がカッコよすぎて、恥ずかしくなっちゃったんだもん」
そんな言葉を、上目遣いで、少し顔を赤らめて、小声で俺にぶつけてきたのだった。
……は? 俺の彼女、可愛すぎるだろ。
「え!? いや……そう……か……」
俺としても、そんな返事にならないような言葉しか返せない。
なんだか、もどかしいような空気になってしまった。
こういうとき、どう切り抜ければいいか、コミュ力を失っていた俺にはわからないから、
「……琴美が、かっこいいって思ってくれるんなら、メイク、ちゃんと覚えてみようかな」
そう、思ったままの言葉を口にしていた。
ふと顔を上げると、目を丸くした琴美の顔があった。
そしてまた目を背けて、
「は? アタシの彼氏、可愛すぎるでしょ」
小声で何かを呟いていたようだが、よく聞こえなかった。
「えっと……琴美?」
様子がおかしいようだから、一度、呼びかけてみる。
「大丈夫、正しく理解したから。悠珠がバッチリメイク決めてきたときは、アタシが押し倒して子供を作らせてもいいって合図だって」
「おい女子高生」
明らかにライン越えの発言をしただろお前。
それに。
「だいたい、そんなことになったら身体に負担かかるのは琴美のほうだろ」
そう言い返した俺に対し、琴美はニヤッとした笑みを浮かべて、
「じゃあ、もしも悠珠が産む側だったらいいわけ?」
なんて言葉を送ってくる。なんだその仮定は。
……負担があるのが俺の身体のほうだったら? うーん……。
「いや、それでもそうなったら、きっと琴美が気にするだろ」
俺はそう否定した。
「……それでもアタシのこと優先なんだ」
琴美がなんかそんなことを言っているが、
「当たり前だろ」
恋人のことを優先するのは、当然に決まっている。
「そっか……そっか!」
琴美は何かが腑に落ちたようだ。
「どうした?」
「別に。やっぱりアタシ、悠珠のこと好きだなーって、思っただけ!」
そんな言葉を、きらめくような笑みで言われてしまえば。
俺は、ただ顔を真っ赤にして何も言えなくなってしまうのは、当然のことだった。