魔族の逃亡
魔族の老人が言った古き神々のしもべ——使徒。
それは、かつて起きた魔族にとって最悪の災厄を引き起こしたものたちのことであった。
何千年も前のことであるが、魔族たちは、決して忘れてはいけない伝承として受け継がれていたのであった。
しばらく続いた平和な時代の後のことであったという。
古き神々が突然消えてしまってから一万年あまりの間、支配という枷が外されて自由になった人間と魔族は、常に争い続けていたのだけれど、大量破壊魔術が飛び交い、双方の人口が半減するようなある大きな戦いの後、民衆に厭戦感が広まり、休戦へと至った時代のことだった。
もちろん相互に拭いきれない差別心や恐れがあったのだけれど、その前の戦いでは人間どうし魔族どうしの戦いもあった——むしろその方が酷かったのもあり、種族を超えて同盟を結んだ集団どうしで、少しずつ交流が始まり、両者が共に住む国などもできた。
数世代もすれば、それが一定の勢力を持つまでになった。あちこちで混血が進み、半魔と呼ばれる者たちの数も増え、もしかしたら相容れないと思われた2つの種族の間で融和が達成されるかもしれない。
そんな風に思われた頃だった。
各地で勢力を伸ばしていたのは、旧支配者の使徒と名乗る、古き神々の信奉者たちだった。
その者たちは、最初は単なる弱小な集団として軽視されていた。時々騒乱を起こしては、人間と魔族両方から鎮圧され処刑される。狂信的な連中と恐れられていても、社会を根底から動かすことができる者とは思われていなかったのだった。
しかし、何度も行われた大規模な取り締まりでも、使徒たちは数を減らしはするものの、根絶されることはなかった。それどころか、ある時点から確実に力を増してきた。
古き神々の力を引き出す方法を見つけたのだと使徒たちは言っていたというが、本当かどうかはわからないが、いつの間にかその力は大国の軍隊でも太刀打ちできないほどのものとなっていた。
その総勢はせいぜい数万人、多くても十万を超えていなかったが、古き支配者、暗き神々の信託を受けて入信を許された使徒の力は凄まじかった。一騎当千どころか一人で何万もの戦士や魔法使いを圧倒する者も多数いた。使徒は、地に満ちる精霊力を使うだけでは達することのできない魔力を集積する秘術を持つようだった。
使徒との戦いで多大な犠牲を払ううちに、武力で制圧することを諦めた人間の国とは、有効的とは言い難いながらも、しだいに争うこともなくなっていたのだが……
そんな平和な時代に、使徒は、突然、魔族に戦いを仕掛けたのだった。
「魔族はなすすべもなく、逃げ惑うことしかできなかったそうです……」
魔族の女性、キミーは、少し暗い顔になって言った。
「使徒はそんなに強かったのですか?」
「魔族も強かったんだよね? それまで人間とあらそってたくらいだったんだよね」
人間同士で争った時には、使徒は圧倒的とまでは言えない戦果であったようだ。
しかし、魔族相手には無双した。
「なぜなのかは、そのまま不明なのですが……とにかく……ご先祖様たちは逃げるしかなく、この大陸に逃げてきたのです」
今は行き来ができなくなっている2つの大陸。隔てる大洋が波高く、巨大な魔物があちこちに巣食い、この星の文明の発展の程度で言えば、安全な航海は難しい。だが、危険なくらいでは、人類の冒険心は抑えることはできない。
未だに、2つの大陸を結びつけるという偉業の栄誉と権益を求めて、数多くの野心家が大洋に粗末な船で漕ぎ出している。文明は、ちょうど、地球でいえば中世を超えて近代に入ろうかという発展段階、大航海時代が始まるには良い頃合いだ。
しかし、この星には、地球とは違う超えられないおおきな問題が存在していた。
大魔障壁。
海底より湧き出す地力の噴出により、変性してしまった空間の断層。
厚さが数十キロあるその壁を通り抜けようとする者は概念へと変えられ、物として実態を失い、地力の中に取り込まれてしまう。
まるで惑星を分断するかのように一周するその壁は、成層圏まで続き、飛行精霊術の使い手でも超えることはできないのだから、
「キミーさんのご先祖様たちは、どうやってこの大陸に来たのですか」
サクアの疑問ももっともなことである。
彼女自身は軽々と宇宙にまで飛んで、大魔障壁を超えたのであるが、
「それは……昔は……」
「転移門があったんだ」
キミーの言葉を遮るようにヴィンが言った。
「魔族の伝承もおなじだよね?」
「……」
無言で頷くキミー。
「転移門ね……あれかな……」
宇宙から降り立つ前にフェムは、上空から大陸の数カ所に大きな力の乱れの痕跡が、渦巻きのように広がっているのを思い出しながら言った。かつては、その場所で空間を曲げて、遠くの大陸同士をつなぐ穴を作り出していたのだろう。
「古き神々の奇跡の御業だったと聞きます」
「転移門がですか?」
あんまり驚いていなさそうなサクア。
まあ、別の宇宙から転移してきた彼女らのパーティにとっては、大陸間の転移など児戯に等しいのだが、
「興味深いね」
早めから出た言葉を 意外なものだった