第4章 脱出 1
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雨の降る日は、夜が早くに訪れる。
この日、辺りが暗くなってからも雨は降り続き、里は、いつもの虫のすだく声に代わり、静かな雨音に包みこまれていた。
晴れていれば、外で火をたき、甑でもって米を蒸したり、大瓶で菜を煮たりできるのだが、雨の日ではそれも叶わない。家の中にかまどはしつらえてあるものの、そこで多くの煮炊きを行えば、盛大に煙が上がり、家中がすすけ、涙を流し、咳き込むことになってしまうのだ。
ちろちろと小さな火をおこし、干し魚をあぶり、食い残していた米を甑の底からこそげ取って、かろうじて空腹を癒やすのが、雨の夜の食事の通例なのである。
こんな寒々しい夜は、寝てしまうに限ると、里人たちは申し合わせたように――もちろん、少しでも空腹を紛らわすため、体を横たえ、両手で腹を押さえた格好でだ――早々と床についた。そして、雨音で物音がかき消され、周囲の気配がまるで分からないことに、やや不安を感じつつも、そそくさと眠りの世界へ引きこもってしまったのである。
そんな中、ニグィは、独り足音を忍ばせ、ひたひたとトゥジの屋敷へと向かっていた。
前髪を伝い落ちる雨粒を拭いもせず、うつむいて、体にしみ通るような寒さに耐えつつ、ひたすら足を動かす。
ようやくのことで、闇の中になお黒々とそびえるトゥジの屋敷へとたどり着くと、ひきかぶってきた藁の雨具をばさばさとうち振って軒下につるし、手をこすり合わせながら、重い筵を引き上げ、中へと入る。
と……思わずそこで、ニグィは立ちすくんでしまった。
てっきり、中で自分を待っているのは先代と、もう後2、3人であろうと思っていたのに、そこには、先代の一族ほぼ全員と、幾人かの大人及び子飼いの娘達とそれらの家族、総勢50人ほど勢揃いし、じっとニグィを見つめていたのである。
「これは……一体……」
目を丸くして立ち尽くすニグィの前に、先代がすっと進み出た。
「ニグィどの。クニの手のものがああも強引な手に打って出た以上、もはやぐずぐずしてはいられませぬ。今日この時をもって、里を捨て、約束の新たな土地へと向かわなければなりませぬ」
その言葉で、ニグィはようやく、自分の勘違いを悟った。
(そうか……先代様は、協議を望んでおられたのではなかったのだ。今宵すぐに、この里を離れるおつもりなのだ。だが……)
ニグィは、哀しげな表情で、首を大きく左右に振っていた。
「先代様、それはなりませぬ。それでは、ホヒらに捕らえられた当代様を、見捨てていかねばならなくなりまする」
と、先代の顔が、この上なく沈痛な表情となった。
「……致し方ありませぬ」
その返答に、ニグィは、思わず目をむく。
「なにをおっしゃるのです!当代様は、あなた様の大切な娘ではございませんか!」
「ええ、その通り。当代は、わたくしがこの腹をいためて産み、この上なく慈しみつつ、持てる全てを伝えて育てた、大切な大切な娘です」
「それでしたら、どうして見捨てるなどと!」
ニグィは、思わず語気を強めた。が、
「いいえ!そうしなければならぬです!そうしなければ、里は滅びます!」
先代の、より悲壮な、より覚悟のこもった声に、峻烈なまでの決意がこもった目に圧倒され……顔をゆがめ、口を閉じるよりほかなかった。
「……分からぬのですか?ホヒらが当代を捕らえ幽閉したのは、里人の不穏な動きを封じるためでもあるのです。里の拠りどころである当代さえ手元に置いておけば、自分たちに歯向かうであろう一派も、なにもできず、ただただおろおろと狼狽するよりほかないと踏んだのです。わたくしが身代わりになるのを断り、あくまで当代の捕縛にこだわったのも、そのためです」
「それは……確かに……」
「当代を案ずるがあまり、策もなく里にとどまり、時間を浪費すればどうなるか。そなたにも、分かっているはずですね?」
問われて、不承不承、ニグィはうなずいた。
尋問によって計画が露見すれば、直ちにニグィらは一人残らず捕らえられ、なんやかやと理由をつけて獄につながれるか、あるいは殺される。邪魔者を一掃したホヒらは、ますます北の民にのめり込み、やがて来る「ソ」との――おそらくは勝ち目のない――いくさになだれ込んでいくことになる。
「幸いなことに、今回の企てについて、当代にはなにも教えておりませぬ。ゆえに、いくらあの子を問いただしたとしても、なにひとつとして、手がかりは得られぬはず。そのことに気づき、ホヒらが事情を知る者を捕らえようと動き出すまでは、今しばらく――おそらく今宵の間中ぐらいは、時が我らの味方となる。この機に動かねばならぬのです!」
「し、しかし!それではマツリが……!」
「マツリの手順は、既に皆、クシナに伝えてあります。そなたの娘さえ無事に連れて行くことができれば、里の命であるマツリが途絶えることはありませぬ」
「そうでございますか……」
またも不承不承にうなずきかけたところで、ふっと嫌な考えが頭をよぎり、ニグィは、改めて、先代の顔をじっと見つめた。
「先代様。よもや……よもやとは思いますが、当代様に企てをお話にならなかったのは、このような事態を予想してのことでは……」
先代は、体の奥を手ひどくつねられたかのように顔をゆがめ、目をそらした。
「当代は……あの子は、優しく、思いやり深い娘です。ただ、わたくしや、そなたの妻であったワナとは違い、なにをどうしてでも事をなす、という強い意志と覚悟は、とうとう持ち得なんだ。それでは、平時ならばともかく、里が大きく揺れ動く時に、里を支える柱にはなれぬのです……」
涙を流し、体を細かく震わせながら、先代は、力なく床に膝をついた。
(そうか……やはり、そうであったのか……里のため、なんの咎もない実の娘を、あえておとりに使い……そうまでして、この方は……)
ニグィの目からも、熱い涙がほとばしり……彼は、うずくまった先代に走り寄ると、その小さい背中を、そっと抱き抱えた。
「わかりました。先代様がそこまでお覚悟されていらっしゃるのならば、ええ、もうなにも申しませぬ。幸い、外は雨。我らの気配も、家の中までは届かぬはず。今こそ、里を出て、新たな地へと向かいましょうぞ!」
ニグィのその言葉で、集まった人たちの間に密やかなざわめきが――安堵と、覚悟と、後悔と、喪失感と、不安と、屈辱と、希望と、その他様々な気持ちが複雑に折り重なった吐息が――波紋のように膨れ上がり、にわかに、家の中があたふたとした雰囲気になった。
「では、私の後へ続き、材木置き場へ。できる限り急いで、しかし密やかにな」
その言葉に、皆思い思いにうなずくと、ほとほとと移動を開始したのだった。