表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
弥生の空に1 出航編  作者: 柴野 独楽
8/10

第4章 脱出 1

     1

 雨の降る日は、夜が早くに訪れる。

 この日、辺りが暗くなってからも雨は降り続き、里は、いつもの虫のすだく声に代わり、静かな雨音に包みこまれていた。

 晴れていれば、外で火をたき、(こしき)でもって米を蒸したり、大瓶(おおがめ)で菜を煮たりできるのだが、雨の日ではそれも叶わない。家の中にかまどはしつらえてあるものの、そこで多くの煮炊きを行えば、盛大に煙が上がり、家中がすすけ、涙を流し、咳き込むことになってしまうのだ。

 ちろちろと小さな火をおこし、干し魚をあぶり、食い残していた米を甑の底からこそげ取って、かろうじて空腹を癒やすのが、雨の夜の食事の通例なのである。

 こんな寒々しい夜は、寝てしまうに限ると、里人たちは申し合わせたように――もちろん、少しでも空腹を紛らわすため、体を横たえ、両手で腹を押さえた格好でだ――早々と床についた。そして、雨音で物音がかき消され、周囲の気配がまるで分からないことに、やや不安を感じつつも、そそくさと眠りの世界へ引きこもってしまったのである。

 そんな中、ニグィは、独り足音を忍ばせ、ひたひたとトゥジの屋敷へと向かっていた。

 前髪を伝い落ちる雨粒を拭いもせず、うつむいて、体にしみ通るような寒さに耐えつつ、ひたすら足を動かす。

 ようやくのことで、闇の中になお黒々とそびえるトゥジの屋敷へとたどり着くと、ひきかぶってきた(わら)の雨具をばさばさとうち振って軒下につるし、手をこすり合わせながら、重い(むしろ)を引き上げ、中へと入る。

 と……思わずそこで、ニグィは立ちすくんでしまった。

 てっきり、中で自分を待っているのは先代と、もう後2、3人であろうと思っていたのに、そこには、先代の一族ほぼ全員と、幾人かの大人及び子飼いの娘達とそれらの家族、総勢50人ほど勢揃いし、じっとニグィを見つめていたのである。

「これは……一体……」

 目を丸くして立ち尽くすニグィの前に、先代がすっと進み出た。

「ニグィどの。クニの手のものがああも強引な手に打って出た以上、もはやぐずぐずしてはいられませぬ。今日この時をもって、里を捨て、約束の新たな土地へと向かわなければなりませぬ」

 その言葉で、ニグィはようやく、自分の勘違いを悟った。

(そうか……先代様は、協議を望んでおられたのではなかったのだ。今宵すぐに、この里を離れるおつもりなのだ。だが……)

 ニグィは、哀しげな表情で、首を大きく左右に振っていた。

「先代様、それはなりませぬ。それでは、ホヒらに捕らえられた当代様を、見捨てていかねばならなくなりまする」

 と、先代の顔が、この上なく沈痛な表情となった。

「……致し方ありませぬ」

 その返答に、ニグィは、思わず目をむく。

「なにをおっしゃるのです!当代様は、あなた様の大切な娘ではございませんか!」

「ええ、その通り。当代は、わたくしがこの腹をいためて産み、この上なく慈しみつつ、持てる全てを伝えて育てた、大切な大切な娘です」

「それでしたら、どうして見捨てるなどと!」

 ニグィは、思わず語気を強めた。が、

「いいえ!そうしなければならぬです!そうしなければ、里は滅びます!」

 先代の、より悲壮な、より覚悟のこもった声に、峻烈なまでの決意がこもった目に圧倒され……顔をゆがめ、口を閉じるよりほかなかった。

「……分からぬのですか?ホヒらが当代を捕らえ幽閉したのは、里人の不穏な動きを封じるためでもあるのです。里の拠りどころである当代さえ手元に置いておけば、自分たちに歯向かうであろう一派も、なにもできず、ただただおろおろと狼狽するよりほかないと踏んだのです。わたくしが身代わりになるのを断り、あくまで当代の捕縛にこだわったのも、そのためです」

「それは……確かに……」 

「当代を案ずるがあまり、策もなく里にとどまり、時間を浪費すればどうなるか。そなたにも、分かっているはずですね?」

 問われて、不承不承、ニグィはうなずいた。

 尋問によって計画が露見すれば、直ちにニグィらは一人残らず捕らえられ、なんやかやと理由をつけて獄につながれるか、あるいは殺される。邪魔者を一掃したホヒらは、ますます北の民にのめり込み、やがて来る「ソ」との――おそらくは勝ち目のない――いくさになだれ込んでいくことになる。

「幸いなことに、今回の企てについて、当代にはなにも教えておりませぬ。ゆえに、いくらあの子を問いただしたとしても、なにひとつとして、手がかりは得られぬはず。そのことに気づき、ホヒらが事情を知る者を捕らえようと動き出すまでは、今しばらく――おそらく今宵の間中ぐらいは、時が我らの味方となる。この機に動かねばならぬのです!」

「し、しかし!それではマツリが……!」

「マツリの手順は、既に皆、クシナに伝えてあります。そなたの娘さえ無事に連れて行くことができれば、里の命であるマツリが途絶えることはありませぬ」

「そうでございますか……」

 またも不承不承にうなずきかけたところで、ふっと嫌な考えが頭をよぎり、ニグィは、改めて、先代の顔をじっと見つめた。

「先代様。よもや……よもやとは思いますが、当代様に企てをお話にならなかったのは、このような事態を予想してのことでは……」

 先代は、体の奥を手ひどくつねられたかのように顔をゆがめ、目をそらした。

「当代は……あの子は、優しく、思いやり深い娘です。ただ、わたくしや、そなたの妻であったワナとは違い、なにをどうしてでも事をなす、という強い意志と覚悟は、とうとう持ち得なんだ。それでは、平時ならばともかく、里が大きく揺れ動く時に、里を支える柱にはなれぬのです……」

 涙を流し、体を細かく震わせながら、先代は、力なく床に膝をついた。

(そうか……やはり、そうであったのか……里のため、なんの(とが)もない実の娘を、あえておとりに使い……そうまでして、この方は……)

 ニグィの目からも、熱い涙がほとばしり……彼は、うずくまった先代に走り寄ると、その小さい背中を、そっと抱き抱えた。

「わかりました。先代様がそこまでお覚悟されていらっしゃるのならば、ええ、もうなにも申しませぬ。幸い、外は雨。我らの気配も、家の中までは届かぬはず。今こそ、里を出て、新たな地へと向かいましょうぞ!」

 ニグィのその言葉で、集まった人たちの間に密やかなざわめきが――安堵と、覚悟と、後悔と、喪失感と、不安と、屈辱と、希望と、その他様々な気持ちが複雑に折り重なった吐息が――波紋のように膨れ上がり、にわかに、家の中があたふたとした雰囲気になった。

「では、私の後へ続き、材木置き場へ。できる限り急いで、しかし密やかにな」

 その言葉に、皆思い思いにうなずくと、ほとほとと移動を開始したのだった。




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ