第3章 脅威 10
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「そうなのだ。どういうわけか、今年は川上の里で、魚がとてつもない大漁とのことでな。塩に漬けて干したうまい魚が、安い価で手に入れられそうなのだ。これを逃す手はなかろうよ。ああ、アタカがおらぬからといって、いつまでもぼやぼやしてはいられぬ。今は、江の流れも速く、舟を出すのははばかられるが、やがて落ち着き次第、ああ、田畑は誰ぞに任せて、舟を出さねばならぬだろうて……」
里に帰り着いたニグィは、休む間もなく野良に出て土を耕しつつ、行き交う里人を捕まえては、こんな話を語って聞かせた。
捕まえられた者の多くは、昨年は材木で、今年は魚か、毎年毎年、よくもまあいろいろなものに執着なさることだ、と苦笑を浮かべつつ話を聞いてくれた。そして、その中のさらに一部は、「アタカ殿がなくなられたことを受け入れられず、なんやかや村を離れる口実を見つけては、当てもなく連れ合いを探しに出るおつもりなのかもしれぬ、だとすれば、なんとも気の毒なことだ」と、目に憐憫の色を浮かべて、話を優しく聞き流してくれた。
だから、春の増水期が終わり、江が穏やかに静まるのを待ちかねたようにニグィが舟を浮かべたのを見ても、ああ、言うておられた魚の取引に出かけられるのか、これから田畑の準備を本格的に行う時期だというのに、なんとものんきで、熱心なことだと、少々あきれた目つきで、しかし快く見送ってくれたのである。
十日ほど後、自らの言葉通り、ニグィは、舟一杯に干し魚を積んで、帰ってきた。
「いやいや、思っておった以上に大漁であったわ。これほどの量手に入れても、いつもの価の半分ほどにしかならんのだ。全く、ありがたいことだ。皆の衆、よければ食べてくれぬかの」
大きな袋をいくつも船着き場へと下ろし、集まった里人たちに、ほくほくとした様子で、中から干し魚を取りだしては、気前よく分け与えてくれるのである。
父祖の時代よりは手に入りやすくなったとはいえ、貴重な塩をふんだんに使って作る干し魚は、貴重品だ。だから、里人は皆笑顔で、干し魚を腕一杯に持って帰り、その夜は、村の至る所で、魚の焼ける香ばしいにおいが立ちこめたのであった。
さて、その晩。
久々のご馳走を腹一杯詰め込んだ里人たちが、ぐっすりと眠り込んだ頃――あちこちの家から響く高いびきに混じって、ほとほとと小さな足音が――人目を気にして、陰伝いに移動しているのが目に見えるような、不規則な歩調で――ニグィの家へと徐々に近づき……やがてぴたりと止まった。
(来たな)
クシナを起こさぬよう、気をつけて体を起こし、家の入り口のむしろを、そっと引き上げる。
そこに立っていたのは、若い娘――トゥジに仕え、マツリに携わる女の一人である。
月明かりの中、ニグィにそっと微笑みかける娘にうなずきを返し、ニグィは、入り口そばに積み上げてあった袋――干し魚を入れてあったものだ――を抱え上げると、そっと娘に渡した。
「よろしく頼むぞ」
耳元でそうささやくと、娘は再びにこりと笑い、ぺこりと頭を下げ……トゥジの住む屋敷へと向かって、ゆっくり、来た道を戻り始めた。
この袋こそ、ニグィが蛮族の里で手に入れた、あの布であった。
族長に頼んで、袋の形に縫ってもらった布を受け取った後、途中で干し魚を手に入れ、中に入れて、里に持ち帰ったのである。
(どうやら、怪しまれずに布を持ち込むことができたな。いくつかの里を回って集めた干し魚の価こそ、少々痛かったが、その甲斐はあった。後は、トゥジ殿に任せておけば、手はず通り、袋をほどき、縫い直して、一枚の大布に縫い直していただけるはずよ……)
一仕事終えた安心感で、ニグィは、身体を横たえて間もなく、すうっと眠りの中に引き込まれていったのだった。
それから数日後。
縫い上がった布を持って、再び夜中にやってきた娘とともに、ニグィは、船着き場のそば、いまだ材木が山と積み上げられている空き地へとやってきた。
舟を隠した時と同じく、山から数本材木を下ろす。そして、やや細い材木を選び、筒に縫ってもらった大布の上辺と下辺に通す。下辺の材木をくるくると回して布を巻き取り、上辺に通した材木と束ねたところで、それを材木の山の中心に隠し、再び、元通りに材木を積み上げた。
「毎夜、遅くまでご苦労だったの。これは、ほんのお礼よ……」
作業を終えたところで、用意していた玉の首飾りを渡そうとすると、
「いえ、お気遣いはありがたいのですが、無用でございます。全ては里のためにいたしたことでございますゆえ」
と相手は固辞する。そこをおして、
「まあ、まあ、よいではないか。私からの感謝の印だ。先代殿やトゥジ殿には、黙っておればよい」
と無理にその手を開いて、首飾りを握らせた。
「まことに、ありがとうございます……」
深々と頭を下げる娘に、
「よい、よい。では、来月来てくれるはずの娘に……」
「ええ、心得てございます。昼間の仕事の隙を見つけ、やるべきことを指示しておきますゆえ」
「すまないが、頼む」
今度は逆に、ニグィの方が深々と頭を下げ、二人はそれぞれの寝床へと戻ったのである。
本当のところをいえば、いくら世話になった礼であるとはいえ、決して安いものではない首飾りを若い娘に渡すのは、少々やり過ぎであった。
娘の言ったとおり「全ては里のため」であるのだから、どれほど手間暇かかる作業であったとしても、構わずに言いつけ、やらせればよい。娘達の大師匠である先代トゥジからも、そのように言われている。
が、それでも、ニグィはあえて、腰を低くして娘達をねぎらい、礼を述べ、心ばかりの品を手渡すことにこだわった。
そうすることによって、娘の信頼を勝ち取り、その心を強くつなぎ止めて――悪い言葉で言えば、首飾りを受け取らせることで、相手に共犯者意識を植えつけ、そうそう裏切りを働くことがないように――しておきたかったのだ。
というのも、他ではない。ホヒをはじめとする親「北の民」一派が、いよいよその力を強めてきつつあったのである。
それは、ニグィができあがっているはずの布を受け取りに出かける数日前のことであった。
昨年に引き続き、今年も田畑をほぼ人任せにしなければならぬことに、どうにもならぬ無念さを抱いていたニグィは、せめて田起こしぐらいは自分の手で、と朝早いうちから野良に出て、鍬を振るっていた。
体中汗まみれになりながらもなんとか土を耕し終わり、次は水路の整備をせねばと、溝の中に這いつくばるようにして、冬の間にモグラなどによって開けられた穴を塞いだり、あちこちに茂った草を抜いたりしていた時、不意に、頭の上から声が落ちてきたのである。
「まさか、このようなものをいただけるとはな。ホヒ殿は、まことに気前がよい」
「うむ、まことに。都に行けばいくらでも手に入るから気にするなと、あれほど多くの、今まで見たこともない宝を配るのだからな。もともと器の大きい若者だと思っておったが、都へ行くようになって、ますます風格を身につけられた」
「それにしても、都というのはすごいところよの。このようなものがいくらでも手に入るというのだから」
「おお、おお。それもこれも、「おう」のご威光が素晴らしいからこそだ、とホヒ殿は言っておったぞ」
「素晴らしい方なのであろうな」
「うむ。その素晴らしい方が住むところなのだから、王都とは、さぞ立派で、豊かで、美しいところなのであろうな」
「行ってみたいものだ」
「そうだな。今度の賦役に加えてもらえぬか、ホヒ殿に頼んでみるか」
「おお、それはいいな。一緒に頼んでみようではないか」
「そうしよう」
「そうしよう……」
ニグィら大人を中心とした旧指導層と、ホヒら「親北の民」一派との確執は、今や里人皆の知るところとなっている。だから、ニグィの姿があるところでは、さすがに里人もホヒらについて話題にのぼせたりはしない。この時は、ニグィが溝の中にいたため、一段高くなっている道からは死角となり、里人たちははばかりなく、胸の内を吐露していたのである。
彼らの本音は、ニグィに、脳天を何かで思い切り殴られたかのような衝撃を与えた。
というのも、この時通りかかった二人は、もう既に30を越えた、里人としての分別のつく年齢に達していた上、大人五人のうちのの一人に連なる、一族の者であった。すなわち、間違いなく「こちら側」であると思っていた者たちだったのである。
(大人の一族の人間として、より多く里からの恩恵を受けてきた身でありながら、やすやすとその恩を忘れ、ホヒなどになびくのか!)
かみしめた歯が、ぎり、と音を立てるほどの怒りにかられる。が、その怒りはすぐにしぼみ、代わって、重たい自省とうそ寒い不安、そして、身の震えるような恐れが、ひたひたと満ちてきた。
(いや、かの者たちを責めたところで、はじまらぬ。これは、我らの無策が招いたこと。ホヒらがどれほど説いたところで、里人の大半は、やはりトゥジに心を預けている、と決めつけ、つなぎ止める努力をなにひとつしてこなかったのが、全ての原因だ。北の民は、その「心の隙」を見逃さず、ぬるりと里人の心に入り込み、絡めとっていたのだ……)
移住の計画にかまけ、熱中するあまり、肝心の里人たちの気持ちをおろそかにしたことで、彼らの「トゥジ離れ」をみすみす見逃してしまった。今では、どれほど多くの者たちが、ホヒらに心を傾けつつあるのか、見当もつかない。
これではいけない、なんとか、里人たちの気持ちを、もう一度自分たちの方へと引きつけなければ……と考えた末、今回の干し魚の大盤振る舞いや、貴重な首飾りの贈り物という手段を選んだのである。
(今更これらを振る舞ったところで、果たしてどれほどの効果があるものか、見当もつかぬ。が、それでも、やらねばならぬだろうて。たとえ、里の宝を全て使い果たすことになろうとも、一人でも多くの里人たちをつなぎ止めなければ……)
以来ニグィは、布袋を受け取りに行くたび、今回は山菜だ、今回はトチの実だと、袋一杯に土産物を詰めて持ち帰り、それらを気前よく里人たちに分け与え、また、「秘密の作業」の助力をしてくれた娘達には、貴重な宝物を惜しげもなく渡していった。
徐々に隙間が増え、がらんとした空間ばかりになっていく宝物殿の中を見るたび、心が激しく痛んだが、それでもなお、ニグィはそっと宝を持ち出しては、様々なものへと交換し、配り続けたのである。
なりふり構わぬ、えげつない方策ではあった。が、効果はあった。
たまたまこの年の春から夏にかけて、ホヒ達が長い賦役で王都に出かけ、留守にしていたこともあってか、月に一度の振る舞いを続けているうち、里人たちの、ニグィらに対する冷たい視線やどこかよそよそしい態度は影をひそめ、代わりに、北の民が現れる前の、自然とにじみ出る敬意を向けられることが増えた。そして、移住を目前に控えた秋には、すっかり元通り、とはいわないまでも、里人の八割方は気持ちをこちら側に引き戻した、といえるところまで、状況を立て直すことに成功したのである。
(よし、よし。これで、少なくとも里の半分――おそらく八割程度の者を引き連れ、移住できる。理想を言えば、里人全てを引き連れて行きたかったが、これならばまずまず……)
移住する先は、いまだかつて人の手で耕されたことのない、手つかずの土地である。アタカを先行させ、有望な地の目星をつけさせているとはいえ、一から土地を開墾するのは、大変な重労働だ。人数が――それも男手が――多いに越したことはない。
舟の材料は全て揃い、積み込むべき資材も準備し終わっている、後は、約束の期日に間に合うよう、出航するだけだと思っていたのだが……残念ながら、それほどうまく事は運ばなかった。
出航予定日を三日後に控えたその日、長く賦役に出ていたホヒらが、里へと戻ってきたのである。それも、多くの兵を引き連れ、重大な知らせを携えて。
「……というわけで、今回の賦役をもって、クニの守りに必要な道や城壁、王城の整備は、一通り終了した。後顧の憂いがなくなったところで、聡明なる安王は、悲願である楚の滅亡へと向けて、いよいよその第一歩を踏み出されることを決意なされた。いくさだ」
北の民ふうの――それも、昨年着て帰ったよりもさらにきらびやかで、ごてごてとした飾りの多い服に身を包んだホヒは、そこでいったん言葉を切ると、広場に集まった里人たちの顔を、ゆっくりと見回した。
周囲に並ぶ皆が、一様に固く険しい表情を浮かべていることを確認したところで、再び口を開く。
「なに、いくさといっても、それほどおびえることはない。宿敵楚を打ち負かすには、まだまだ力が足りぬゆえ、まずは隣の、新しくできたばかりのクニを討ち滅ぼすことを、我らが主は望んでいらっしゃるのだ。建国して間もなく、ろくな力もない烏合の衆を討ち滅ぼすことなど、我が主にとってたやすいこと。我らの勝利は確定したも同然よ。とはいえ……」
と、ホヒは再び言葉を切り、刺すような鋭い視線を、里人一人一人に浴びせかける。
「手を抜くことは許されぬ。なにしろ、これは我が昭国の、そして我らが主安王の初戦だ。圧倒的な力の差を見せつけ、相手を完全に打ち倒さねばならぬ。そのためには、この里の皆の力が必要だ。里人よ。そなた達が王より受けた恩を、今こそ返す時が来たのだ!」
ホヒの高らかな宣言が、よく晴れた秋の空に吸い込まれていく。
里のほぼ全員が広場に集まっているというのに、広場は異様に静まりかえっていた。
聞こえるのはただ、風がムラを吹きぬける音と、か細い虫の声のみ。里人たちは重苦しい雰囲気の中、懸念と後悔とが入り混じった顔で、ただどんよりと立ち尽くしている。
それもそのはずで、ニグィをはじめとした大人と、トゥジの一族を除く里のほぼ全員が、ホヒらの誘いにうかうかと乗せられ、少なくとも一度は、王都から――北の民からもたらされる目新しい品を、手にした覚えがあったのである。
それらを気前よく配り歩いた時、ホヒらはなにひとつ「後のこと」について言い含めたりはしなかった。が……あれらの品々を手にすることで、ほとんどの里人は王に「恩」を受けたことになる。その「恩」を返すよう求められた時、断ることのできない立場に追い込まれていたのだと、里人たちは、今になって、ようやく悟ったのだ。
「安王は、此度のいくさを起こすに当たり、兵のために新しく、丈夫な武具を数多く用意することをお望みである。それらを創り出すためには、材料となるカネが多く要る。それらをどのように集めるべきかと、王が百官に問うたとき、私は、今こそ受けたご恩を帰す時だと、前に進み、こう申し上げたのだ。「王よ、恐れながら、我が里には、マツリの時のみ使う、多くのカネの器を所持してございます。新たな武具の材料として、どうかそれらをお収めいただきとうございます」とな。安王はいたく喜ばれ、私を新たにこの里の長として任命くださった!見よ、これが、その書状だ」
ホヒが手にした木簡を恭しく広げ、墨でびっしりと細かく書かれた文字を、高く掲げてみせた(あいにく、そこにかかれている文字を読み解き、内容を理解できる者は、この里にはほとんどいなかったが)。
「これには、今この時以降、里人はこの私、ホヒを里長として認め、その命に必ず従うようにというお触れがしたためてある。よいか、これにより、今この時より、私はこの里の長であり、王の代理として、この里を収めることとなる。これに異論ある者は、今すぐに申し述べよ」
「そ、そんな!この里には、トゥジ様がおられる!里長など……」
ホヒの後ろに並ぶ兵どもが、ざ、と音を立てて、一斉に今の言葉をもらした男の方へ、体の向きを変えた。手にした矛の刃先は、まだ天を向いたままだが、先ほどまでは片手で軽く柄を支えていたところに、さりげなくもう片手が添えられ、いつでも男に斬りかかれる姿勢になっている。
「ひいいっ!私は別に、なにも、そんな……」
身を縮こまらせ、男は泣き声を上げた。
が、ホヒは、悠然と片腕を水平に上げ、兵を制した。
「よい、よい。そなた、私がトゥジ殿を殺すなりなんなりし、取って代わるつもりではないかと思っておるのだな?」
「い、いえ、私は……」
「心配せずともよい。トゥジ殿は、里の要。これまで通り里のマツリをとり仕切っていただく。ただ、今までなんとはなしにトゥジ殿と大人達に任されていた諸事の仕切りを、私が長として引き受けるという、ただそれだけのことだ」
つまりは、里の実質的権力は全て取り上げ、トゥジは単なる飾り物へと祭りあげる、ということだ。
これまではトゥジを中心に、大人数名の話し合いで、何事もゆるゆると決められてきたのが、ホヒの一存で――北の民の思うままに――里の全てが動かされていく、ということだ。
「どうだ?それならば、文句はあるまい?」
ホヒの問いかけに、男はがくがくとうなずき、
「え、ええ!もちろんでございます!不満など、全く……」
自分よりもかなり年若いホヒに向かって敬語でこたえ、あろうことか、追従の笑みまで、その頬に浮かべたのである。
(やられた……これより先、里は、ホヒらの思うとおりに動かされていくことになる。かくなる上は……)
少々準備をはやめ、今のうち――まだ心情的に自分たちの側につく民が多くいるうちに、里を後にせねば、とニグィが思案を巡らせていた、その時。
一人の若者が――やはり、北の民風のゆったりした、きらびやかな服を身にまとっている――ホヒに近づき、耳元にそっとなにかをささやいた。
目をつぶり、うん、うん、とうなずきながら、ひとしきり聞き取ったところで、ホヒはかっと目を見開き、一人の女性に、ひたと目を据える。
にらみつけられた女性――当代トゥジは、不安とおびえを顔に浮かべ、涙でうるうると湿った目でホヒを見返しつつ、きゅっと肩をすぼめた。
「ただいま、聞き捨てならぬ報告が入った。今、私は手の者に言いつけ、宝物殿の中を調べさせていたのだが……なんと、その中に山ほどしまい込まれているはずのカネの器が、一部を残し、全て消え失せている、というのだ!」
険しい顔で里人たちを見回し、ホヒはなおも、言葉を継ぐ。
「里人たちよ、これはゆゆしきことだ!あれらのカネの器は、マツリの際にのみ使うがゆえに、トゥジの所有だとなんとなく思ってきたであろうが、本当のところは違う。あれらは、父祖から代々受け継ぎ、何年も、何十年もかけてその数を増やしてきた、里の、里人皆の宝なのだ。それを勝手に持ち出し、費やしてしまうなど、里への裏切りに等しい!」
驚愕の色に顔を染め、里人たちは、一心にホヒを見つめる。ニグィも、彼らに合わせ、驚愕の表情を貼り付けてはいたものの、その内心は、企みが露見した焦りと、自らの失策への後悔とが、無念の怒りの炎をまとい、渦を巻いていた。
だが、ホヒはそんなニグィの内心を逆なでするかのように薄笑いを浮かべ、ネズミをいたぶる猫の目つきで、再びトゥジにひたりと視線を合わせた。
「宝物殿にて里の宝を護り、保管していたのは、他ならぬトゥジ殿だ。こうなれば、かの宝の行き先、使い道について、トゥジ殿御自らに聞きただすよりほかない!」
この言葉に、当代トゥジはびくりと再び身を縮こまらせると、声もなく涙を頬に伝わらせつつ、ただただ、何度も小さく首を振り続けた。
だが、もちろん、そのような痛々しい態度に、ホヒがほだされるはずもない。
「いくらトゥジ殿とはいえ、罪は罪。見逃すわけにはゆかぬ。者ども、かのお方を捕らえ申し上げろ」
その言葉を待っていたかのような素早さで、トゥジの元へと兵が殺到し、あっという間に、彼女は両腕をがっちりと捕まれてしまった。
今にもその場にくずおれそうだというのに、両側から無理に支えられているせいでそれもかなわず、当代トゥジは、ただしょんぼりと、文字通りあらゆる力を失った状態で、その場に立たされている。
ホヒは、ゆっくりと彼女の前まで歩くと、ぐい、と顔を前に突き出した。
「後ほどゆっくりと話を聞かせてもらう。覚悟なされよ!」
勝ち誇った顔でささやき、ぐいと体を反らして、
「お連れ申し上げよ!」
きびすを返そうとしたその時。
「お待ちなさい!」
りんとした声が響いた。
ホヒが眉間にしわを寄せ、険しい表情を浮かべると同時に、里人たちの輪の間から、しずしずと先代トゥジが、姿を現した。
「当代は我らが父祖と産土とをつなぐ者。いわば、人でありながら人を超えた者。いかなクニより任命された者の命だとはいえ、現世の法にて人ならぬ者をとらえるのは、僭越極まりない所業です。捕らえるのであれば、このわたくしを……」
捕らえなさい、と先代が高らかに宣じようとするのを、
「ならぬ!」
ホヒが、割れ鐘のような大声でもって遮った。
(先代様の仰せを拝聴しないばかりか、途中で遮るとは!不遜にもほどがある!)
里人の多くが、ホヒに向かって無言で、驚きと非難の目を向けた。だが、なんとも口惜しいことに、そのような逆風の中でも、ホヒは不敵な笑みを浮かべ続けている。
「里人どもよ、思い出すがよい!先ほど私は、里長として、これまでトゥジがなんとはなしに行っていた「諸事の仕切り」を、引き受けた。諸事とは、現世のあらゆることを指す。マツリのことには一切口を出すつもりはないが、里の宝がなくなったのは、間違いなく、現世の誰かの仕業によるもの。その疑いがある以上、たとえ当代のトゥジ殿といえども、見逃すわけにはゆかぬ!誰一人の例外も無く、法によって裁き、必要ならば罰を与え、里を導くことこそ、里長の使命なのだからな!」
「な、なんと!なんということを……!」
先代が絶句し……そして、里人の間にどよめきが走った。
それも当然だ。
これまで里は、トゥジの「権威」に基づき、何事もトゥジの意向に従うという形で――実際には、大人達の合議により、決まった内容にトゥジが認可を与えるという形であるのだが――進むべき道を決めていた。であるから、里人たちにとって、トゥジはその存在自体が尊く、この世のなによりも優先される存在だと見なされ、扱われてきたのである。
それを、ホヒはひっくり返したのだ。
トゥジといえども里人に過ぎない、里人である以上、クニの法と、クニに任命された里長である自分に従わなければならない――つまりは、トゥジの「権威」よりも、クニによってもたらされた「権力」の方がより優先されなければならぬ、これから先、この里はそのような場所となっていくのだと、ホヒは、高らかに宣言したのである。
「いまだマツリに深く関わっておられるとはいえ、先代殿は、もはやトゥジの任を離れた身。責を負う立場ではない。管理すべき宝を失うという大罪について、前後の事情を問いただし、場合によっては責を問うその相手は、今現在の責任者である、当代トゥジでなければならぬ。よって私は、トゥジをとらえたのだ。おわかりか?先代よ、残念ながら、そなたでは当代トゥジの代わりは務まらぬのだ」
「そなたは……そなたは、里を裏切るのですね!」
激しい憤りの矢を幾千本と突き刺す勢いでホヒをにらみつけ、今まで聞いたこともない、胸の底から絞り出したようなおそろしい声で、先代がささやく。
が、その肝が凍りつくような呪詛にも、ホヒはただ、肩をすくめただけだった。
「そうではない。里のため、クニのためを思うからこそ、私はこうして里長となり、里を新たな方向へと導いていくことを選んだのだ。今までそなた達が、決して選ぼうとしなかった、栄誉に輝く道へとな」
そこまで言うと、ホヒはやおら身を翻し、
「他にいうことがなければ、話は終わりだ!トゥジ殿を引き立てよ!」
兵達は、その命令を耳にするやいなや、トゥジを引きずり、里の集会場へ歩きはじめる。
ホヒもまた、その末尾につき、ゆっくりと、後ろを振り返りもせず、歩き去って行く。
(なんということだ……なんということだ!)
一度は王都に与する一派に傾きつつあった里の大勢を、ここ半年であらかた引き戻し、里人の大半を引き連れて、首尾よく里からの脱出する。その計画は、成就を目前に、もろくも崩れ去った。
数年がかりでの準備は水泡に帰し、後に残ったのは、深い徒労感と、出し抜かれたことへの無念さ、そして、間もなくやってくる「戦乱の時代」への深い憂慮のみ。
(奴らの方が一枚上手で……しかも、目的のためには手段をいとわぬ「怖さ」を持っていたのだ。私のような甘い人間に、太刀打ちできる相手ではなかったのだ……)
集まっていた里人たちも、一人、二人と広場から立ち去り、ついには、悄然と立ち尽くすニグィのみが残された。
折悪しく、そこへ秋の雨が、ぽつり、ぽつりと降り出し、やがて、さあああ……と静かな音を立てて、地に降り注ぎはじめる。
と、そこへ。
「今宵、里人が寝静まった頃、お屋敷まで参るようにと、先代様が仰せでございます」
耳元で、そっとささやく声がした。
慌てて振り向くと、背筋をぴんと伸ばした若い女性が、やや早足で離れていくのが目に入る。間違いない、先代子飼いの、材木や布を手に入れる旅に同伴してくれた娘の一人である。
(先代様からの伝言か。しかと承った。しかし……事ここに及んでしまったというのに、今更なんの協議をなさりたいとお考えなのか……)
首をひねりながらも、既にぐっしょりと濡れそぼった体をようやくのことで動かし、ニグィは、クシナの待つ家へのろのろと歩き出したのであった。