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弥生の空に1 出航編  作者: 柴野 独楽
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第3章 脅威 8-9 

     8

 里に、北の民をあがめ、クニの支配を歓迎する一派が形成されつつある以上、里人たちの前でうかつな真似をするわけにはいかない。もし「クニのために尽くすことこそ里の使命」などと考えている輩にニグィらの計画が知られてしまえば、間違いなく大声で反対するであろうし、下手をすると、「不心得者を罰してもらう」ためだからと、進んでご注進に及ぶかもしれぬ。そうなったら万事休す。それでなくとも里の動向に目を光らせている北の民が、里を捨てて逃げ出そうなどと企むものを、そのまま許しておくはずがない。「そのようなうわさがある」という不確かな情報が寄せられただけであっても、きっと兵の一隊を送り込み、首謀者と目される者たちを軒並み引っ捕らえ、処刑するにきまっている。

 万が一にもそのようなことにならぬよう、計画は、慎重な上にも慎重に、完全に信頼できる者のみで進めていかねばならない。だが……そうなると、どうしても、手が遅くなってしまう。

(クニの冷たい指が、ホヒらを完全に絡め取ってしまうのが先か、それとも、我らの準備が整うのが先か……これは、時間との戦いになるな)

 一日でも、一刻でも早く準備を整え、この地を去らねば、クニに与する者たちは増えるばかりである。とはいえ、焦るあまりに疑念をあおるようなことをしでかせば、元も子もない。

 はやる気持ちを必死で抑えつつ、表面上は穏やかな笑みをたたえ、いつも通りの柔らかい物腰で里人たちに接し、野良仕事に精を出す。その裏で、少しずつ、だが着々と、ニグィは準備を整えていった。

 まず行ったのは、舟の準備である。

 ニグィらの里には、そこそこの数の舟こそあるが、そのどれもが――ニグィが交易に使っている舟も含めて――きゃしゃで、小さい。流れの穏やかな(うみ)を短時間、上ったり下ったりするだけならそれで十分なのだが、これらの舟では到底「うみ」を渡ることはできないと、ヤズに聞かされていたのである。

 大勢が半月、一月乗っても大丈夫な大きさと、激しい波にもまれても平気で突き進めるだけの頑丈さとを兼ね備えた、立派な舟。それを、できるだけたくさん――里の全ての民を運べるほどに――手に入れなければならない。

 そのために、ニグィが向かったのは、江のずっと上流――山山が連なり、森がずっと深くなる地にひっそりたたずむ里であった。

 かねてより顔なじみの里長(さとおさ)に、舟を造ってほしいと切り出すと、長はあごひげをなでつつ、ゆっくりとうなずいた。

「ふむ。よかろう。そなたにはいろいろとよき品を持ってきてもらっておるからな。その返礼に、我らもとびきりの舟を用意しようではないか。なに、心配はいらぬ。一月もあれば……」

 ニグィは、ゆっくりと首を左右に振り、長の言葉を遮ると、

「長よ。造ってほしい舟は、一艘ではないのだ」

 そう打ち明けた。

「ふむ、一艘ではないと?では、一体どれほど……」

「来年の春までの一年間で、造れるだけの数。少なくとも十二艘はほしい」

「なんと」

「それだけではなく、丸太を並べ、(かずら)でつないで造った筏も、6つほど用意してもらいたい」

「それは……とてつもない話だな」

 里長は、難しい顔で、しきりにあごひげをなでさする。

 やがて。

「一年で、舟十二艘と、筏を6台。できないことはなかろうが……しかし、それをするとなると、里の者に相当無理をさせることになる。ちょっとやそっとの代償では、引き受けられぬぞ?」

 問いかけるような目つきでのぞき込む里長に、ニグィは、深いうなずきを返した。

「分かっているとも。もし引き受けてくれるなら、舟一杯積んできた米と神酒と薄衣、それに」

と、ニグィはここで、一度大きく息をつき、

「それらを入れてきたカネの器も残らず進呈する。一年後に全ての舟ができあがるまで、一月に一度、同じだけのものを運んでこようではないか」

 ニグィの言葉の途中から、里長は、あごひげをなでることも忘れ、大きく目を見開いて、彼を注視していた。

 ニグィが口にした条件――中でも、カネの器を進呈する、という一言――は、それほどまでに破格だったのだ。


 カネの器、とは青銅製の容器のことである。

 この時代、青銅器は、既に中国全土で使用されるようになっている。とはいうものの、産地が制限されるため、その価値は高く、どうしても固い切っ先が必要な農具や武具、それにマツリで使う祭器以外には、依然土器や、気を削り出した器が使われていた。

 この傾向は、銅の産地から離れれば離れるほどに顕著であり、山深い江の上流ともなれば、青銅器一つで一財産と見なされるほどに珍重されていた。

 ニグィらの里があるあたりでは、そこまで珍しがられることはないにせよ、やはり、かなりの貴重品である。農具以外でカネの器を所持できるのは、数多くの米や薄衣を引き換えることのできる、里でも有力な一族のみに限られ、一家の家宝として、家の高みに燦然と飾られるか、あるいはその逆に、「ここぞ」というとき以外、倉庫の奥深くにひっそりとしまい込まれるか、そのどちらかであった。

 それほど価値ある品物を、舟とひきかえに、月ごとに差し出すと申し出たのだから……里長が驚くのも、無理のない話なのである。

 

 驚愕が徐々に沈静し、気持ちが落ち着いてきたのだろうか、里長は再び、先ほどよりもせかせかとした速度であごひげをなで始めた。

 見ると、その頬には不敵な笑いが浮かんでいる。

「ニグィよ。今の言葉、間違いはなかろうな?まことに、毎月、米と薄衣と神酒、そしてカネの器を運んでくるのだな?」

「ああ。間違いない。私か、私の代理の者が、きっと毎月運んでくる」

 ニグィがそう請け合うと、里長は、ゆっくり、深々とうなずいた。

「ならば、我らに異存はない。すぐにでも里の者に命じ、木を切り出し、船造りにかかるとしよう」

「ありがたい。よろしく頼む。それから、くれぐれもこのことは……」

「分かっておる、分かっておる。誰に頼まれたのか、決して口外はせぬ。だから、安心して任せておけ……」

 里長は訳知り顔で、ゆったりとうなずいたのであった。


 ニグィが進呈を約したカネの器は、トゥジの一族が長いことかかって集めてきたものであった。

 普段はトゥジの家の横に立つ宝物庫に大切にしまわれ、トゥジに仕える若い娘の手によって、曇り一つないよう、毎日丹念に磨き上げられている。そして、マツリの数日間だけ、祖霊や地霊に供物を捧げたり、里人の一年の働きをねぎらい、神酒や菜を振る舞ったりするのに使われる、この上なく大切な器なのである。

 「里から逃げ出すための物資を集めるのに、そのカネの器を使うように」と先代トゥジに言われた時には、さすがのニグィも、驚かずにはいられななかった。

「先代様。まことにありがたい申し出ではありますが、しかし、里の宝ともいうべき器を、人手に渡してしまってよろしいのですか?あれほど見事な器は、一度手放したら最後、そうそう手に入れることはできぬかと……」

 だが、先代は、彼の心配など吹き飛ばすかのように、高らかな笑い声を立てた。

「もう、なにを申すかと思えば……ニグィ殿らしくもない」

「しかしですな」

「里の真の宝とは、里人たちに他なりませぬ。その里人の命を救い、クニにのみ込まれるのを防ぐためとあらば、惜しいものなど、なにひとつありませぬ」

「は、それは確かにそうやもしれませぬが」

「それにの」

と、先代が真顔になる。

「後生大事にカネの器を取り置いておいたとて、どうせそのうち、クニの役人どもがやってきて、取り上げてしまうに決まっておる。そのような憂き目にあうなら、いっそ今のうちに、綺麗さっぱり他の品に換えてしまう方が、よほど役に立つというもの。そうではありませんかえ?」

 そう問われれば、ニグィもうなずくしかなかった。

 実際、クニの者どもも、カネの器を喉から手が出るほどほしがっているに違いないのである。

 カネの器を炭の強い火であぶれば、どろどろに溶け、好きな形に変えることができる。今はまだ、王都を取り囲む壁や王宮を整備するのに忙しく、そこまで手が回らぬのであろうが、やがてそれらが完成すれば、近い将来きっと、クニは軍備の増強を計画しはじめる。その時、矛や盾、鎧の装甲板を揃えるためのカネの材料として、きっと里の器に目をつけ……なんやかやと理由をつけて、徴収にかかるに違いない。

 その時になって悔しい思いをするぐらいなら、いっそ今のうちに自らの手で全て処分した方がよい……先代は、そのような思いで、持てる全てのカネの器を、ニグィに託したのである。

 そのことは重々理解しているつもりだ。だが、その一方で、自分の企てた無謀極まりない計画に、一族の宝全てを惜しみなく供出しようという先代の信頼に対し、どこか及び腰になってしまう気持ちも、ニグィの中にはあった。これほどの負担を強いたのだから、是が非でも計画をうまく進めなければならぬ、しかし、それだけの力が自分にあるのかどうかと、つい不安になってしまう思いも、心のどこかに抱えていたのである。

 そんな迷いが顔に出ていたのだろうか……トゥジは、ニグィの目をじっとのぞき込みながら、そっと唇を笑みの形にした。

「ニグィどの。そなた、まさか、こうまで我にさせておきながら、もしも計画がうまくいかなんだらどうすればよいのか、などと思っているのではあるまいの?」

 内心を言い当てられ、ぎょっと目を丸くするニグィ。その彼を見て、先代は、微笑から、もっと確かな、ふわりとした笑顔へと、その表情を変えた。

「よいのですよ、そのようなこと考えずとも。何もせず、ただこの地へしがみついておれば、クニに――北の奴ばらに残らずよいものを取られ、ただどうにか生きていくだけしかできぬ立場に、きっとおとしめられてしまいます。どうせ何もかもなくすのならば、多少なりとも明るい明日を夢見られることに賭けた方が、まだ気持ちがよい。ですから、ニグィ殿。そなたの考えたとおり、ひたすらお進みなさい。カネの器が希望に変わっただけで、我は十分に満足なのですからの……」

 そっと両手を握りしめられ、ニグィは、ひたすらその手を握り返すことしかできなかった。

 そして。

(そうまでおっしゃってくださるのならば、もう迷うまい。里の全てを燃やし尽くし――その責全てを背負う覚悟で、きっと計画を成し遂げてみせる……!)

 新たに、そう決心したのであった。


 首尾よく舟の買い付けを成功させたニグィであったが、それで材木についての問題が終わったわけではなかった。

 買いつけたはいいが、それを上流の里へ置きっぱなしにしては、いざというときの逃走の役に立たない。自らの里の近くに置かねばならぬのだが、何艘もの舟をいきなり船着き場に増やせば、必ずクニの者たち――及び、彼らに傾倒する里人たち――に疑念を生じさせてしまう。

(ただ隠しておくのはまずい。あれほど大きなものをひそかに隠しおおせることなどできぬし、露見すれば、必ず疑念を抱かせることになる。皆の見えるところにありながら、それが舟だと誰にも気づかれぬのがよい。さて、どうすれば……)

 考えた末、ニグィが採った策は、里人たちに「愚痴」をこぼすこと、であった。

 野良仕事の行き帰り、誰彼と行き会い、立ち話をするたび、天気や策乙の出来具合などの話に織り交ぜて、

「どうも最近、体の調子が思わしくない。そろそろアタカの他にも、きちんと交易のできる者を見つけたいものだ。アタカを連れていて分かったのだが、他の里で交易をするには、男よりおなごのほうが、なにかと融通が利く。かといって、クシナはどうも、交易には向いておらぬように、私は思われてな。誰ぞ、手伝うてくれるおなごがおればよいのだが……」

「交易といえば、我が里の船着き場よ。川縁(かわべり)に舟を(もや)う杭を打ち込んだだけの、粗末極まりないものだ。舟から荷を上げるのにも一苦労だし、なにより見栄えが悪い。クニに合力するようになり、王都からも様々な人が訪れる。そのうちきっと、高貴な身分の方もやってこられるであろうに、船着き場がこれでは、あまりに体裁が悪い。他の里では、杭を打った上に丸木を敷き並べ、そこに荷を上げられるようになっていてな。そりゃあ立派なものだ。あのような船着き場があれば、今よりももっと多くの荷を運んでこられるのだが……」

「体裁が悪いといえば、我がムラの防備よ。空堀と逆茂木はいいとして、その内側を囲う木壁も、だいぶん古びて、ところどころぼろぼろになってきておる。これでは、いざいくさが始まった時、おちおちムラで眠ることもできぬ。古き木壁を壊し、新たに丈夫な壁で村の周囲を囲い、王都の高貴な身分の方のお目に入っても恥ずかしくないものに、いつか作り替えたいものだ。が、これは、なかなか難しいかの。なにしろ、都城の賦役で、季節ごとに男たちが大勢、狩り出されておるでな。だが、それらが一段落したら、すぐにでもかかりたいものだ……」

 そんな話を必ず口にするようにしたのである。

 それより一月ほどたったある日、そろそろ野良仕事がなにかと増える時期であるというのに、ニグィは、アタカの他にもう一人、若くて体力のある娘を連れて――もちろん、トゥジに忠誠を誓った、信頼できる娘の一人であることは、いうまでもない――上流の里へと旅だった。

 ニグィとアタカ、二人がつきっきりで教えるとはいえ、娘の慣れない操船では、思いのほか時間がかかり、再び里に帰り着いたのは、それより十日ほど後。が、その時には、娘もどうにか帆を操り、舵を取ることができるようになっていたし、その娘の乗る舟の後ろには、数多くの材木を束ねて造った筏が五つも続いていた。

 普段のニグィであるなら、野良に精を出さねばならぬ時期に舟を出した後は、真っ先に田畑へ向かい、託していた仕事がつつがなく進んでいるかどうか検分する。が、この年に限っては、

「なに、田畑を託したのは、クシナに懸想する若い衆の一人だからの。いいところを見せたくてうずうずしているというのに、野良で手を抜くこともあるまいよ」

と、そちらへ足を向けようともしない。その代わり、船着き場に新たな杭を打ち込み、運んできた筏をその杭に縛りつけて、今までよりずっと大きく、ずっと立派なものへと改造する作業を、夢中になって行っているのである。

 交易と同じほどに野良を愛し、毎日朝から晩まで、土にまみれ働くことを無上の喜びとするあのニグィが、こうも田畑をほったらかしにするとはと、里人の中には、違和感を抱くものも少なからずいた。が、

「どうだ、見てくれ、この船着き場を!まだ途中だが、立派であろう?しかもこれは、見てくれがよいだけではないぞ。ところどころに工夫を凝らし、そうそうのことでは壊れぬ造りになっておるのだ」

「打ち込んだ杭が長すぎるように見える?いやいや、それが、一番の工夫なのだ。杭の間の丸太は、筏のようになっておってな。雨の季節に江の水が増えれば、それにあわせて船着き場も上がり、冬に水が減れば、あわせて下がるようになっておる。水に没することがないから、流れに押し流されることもなく、たとえどれほど水の増える年であっても、安心して荷を上げることができるようになっておるのだ。どうだ、見事であろう?はっはっは……」

 などなど、通りかかる誰彼を捕まえ、まだできあがってもいない船着き場の自慢を長々と聞かせたものだから、そのうち、

「ニグィどのは、よほど船着き場に入れ込んでいらっしゃるようだ。あれほどの働き者であったのに、田畑を他人任せにしてまで、一心に作業に打ち込んでいらっしゃる。なんとも酔狂なことだ」

と、里人皆が少々あきれながらも、どこか微笑ましい目で見守るようになったのである。

 やがて、船着き場が立派に完成すると、ニグィは再び、アタカと、この間とは違う若い娘を一人連れて、また旅立っていった。

 そしてまた十日ほど経ったところで、大量の材木を筏にして持ち帰り、

「見てくれ、この材木を!太さといい、曲がりのなさといい、極上の材木じゃ!まさにムラを囲う壁の材料として、申し分あるまい!どうじゃ!」

 里の誰彼を捕まえては、自慢げに材木を見せびらかす。が、肝心の壁の建て替えに話が及ぶと、

「うむ、それなのだがな。今すぐにでも普請にかかりたいが、この時期は、皆田畑に精を出さねばならぬでな。なかなか……」

 だの、

「王都の賦役で、若い者たちが疲れ切っておるでな。ゆっくり体を休めるためにも、建て替えはもう少し先延ばしにせざるを得まいな」

 だのと、急に歯切れが悪くなり、なかなか普請にかかろうとしない。

 結局、材木の束は、船着き場にほど近い空き地に、ごろりと横倒しに積まれたまま、放っておかれることになる。

 その光景に人々の目が慣れた頃、またひそかに材木が運びこまれ、材木の山は、少し高くなった。そしてまたその山の高さに人々の目が慣れたころ、またまた材木が運び込まれ……というのを繰り返していくうち、いつしか材木は、大人の背丈を超えるほどの山が五つできるほどの、すさまじい量になっていた。

 少し冷静に考えてみれば、ムラのぐるりを囲う壁を造るとはいえ、いくらなんでも材木が多すぎるのではないか、と気づかれそうなものだが、何度にも分けて材木を運び込み、人々の目を山に慣らしていったのが功を奏し――なんともありがたいことに、誰一人として「多すぎる材木」に疑念を持つことはなかったのである。

 もちろん、ニグィに壁を造るつもりなどなかった。

 材木はここに転がしておき、いざ準備が整ったところで、舟に仕立てるつもりなのだ。

 そしてわざわざ材木を積み上げ、「山」を作ったのには、もう一つ訳があったのである。

 

 深夜。

 昼間の蒸し暑さは、日没とともに吹き出した風に吹き払われ、心地よい涼気が里を包み込んでいる。

 もう少し早い時刻であれば、夫婦の契りに精を出す若者の(ひそ)やかなうめき声が、あちらこちらから聞こえてくるのだが、今は、気の早い秋の虫が奏でるか細いりいりいという鳴き声の他、物音一つ聞こえない。里人たちは皆、疲れた体を寝床に横たえ、ぐっすりと寝入っているのである。

 そんな中、ムラから船着き場の方へと伸びる細道をひたひたと歩く、二つの影があった。

 ニグィと、アタカである。

 夜中とはいえ、中天には皓皓と月が輝き、夜道を明るく照らしている。にもかかわらず、二人が慣れた道をややおぼつかなげに歩いているのは、背中に大きな荷物を担いでいるからである。

 荷は大きさだけでなく、重さも相当なものであるらしく、二人とも背を曲げて圧力に耐えつつ、、地面を足指でたぐり寄せるようにして、一歩一歩、ゆっくりと歩みを進めている。

 やがて、船着き場にほど近い材木置き場へたどり着いたところで、二人は歩みを止めた。

「やれやれ、この年になると、重みが体にこたえる。若き頃は、この程度の荷など、平気で運んだものだが……」

 荷を背中から下ろし、「うん」といいながら、ニグィは腰を伸ばした。

 アタカはその言葉を聞き流しつつ、手にした弓切りで、早くも火をおこしにかかっている。

 間もなく、薪に火がうつり、あたりはぼんやりと明るくなった。

「では、始めるか」

 ニグィの言葉にアタカがうなずき、二人はやおら、材木の山の一つに向かうと、積み上げてある材木を一本一本、地面に下ろし始めた。

 三段目、四段目、五段目の材木を全て下ろし終わったところで、ようやく二人は手を休める。

 そこには、両側を材木に挟まれた丸木舟が4艘、姿を現していた。

 木の胴をくりぬき、人の乗り込む場所を作った丸木舟をそのまま放置しておけば、「どうしてこれほど大量の舟があるのか」と、間違いなく里人に疑念を抱かせる。それを防ぐために、ニグィは、材木の山の下に舟を隠し、人目に触れないようにしておいたのである。

「では、荷をこちらに」

 ニグィの声に従い、アタカが背負ってきた荷をほどき、一抱えほどもある器を一つずつ、手渡していく。ニグィは、受け取ったそれを、舟の床に隙間なく、きっちりと詰めていく。

 器には、米や、そのほかの食物がぎっしりと詰められ、布で封をした上に、厳重に紐でくくられている。それを一人あたり十個近くも背負ってきたのだから、重いのも道理なのである。

 苦労して持ってきた器を全て、舟に積み覆えると、ニグィは、ふう、と一息つき、袖で額の汗を拭った。

「では、木の皮をこれへ」

 アタカから手渡された木の皮を器の上にかぶせ、たき火で溶かしたミツロウでもって、固定していく。それを数回繰り返すと、ややでこぼこはしているものの、一見しただけでは、横に並ぶ丸太と見分けのつかぬ状態になった。

「ふむ」

 子細に舟を検分し、そのできばえに満足、とはいかないまでも、まあまあ納得ができたのだろうか、

「まあ、これでよしとするかの」

 そうつぶやくと、二人は再び、舟の上に材木を積み上げ、元通りの山にすると、たき火を消し、家路についたのである。

 

 「ニグィどの。せっかく材木をくりぬき、舟にしていただいたというのに、その穴を塞いでしまって、よろしいのでしょうか?」

 家に帰り着き、朝までつかの間の休息を貪ろうと、寝床に体を横たえたところで、隣にいるアタカが、気遣わしげにそうささやいた。

 ニグィは、そのまま寝入った振りをして、アタカの問いを聞き流してしまおうかとも思ったのだが、思い直して、彼女と同じ小声で

「分からぬ」

 そう、ささやき返した。

 実際それは、ニグィ本人が気になっていることでもあった。

 彼らが交易に使うのは、丸太の一部を(のみ)でほり抜き、中に乗り込めるようにした「刳舟(くりぶね)」――今でいう丸木舟である。(うみ)のゆったりした流れに任せて下流に向かったり、舟の真ん中に帆柱を立て、風を受けて江を遡ったりするにはこの舟で十分であるがゆえに、江に沿って点在する里の住民は皆、舟と言えばこういうものであると頭から思い込んでいる。それは、交易を通じて広い見識を手に入れたニグィといえども、やはり同じで……乗り込む場所を塞いでしまっては、舟として役に立たぬのではないか、という懸念は、彼の脳裏に常について回っていたのだ。

 だが。

「分からぬが……「うみ」を何度も行き来しておるヤズたちが、このようにしろ、というのだ。その言葉を信じるしかあるまい」

 「常識」のくびきから逃れられず、根強い疑念を脳裏に抱いていたとはいえ、ニグィには、それ以上に強い「友への信頼」があった。そもそも里を捨てて移住するこの計画自体、ヤズに対する信頼あればこそのものなのである。友の言葉を信じて動き始めたのあれば、その言葉を最後まで信じ抜くことこそ、自分にできる唯一のことだと、ニグィは、覚悟を決めていたのだ。

「今更疑うてみたところで、動き出した計画が止まるものでもない。であれば、いたずらに気をもむのはやめ、己がやるべきことをひたむきにやり続けるしかあるまい。そうではないか?」

 天井を見上げたまま、アタカに向かって、というより、自分に言い聞かせるように、ニグィはそう、ささやく。

 その言葉をどう聞いたのか……しばらくして、アタカが、

「そうですね。信じるしか、ないですね」

 吐息を吐き出すように、そうささやいた。

 やがて、家の奥から聞こえるクシナの規則正しい寝息に、アタカのやや喉にひっかかるような寝息が唱和し……ニグィ自身も、眠りの淵に滑り落ちていったのだった。


 ……このように言うと、ニグィが着々と、誰にも邪魔されることなく、脱出の準備を進めていたように思われるかもしれない。

 が、むしろ、状況はその逆であった。

 以前は、道ばたで出会うたび、立ち止まり、腰を深々と曲げて慇懃なあいさつをしてくれていた里人が、通りすがりに素っ気なく首をわずかに動かすだけで、さっさと歩き去るようになった。しかも、あいさつの時には立ち止まりもしなかったというのに、通り過ぎた後でそっと振り返り、蛇のような疑い深い視線を、じっとたたずんだまま、こちらにねっとりと絡みつかせてくるようになったのだ。

 また、道ばたで、何やら深刻そうな様子で話し込んでいる里人たちが、ニグィが通りかかったことに気がつくやいなや、慌てたように取り繕った笑顔を浮かべ、今年のイネの出来具合はどうだの、夏の暑さはどうだのといった、当たり障りのない話を始めるにもなった。

 夕餉の後、ふと尿意を覚えて家の外に出ると、暗がりから誰かが立ち去るような気配がしたことも、一度や二度ではない。

 クニの――北の民の冷たい指先が、徐々にではあるが、確実に彼らの喉元に迫り、巻きついてきているような、そんな不気味さを、ニグィは、ひしひしと感じていたのである。

 そして、この年の夏、クニは、さらなる一手を打ってきた。

 田の草取りが一段落した初夏、里は、クニによってまたしても申しつけられた賦役を果たすため、ホヒをまとめ役に、十数人の若者たちを王都へ派遣したのだが……その彼らが、見違えるような出で立ちで里へと帰還したのである。

 彼らがムラへと帰り着く前から、うわさは里中を巡り、皆、野良仕事の手を休めて、ホヒらの姿を一目見ようと広場へと向かったのだが……そこは、一種異様な状況となっていた。

 広場の真ん中に、若者たちの一団が固まって立ち、里人たちは、その周りをやや遠巻きに取り囲んで、困惑と賞賛、羨望と不安の入り混じった目で、じっと彼らを見つめていたのである。

 取り囲む里人同士でささやき声が交わされることはあっても、誰一人として、ホヒらに話しかけようとする者はおらず、また、ホヒらも、里人たちの視線がよほど心地よいのか、満足そうな笑顔をたたえたまま、悠然と立っているだけ。里のほぼ全員が広場に集まっているというのに、皆、奇妙なほど静まりかえっている。

 それは、クニの者たち――かの張隊長率いる北の民の一団が、初めてこの里を訪れた時と、奇妙に似通った光景であった。

 やがて。

 里の重要人物――ニグィをはじめとする大人(おびと)、そして誰より、当代と先代のトゥジ様――が広場に駆けつけたのを見計らったところで、ホヒは、おもむろに口を開いた。

「里の衆よ。我ら全員、無事に賦役を終え、ただいま戻った!」

 自信に満ちた、ややもすると傲慢な響きさえ聞き取れる声である。

 何の経験も実績もない若者たちが、里を率いる大人の前で、かくのごとく堂々と振る舞うことに、里人たちはなんともいえぬ違和感を覚え……中にはあからさまに顔をしかめる者もいた。が、大方の者は、むしろホヒらの言葉を素直に聞き入れ、彼らをじっと見つめている。

 里人たちの視線を十分に意識しながら、ホヒは、大人ばりの悠然とした態度で、再び口を開いた。

「このたびの賦役は、まことに大変でな。非常な苦労をしなければならなかった。だが、その甲斐あってな。王城の方々――特に安王様は、我らの粉骨砕身ぶりを、ことのほかお喜びになってくださり、我らを正式に「王の民」であると認め、この通り、我ら全員に、民としてふさわしい出で立ちをご下賜下されたのだ!」

 感に堪えない、といわんばかりに両腕を高く上げると、彼の背後に控えていた者たちも、それに唱和して、雄叫びを上げた。

 ホヒは、いかにも北方の高級文官めいた、ゆったりとしたきらびやかな服に身を包み、目も覚めるような原色の帯を締め、布を貼り合わせて作った先のとがった(くつ)をはいている。その後ろに立つ者たちは、革製の短甲に革製のかぶとを身につけ、その手には青銅の切っ先がついた矛を持つ、兵士の格好だ。

 そんな一団が、一斉にときの声を上げる姿は、まさしく「王城の手の者」そのもの。王城の者たちにすっかり魅了され、心酔し、自らも彼らのようにならんとしていることが、はっきり見て取れる姿だったのである。

 おそろしいのは、その彼らを、里人たちの多くも、ギラギラした目で見つめていたことだ。

 安易に北の民を真似て、いい気になっているホヒらを嫌悪し、その見慣れぬ出で立ちを恐れるあまり、表向き媚びへつらっている、というのならば、まだ分かる。だが、里人たちの目に宿る光は本物で……ホヒが身につけている衣服や、その後ろの者どもが手にしてる鋭利な矛を本気でうらやましがり、それらを手に入れられるというのであれば、どのような苦労や屈辱も受け入れようという欲望を、はっきり見て取ることができる。

(いかんな……これはいかん……!)

 里では、遙か昔より、トゥジを中心とした、ゆるやかな統治が行われてきた。

 マツリの主催者であり執行者であるトゥジを尊び敬い、トゥジに認められることを何よりの喜びとし、そのために、里につくし、里のために働き、やがて年老いて大人と認められ、里人の経営に携わる……それが、里人たちの「理想の生涯」であり、そこから外れた生き方など、脳裏をよぎることすらなかったのである。

 それが今、北の民のもたらした衣服や兵器に――それらが象徴する「権威」に――心奪われようとしている。

 里人がそれらのものをありがたがればありがたがるほど、旧来からの権威であるトゥジへの敬意は薄れていく。それはすなわち、トゥジの権威を背景に形作られている里の構造そのものがないがしろにされ……新たな統治構造である「クニ」に組み込まれていくことを意味する。

(このままホヒに好き勝手させていてはまずい……だがしかし、むげにいさめたり、責めたりすれば、反発心をあおるのは目に見えておる。一体どうすれば……)

 難しい顔で考えているところへ、そっと肩へ手を添えられる感触があった。

 振り返ると、案の定、先代である。

 だが、なんとも意外なことに、彼女は、優しげに顔におっとりとした笑みをたたえて、ホヒを眺めていたのである。

「……大丈夫ですよ。今までも、新たな流れが生まれるたび、その流れをうまく利用して、我らは生き延びてきたのです。この大波とて、新たな門出の時まで、見事に乗り切って見せましょうぞ」

 自信ありげにうなずくその姿をみただけで、ニグィには、彼女の意図がはっきりと飲み込めた。ホヒらのことは、私がなんとかするから、あなたは、移住の準備のみに注心しなさい……先代は、そう伝えてくれているのである。

(分かりました。あなたがそうおっしゃるのなら、私はひたすら、舟の準備に身を捧げまする)

 表情をゆるめ、笑顔になってうなずいてみせると、先代は満足げにうなずき、肩に添えた手をそっと外して、

「まあまあ、なんと立派な姿であることか!」

 大仰に両手を開いて、なんとも嬉しげに、ホヒに向かって近寄っていく。

「安王様には、この上なく感謝を示さねばなりませぬの、ホヒ殿!それほどまでに王の信頼を得ることができたのは、そなたたちのおかげ!どうかあちらで、詳しい話を聞かせてたもれ!さあさあ、早く早く……まあまあ、この薄衣のなんとも美しいこと!そしてその矛の、なんと鋭いことか!」

 先代は、ホヒの両手を取るようにして、そのままぐいぐいと里の集会場の方へと引っ張っていく。そこでじっくり話を聞きながら、今後の対策を立てるつもりなのであろう。

(先代ばかりに苦労をかけさせるわけにはいかぬ。私も、力を振り絞り、準備を進めねばならぬ……!)

 今日や明日、すぐにトゥジの権威が失墜するようなことはないだろうが……病に冒された作物の葉が、端から徐々にしおれ、茶色くしなびていくように、少しずつ、着実に、クニの毒は里人たちを冒していくはずだ。

(あと一年と三月……どうか、その間だけ、毒が回りきらぬとよいのだが……) 

 気がつくと、ニグィはぽつんと一人、広場に取り残され、難しい顔で考えこんでいたのだった。



     9

 川上の里から材木を運び始めて半年ほどが過ぎた頃。ニグィとアタカは、例年通り、川下の里へと交易に出かけた。

 とはいえ、今回の交易は、今までと違う、重要な意味があった。

 いよいよ、アタカがヤズらの住む土地へと旅立つのである。

 前回に引き続き、今回もクシナを一緒に連れてきてはいない。

 長い別れになるのだから、今回ぐらいは連れてきた方がいいのではないかとも思ったのだが、ここのところ、クシナ本人が交易についてきたがらず、当代トゥジ様の元で留守番をしている、と言い張るのである。

 あれやこれやと説得はしたものの、なにしろ彼女も、「トゥジの一族」に連なる女である。いったんこうと決めたらてこでも動かず、それを押して無理に連れて行けば、ぎゃんぎゃんと騒ぎ立て、悪目立ちするのは目に見えている。なんとしてでも「クニ」派の人間の疑念を招帰宅はない今、それだけは、なんとしても避けたい。

(交易についてきたい、というのであれば、事情も話し、本人によく言い含めた上、納得できるまで名残を惜しむ時間を取ってやろうと思っていたのだが……ま、致し方ないであろうな)

 実の母娘の長き別れを嘘で固めるか、真を通すかという重要な決断のはずなのだが……ニグィは、いとも軽く、真をすて、虚を貫くことを選び取った。というのも、ニグィ自身も、できれば、クシナにはアタカが里を去る真の理由を教えたくないと思っていたのである。

 大人びているとはいえ、クシナもまだまだ子供である。いくら固く口止めするとはいえ、なにかの拍子にぽろりと真相を口にしてしまわないとも限らない。それを「クニ」派の誰かに聞かれてしまえば、それだけで計画は水の泡だ。

 それでなくても「クニ」派の勢力が強まり、なにかにつけて疑念に満ちた視線を感じることが多くなってきているのである。わざわざ疑いを招き寄せるような真似は、できうる限りしたくない。それが、ニグィの偽らぬ本心であった。

 だが……滅多に本当の父親と会えず、寂しい思いをしてきたであろうクシナから、強制的に母親まで奪う、そのことについて、詳しい事情を教え、きちんと別れを告げさせてやるべきなのではないか、そうした方がよいのではないかという迷いをずっと抱え、悩み続けていたのも、また真実である。

 家族の絆を取るか、計画の実現可能性を取るか……その狭間で、ニグィはずっと悩み、苦し見続けてきたのだ。

(だが、もう悩むまい。クシナ本人が、交易についてくることを選ばなかったのも、私がヤズと出会ったのと同じく、一つの定めなのであろう。ならば、その定めに粛々と従うのみ。後々、クシナからは親娘の情を理解せぬ薄情者と、恨まれるかもしれぬ。いや、きっと恨まれるであろうが……甘んじてその恨みの矢面に立とうではないか)

 そのように心を決め……、ニグィは、クシナになにも告げぬまま、川下の里へと旅立ったのである。


 「それでは、よろしくお願い申す」

 数多くの贈り物とともに、アタカをヤズ、マダカ親子に預け、ニグィは、深々と頭を下げた。

「うむ。確かに引き受けた。万事任せてくれ」

 ヤズが深々とうなずき、顔をくしゃくしゃにして、笑みを返してくる。

 ニグィも笑顔を浮かべ、何度も何度もうなずいたのだが……その笑みは、こわばったものにしかならなかった。

 ヤズが、見た目にもはっきりと衰えていたのである。

 去年この地であった時には、しゃっきりと腰も伸び、腕にも脚にも力がみなぎり、肌つやも申し分なかった。それが、この一年で、すっかり腰が曲がり、肌はしなびてしわが寄り、腕も脚も、棒きれのように細くなってしまっている。

 なによりもニグィを愕然(がくぜん)とさせたのは、彼の笑顔だった。

 お互い数十年もの年を重ねてきたにもかかわらず、ヤズのにっかりと笑った笑顔は、少年時代、初めて会った時の笑顔とかわらぬ無邪気さと人なつこさをたたえた、見るだけでこちらの心を和ませるようなものだった。それが……今年の笑顔は、老人が無理をして笑顔の形を作ったかのような、弱々しく、心のこもらないものに成り果ててしまっていたのである。

(ヤズは、私よりもいくつか年下のはずだ!なのに……これは一体、どうしたというのだ……)

 友の変わり果てた姿がやるせなくて、じっとヤズを見つめていると、いつの間にか、マダカが背後にすり寄っていた。

「昨年、ここでニグィ殿とあった後で、悪い病を得たらしい。春から徐々に衰え、この有様だ」

「なんと……手は尽くしたのか?」

「祈祷もしたし、薬も飲ませたが、だめだ。衰えていくばかりだ」

 ヤズは、精根尽き果てたかのように、火の前に座り込んで――しゃがむ姿勢に体が耐えられなくなったのだろう――揺れる炎をぼんやり眺めている。目も前で息子と親友が小声で何事かささやき交わしているのも、もはや耳に入らない様子だ。

「知っているのか?ヤズは、自らの体のことを……?」

「もちろんだ。自分のことだ、分からぬはずがない」

「ならば、わざわざ遠くこの地にまで旅をし、命を縮めるようなことをせずとも……」

「俺も、そう言って止めたのだ。だが、なにがなんでもここまでやってくる、と言ってきかぬのだ。翌年は、もうそなたとまみえることはないやもしれぬ、と言ってな……」

「……そうか……」

 じっと考えこんだニグィの様子が不安げに見えたのだろうか、マダカが、気遣わしげな顔になった。

「心配せずともいい。たとえ父がみまかったとしても、この俺が責任を持って……」

「いや、そうではない。そういった心配をしているのではないのだ……」

 ニグィはただ、子供の頃より、唯一心を許すことができる相手であった男が、早々にこの世から立ち去ろうとしていることに衝撃を受け、これから先、ただ一人取り残されること――ここへ来れば、あの懐かしい顔に出会えるという思いを心の支えにし、一年をやり過ごすことができなくなることに、無類の寂しさを感じていたのである。

(本来ならば、里の命運をかけた計画の行く末を案じなければならぬところであろうが、今だけは、全てを忘れ、ただただ友の体を気遣い、その運命をはかなんでいたい……)

 もの問いたげな視線を投げかけてくるアタカを心の隅で意識しながらも、ニグィは、なにも言わず、ただただ沈鬱な目でヤズを見つめ続けたのだった。


 マダカにぴったりと寄り添うアタカを残し、ヤズに別れを告げ――おそらくこれが今生の別れになると分かっていたが、あえていつも通り、明るい口調で来年の再会を約して――ニグィは、一人故郷の里へと舟を向けた。

 舟には、交易で得た荷が山ほど積んである。いつもならば、そのまま里の船着き場へと向かうところだが、今回ばかりはそういうわけにもいかない。

 故郷の里にほど近い――しかし、里人たちに見とがめられるほどそばではないところまでやってきたところで、ニグィは、舟をそっと岸へ寄せ、目印となる大岩の陰に深い穴を掘ると、そこに積み荷の大部分を隠し、再び流れへと戻った。そして再び航路を離れ、江の真ん中あたりににょっきりと突き出している岩めがけて、全速力で突っ込んだのである。

 身構えていたとはいえ、岩にぶつかった衝撃は相当のもので、舟はまるで卵の殻のようにぐしゃりとつぶれ、ニグィは、荷物もろともに深い水の中へと投げ出された。

 濁った水の中で体がぐるぐると回転し、どちらが上か下か、全く分からなくなる。

 こういうとき、慌てて闇雲に水をかいては危険だ。

 ニグィは、ともすればもがこうとする体を無理矢理鎮め、全身の力をふっと抜いた。

 しばらくそのままでいると、ある方向に、ふうっと体が動いていく。

(こちらが……上だ!)

 身体が浮き上がるのに合わせて水を蹴り、上昇速度を早める。と、間もなく「ざばあ」と周りの水が前後左右に分かれ、ニグィは、水面へと浮かび上がっていた。

 大きく息をついて、体内の濁った空気を新鮮なものととりかえ、少々元気が出たところで、岸に向かってゆっくりと泳ぎ出す。

 川底に足がついたところで、重たい体を無理矢理引き上げるようにして岸へと這い上がった。

 晩秋とはいえ、(うみ)の水はまだまだ温かく、泳いでいる間は額に汗をかくほどであったのだが、陸へ上がった途端、冷たい風がたちまち体を氷のように冷やし、ニグィは、体が自ずからぶるぶる震え出すのを意識した。

(いかんな、このまま立ち止まっていては、凍えてしまう)

ずぶ濡れで、あちこち泥にまみれ、血をにじませた格好で、ニグィは、よろよろと里へと向かい歩き出めた。

 それから、小一時間も歩いただろうか。

 体が冷え切り、疲れ切ってろくに上がらない足を、無理に前へと押し出さないと進めなくなった頃、

「ニグィ殿!ニグィ殿ではございませんか?どうなさったのです!?」

 聞き慣れた里人の声が聞こえた。

「お、おお……そなたか。すまぬが、手を、手を貸してくれぬか……」

 哀れっぽい、か細い声で呼びかけると、ニグィは、へなへなとその場にくずおれ、

(やれやれ、これでようやく、ずぶ濡れの重たい体を引きずって歩かずにすむわい)

と、ついほくそ笑みそうになる頬を慌てて引き締めつつ、ぐったりと目をつぶったのだった。


 「……あまりによい取引ができたため、浮かれてしもうてな。帰途につく前日だというのに、ついつい、いつもより遅くまで、多く飲んでしまったのだ。なに、通い慣れた船路だし、大過あるまいと高をくくったのだが、それが間違いだった。船足の順調さに、ついついうとうととしてしまい……気がつけば、避けられぬところに大岩がそびえ立っておってな。なすすべもなく、舟を運ばれて……そうじゃ、アタカは?アタカは見つかったのか?」

 精一杯不安げな声を出し、辺りをきょろきょろ見回すと、周囲の里人たちは、ひとしなみに気まずそうな顔となり、互いに目配せを交わし合う。

「それが……ニグィ殿。(うみ)の底まで網でさらってみたのだが、引っかかるのは、積み荷ばかりでな……」

「ばかな!アタカは水練の技も身につけておる!私は信じぬぞ、アタカが溺れたなぞ、私は信じぬ!」

 そう言いながら、ニグィは、涙を流し始める(ワナがなくなった時のことを脳裏に思い浮かべれば、今でも自然と泣けてくるのである)。

 里人たちがうつむいて、しんと黙りこくっている中、ニグィの嗚咽する声だけが、いつまでもムラの中にか細く聞こえ続けたのだった。


 かくして、舟を一艘犠牲にし、体をぼりぼろにしてまで行った決死の偽装工作により、アタカの「失踪」は、大きな疑念を抱かれることなく、里人たちに受け入れられた。「アタカは死んでおらぬ。きっと生きておる」とニグィは言い張り続けたのだが、里人たちは、アタカは、もう二度と戻らぬところへ行ってしまったのだと考えるようになったのである。

 意外だったのは、クシナの反応であった。

 ニグィのつまらぬ失敗で、最愛の母を奪われたのだ。てっきり、ニグィの失態をなじり、母を帰せと泣き叫び、以後、決して彼を許さず、恨みと反感のこもった目を向け続けるようになる、と思っていたのだが、

「残念でございます。ですが、母様は、運に恵まれなかっただけのこと。決して、父様のせいでなくなったのではございませぬ」

と、あくまで冷静にその「死」を受け止め、むしろ、その当事者であるニグィを気遣い、支えようとする素振りさえ見せたのである。

(つらい時にこそ、その者の本心が見えるというが……クシナは、なんとけなげで、心優しい娘であることか。このようなよい娘をたばかり続けねばならぬのは、なんとも心苦しいことだ。これも、私の業というやつであろうか……) 

 母を亡くした悲しみに必死に耐え、言いたいこともいわず、父親を支えようとするけなげな娘――ニグィの目には、クシナはそう映った。そして、彼女が自分を案じ、つたないながらも妻の代役を果たそうと努める姿を見るにつけ、その気丈さと献身的な態度に心打たれ、ますますクシナを愛おしむようになっていったのである。

 だが、実のところ、クシナは「けなげに」母親の死にの衝撃をこらえていたわけではなかった。ニグィがそのことを悟るのは、もう少し時が過ぎてからになるのだが……彼女はむしろ、心のどこかでひそかに、これで平穏な生活が訪れると、母の不在を喜んでいたのである。


 アタカの仮葬儀も終わり――里人たちは、本格的な葬儀を行うようにと勧めたのだが、ニグィが「アタカは死んでない」とかたくなに言い張ったため、やむを得ず「一時的な措置として」仮葬儀を行うよりほかなかったのだ――日々の暮らしが戻ってきた。

 これも意外なことだったが、彼女が不在であっても、毎日の暮らしにおいては、困るようなことは、なにもなかった。

 菜の支度や家の片付け、身の回りの世話といった細々したことは、クシナが立派にその役割を果たしてくれたし、里の大人(おびと)として、日々里人たちの諍いの仲裁や悩み事の相談に乗ったりする仕事は、もともと一人でこなしていたのだから、不都合の起こりようがない。野良に出れば、力仕事も多いことだし、彼女の不在を嘆くこともあるのかもしれないが、それとて――今はまだ農閑期だから、なんともいえないが――二度も連れ合いをなくした彼を哀れみ、里人たちがあれこれ便宜を図ってくれるであろうことを思えば、それほどの痛手になるとは思えない。

(働き者で、素直な気立てのよい娘ではあるが、アタカは、私以上に里から浮き上がった存在であったのだな……)

 逆に、彼女の不在がひしひしと堪えたのは、里の交易係として、新たに建造した舟で他の里に出かけた――もちろん真の目的は、この地を捨てて逃げ出す計画の実現に向けて、新たな手を打つことだったが――時であった。

 帆の向きを変えて風をとらえ、同時に舵を操って舟を思う方向に進めるのは、交易係が始めに思えなければならぬことの一つである。ニグィは、幼い頃からこれが得意で、まだ背丈が今の半分ぐらいの頃より、(うみ)の上を滑るように舟を走らせ、里の船着き場にぴったりと舟をつけたものであったが……それが、なんともおぼつかなくなってきているのだ。

 長年、アタカに舟の操縦を任せてきたために、微妙な綱のゆるめ方や、舵を切る時の手の感覚を忘れてしまったのである。乗り慣れた舟ではなく、新たに建造された、まだ癖の飲み込めていない舟だということもあるが、なに、昔はあれほど得意だったものが、そうそう体から抜けてしまうはずもない、と高をくくっていたものが、ものの見事に腕が縮こまり、思うように舟を操れない。あっちへふらふら、こっちへふらふらと迷走し、普段の時の倍ほども時間をかけて、ようやく目的の里の船着き場に舟を着け、ニグィは、大きな安堵のため息をついたのであった。

 それだけではない。

 目的のものを手に入れるために、里人たちと交渉する時も、なぜかいつものようにしっくりと話が進まない。このくらいの相場で手に入るはず、と思って話を進めるのに、相手がかたくなであったり、あるいはこちらの足下を見たりで、なかなか思い通りの(あたい)にならないのである。 

(今までは、条件が折り合わず、話が煮詰まりそうになる前に、アタカが絶妙のところで相手に笑いかけたり、作物の出来やら子供の成長について尋ねたりして、笑わせ、気持ちを和やかにしてくれていた。それがあるとなしとで、これほども相手の出方が違ってくるものか……)

 とはいえ、いつまでもアタカの不在を嘆いたところで仕方がない。

 昔は全て独りで交易の仕事を十全にこなしていたはず、その頃を思い出せ、と自分に活を入れ、ニグィは、再び交渉に臨んだのである。

 今回の交易の目的は、布であった。

 といっても、ニグィの里で作られているような、軽く、温かく、様々に染色できて、見栄えのする――晴れの日の衣装として欠かせない類いの布、ではない。むしろ、その対極にあるような、素っ気なくて見栄えも悪いが、その分丈夫でそうそうのことでは破れない、質実剛健を絵に描いたような布を手に入れるつもりなのである。

 この、南から(うみ)に注ぐ支流を遡ったところにある里では、広々とした岸辺にいくらでも生えるつる草と、大きな木の葉を利用して、丈夫で強い布を作っている、と聞きつけ、はるばるこの地までやってきたのだが……前述の通り、ニグィは、交渉に少々苦戦していた。

「……この上なくよい条件であろうと思うのだが、どうであろうか?」

「ふむ。確かに、そなたの持ってきた布は、これまで見たこともないほど鮮やかで、薄く、ふわふわとあたたかい布だ。それは認める。だが……」

 たっぷりと間を取ったところで、

「……この地は、年中温かい。それなのに、なぜそなたの布をそれほど大量に手に入れねばならぬのだ?」

 相手は、意味ありげににったりと笑ったのだった。

 鳥の羽を頭に飾り、半裸の体に腰蓑を着け、顔に白や紅の塗料を塗りたくった、いわゆる「蛮族の族長」が、今回の取引相手である。

 北の民や、江沿いの里に住む者たちは、このような出で立ちを目にするなり、ああ、これは無知蒙昧で(くみ)しやすい相手だ、歯の浮くようなお世辞を並べてやれば、いい気になって、どれほどそんな取引であってもホイホイ応じるに違いない、などと考えがちだ。

 が……これまで様々な相手と交易を行ってきた経験上、この種の人間は、結構な難敵であると、ニグィは知っていた。

 確かに見慣れない装束を身につけてはいるものの、それは土地の習俗がそうさせているだけであって、いやしくも一族を束ねる身である以上、かなり頭が切れ、それなりの知識も身につけている。とてもとても、(てい)よく丸め込めるような相手ではない。

 その上、尊大で誇り高く、いい加減なごまかしを働いたことがばれようものなら、烈火のごとく怒り狂い、言い訳する機会すら与えられずになで切りにされる危険すらある。そうかといって、終始びくびくした態度で接すれば、途端に足下を見られ、損な取引を強いられる。煮ても焼いても食えない相手なのである。

(皆の託してくれた布をかき集めて持ってきたのだ。なんとしても、必要なだけの布は持って帰らないと)

 くれぐれも相手の機嫌を損ねないよう、慎重に言葉を選びつつ、しかしながら、頬には微笑をたたえ、完全にくつろいでいるかのようにみせかけて、ニグィは、ゆっくりと話を進めていったのだった。


 同じ長さでの交換はおかしい、我らが差し出す布は幅がずっと大きいのだから、そなたの布は倍の長さでなければおかしいだの、厚みも丈夫さもこれほど違うのだから、そなたの布は4倍の長さにすべきだだのといった主張を一つ一つ丁寧に論破し、「価値」としては、彼我の布の一巻きずつがほぼ同等である、ということをようやく納得させ、ニグィは、難敵との取引を、ようやく成立にこぎ着けた。

(やれやれ。どうにか予定していた通りの相場で、取引ができたか)

 里人全て――少なくとも、その半数――が移住するとなると、舟や食料、農具といったものを、相当数、周到に用意しなければらならない。比較的裕福な里であるとはいえ、所持する財物に限界がある以上、なるべくその消費を抑えるようにしないと、移住そのものが難しくなってしまう。

(材木と布。もっとも準備の難しい二つは、なんとか揃えられるめどが立った。後は、できあがった頃を見計らい、引き取りにいかねばな。また、誰ぞトゥジ様のところの娘に手伝ってもらうとするか……)

 春先は、江の水が増水し、舟を出すのは難しくなる。昨年は、アタカがいたから、それでもまだ、荒れる川の流れを乗り切ることもできたが、彼女が不在の今年は、それも難しい。

(流れが落ち着く初夏の頃を待って出かけるより他、ないであろうな……後は、詮索の目をどのようにくらますか、だ……)

 今年に入って、ますます多くの者が、ホヒら「王都派」に心を寄せているように感じる。

自然、彼らとは対極の立場にある旧支配層――トゥジ及び、ニグィをはじめとした大人達は、多くの者から冷たく、厳しい目を向けられることが多くなってきつつある。

(今はまだ、かろうじて里人の半数近くが我らと志を同じくしてくれているが……それもいつまで続くか。昨今では、道で出会っても以前のように腰をかがめず、軽く頭のみ下げて行き過ぎる者も増えてきた。まさに逆風よな……)

 材木に比べ、布はかさばらぬとはいえ、「監視の目」が増えつつある中、一度に大量に持ち込めば、間違いなく「王都派」に疑念を抱かせてしまう。その危険を最小限に抑えるためにも、またなにか、偽装を考えなくてはならない。

(まあ……布ができあがり、持ち帰るまでには、まだ時間がある。それまでになんとか考えればよい……)

 船尾に腰かけ、独りうなずいた拍子に、口から思わず深々としたため息が漏れ……ニグィは、「ああ、どうやら私は疲れているようだ」と、改めてはっきり自覚した。

 無理もない。

 ニグィも、気がつけば四十をとうに超えているのである。里が平穏でありさえすれば、そろそろ一線から退き、野良で軽い作業など行いつつ、大人として、里人たちの相談に乗り、孫の相手などしつつ、ゆるゆると過ごすべき年齢なのだ。にもかかわらず、計画の実現のため、体に鞭を入れ、頭をきりきりと引き絞って、あくせくと動き続けている。盟友ヤズのように、死病に冒される不運こそ免れているものの、疲れぬ方がおかしい生活を、ずっと続けているのである。

(なに、それも、秋の終わりまでのことだ。移住が成就するにしろせぬにしろ、そこまで走り続ければ、もうやることもない。ゆっくり休ませてもらうとしよう。それまでの辛抱だ……)

 自分に言い聞かせるように独りうなずき、ニグィは、葉を落とした木々や枯れて黄色く変色した草むらの中、どこまでも続く流れに身を任せ、ゆっくりと舟を走らせるのだった。




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