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弥生の空に1 出航編  作者: 柴野 独楽
2/10

第2章 現実 1-5

     1

 「うみ」を見る夢を諦めてからも、ニグィとヤズの交流は続いた。

 毎年同時期に――イネの刈り入れが終わり、一段落ついた頃、ニグィは、ウォシムに連れられて、はるか(うみ)を下った里へと交易に出かけるのだが、ほぼ同じ時期に、ヤズたちもその里へとやってくるのである。

 もちろん、日取りを約して落ち合っているのではないから、年によっては、滞在の時期がずれ、互いの顔を見ることがないまま、里を去らなければならぬ時もある。が、大抵は、ニグィたちが下流の里にたどり着くと、すでにヤズらがいて出迎えてくれたり、あるいは、ニグィたちが到着してから一両日も立たぬうちに、ヤズらが姿を現したりする。

 そして二人は、下流の里で、交易の手伝いもそこそこに、数日間、ともに過ごすのである。

「毎年僕らがこの里に来るのと同じ頃に、君らも来る。これは、偶然なのかい?」

 ある時、残照の中、江でとらえた魚をたき火であぶりながら、ニグィは、ヤズに尋ねたことがあった。

「うみを渡るのによい風が、この時期に吹く。だから、おれたちはこの時期、この地にやってくるんだ」

 出会ったばかりの頃のおぼつかない言葉遣いが信じられぬほどの流ちょうさで、ヤズが――串に刺した魚の肉を頬張りながら――答える。

「そうなのか」

 では、やはりこの里でこうして互いに出会うのは、ただの偶然だったのだと、少し寂しいような思いをニグィは抱いた。

 が、そこへ。

「……ただな」

 ふと、魚にむしゃぶりつくのやめ、ヤズが微笑む(昔通りの、どこかはにかんだような笑顔だ)。

「秋の、三つ星が真夜中に地平線から姿を現す頃の満月を狙って、この地を訪れているのは、俺が父上にそう頼んでいるからだ。その頃ここへ来れば、きっとお前と会えるからな」

「……そうか」

 わざわざ日取りを考えてきてくれていたんだ……僕に会うために。

 そう思うと、なんだか体の奥がほこほこするような感じがして、ニグィは、ヤズと全く同じ、はにかんだ笑顔を、その頬に浮かべていた。

 そんなニグィの様子を、見ているのかいないのか……ヤズは、微笑をたたえたまま、黙って、再び魚にかぶりつく。

 ニグィも、目の前にある串を手に取って、がぶりと歯を立ててみた。

 ほどよく焼けた魚肉の甘さが口に広がり、かぐわしい香りが鼻腔を満たして、ニグィは、我知らず、にっかりと笑っていたのだった。


 ある程度成長し、少年から青年へと変貌しつつある頃、二人は、大体こんな感じで――交易を行い、たき火を囲み、メシを食い、その合間にぽつぽつと言葉を交わす――年に一度の再会の日々を過ごしていた。

 ヤズはともかく、ニグィはそれほど無口な性質(たち)ではないのだが、こと二人でいる限り、余計なことを言う必要などない気がして、あえて話そうという気にならないのである。

 もちろん、互いの故郷の土地や生活、仕草や持ち物などについて、ふと疑問が思い浮かべば、それを口にすることもある。が、相手からの説明を聞き、納得がいけば、それでもう、あえて口をきこうという気にはならない。あえて口を開かなくとも、心地よい時間がはそこにあるのだから、それでよいではないか――互いがそのように思っているから、ますます気が休まり、くつろげるのだ。

 思えば、自らの里にいる時、ニグィは、心底からくつろいだ時間を持つことがなかった。流れ者の息子として、里に溶け込むことを考え、常に気を張って、里人の目を意識し、機嫌を損ねないよう、気に入られるように振る舞い続けていた。

 その振る舞いが、かえって里人との距離を生じさせている一面も、なきにしもあらずではあったが……不用意に距離を詰めて疎んじられるよりは、礼儀にかなった冷たい関係を常に続けていた方がよい、というのがウォシムの考えであり、息子のニグィも、その意向に従って行動するよう、心がけていたのである。

 ここ、下流の里には、気にするべき里人の目はない。そして、自分たちとは何もかも違っているからこそ、安心してその違いを認め合い、理解し合える友人がいる。

 ほんのわずかな時間をともに過ごしているだけにもかかわらず、ニグィにとって、ヤズはいつしかかけがえのない、誰よりも大切な友人となっていたのである。



     2

 ウォシムが病に倒れたのは、ニグィがもうすぐ二十歳を迎えようとしている頃であった。

 里の誰よりも身を入れて農作業に精を出し、冬は冬で、重い荷物を舟に積み込み、慣れない土地へはるばる出かけて行く、という生活は、思いのほか父の体をむしばんでいたのか、それまで病気一つしたことがなかったというのに、一度床へ伏せたかと思うと、みるみる痩せ細り、あっという間に上体すら起こせないようになってしまったのだ。

 ニグィも野良仕事を休み、枕元でつきっきりの看病を行っていたのだが、ウォシムは、そんな息子の献身に感謝するどころか、毎日のように里の様子を尋ねては、こんなところで油を売る暇があれば、野良に出て、田の草取りや畑の虫取りに精を出せと、口が酸っぱくなるまで繰り返すばかり。

 数十日で、骨と皮ばかりにまで痩せ細っても、ウォシムは、ごつごつした関節ばかりが目立つ手で、震えながら、弱々しくニグィの手を握っては、か細い声で「よいか、里に尽くせ、里のために生きよ。よいか、それがお前の定めじゃ。よいか……」と、繰り返し繰り返し、絶え間なくつぶやき続け……とうとう、そのままこときれてしまったのである。

 里に拾われ、里人に救ってもらった恩を最後の最後まで忘れず、一生を里のために捧げ尽くした男は、体の全てを里のためにすり減らし、消えるようにこの世を去ったのだった。

 ニグィは、誰よりも里人であった父を誇りに思い、自分もまた、父の言葉通り、何よりも里のことを考え、里のために動こうとする青年に成長していた。

 「うみ」と夢見た冒険心あふれる幼い少年は、もういない。その代わり、とっくの昔に成人の儀を終え、顔に青々と入れ墨を刺した「男」が――父親から徹底的に野良仕事と交易のやり方とをたたき込まれ、優秀な農夫にして有能な交易係となった青年が――独り立ちの時を迎えたのである。


 ウォシムがなくなってからも――いや、ウォシムがなくなった以後の方が、より親密なほどに――ヤズとの交流は続いていた。

 父親の死後、交易に赴く日取りを自由に決められるようになったのをいいことに、ニグィは、日程をきちんと合わせて――秋の、三つ星が真夜中に地平線から姿を現す頃の満月の日が目安だ――下流の村へと赴くようになった。

 ヤズももう、立派な青年へと成長している。ニグィがかんばせに彫ったのとは違う、赤を基調にした燃えるような、踊るような入れ墨を刺し、細身ながら筋肉が盛り上がった腕と脚とで、舟を見事に操る。

 ヤズの父親であるモノヒクも、年齢のせいか、近場での漁に出かけるばかりで、うみを超える旅をしたがらなくなった、という。それをいいことに、ヤズも、毎年毎年、ニグィと約束したその日に、律儀に姿を見せる。

 ニグィもヤズも、父親という(かせ)から解放されたことによって、より長い時間(といってもせいぜい六日か、七日程度だが)、心地よい刻を過ごせるようになったわけだ――家族を亡くしたり、家族が弱ったりという経験自体は、とてもつらいことではあったが。

 すっかり一人前の男同士になったのだから、夕餉の席で口に上る話題も、自然、好きな食べ物や暮らしぶりの違いといったたわいないものから、土地の情勢がどうの、作物の出来高がどうのといった、大人びた――生活に密着した、生臭いものになる。

 ある年の夕暮れ時、もはやすっかり日が沈んでわずかな残照ばかりが残る頃、ふとニグィが「くに」というものを話題に出したのも、きな臭い状況がすぐそこにまで迫ってきているという、腹の底がひやりと冷たくなるような予感を感じていたからかもしれない。

「なあ、ヤズ。君は、『クニ』というものを知っているか」

「クニ?さて、聞いたことがないな」

 ヤズは相変わらず腰を下ろそうとせず、しゃがんだまま、じっと炎を眺めている。眺めながら、ぼそり、と言葉を吐くのである。

「クニとは、一体どういうものだ?」

「なんといえばいいのか……里の、ずっと、ずっと大きいものを、クニというんだそうだ」

「……この里もかなり大きいと思うが、もっともっと大きいのか?」

「いや、そういうことではないらしい」

「大きいのに大きくない里?どういうことなんだ?」

 自分で「クニ」というものの話を始めたというのに、ニグィも、少々困惑顔で、頭をひねっている。それまでの経験にない概念なので、どうにも実態がつかみ切れていないのである。、

「私も、上流の村で聞いてきただけだから、はっきりとは分からないが……里が、いくつか寄り集まって、一つの大きな村のようになったものを、クニというんだそうだ」

「里が……寄り集まる?」

「うむ。寄り集まって、力を合わせることで、一つの里ではできぬことが、できるようになるらしい」

「俺の土地では、村を越えて多くのものが寄り集まり、マツリを行う。そのようなものか?」

「おそらくな。ただ、クニというのは、一時期集まるだけではなくてな。「おう」と呼ばれる(おさ)を中心に大勢が集まり、「おう」の命令によって、皆が一斉に同じことをするらしいのだ」

「ほう……そんなに大勢で、年中マツリを行うのか?」

「いや、違う。行うのはマツリではなく、いくさだ。他の里に攻め入り、奪ってしまうのだよ」

「ふむ……いくさか」

 ヤズは、少々驚いたようだった。

 それもそのはず、ヤズの知る「いくさ」とは、自らの一族の名誉が他の一族に汚されたりした場合などに起きる「こぜりあい」程度のもので、もっとも大規模なものであっても、せいぜい十数人で集落を襲い、収穫物を奪う、というものであったからだ。

「そのように大勢で里を奪い取り、それからどうするのだ?里人を皆殺してしまえば、里そのものも死んでしまうのではないか?」

「奪った後は、いろいろらしい。里人をそのまま里に住まわせる代わり、里の収穫の半分ほどを毎年徴収するとか、里人を皆殺しにして、クニから連れてきた者たちを、新たに住まわせるとかな」

「ふむ……なるほどな。里を一度奪って、それをもう一度与えることで、恩に着せるのか……そういう手立てがあるのだな……」

 しきりに感心するヤズに向かって、ニグィは、苦い笑顔を向けた。

「いやいや、そう感心されても困る。いきなり村を襲われ、里を奪われる里人たちにしてみれば、たまったものではない」

「ふむ。それはそうだろうな」

「いや、こんな話をしたのもな。上流の里で、嫌な話を聞いたからなのだよ。その里より遙か北に「ソ」という大きなクニがあるのだがな。その「ソ」が、近くにある里を全て襲い尽くし、徐々に南へ……(うみ)の近くへ攻め込んできつつある、というのだ」

「なんと」

「里人たちは大慌てで、人々の住む村の周囲を堀で囲い、土壁を作り、丸太を削って鋭くとがらせ、地面に植えた「逆茂木」を作っている。しかし、いくら備えを厚くしたところで、里人とか比べものにならぬ人数で攻め込まれでもすれば、ひとたまりもないのではないかと、そこの里人たちが浮かぬ顔で話していてな」

「なるほど」

「「ソ」は昔、私の父の育った里を攻めている。そこから、西へ西へと攻め進み、今度は南。そして、南へ進めるところまで進んだら、次は、江を下ってくるやもしれぬ。そうなれば、私の里も、危ういことになる。今のうちから備えを固めるべきなのだろうが、果たして里人たちが納得してくれるかどうか……なにしろ、里から出たことのない者たちばかりだからな」

「その……「ソ」のクニは、そんなに強いのか?」

「強いそうだ。なにしろ大勢が攻め込んでくるし、それに」

「それに?」

「強い「おう」がいるのだ」

「ほう」

「見上げるように大きく、冷酷で、いくさとなると、自ら先頭を切って暴れ回る、恐ろしい男だそうだ。熊の生まれ変わり、とも言われている」

「熊?」

「森に住む恐ろしいものだ。暗がりに潜み、人を襲う。虎と同じくらい恐ろしいらしい。「ソ」の「おう」の一族は、自分たちを、その恐ろしい熊の血族だと称しているそうだ」

 実のところ、ニグィは、いまだに熊も虎も見たことがない。うわさで聞いて知っているだけである。だが、故郷では山深き森をも歩くこともあると言っていたヤズは、その「熊」なるものの怖ろしさを、肌で理解しているのか、いやに深々と――ニグィからすると、少々大げさに感じられるぐらいに――何度も何度もうなずいている。

「熊か……それは、さぞ恐ろしい「おう」なのだろうな……」

 ニグィには、ヤズの反応が少々期待外れに思えた。

 なにやら気づかぬうち、自分の周囲にひたひたと水が満ち、どんどん水位を増し、いつの間にか、首元すれすれにまで水が迫ってきているような、不気味な不安――自分のそういう気持ちを、ヤズに分かってもらいたかったのだが……相手は、いくさのやり方や「ソ」の「おう」についてしきりに感心するばかりなのである。

(どうやら、この話は、互いの興味の方向が食い違ってしまうようだ)

 暮らしている土地や暮らしぶりが違うと、同じ話をしていても、食いつくところがまるで違うことを、これまでのヤズとの付き合いで、ニグィは重々悟っていた。だから、ニグィはこの話はここで打ち切り、「そういえば、私の里では今年はアズキの出来がよくて……」と話題を切り替えたのだが……ヤズは、普段なら食いついてくる作物の話もどこか上の空。ずっと、先ほどの話――「ソ」や「熊」の「おう」やいくさについて――考えこんでいる様子である。

 とうとうこの日、ニグィは、ヤズと談笑することをあきらめ、目の前の酒と、ほどよく焼けている魚とに専念することにしたのだった。


 ヤズも、ニグィ本人も、全く気づいていないが、実のところ、数十年後、この話が意外な形で、ニグィらの運命を大きく左右していくことになるのである。



     3

 「ソ」とは「楚」である。

 紀元前十一世紀頃建国された――と「北方のクニ」=華北の黄河文明に属する国々の記録には記されている――春秋戦国時代の古代国家で、後に戦国七雄の一つとなり、やがて始皇帝の手により滅ぼされる国だ。

 最初に国が成立したのは、黄河と長江のちょうど中間あたりを流域とする、淮河の河口近くらしい。その位置からして、華北平原――いわゆる中原を根拠地とする春秋時代諸国家からみると、かなり遠方、辺境地域の国家であり、中原諸国とは異質の文化を持つ国として知られていた。簡単に言えば、「文明の及ばぬ蛮地のクニ」と見なされていたわけだ。

 建国当初は、中原諸国家とは比べものにならぬほどの弱小国だったのだが、国力増強のため、西へ、西へと征服、併呑を繰り返し、さらには南方、長江流域までもその版図に加えることによって、ついには春秋時代きっての大国となっていく。

 ちなみに、物語の中でニグィが言及していたとおり、この楚を建国し、率いたとされる初代の王の名が「鬻熊」。氏名制度が確立されていない時代のことだから、これはおそらく、あだ名というか、「熊のように強く恐ろしい指導者」といった意味を持たせた「称号」のようなものだったのではないかと思われる。それが、時代が下ると、熊繹、熊渠、熊徹など、代々王は「熊」を氏として――つまりは、一族の名字として――名乗るようになっていく(熊を祖先神としてあがめる一族だったのかもしれない)。

 森の中で最強の猛獣をその名に冠し、いくさに長けた兵士を手足のように動かして、目の前の獲物――里や、弱小の国々を蹂躙し尽くす、暴虐の王。侵略を受ける側にすれば、その名を聞くだけで怖ろしさに震え上がるほど、凶悪な存在であったに違いない。

 筆者は、この「楚の圧迫」こそが、日本に大量の人員流入を促し、紀元前十世紀頃に始まる「弥生時代」を作り上げた――すなわち、それまでの縄文文化とは全く違った、稲作中心の文化を形成した――遠因なのではないか、とにらんでいる。

 楚が国力を増強するために貪欲に飲み込んでいった、淮河流域から長江流域には「百越」と呼ばれる人々が住んでいた、とされる。その呼び名から分かるように、単一の民族ではなく、多くの少数民族――里の民――を総称した呼び名なのだが……古代史では、この地域に住む人々と、古代日本人との間の文化的類似や、遺伝子的な相似が指摘されてきている。

 粗末な衣服を身につけ、体や顔に入れ墨を施し、平たい顔で、稲作を生業とする――それはまさに、弥生人の姿に酷似する。

 北方からやってきた、戦に長けた楚の兵士を前に、それまで里同士の小競り合い程度しか経験したことのない百越の民は、ひとたまりもなかったに違いない。鎧袖一触、手もなく打ち破られ、蹂躙され……かろうじて生き残った民は、重税にあえぎつつ、ひたすらこうべを垂れて土地に生きるか、さもなくば、財産も、土地も家も家族も、何もかも捨てて逃げ出すか、どちらかしか選べる道はなかった。

 現在の弥生時代研究では、この「土地を捨てて逃げ出した民」の一部が、朝鮮半島に住み着き、そこから日本列島へ――北九州や出雲地方へと渡り、弥生人となっていった、というのが定説である。

 もちろん、そのような紆余曲折を経て、日本へとたどり着いた人々がいたのは、間違いのないところであろう。だが……それらの民が弥生文化の本流を形成し、後の時代を切り開いていった張本人だとは、様々な理由から、筆者にはどうにも考えがたい。百越の民の中から、ダイレクトに日本列島へとたどり着き、根づいた人々こそが、後の弥生人の本流となっていったのではないか……そう思われるのである。

 もちろん、それまでずっと稲作のみに生きてきた百越の民が、独力で大海原を渡り、日本へ到達できたはずがない。おそらく、その手助けをした人々がいたはずだ。

 航海術に長け、大海原をものともせずに渡り、魚を捕り、様々な交易品を里の人々と交換することで生活していた、荒ぶる民族。それが、縄文人の末裔――「海の一族」ではなかったか、と思われるのである。



     4

 「これが、俺の息子だ」とヤズがいきなり小さな男の子を連れてやってきたのは、それから数年がたった頃のことだった。

「君の……息子!?」

「そうだ。マダカという。マダカ、あいさつしろ」

 マダカと呼ばれた少年は、ヤズの――父親の太ももにしがみついたまま、それでもおそるおそる、ぺこりと頭を下げた。

「すまない。この子は、人見知りが激しくてな」

「い、いや、それは構わない。このくらいの年頃の子供は、皆見知らぬ大人と話すのを恥ずかしがるものだ」

「こいつには、いずれ、俺の後を継いでもらわねばならぬ。こんなことでは困るのだが……」

「そのうち慣れるさ。それにしても……」

 一体いつの間に夫婦の契りを交わし、子をなしていたのか。そうと知っていたら、祝いの品の一つも贈ったのにと、やっかみ半分にニグィが軽くなじったところ、ヤズは怪訝な顔になった。

「夫婦の契り……とは、なんだ?」

 今度は、ニグィが呆然とする。

 聞けば、ヤズの住む土地では、青年の儀を終えた男は、一族の女と――そして、舟で出かけていった先の、様々な土地の女と――自由に交わることができるそうだ。

 自由に交わることができる、とはいえ、そこにはもちろん、さまざまな制約がある。

 青年~成人の男と女子供は、普段別々の場所で寝起きしているのだが、年に数回、よい獲物が捕れた日などに、男女がともに心ゆくまで飯を食い、一緒に夜を過ごす機会がある。その時に、男が誘い、女が受け入れれば、(しとね)をともにして、一晩を過ごす。そうしてまた、次の朝には何事もなかったかのように、男は男、女子供は女子供と別れて過ごすのである。

「一族の中で、交わる女は大体決まってはいる。が、それも、その時の気分次第で、女の姉妹だとか、あるいは全く違った女が相手になったりすることもある。違う土地の女と交わる時には、毎回相手が違うのが当たり前だしな。それが、俺の土地では当たり前なんだ。ここや、ニグィの里のように、一つの家に、一人の男と一人の女、その子供だけが住む、ということはない。だから、たった一人の女を相手と定め、それ以外の女と交わらぬ、と約したりはしないのだ」

 淡々と語るヤズにむかって、いや、それは違う、夫婦の契りとは、交わりについての約束を交わすというだけではなく、もっと相手との気持ちの通い合いを確かめるというか……などと口にしかけたところで、ニグィは、はたと考えこんだ。

 男女が幼い頃からともに遊び、ともに仕事に精を出し、頻繁に言葉を交わすからこそ、成長した後も、互いの心の交流こそ、欠くことのできぬ癒やしであるかのように思われるのかしれない。ヤズのように、幼い頃から男女が離れて暮らすのが当然で、言葉を交わすことさえそうそうないような状況であれば、心通う仲になることなど、はなから考えぬようになるのではないか……そんなことを思ったのである。

(男女の間柄がそういうものであり、契った後も一所に暮らしたりしないのであれば、確かに仰々しく夫婦の契りなどする必要はないのかもしれぬ。しかし……)

 と、そこでニグィは、あることに気づいた。

「すると……ヤズの一族は、一人の男が何人かの女と交わったり、その逆に、一人の女がたくさんの男と夜を一緒に過ごしたりするのだな?」

「うむ。まあ、そういうことになる」

「では……子供ができたとしても、どの男の種でできた子か、分からなくなるのではないか?そうとは知らぬまま、他人の子を育てていたり、本来は自分の子であるのに、他人の子として育てられていたり、ということも……」

 と、ニグィが最後まで言葉を発し終わらぬうちに、ヤズは大きく体をのけぞらせ、「うわっはっはっはっは……」とすがすがしいほど大きな笑い声を上げた。

「全く、ニグィは面白いことを考えるな。しかし、それはまあ、あり得ぬ。考えてもみよ、ある女と交わり、やがて月満ちてその女が子を産み落としたのならば、それは俺の子ということになるではないか」

「いや、それはそうだが、日を置かずに数人の男と交われば……」

「女であれば、腹の中の子が、誰の種であるかぐらい、分かるものだ」

「いや、しかし」

「それに、だ。たとえ、誰の種でなした子であろうと、女が「俺の子だ」というのであれば、喜んで育てるまで。それだけ俺が、女に――一族に頼られている、ということでもあるからな。それに……」

 ヤズはここで、顔中を口にして、大きな笑顔を浮かべた。

「俺の種でなした子であろうとなかろうと、一族の大切な子であることには変わらぬからな」

 ヤズがこともなげに言い放ったこの一言は、ニグィに大きな衝撃を与えた。

 ニグィは、これまで父親の言いつけ通り、全てにおいて、まず里のことを考え、自分のことなどそっちのけで、里のために尽くしてきた。が、それでも、いずれ誰かと夫婦の契りを結び、子をなして「家族」となったならば、ごく自然に、まずその家族を第一に考え、血を分けた子供を守っていかなければならぬ、と思っていたのである(里に大火が起きたとして、その時家族がいれば、どれほど危険に身をさらしている里人がいたとしても、まずは自分の家族を先に逃がし、その後、里人たちを助けに向かう……というようなことだ)。

 ところが、ヤズは「自分の子ではなくとも、一族の子であるなら、同じように大切だ」

と言う。血のつながりなど関係なく、ただ「一族の子」であるというだけで、ヤズは当たり前のようにその子を慈しみ育てるつもりでいるのである。

(なんということだ。私は、里のためだけを考えて生きてきたつもりだった。が、それでもなお、ヤズの境地には遠く及ばなかった。私は、思い上がっていた。なんと恥ずかしいことだ……)

 自分の未熟さに、苦い思いをすると同時に、ニグィは、改めて友であるヤズへ尊敬の念を抱いた。

 思えば、ニグィは、ヤズを――知識を披瀝(ひれき)すれば喜んで聞き入り、ともに食事をすればガツガツと一心不乱に食べ、天真爛漫な笑顔で自分に接するこの友を、どこか弟のように眺めていたような気がする。年長者である自分が教え導いてやらなければならぬ存在として、彼を見ていたような気がする。

 が……自分が交易と野良仕事にのみ力を入れ、里とは少し距離を置いている間に、いつの間にかヤズは立派に成長し、こともなげに一族を背負い立つ、立派な男になっていた。里のことのみを考えている、と言いながら、どこか、里から逃げていたニグィと違って、ヤズは――ヤズこそは、常に一族のことのみを考え、一族のために行動していたのである。

 聞けば、ヤズは子をなしたことで、顔に「親」としての新たな入れ墨を刻み、もう後数年のうちに引退する父親に変わり、一族の長――「モノヒク」になる予定であるという。今は、子に仕事を教えつつ、モノヒクになる準備として、交流のある一族や里に頻繁に顔を出し、友誼を厚くし、また一族の主だった者たちと頻繁に顔を合わせては、今後のことについて様々意見交換をしたりしている最中であるそうだ。目先の忙しさを理由に、先のことから逃げていたニグィとは違い、ヤズは、地道ながら着々と将来の地歩を固めつつあったのである。

(このような男と友人でいられて、私は本当に幸せだったのだ)

 つくづく自らの「幼さ」を思い知らされ、ぺっしゃんこになりながらも、ニグィは、どこか晴れ晴れとした気分も味わっていた。

 そして、幼い頃からの友が、いつのまにか、自分などは足下にも及ばない男へと成長していたことを素直に喜び、敬うと当時に、負けてばかりではいられない、との思いも胸に抱くようになった。

 手元ばかりを見つめていた目を上げ、ニグィが将来を見据えるようになったのは、この時からなのかもしれない。



     5

 「俺のことばかりではなく、自分はどうなのだ。俺より年上なのだから、それこそ子の一人や二人なしても、おかしくないだろうに」

 一通り話を聞き終えたところで、ヤズから水を向けられ、ニグィは「うーん」と難しい顔で考えこんだ(ヤズの話を聞くまでは、「いやいや、私に子供なんてまだまだ」と笑い飛ばしていただろうから、これでも彼にとっては大きな進歩なのである)。

 腰を据え、将来を見据えて改めて考えてみると……確かにそろそろ、夫婦の契りをしておかしくない年齢である。また、憎からず想っている相手だって、いたのである。

(しかしなあ……)

 が、ニグィの表情は、ますます険しく、情けないものへとなる。

「なかなか……難しいのだよ」

「難しいとは、どういうことだ?」

「いろいろあって、なかなか思うようにはいかぬのだ」

「ふむ……」

 ヤズは納得がいかない顔をしていたが、じっと考えこんでいるニグィの様子に、なにやら察するところがあったのだろうか、そのまま黙り込み……とうとうその年の「再会の日々」は、再びその種の話題が上らぬまま、二人は別れたのだった。


 実際、ニグィは難しい立場にいた。

 里人たちの、明らかにどこかよそよそしい素振り、里に入り込んだ異物を見る目つきはここ数年、徐々にではあるが鳴りをひそめ、代わって、里に彼がいるのが当然、むしろ、里にいないと物足りないという好意的な空気が、肌で感じられるようになっていた。

 ようやくニグィは、「里人」になったのである。

 そして、「よそ者」というくくりで見られることさえなくなってしまえば、里におけるニグィの人気がうなぎ登りに高まるのは、ある意味で必然であった。

 骨惜しみすることなく身を粉にして仕事に打ち込む働き者であり、しかも、手に入れたものは、里人たちに惜しみなく分け与え、決して見返りを要求しない。さらに、交易に出かけた先で様々なうわさを聞き込んでくるために、情報通であり、それらの話を面白おかしく里人たちに話して聞かせる話術も心得ている。青年ニグィは、いつの間にか――古くからの伝統にこだわる一部の里人たちからは、まだ多少の距離を置かれていたものの――一目置かれる人物になっていたのだ。

 ことに、成人の儀は迎えたものの、まだ夫婦の契りを迎えていない若い女からの人気は絶大で、中には、一人暮らしのニグィの元へ、なにかにつけて煮炊きした菜を持ってきてくれる者や、たき火を囲んで宴を開く時には、必ず彼の隣に座るものの、なにか話しかけようとすれば、耳まで真っ赤に染め、ただうつむいて黙り込んでしまう者もいたのである。

 その中の一人に、ワナという少女がいた。

 ワナは、言葉数こそ少ないが、いつも笑顔を絶やさず、まだ年若いのに、慣れた者でも嫌がる泥田の草取りや石運びにも進んで精を出す、気立てのよい娘だった。

 いつもいつもニグィの元へ菜を運んできてくれるのも、彼にのぼせ、恋い慕っていたから、というより――いやもちろん彼女、ニグィを憎からず思ってはいたのだが――仕事に夢中になって、どうかするとメシも食わずに働き続ける彼を案じてのことだったし、手ずから布を織って縫い上げた服や、毛皮で作った上着を持ってくるのも、薄い肌着を引っかけただけで年中過ごしていることに心を痛めたからだった。

 年齢で言えば、ニグィより十近くも下だったにもかかわらず、ワナは、姉か、もしくは母のように彼の身を案じ、彼のために尽くしてくれたのである。

 そんな彼女を、ニグィ本人も、気に入らぬはずがない。

 とはいえ、夫婦の契りをなすためには、当人同士の意向などより、親の意図の方がはるかに重要なのは、いうまでもない。いくら里人たちからは信用を寄せられるようになったとはいえ、それが夫婦の契りを結ぶ、ともなれば、話は別。保守的な親世代の里人たちはきっと、彼のような「流れ者の息子」に娘を与えるなど、と顔をしかめるに違いない。

 ましてやワナは、里の中でも最も重要な役職である「トゥジ」を代々継承する、格の高い一族の末娘であった。

(いかに俺が憎からず思っていようとも、格の違いはいかんともしがたい。ワナを妻としてもらい受けることなど、夢のまた夢だ……)

 野良仕事の合間に、畦に並んで座り、ニコニコと笑いかけてくるワナの頭をなでながらも、ニグィはひそかにそう思い、将来の約束をできぬまま、諦めていたのである。

 ところが。


 ある日のことだ。

 ニグィは、日の出から数時間、「田の草取り」にいそしんでいた。

 泥田の中に足を踏み入れ、粘り着く土に邪魔されながら、一歩一歩足を進め、稲の生育を邪魔する雑草を引き抜いていく――「田の草取り」は、ただでさえ過酷な労働だ。それに加え、初夏のこの時期、高い気温と湿度、そして、時を追うごとに苛烈さを増して照りつける陽光が、容赦なく体力を奪っていく。

 いくら里人たちが頑健だからといって、さすがにこの暑さと湿気の中、一日中過酷な労働を続ければ、参ってしまう。真っ昼間、陽光がもっとも猛威を振るう時間帯を避け、暑さの和らぐ早朝と夕方に作業を行うのが、里の昔からの習慣であった。

「そろそろ、あがろうかの」

「そうよの」

 声を掛け合い、田から疲れた体を引き上げ、三々五々、家へと帰る里人たち。ニグィも、人々に交じって、村の外れにある、なにもない、粗末な住居へと戻る。里人は普通、この時間に軽くなにかを腹に入れるのだが、独り者のニグィには、そんな準備もない。水をがぶ飲みして乾いた体を潤し、日陰の冷たい土の上にごろ寝して、夕方まで体を休めるのが日課であったのだが……去年の春ぐらいから、この時間にワナが、毎日のように家から菜を運んできてくれるようになった。

 器を前に差し向かい、イネの出来具合や畑の様子など、あれこれ話しながらありがたく菜をいただく。ただそれだけのことなのだが――食べ終わればワナはそそくさと家に帰り、ニグィはごろ寝する――このひとときがあるだけで、毎日が不思議なほどに楽しく、生き生きと感じられる。

 ニグィにとって――いつまでもこのような関係は続けられない、と言う思いは常にありながらも――ワナはすでに、なににも換えがたい宝物のような存在になっていたのである。

 この日もニグィは、いつものように菜を持ったマナが、入り口のむしろをくぐるのを笑顔で迎えたのだが……すぐにその笑顔が凍りついた。

 ワナに続いて、当代のトゥジであるワナの母親が、するりと入ってきたのだ。

 里でも最高級の有力者の、突然の来訪である。床にだらしなく足を伸ばして座り込んでいたニグィは、慌てふためいて飛び上がった。

「も、も、申し訳ありませぬが、その場で、どうか、どうか、しばらくお待ちを!」

 言うが早いか、寝床のシシ皮を――水瓶を除けば、ほぼ唯一の彼の「家財」だ――ひっつかみ、家の外に飛び出して、ばっさばっさと激しくふるってほこりを払う。それから再び家の中に飛び込み、上座にそのシシ皮を丁寧に敷き直した。

「どうぞ、お座りください」

 かしこまってトゥジに声をかけた上で、もう一度外へ飛び出し、野良仕事で汚れた衣服や、くしゃくしゃの髪の毛を、可能な限り清める。どうにか形が整ったところで、おそるおそる自分の家の中へと戻り、ニグィは、土間に這いつくばった。

「ワナどのにはいつもいつも、世話になっておりまする。そのお礼にうかがわねばと常々思っておりましたが、なにぶん、わたくしのような下賤の者がうかうかとお訪ねしてよいものかと、つい及び腰になっておりました。誠に申し訳ございません」

 頭を床に擦り付けるようにして、わびの言葉を口にする。と、それまでシシ皮の上にちょこんと腰掛け、慌てふためくニグィの様子をにこにこと眺めていたトゥジが、ころころと笑い声を上げた。

「よいよい、ニグィどの。そのようにかしこまられては、話しにくい。どうか(おもて)を上げてくだされ」

 てっきり叱責されるものとばかり思っていたところへ、意外な言葉をかけられ、ニグィは、困惑しながらも、そろそろと上体を起こした。その目に、ニコニコと機嫌良く笑いながら、自分を眺めているトゥジの姿が映る。

「今日は、トゥジとしてではなく、ワナの母親として、こちらに参ったのです。うちの娘が、そなたにいつも世話になっているとか」

「はっ!あ、いや、いえ、とんでもない!世話になっているのは、わたくしの方でございます。ワナどのには、常日頃から、菜やら着物やら敷物やら、いただいてばかりで。トゥジ様に連なる方が、わたくしのような者のところに出入りをしては、面倒なうわさが立たぬとも限りませぬし、どうかおやめくだされと、何度も申し上げたのですが……」

「いえいえ、なにを申される。トゥジよ、有力者よと言われてはおるが、仕事柄、里人の世話を焼くことが多いだけのこと。中身はなんのことはない、この通り、ただの女に過ぎませぬ」

「いえ、とんでもございません!トゥジ様あってこそ、里の繁栄は……」

「ああ、そのような話はよい、よい。そんなことより……」

 トゥジは、ぐっと身を乗り出して、顔をニグィの耳元に近づけると、そっとささやいた。

「ニグィどの。そなた、ワナをどう思っておられるのかの?」

「……は!?」

「いや、だからの、ワナのことをどのように思っておられるのかの?我が娘ながら、器量もよく、気立てもよい娘だと、わしは思っておるのだが」

 トゥジはが小声なので、ニグィも自然、ささやき声となる。少し離れたところにちんまり座るワナは、話が聞こえているのか聞こえていないのか、いつもに似合わず神妙な様子で、黙ってうつむいているばかりである。

「のう、ニグィどの。ワナをどう思っておられるかの?」

「は、あの、はい、トゥジ様のおっしゃるとおり、よき娘さんであると……」

「憎からず思うてくれておるのかの?」

「は?あ、いや、それはもちろん……」

「そうか!それはよかった!」

 それまでのささやき声とは打って変わり、大声でそう叫ぶと、いきなりのことに驚いてのけぞっているニグィを尻目に、トゥジは再び、ころころと笑い声を上げた。

「実はの。ワナがこの頃少々塞ぎ込んでいての。心配ゆえ、聞きただしてみたのよ。すると、ニグィどの、そなたのことを憎からず思い、通い詰めておるというのに、そなたははぐらかすばかりで、色よい言葉を返してくれぬと、それはそれは哀しげに申しての。これはいかぬ、娘のために、そなたの真意を聞き出さねばならぬと、親馬鹿ながら、こうして足を運ばせていただいた、というわけでの。だが、そうか!憎からず思うてくださっていたか!」

と、ここでトゥジは、視線を自分の娘へと向けた。

「聞いたかの、ワナ!そなたがニグィどのを想うていたように、ニグィどのも、そなたを想うてくれていたとのこと!ほんによかったのう!」

 言われてワナは、耳たぶまで真っ赤に染めて、こくり、と小さく頷く。

「そうであるなら、話は早いというもの。互いに憎からず思うておるなら、ニグィどの、どうか、我が娘をもろうてやってはくれぬかの」

 上体をのけぞらしたまま、呆然と話の行き先を眺めていたニグィだったが、事ここに至って、ようやく自分を取り戻し、慌てて両腕を前に突き出し、激しく振りながら、尻ずさった。

「いえいえいえいえ!いけませぬ!そのようなもったいない……」

「なんのもったいことがあろうか。ワナも、そろそろ夫婦の契りをしなくてはならぬ年頃。このまま誰とも契らずにおる方が、よほどもったいないではないか」

「いえ、そういうことではございません!わたくしのような下賤のものと、トゥジ様の娘御とが契るなど、なんと恐れ多い……」

 ニグィがそう言いかけたところで、トゥジが、すっと真顔になった。

「ニグィどの。そのように、自らをおとしめるのは、おやめなさい」

「はっ!しかしながら……」

「先ほども申しましたが、トゥジなどしょせん、儀式の世話役。里人にどれほど持ち上げられようが、ちょっとばかり裕福な里人、というだけのこと。ところが、ニグィどの。そなたは違う」

「いや、わたくしは……」

「そなたは、里人の中でただ一人、よその里に出かけ、我らの作物を、価値のある様々なものととりかえる力を持つ者。よその里の言葉や風習に通じ、様々な新しきものを見聞きし、運んでくることができる者。そして、里の誰よりも里を愛し、里のために全てをなげうつ覚悟を持った、希有なる者。わしの代わりはいくらでもおるが、そなたの代わりは一人もいない。そなたこそ、この里の宝なのです」

「トゥジどの、どうかおやめください!わたくしなどに、そのような……」

「いいえ、これは、わしの本心です。そなたがこの里にいてくれることで、皆がどれほど助かっていることか。そなたが外から様々な話を持ち帰ってくれるからこそ、わしらは里にいながら外の情勢が分かるのです。これより先、周りの動きがますます慌ただしくなる中で、里も、なるべく早く周囲の状況を知り、それに併せて柔軟な対応を採っていかねばなりません。それが果たされるかどうかは、そなた次第。いいですか、ニグィどの。そなたの働き一つで、里の存亡が決まるのです。そなたこそが、里の宝なのです!」

 トゥジの口調は次第に熱を帯び、最後には、懇願するような、強要するような色を強く帯びていた。

 その色からして、この言葉の裏に含まれる意図は明らかだった。

 トゥジは、ニグィに、里の運命を背負っている立場であることを自覚するよう、促したのである。いつまでも自らへりくだって身を退いてばかりではなく、覚悟を決めて、名実ともに里を動かす人物になり、今までに培ってきた知識と経験を、思う存分活かし、今よりさらに里に尽くす存在となるよう、強く求めたのである。

 これまでのニグィであれば、ここまで言われたとしても「いえ、わたくしめなどにそのような」と、あくまでへりくだり、せっかくの誘いを固持していたに違いない。

 だが、昨年の「再開の日々」で、子をなし、将来引き受けることになる立場に備え、やるべきことを地道にひとつひとつこなしているヤズの姿を見、話を聞くことで、ニグィの心には微妙な変化が生じていた。

 父ウォシムのように、縁の下の力持ちに徹し、自分を殺して里に尽くすのも、確かに「里のため」なのだろうが……その立場に甘んじていて、いいのだろうか。

 外の世界を歩き、多くの知識と情報を蓄えている自分と比べ、里人たちは、どうしても世事に疎い。「ソのクニ」の侵攻について報告しても、分かったような分からないような顔でうなずくだけで、さっぱり危機感を持とうとしない。「遙か昔から変わることなく続いてきたように、これから先もずっと、この里は変わらず在り続ける」と、頭から信じ込んでしまっている。そのような人たちに、里の先行きを任せっぱなしにすることが、本当に「里のため」になるのだろうか。

 これから厳しさを増していくであろう情勢の中、ヤズのように、一族を背負って立つ、とまではいかないまでも、里の将来が安泰であるよう導き、里人たちが皆安心して暮らせるように骨を折ること、そのために必要であるなら、里を動かすような立場もあえて引き受けることが、真の意味での「里のため」なのではないか……そんなふうに、考えるようになっていたのである。

 この気持ちの揺らぎに加え、

「ニグィどの。立場のあるものは、よりつらく、厳しい責任を負わなければならぬもの。そなたに、そのような責を負わすのは心苦しい限り。だが、他には誰も、頼れる者がおらぬのです。本当に苦労をかけることになると思うが、どうか、どうか、里のためにも、ワナと夫婦の契りを結び、これまで以上に、里の宝であり続けてもらいたいのです」

 と、里一番の有力者から、伏し拝まんばかりに哀願されるのである。

 これで心動かされなければ、どうかしているというものだ。

 ニグィは、思わずがばっと手をつき、額を地面にこすりつけていた。

「もったいない……もったいないお言葉、まことにありがとうございます!」

 すすり泣く声とともに、両目から涙がほとばしる。全身が震えて、歯の根が合わない。

 そんなニグィの姿を、トゥジは、母親のように優しく微笑んで、見つめていた。

「では、ニグィどの。覚悟を決めて、ワナと夫婦の契りをしていただだけますね?」

「ははぁっ!ワナどのがよければ、喜んで!」

 トゥジは、いかにも嬉しげに、またころころと笑い声を上げたのだった。




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