お疲れ先輩女子は石油王に攫われたい!
本日は木曜日。時計は午後12:35。
一応昼休みの時間であるのだが、彼女――結城美夜子は、本日中に返してしまいたいメールと、週末締切の資料作りに終われていた。
この時間、他部署の人間は社員食堂か、近くのキッチンカーが集まる広場に行っている。しかし美夜子と机を並べる数人は皆、総菜パンをかじりデスクで作業を続けていた。
その時、作業に没頭していた美夜子のスマホが震え、ロック画面に通知が表示された。
「あー……もう通知なんか切っておけばよかった」
メッセージアプリだ。ああ、せっかく集中していたのに! と、忌々し気にスマホをひっくり返し画面を伏せる。どうせまた、ポイントだかクーポンだかの為に登録させられたショップからのお知らせだろう。美夜子はそう思い、通知を放置し作業を続けた。
時刻はそろそろ12:50。美夜子の総菜パンはまだ半分までしか減っていない。
さっさと食べてしまえば良いのに、彼女が選んだのはメールをさっさと書き終える方だった。
Enterキーを押し、一件の処理を終える。
昼休みはあと十分ほど。パンを口に放り込み、ぬるくなった紅茶で流し込む。あとはトイレに行こうと、美夜子はスマホを持ち席を立った。
◆
「ああぁ〜石油王に愛されたい……攫われたい……あ〜〜も〜むりぃ! 疲れたぁ〜〜!」
美夜子はトイレの個室で本音の愚痴を吐き出していた。
このフロアは、倉庫や今は移動した部署があった空き部屋だけなので人気がない。一人になりたい時はもってこいの場所なのだ。
「……人手不足なのは分かる。誰かがやらなきゃいけない仕事なのも分かる」
だけど――。
「こんなの私じゃなくたっていいじゃ〜ん……!」
そんな誰でも良い仕事に忙殺されて、自分の時間を消費して、心を消耗させて、そして。
美夜子は個室で項垂れつつ、三桁の通知が出ているアプリをタップした。
嫌な予感がしたのだ。
さっき光った通知は、ショップからのお知らせではない。よく考えたら、そういった通知はアイコンに付くバッジ以外全て切ってあるのだ。ボーっとしていてすぐに思い出せなかった……と言うか、ロック画面に表示される通知が久し振り過ぎて忘れていたのだ。
「あー……誰だろ? お母さん……は仕事中の昼間にメッセージなんか送ってこないし……」
そうなると、心当たりは一人だけ。
美夜子は若干、重い気分で通知主のアイコンをタップする。
『別れよう』
「ンンン〜〜ッ!!」
美夜子はスマホに額を押し付け、天を仰いだ。
ああ、やっぱり彼氏からだった。
いや? 既に元彼氏? 美夜子は心の中で自問自答する。
付き合って一年――。
でも、もう全然……多分三ヶ月くらい会っていなかったし、連絡を返す気力もなかったし、誕生日も記念日も(むしろいつだつけ? それ)スルーしたし、分かってたけど、分かっていたけど……!
「ううう……別れようって言ってくれるだけ良い人だったのかもぉ〜……!」
入社してからこんな生活が続き、学生時代から付き合ってた彼氏との自然消滅が始まりで、その後ご縁があった男性とも同じ様な事が続いた。
そして美夜子も29歳。縁を繋いでくれていた友人たちも結婚したり、仕事が忙しく疎遠になってしまったり……。
美夜子は溜息をひとつ吐き、ポチポチと返信を打ち送信した。
『分かりました。お元気で』
「……気の利いた一言も言えないわー」
それに、優しかった彼にすがる気にもなれない。
どうして退社後じゃなく真昼間の昼休み時間に別れの言葉を送って来たのか? その気持ちは分からないが、きっと彼もそろそろケリを付けたかったのだろう。
週末の金曜日を待つでもなく、終業後のゆっくりできる時間でもなく、深夜一人になる時間でもなく――。
「あ、気を使ってくれたのかな」
もしかしたらそうかもしれない。金曜に告げられたなら、せっかくの休日は二日間ともどんよりとした気持ちだっただろう。木曜の彼の終業後だったら、美夜子は暗いフロアで一人残業中で……疲れも相まって泣いたかもしれない。
そして深夜帰宅した頃だったなら。もう何もかもが嫌になって風呂に沈んでしまったかもしれない。
「はぁ。ほんと……優しくて良い人だったんだけどなぁ……」
盛大な溜息を吐き、重い腰を上げ個室を出る。
スマホを見れば時間は13:00。さすがに少しのショックを受け、出るのが少し遅れてしまった。
手を洗おうと立った洗面台。美夜子は鏡に映った血色の悪い女の顔にゾッとした。
見るからに心も体も、顔も肌もボロボロ。ああ、ゾッとする。
そんな事を二度も思い、ポケットに入れていた小さなポーチから色付きリップを取り出し塗った。
もうボロボロの唇が口紅に耐えられないのだ。だから愛用しているのは、圧も刺激も少ない中学生の様な色付きリップ。
――ああ。
もう嫌、仕事辞めたい。休憩したい、美味しいごはんが食べたい、バカンスなんて贅沢は言わない、だけど、だから……!
「石油王!! 私を掻っ攫ってくれ!!」
思わず叫んで、トイレの扉をバーン! と開けた。
「はぁ。スッキリし……た。あ」
扉の前には、驚いた顔をした男が一人。
「結城先輩、それ本気ですか?」
「……成宮くん」
ああ、やってしまった。
美夜子は内心で、膝を付き何故だか吠えたくなった。あおぉ~~~ん! と。
「……成宮くん。久しぶり。あ、それ午後届けてくれる予定の資料でしょう? ありがとう」
今の馬鹿な叫びは幻聴ですよ、とでも言うように、美夜子はニッコリ笑顔を作って話を逸らした。
彼は一年前に中途採用された、成宮バドゥル。新人研修は美夜子が務め、そのままアシスタントとして付いてくれる……はずが、強引に他部署に持っていかれてしまった後輩だ。
しかし、仕事が出来て素直で容姿も良い成宮は人気があり、「なんで逃がしちゃったの!?」と同僚女子たちに地味に責められたのは苦い思い出だ。
「ねぇ、先輩。今の本心ですか? 石油王に攫われたいの?」
サラリ。彼の少し長めの黒髪が彼女の額に触れた。
「ッん!?」
日本人よりも少し褐色に近い肌、ちょっと崩れがちな敬語。それから、彼のルーツが窺える長い睫毛と翠の瞳。
「……成宮くん、近い。もー……またコンタクト入れてないの? 近い近い」
彼の肩をグイと押す。人目が無いとは言え近すぎるし、何よりも綺麗すぎるその瞳からも距離を置きたい。
成宮は研修期間中からこうだった。彼は現在25歳。名前の通り外国にもルーツを持っていて、産まれは日本だが人生の大半を海外で過ごしていたらしい。そのせいなのか、美夜子に懐いているのか。彼の距離感は非常に近い。
「先輩の顔をよく見たいから」
「またそういう事を……。揶揄わないでよね?」
「ねぇ、先輩? 石油王なら誰でも良い?」
「え? あーうん、愛してくれるならね! だからホラ、もう離れてってば……!」
「うん。分かりました」
「もーコンタクト好きじゃないんだっけ? 眼鏡も良いんじゃない? 成宮くん似合いそう」
美夜子は成宮の手からファイルを数冊受け取ると、小走りで階段を上がって行った。
「愛してくれるなら――ね」
成宮は美夜子の後ろ姿を見送り、ゆるり口角を上げた。そのエメラルドの瞳の奥は、歓喜と決意で煌めいていた。
◆
「……え? うそ。成宮くん辞めちゃったの?」
しばらく姿を見ないと思ったら、そうだったのか。
美夜子は忙殺された日々を思い返しそう思った。別部署に行く事はなく、最近は出張もあって部署外の人間にあまり会う事がなかった。ランチも相変わらずデスクかミーティングルームでわびしく食べていた。
だから全く知らなかったのだ。彼が辞めてしまっていた事を。あんなに目立つ成宮の噂すら耳に入らなかっただなんて、どれだけ仕事に追われていたのだろう。
「なんかね、急にお父さんの国に呼ばれちゃったらしいよ?」
「お父さんの国? あーそっかー……お父さん外国人だったもんね」
「私もチラっと聞いただけだけど、家の仕事を継ぐとか何とか……? 本当に急に辞めちゃったんだよね」
「へぇ……。何かあったのかな」
家庭の事情なのだろう。でも、彼自身も仕事を楽しんでいたし、(人手不足がひどいのは美夜子の部署だけだ)社内での評判も良かったし評価もされていたのに……。
研修を受け持った美夜子はそう、ちょっと残念に思う。
それに、急な事だったのだ仕方がないと思いつつ、それなりに仲良くしていたのに、退社の挨拶ひとつも貰えなかった事を淋しく思ってしまった。
懐いてくれていたと思っていたし、彼とたまに話すのも楽しかった。あの人気の無いフロアで一時、言葉を交わす時間が良い息抜きで好きだった。
だけどそう思っていたのは自分だけだったのだろう。気を持たせるような事を言われて、年下の後輩相手に密かな想いを寄せつつあっただなんて。
(今なら大丈夫。こんな気持ちはぐいっと上から押し付けて、心臓の奥底に沈めてしまえば良い。こんな事は慣れている)
美夜子は少し波立った気持ちをそう整理し、撫で付けた。
「……まぁ、元気でやってくれればいいね。それじゃ、お先に」
パチン。化粧直しのパウダーを閉じて、化粧室を出た。
一瞬沈んだ気持ちを振り払い、美夜子はオフィスを後にする。
その足取りはいつもより何倍も軽い。今日は珍しく、そして久しぶりに定時で帰るのだ!
(靴も見たいし……あ、たまにはカウンターで化粧品お試しするのもいいかな~? あ~デパ地下でしこたまお惣菜買お! 冷蔵庫空っぽだもんね~)
脳内で独り言を呟く美夜子は上機嫌だ。何故って、定時退社の上に明日の土曜から夢の五連休なのだ!! 月曜までが三連休、その後二日の有休を取った。正しくは取らされたに近いのだが。
(仕事も一段落付いて私の出番はガクッと減るし、新人も育って来て連休も取れたし、ああやっと私も楽にな……――)
「ん!?」
ビル出入り口の正面、美夜子の目の前。黒塗りの長くて高級なあの車が停まっていた。運転手だろうか? まさかボディーガード? 黒いスーツを着た長身の外国人男性がその脇に立ち、ビルの入口を向いていた。
「わ、なが……っ」
自分とは別世界のその車に対する感想なんてそんなもの。美夜子はチラッと車体に目をやって、すぐに前を向いた。周囲の皆も同様だ。一瞬驚き目を留めて、しかし自分には関係ないとそれぞれに歩き出す。
だけど、美夜子の視界から車が消えたその時。
「先輩」
久しぶりの声だった。
「……え? 成宮くん……?」
振り返ったそこ。車から出てきた彼は、見慣れない服装をしていた。真っ白のシンプルな衣をまとい、頭にはターバンを着け、まるで――。
「え、どうしたのその格好……」
「掻っ攫いに来ました」
成宮はニッコリと微笑み、美夜子に手を差し出した。
「先輩言ってたでしょう? 『石油王に攫われたい』って。だから僕、石油王になりました」
「は……ぁ?」
彼は差し出した手をそのまま伸ばし、「訳が分からない」という顔をした彼女の手を掴む。そしてグイっと引き寄せて、額が付くような間近。鮮やかなグリーンの瞳で美夜子を見つめて言った。
「愛してる。攫われて、――美夜子」
「……ッえ、な、なに……!?」
何を言われたのか分からなかった。
いや、言葉は分かる。その証拠に美夜子は首から頬、耳まで真っ赤だ。だけど、どういう事だろう? その意味が、脳の処理が追い付かない。
どうしてこんな場所で、どうしてさよならも言わなかった後輩に、突然「愛してる」なんて言われているのだ!?
美夜子の頭はそんな「どうして!?」の疑問ばかり。だけど心臓はドッドッドッと早鐘を打ち、感情は「愛してる」の言葉に痺れ瞳も逸らせない。
こんな、軽く化粧直しをしただけの顔なのに。こんなに間近で、そんな綺麗な瞳で見つめるなんて反則だ! そんな下らない事だけはポンポン頭をよぎる。
「……先輩、そんな赤い顔で目を潤ませて見上げないで」
「っ、だっ……て! 成宮くんが変なこと言うから……!」
「変じゃないです」
ムッとした顔をした彼は、側に控えた黒服の男性に向かって手を伸ばす。すると渡されたのはタブレット。
「はい、これ見て。僕の油田です。こっちはうちの会社と街、それからこれが家と土地。ね?」
「……え」
見せられた画像は確かに、どう見ても油田。大きな建物と綺麗に整えられた街、そして宮殿の間違いでは? と言うような石造りの白亜の豪邸。それから抜ける様な青空と乾燥した空気の砂漠。そのどれにも彼の姿が一緒に写っている。
「石油王に愛されたい、攫われたい……って言ってたから、父に頭を下げて試験をクリアして手に入れたんだ」
「父?」
「先輩が行きたがってたあのリゾートの国の近く、油田を沢山持ってる一族の長が僕の父。兄弟も沢山いるから、受け継ぐのはなかなか競争率高いんですよ?」
「はぁ」
「じゃあ行こうか、先輩」
「い、行くって……どこへ!?」
成宮は美夜子の腰に手を回し、膝裏に腕を差し入れ抱き上げた。
「大丈夫。愛してるから、お望み通りに攫われて?」
喜色に蕩けた色っぽい笑顔で美夜子を見つめ、そう言った。
◆
「……本当に攫われちゃった?」
広いシートで脚を投げ出し、そして右手にはワイン。もしかしなくてものプライベートジェット。美夜子はあっという間に空の上だった。
出張続きでパスポートを持っていたのが良かったのか悪かったのか。美夜子は成宮の「連休なんでしょ? バカンスに行くと思って」の言葉にフラっと釣られてしまったのだ。
そして繰り返される、成宮からの「好きです」「愛してる」「先輩のために油田持ちになったんですよ?」「いずれ石油王です」「先輩、愛してる」の攻撃に、美夜子の頭はもう考える事を放棄した。
だって、それはあまりにも心地良い誘惑で、全身で表現される好意が単純に嬉しかったからだ。そもそも不快だったなら、こんな空の上まで付いて来たりはしない。
(成宮くんの事は……可愛いと思ってたし、仕事が出来るのも、人柄が良いのも知ってるし、こんなまさかの行動力だし……石油王になるらしいし? 本当に愛してくれるならいいかな〜なんてフワフワ思っちゃうけど……)
「ねえ、先輩? まだ信じてくれない? まだ足りないかな? 先輩、愛してる」
覗き込むように顔を近づけられて、またそんな言葉が重ねられる。
「ち、近い……! その癖! っ、もう……!」
「癖じゃないよ。先輩にキスしたくて、いつもワザと近づいてたんですよ? ……気付いてたでしょ?」
クスリと笑われ、彼の前髪が美夜子の頰をくすぐった。
耳元で囁かれ、ほとんど頰にキスをしているようなこの距離感で、熱っぽい響く低めの声で。
(ッ……! グラッとどころか……こんなの、落ちざるを得ないでしょうが……っ!?)
彼女は赤くなる頰も耳もうなじも隠さずに、触れるだけのキスを顔中で受け止める。
まだ恥ずかしくて、気持ちが追いつけなくて、キスを返す事は出来ないけれど、でも拒みはしない。
こんなに全身で……いいなと思っていた相手に愛を囁かれて、拒める筈がない。
「……私、年上だし……可愛くないし、油田のことなんて全然分からないし、側にいて役に立つか分からないけど……攫われちゃって、本当にいいの?」
美夜子の瞳が揺れた。
仕事仕事で別れた恋人は二人。それ未満が一人。
『可愛くないんだよ』
『仕事ばっかで何目指してるの?』
『側にいても疲れる、お前』
そんな言葉を言われてきた。
可愛い子のままじゃ仕事にならなかった。何を目指してるかなんて、特に何も目指してはいなかった。ただ日々の糧を得ていただけだ。「側にいても疲れる」なんてお付き合い末期の間柄ではお互い様だ! と思っていた。
しかし、彼らから投げつけられた言葉は、美夜子の胸に抜けない棘となって深く深く刺さっていたのだ。
――成宮の言葉も、自分自身の気持ちも分からなくなる程に。
「先輩は可愛いよ」
ぺたり。彼が俯く頰に手を添えた。
「年上だから何? 僕は年下だよ。年下じゃ駄目? 油田持ってても?」
美夜子はフルフルと首を振る。
「……成宮くんなら、油田なんてそんなの……。あれ、ただの現実逃避なだけで……」
成宮は微笑み、美夜子が持つグラスをテーブルに置くと、彼女の手に指を絡め握り込んだ。
「現実逃避しちゃっていいよ。せっかくの連休でしょ? 僕が手を取るから、まずは五日間……攫われちゃえばいい」
握った手を引き寄せ、その指先にそっと唇を寄せる。
「役に立つとかどうでもいい。僕が側にいたいし、側にいてほしいだけ。でも、僕を指導してくれた先輩ならきっと、プライベートでも仕事でもなんでも出来ちゃうんじゃないかな」
ポロリ。美夜子の目から一粒、涙が零れ落ちた。
「愛してる。大丈夫、僕を信じて? 先輩の大好きな油田もあるし、僕はずっとあなたを愛するから……。――お願い。この腕に飛び込んできてください」
最後は何故か敬語で、ちょっと声も固かった。ギュッと握られた手にはじっとり、どちらのだか分からない汗が滲んでいた。
(ああ、そうか――)
美夜子はパチリと目を瞬いた。
(成宮くんだって、私と同じ――「石油王に攫われたい!」なんて言葉を本当に信じて良いのか、応えてもらえるのか自信なんてなかったんだ……)
考えてみれば当然の事だ。
だからこそ、成宮は強引に彼女を連れ出して、勢いのままに『攫った』のだ。
「……成宮くん」
美夜子は握られた手に、もう一方の手を重ね言った。
「分かった。逃げちゃう。だから……攫って!」
石油王に攫われたらどうなるか。
――きっと、幸せになる!
◆Twitterでお見かけした、やしろ慧様主催の『油田小説大賞』参加作品です
普段は異世界ものばかり書いているので、現代恋愛ものを書けて楽しかったです。
お疲れ女子が癒されますように……!